第五章 悔しいよ



第五章 悔しいよ



 翌日からの会社や学校に備え、人々が静かな日曜日の夜を過ごしていたときに、そのニュースは突然飛び込んできた。

 地上波だけでなく、BS、CS放送までが一斉に切り替わり、画面には内閣官房長官の努めて冷静さを装った表情が映し出された。画面右上には緊急放送のテロップが躍っている。

「それではただいまより、緊急記者会見を始めます」

 広報官の切り出しで官房長官は原稿に目を落とすと、一字一句間違えぬようおもむろに読み始めた。

「本日、午前一一時三十九分、尖閣諸島より南西二〇キロメートルの海域において、海上自衛隊第二護衛隊群第二護衛隊所属の護衛艦〝はるさめ〟が、中国海軍の軍艦にミサイル攻撃を受け沈没しました」

 その衝撃の内容に会見場が大きくどよめき、一斉にフラッシュが焚かれる。

「我が日本国政府は直ちに緊急閣議を開き、事実関係を念入りに確認した上で、中国大使を官邸に呼び中国政府に厳重な抗議を申し入れるとともに、本日十五時三十分、自衛隊の全部隊に対して防衛出動待機命令を発令しました」

 会見場が騒然となった。自衛隊創設以来、初めての発令となる防衛出動待機命令。その事実に誰しもが尋常ならざる事態を感じ取り、官房長官の一通りの説明が終わると次々と記者達が質問を求めて挙手をした。

「毎朝新聞です。〝はるさめ〟の乗組員の安否を教えてください」

「状況は現在も確認中ですが、現時点で死者三十四名、行方不明者九十四名、生存者三十七名、うち重篤者十二名です」

 乗組員のほとんどが〝戦死〟ということだ。行方不明者が多いのはミサイルの直撃で、遺体が確認すらできない状況を意味している。現代の海戦のその悲惨な現実に誰もが凍りつく。

「朝陽新聞です。中国政府からの宣戦布告はあったのでしょうか? また、尖閣周辺には今も中国の軍艦がいるのでしょうか?」

「今のところ、宣戦布告の類のものは確認できておりません。また、衛星写真で見る限り、現在は尖閣沖周辺に中国の軍艦の存在は確認できていません」

「それは〝はるさめ〟を沈めた後に現場海域を離脱したということでしょうか?」

「そのように見ています」

 尖閣諸島を占領するわけでもなく、あっさりと離脱した中国艦隊の腑に落ちない行動。

 もっとも日本政府の緊急会見から三十分後に行われた中国政府の定例会見では、政府の担当官が今回の事態を全く把握しておらず、日本に遅れること三時間後、慌てて緊急会見を開き、中国の領海に居座っていた日本の護衛艦を実力で排除したとの声明を発表して日本の尖閣沖における軍事行動を強く非難した。

 だが、その内容があまりにもお粗末で苦し紛れに過ぎたことで、今回の事態が軍の一部の暴走であり、共産党指導部が軍を全く掌握できていないことを、図らずも世界中に露呈することとなった。


           *


 多くの国民達と同様に夕陽もまた、ブリーフィングルームで仲間達と食い入るようにテレビ画面を見つめていた。

 防衛出動待機命令が下され全隊員が基地に集合していたものの、この段階でパイロット達は何もすることがない。今後出動命令が下されたとしても、航空隊は「いずも」が横須賀を出港した後に追いかければ充分間に合う。

 今月の緊急発進待機アラート任務も空自・百里基地の第七航空団が担当となっているため、厚木のパイロットはただひたすら待つのみだ。

 全員集合後、いずも航空隊司令から告げられた「はるさめ」撃沈の報。その内容があまりに衝撃的で、誰もが一度で状況をのみ込むことなどできなかった。

 仲間達に降りかかった突然の悲劇。それはどこか遠い外国での出来事のように思えて、報道の内容もなかなか頭に入ってこない。

 その中につい先日、自分の知り得た名前もあったというのに。

 ふと気がつくと、隣にいたはずの敏生がいつのまにか姿を消していた。

「あれ? 敏生は……」

「さっき出ていった……。察してやれ」

 刑部が夕陽とは目を合わさず、呟くように答える。いつもクールな素振りしか見せない彼の目は真っ赤で、思わず息をのむ。先日の居酒屋での会話から刑部も槙村と若葉の二人と仲間だったことを思い出し、いたたまれなくなった夕陽はブリーフィングルームを出ると敏生の後を追った。

