第三章 幸せの予感 ②


           *


「それにしてもびっくりしたわ。まさか敏生先輩が彼女さんを作ってたなんて。それも隊内で」

 部屋から出るや否や、若葉が嬉しそうに夕陽に話しかけてきた。

「敏生に彼女って、そんなにおかしいんですか?」

 刑部をはじめ、昔の敏生を知る人たちからよく聞かされる話。

「そりゃもう。〝俺は一生遊び続ける。隊内は面倒くさいから絶対に手は出さない〟がポリシーだったからね。先輩、そこは結構頑なだったよ。隊内の娘はどんなに可愛くてもことごとくフラれてたし」

 したり顔で若葉が頷く。もちろん夕陽とて、彼の派手な女性遍歴はとうの昔に折り込み済みだが、やはり過去は気になる。特に彼のポリシーのくだりは。

「……正直、あたしのどこがそんなにいいのか分からないんです。あたし、お付き合いって敏生が初めてで、勝手もよく分からなくって。言いたいこと言っちゃうし、いつか愛想をつかされるんじゃないかって……」

 プライベートの時の敏生はとても優しい。いつだって自分の気持ちをおもんぱかってくれる。

 喧嘩しても、いや大抵の場合は一方的に夕陽が喰ってかかるのだが、謝るのはいつも決まって彼の方だ。不満なんてこれっぽちもないのだが、油断しているとどっぷりと彼に甘えてしまいそうな自分がいて、必死に自我を保とうとするが故。

「そう? あたしは分かる気がするけどなー。夕陽ちゃん、芯が強そうだし、自分をしっかり持ってて男に媚びることも無さそうだし。今まで先輩の周りにはいなかったタイプ」

「そんな、あたしなんて……」

 大空を求めて、ただがむしゃらに生きてきた。そこにあったのは「夢」という綺麗ごとだけでは決してない。翼は夕陽にとって自由の象徴。自分を苦しめてきた「束縛」から逃れるためには縋らざるを得なかったのだ。

 そんな自分の過去まで含めて包み込み、心の底から癒してくれる止まり木のような彼。

「大丈夫、あたしが保証するわ。あんなに鼻の下伸ばした先輩、見たことなかったもん。よっぽど夕陽ちゃんのことが好きなのね。すごく優しいんじゃない? 敏生先輩」

 若葉の質問に頬を染め、伏し目がちに頷く。

「えっと……、若葉さんは槙村さんと付き合ってどれくらいになるんですか?」

 多分、これ以上追及されると余計なのろけ話を披露してしまいそうで、夕陽は無理矢理話題を変えた。

「あたしと和馬? あー、付き合い始めてからは一年半かな。今の艦に配属された時に再会して、それからしばらくしてだから。出会ってからはもう七年経つけどね」

「七年、ですか……。お二人に比べたらあたしと敏生なんてまだまだですね……」

 夕陽と敏生が出会ったのは二年前。付き合ってからはまだ半年ちょっと。そう考えると、無闇に焦っている自分がとても滑稽に思えてくる。

「もしかして夕陽ちゃん、敏生先輩との結婚とか考えてる?」

「!」

 図星だ。あっさりと見透かされた。

「……重たいですよね、あたし。まだ彼とは半年しか付き合ってないのにそんなこと」

 我ながら本当に都合が良すぎると思う。彼からは一年半に渡って求愛を受けていたのに、なかなか踏み出せずにさんざん待たせたのは自分の方だ。なのに、いざ恋人同士になった途端、彼のことが好きで好きで、束縛したくてたまらない。

「別に重たくないよ。女なら好きな人と結婚したいって考えるのは当たり前じゃん。時間なんか関係ないよ」

 そう力強く言い切る若葉に心なしか気持ちが軽くなる。恋愛初心者で恋バナをする友人も少ない身としては、結婚を控えた彼女にこの際色々と聞いてみようと思った。

「若葉さんはいつから槙村さんとの結婚を意識されたんですか?」

「へへ。実は防大の頃から、って言ったら驚く?」

 そう言うと若葉はニッと笑った。

「えっ? だって当時は仲悪かったって……」

「子供だったのよ。本当は好きなくせに素直になれなかったってやつ」

 その言葉にドキッとする。どこかで聞いたような話。

「バカだよね。結局、想いを伝えられないまま彼が卒業しちゃって。あの時はいっぱい泣いたわ」

 当時を懐かしむかのように若葉が言葉を紡ぐ。

「だから再会出来た時はすごく嬉しかった。今度こそ素直になろう、って心に決めて」

「じゃあ若葉さんから告白されたんですか?」

 若葉は苦笑いを浮かべると、首を横に振った。

「それがあたし、また同じように突っかかっちゃってさ。それまでがそれまでだったからどんな態度で接していいか分かんなくて。そんなある日、彼から言われたの。〝お前、実は俺のこと好きだろ? 俺もお前のことがずっと好きだった〟って」

 どことなく男前な彼女が見せる女の表情かお。自分もこんな表情で敏生のことを見ているのだろうか? 