 彼の行くあては見当がついている。いつも休憩時間に二人っきりで過ごす場所。 不思議と涙は出てこない。ただ、今は敏生のことが心配だった。

 案の定、敏生は隊舎の裏でうずくまるように座り込んでいた。

 泣いているのだろうか? 防大時代の親友と後輩を一度に喪ったショックは計り知れず、何と恋人に声をかけたらよいのかも分からない。

 四人で一緒に飲んだのはつい二週間ほど前のこと。敏生が二人に自分のことを彼女と紹介してくれたのがとても嬉しくて、仲間との再会に楽しそうにはしゃぐ彼を見るのがとても幸せで。

 そしてその帰り道に待っていた、彼からのまさかのプロポーズ。

 夕陽にとっては間違いなく人生最良の日。だからその日に居合わせた、そして間違いなく敏生の背中を後押ししてくれたであろう若葉と槙村の二人に、出会ったばかりとはいえ特別な感情を抱いていた。

 夕陽は何も言わずに敏生の横に腰を下ろすと、チラッと彼を見た。手を重ねて寄り添いたかったが、全く顔を上げようとしない敏生にそれはためらわれた。

 重苦しい沈黙。晩秋の月明かりが二人を包む。

「……あたし、許せないよ」

 その長い沈黙に耐えかね、夕陽はポツリと呟いた。

「何もしてないのにいきなり撃ってくるなんて……酷すぎるよ」

 敏生は相変わらず、何の反応も見せずに蹲ったままだ。

 だが、口を開いた夕陽の胸には様々な思いが去来し、感情がたかぶり始めた。

 帰港後の入籍を控え、幸せそのものだった二人の姿。

〝これ、誰にも言っちゃだめよ? あたしのトップシークレットなんだから〟

 そう言って夕陽にはにかんで見せた若葉。あの笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 その幸せを突如として奪った中国の対艦ミサイル。

 何で……何で撃つ必要があったのよ……!?

 哀しみと戸惑いに溢れていた夕陽の胸を、徐々に黒い感情が支配し始める。

 許せない、絶対に。

「あたし、二人の仇をとりたい」

 敏生の肩がピクッと跳ねたのに気づいたが、堰を切ったように溢れ出してくる感情はもはや止められなかった。

「ううん……二人だけじゃない。突然理不尽に人生を絶たれた〝はるさめ〟の乗組員全員の無念を晴らしてやりたい。絶対にこの手で、この手であいつらを沈めてや……」

「お前はそんなに戦争がしたいのかよ!!?」

 言い終える前に突然飛んできた怒鳴り声に夕陽は固まった。普段、絶対に大声を上げたりしない敏生の、怒りを多分に含んだ声。

 一方、敏生の頭の中はぐちゃぐちゃだった。つい数時間前まで、確か夕陽とディズニーランドでのデートを楽しんでいたはずだった。少しずつ始めた結婚準備の合間を縫ってようやくこぎ着けた、彼女の憧れであった夢の国デート。本来なら今頃は二人で寄り添いながらパレードを見て、甘い言葉を囁いているはずだった。

 それがいきなり警急呼集で基地に引き戻された挙句、航空隊司令から告げられた「はるさめ」撃沈の報。そしてミーティング後に回覧された乗組員の安否確認リスト。

 槙村和馬二等海尉……行方不明

 深山若葉三等海尉……戦死

 二人は五十音順で、仲良く並ぶように記載されていた。

 これは……何の冗談だ……? あいつらが……死んだ?

 敏生にはとてもそれが現実のものには思えず、涙すら出ない。周りの一切の音が消え、気がついたら隊舎の裏で蹲っていた。脳裏にこれまでの二人との記憶がフラッシュバックする。

〝ムカつくんですよ! 槙村先輩、あたしばっかり目の敵にして!〟

〝ああ? 願い下げだ。何で俺があんな可愛げもない女と仲良くしなきゃならんのだ?〟

 学生時代は事あるごとに衝突を繰り返していた二人。当時、大隊学生長だった敏生は、二人が派手に衝突するたびに呼び出しを喰らい、ほとほと困り果てていたのは事実だ。

 だから、あの二人が付き合っていると聞いて、そして結婚を控えていると知って、驚くのと同時に無上の喜びを覚えたのだ。

 夕陽へのプロポーズに踏み切れたのもそんな二人の幸せが勢いを与えてくれたからこそで、「はるさめ」が帰港したら下関の夕陽の実家に挨拶がてら、佐世保まで足を伸ばそうと考えていた。そんな矢先の悲劇。

 なんで……なんでこんなことに……?

〝上海で株価続落。依然止まらず〟

〝いや、南に回って二週間の海上警備だ〟

〝共産党指導部はそこまで馬鹿じゃないだろ?〟

〝今度は深圳で暴動。中国建設銀行の焦げ付き騒ぎが拡大〟

〝軍需産業から軍幹部達への巨額のキックバック、いわゆる利権を失うことだ〟

〝いずれも武断派、損得勘定のできない勤勉なバカどもだ〟

〝そして自分達の正当性を主張するには外に目を向けさせるのが手っ取り早い〟

〝まさか……〟

〝いつの世も戦争の陰に不況あり。覚悟はしておいた方がいいかもな〟

〝じゃああたしはせっかくだからフグのひれ酒でも頼もっかな? 和馬付き合ってよ〟

〝結婚かぁ、いいな……幸せそう……〟

〝神月夕陽さん。俺と……結婚してください〟

『二人の仇をとりたい』

 ぐちゃぐちゃな思考の中に突如響いた愛しい彼女の、信じたくない黒い感情。

 仇……、カタキ、かたき……? 何を……、何を言ってるんだ? 戦争になったら……戦争になったらお前まで死ぬかもしれないんだぞ!!?

〝この手であいつらを……〟

 やめろ―――――!!!!

「お前はそんなに戦争がしたいのかよ!?」

 ぐるぐると思考が渦巻く中、耐え切れずに弾けてしまった感情。

 そしてすぐに、しまった、と思った。恐る恐る目を上げると案の定、夕陽はその敏生の言葉にひどく傷ついた様子で、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。

「ごめん!! 悪かった!!」

 敏生は慌てて謝ると、彼女をガバッと抱き寄せた。

 こいつは、こいつは悪くないのに俺は……。

 自らの言葉で傷つけてしまった彼女を強く抱き締め、その髪に頬を摺り寄せる。

「悔しいよ……。あたし悔しいよぉ……」

 夕陽の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。

「だって、若葉さん、あんなに幸せそうだったのに……。槙村さん、あんなに楽しそうだったのに……」

「うん……」

「なんで……? なんであの二人が死ななくちゃいけなかったの? なんで……はるさめの人達がこんな目に遭わなくちゃいけなかったの?」

 夕陽が小さな肩を震わせ、敏生の胸で泣きじゃくる。敏生は夕陽が落ち着くまで何も言わず、ただその彼女の温もりを確かめるようにしっかりと抱きとめ、許しを乞うように何度も何度も頬擦りを繰り返した。

 肌寒い真夜中の隊舎裏。

 敏生が自分のフライトジャケットを脱いで夕陽にかけてやると、彼の匂いに包まれて安心したのか彼女はようやく泣きやみ、すんっと鼻をすすった。

「ごめんね……」

「ううん、夕陽は悪くない。こっちこそ怒鳴ったりして悪かった」

 敏生はそっと夕陽の顔を持ち上げると、労わるように優しく口づけた。ただ、唇を重ねるだけのキス。やがて離れると、夕陽は涙を拭い俯いた。

「敏生は……哀しくないの? 悔しくないの?」

 こんなことを聞いてはいけなかったのかもしれないが、親友と後輩を喪ったのに未だ涙一つ流せていない敏生のことがとても心配で、できることなら自分の胸で思い切り泣かせてあげたかった。そんな彼女の心情を汲み取ったのか、敏生は寂しそうに微笑むと夕陽の肩を抱き寄せた。

「もちろん、俺だって……哀しいよ。悔しいよ。でもね……、ずっと考えてた」

 敏生は呟くように答えると、夕陽の手を握りしめる。すっかりと冷え切った手を温めるように。

「この感情は……決して相手に向けてはいけないんだ」

 いつにない、敏生の強い眼差し。

「憎しみはね、また次の憎しみを呼ぶんだ。そしてまた、新たな悲劇が生まれる」

 その敏生の言葉に夕陽はきょとんと首を傾げた。最初、彼が何を言っているのかさっぱり理解が出来なかった。だが、何度も彼の言葉を反芻するうちに、やがて夕陽の胸に理不尽な思いがこみ上げてきた。

 それって……、それって敏生はあいつらを許すってこと!?

「何……言ってるの……? だって……、悪いのは向こうじゃない!? 何もしてないのに撃ってきたんだよ!?」

 いきどおる彼女を宥めるように、敏生は夕陽の両肩をつかんだ。

「それは俺らの信じる正義だ。そして彼らと俺達は信じる正義が違う。言ってただろ? 彼らは自分達の領海に居座る艦を排除しただけだって」

「それはっ! ……でもそんなのってっ……!」

 夕陽が信じられないといった表情で敏生を見つめる。それはそうだろう。親友を殺された男が〝敵〟を慮る発言をしているのだ。だが、敏生には譲れない想いがあった。どうしても彼女だけには分かって欲しかった。醜く暗い感情など抱いて欲しくなかった。愛しい女性にはいつまでも清廉なままでいて欲しかった。

「夕陽、聞いて」

 敏生は夕陽の目をしっかりと見据えるとゆっくりと話し始めた。

「俺だって、いきなり撃ってきたのは確かに許せないよ。でもね、俺らの正義は裏返せば彼らにとっての悪なんだ。それが戦争なんだよ。どこかでお互いが歩み寄れなければ憎しみの連鎖は際限なく続く。そしてそれが行き着くところは破滅しかないんだ」

〝破滅〟という言葉に夕陽の肩がピクリと跳ねる。

「人間はね、いつかきっと分かり合えるんだよ。犬猿の仲だったあいつらが恋人同士になったように。俺に敵愾心を燃やしていた夕陽が今、こうして俺の腕の中にいてくれるように」

 その敏生の言葉にかつての自分を思い出す。出会ったばかりの頃はただ、彼に勝ちたい一心で、彼の言葉に耳を傾けることもなかった。それが今は、彼が愛しくてたまらない自分がいる。

「俺は……あいつらの悲劇がさらなる悲劇に繋がっていくのだけは耐えられない……。ささやかな幸せを思い描いていたあいつらが……そんなことを望んでいるはずがないんだ」

 そっと夕陽から視線を外し、こらえるように語る彼。その目が満天の星空を見据える。

「俺は信じる。人間はもっと高潔な存在だって。〝てるづき〟の艦長だって戦火拡大を怖れて反撃をしなかった。仲間を目の前でやられた彼らにとって、それはきっと耐え難い苦渋の決断だったはずだ。だからこそ俺は……最後まで人間を信じたい」

 それは何かに縋るような目だった。そのまるで自身に言い聞かせるような彼の言葉の一つ一つに、戦死した二人への想いが溢れていて夕陽にはとても辛かった。

「……やっぱり凄いな、敏生は。全然敵わないや」

 夕陽は自分の両肩にかけられた彼の手を取ると、無理に笑顔を作った。零れそうになる涙をこらえながら。

「敏生はいつもそう……。あたし……知ってるよ? 敏生がいっつも脳天気なフリして、実は周りに気を使ってばかりいること」

 すっかり冷え込んでいるはずなのに、とっても温かく大きな彼の手。たまらなく愛おしい、かけがえのない人。

「知ってるよ? 敏生があたしに隠れて……いっぱい勉強してること。色んなこと、いっぱい考えていること。なのにいっつもバカなフリばかりして……あたしに安らぎを与えてくれていること」

 その一言一言を噛み締めるような夕陽の言葉に、敏生の顔が歪み始めた。

 今だってそうだ。本当は彼だって怒り狂い、泣き叫びたいはずなのに、自分に芽生えた黒く醜い感情を少しでも癒そうとしてくれている。

「でもね」

 夕陽が目に涙を滲ませながら、敏生の頬を両手で包む。

「いいんだよ? こんな時くらい、大声で泣いたって…。いいんだよ? あたしの前では無理しなくっても」

 その彼女の言葉に、敏生のこらえてきたものが一気に溢れ出した。

「……夕陽が……俺の彼女で本当によかった……」

 敏生は彼女に導かれるようにその胸に顔を埋めると静かに嗚咽し、やがて辺りをはばかることなく、子供のように声を上げて泣き始めた。

 そして夕陽もまた、傷心の彼をぎゅっとその胸に抱き締めると、再び静かに涙を流した。

 この世で結ばれることのなかった二人が、あの世で再び仲良く手を取り合えていることを、切に願いながら―――――

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