「結局、彼の方が一枚も二枚も上手だったのよ。あたしの気持ち、ずっと分かっていて、ずっと待っていてくれた」

「素敵……。カッコイイ人ですね、槙村さん」

 若葉は照れたようにちょんと頭を掻くと、悪戯っぽく人差し指を口に当ててウィンクした。

「これ、誰にも言っちゃだめよ? あたしのトップシークレットなんだから」

「はい!」

 と、そこで他の客に捌き終えた板前が二人に声をかけてきた。

「お待たせしました。どちらのお魚をお捌き致しましょうか?」

「お勧めってあります?」

 女の表情から一転、眼光鋭く生簀を見つめる若葉。そんな表情豊かな彼女が心底うらやましいと思った。

「今日はいいフグが入ったんですよ、下関から直送で。今が旬ですよ」

「どうする夕陽ちゃん? せっかくだからフグいっとく?」

「はい、是非! あたし実は地元が下関なんですけどフグ食べたことないんで」

「ほんとに? よっしゃ、じゃあフグお願いします! あとは……奮発してそこのシマアジ丸一匹! あたしの奢りよ!」

「わっ、すごーい!」

 あたしもいつか……、敏生と……。

 胸の奥がズキンと痛み、夕陽はそれを振り払うようにパチパチと手を叩いて喜んでみせた。


           *


「言ってなかったな、おめでとう」

「サンキュ。驚かせてすまんな」

「全くだ」

 笑いながら二人はジョッキを合わせた。

「綺麗になったな、深山。あんなに男勝りだったのに」

「そういうお前こそ、夕陽ちゃん無茶苦茶可愛いじゃないか」

「まあな」

 その返答に槙村が吹き出す。

「謙遜なしか、ベタ惚れだな」

「……彼女さ、とても頑張り屋さんなんだ。女性で肉体的なハンデは半端ないはずなのに言い訳ひとつしないで。信じられるか? あんな小さな体で千歳のトップだったんだぜ?」

 そう、彼女の実力は間違いなくトップクラス。それは天性の勘と弛まぬ努力の賜物。二年間、一緒に飛び続けたからこそ分かる彼女の凄さ。直情径行なところが玉に瑕だが、仮に彼女が男であったなら自分も敵わなかったかもしれない。

 それなのに女性ながら精鋭の「いずも」戦闘飛行隊に所属している彼女を妬む声は後を絶たない。

〝市ヶ谷が女性自衛官への職種開放をアピールしたいだけだろ〟

〝最強コンビ? 編隊長の門真が凄すぎるだけじゃん〟

〝ライトニングに乗れば俺だって戦えるよ〟

 口さがない連中からの、負け惜しみにも近い誹謗中傷。そんな声を耳にする度、敏生の血は激しく沸騰する。だが、彼女は強気に微笑んでみせると、憤る自分を制してこう言うのだ。

〝あたしは他の誰にどう思われたっていい。敏生さえ……、日本最強のファイターパイロットがあたしのことをウィングマンとして認めてくれているのであれば〟

 彼女が男に守ってもらうことを潔しとしない娘だということくらい分かっている。だからこそ敏生は誓ったのだ。自分がパイロットとして誰も見たことのない高みへと登り詰めることで、ウィングマンである彼女の実力を周囲に見せつけてやるのだと。

「そんなストイックな反面、プライベートはとても可愛くって家庭的でさ。手料理は最高だし、甲斐甲斐しく俺なんかの世話まで焼いてくれて……。だから俺も何でもしてあげたくなるんだ。そんな女の子……、今までいなかったよ」

 お互いを高め合える、公私共に尊敬出来る彼女。もはや自分にとってはかけがえのない存在。だからこそもう、片時も離したくないと考えているのだが。

「結婚とか考えてないのか? 彼女、すごく興味ありそうだったじゃないか」

「……もしその気が無かったら?」

「確かめるのが怖いか? らしくないな」

 槙村がからかうと、敏生は拗ねたように項垂れた。

「大切なんだ……。間違えて失いたくない。笑えよ、さんざプレイボーイを気取ってきた男が本気の女の子にはこのザマだ」

「いや、お前が本当に幸せそうで何よりだ」

 親友の言葉に頷くと、照れ隠しに敏生はグイッとジョッキを呷った。

「ところでこの後は佐世保に戻るのか?」

「いや、南に回って二週間の海上警備だ」

「……尖閣か」

 敏生がピクリと反応して身を乗り出す。

「ああ、うんざりだ。お前ら一護群は来月だろ?」

「いずもは出ないよ。タイ、シンガポール、フィリピン、ベトナム、四か国歴訪だってさ」

「海自初の空母機動部隊殿による南シナ海への示威行動か。あっちも相変わらずキナくさいしな」

「なあ、実際のところどうなんだ?」

 縋るような目で敏生は槙村に訊ねた。

「正直ヤバいだろうな。いつ起こってもおかしくない」

「共産党指導部はそこまで馬鹿じゃないだろ?」

「指導部はな。ただ、ここのところ胡錦濤、習近平と文民主席が続いてただでさえ不満が鬱積している軍部の武断派が、指導部の経済政策の失敗を突いて台頭し始めているのも事実だ。やつらが恐れるのは何だ?」

「ようやく勝ち得た巨額の軍事費の大幅削減?」

「それは表面的な話で、実態は膨大な軍事費を背景とした軍需産業から軍幹部達への巨額のキックバック、いわゆる利権を失うことだ」

 槙村はビールの残りを飲み干すと、タンッとジョッキをテーブルに置いた。

「インテリ揃いの党指導部には戦争を仕掛ける気などさらさらない。損得勘定でしか動かんやつらだ。自分達の実力は冷静に見極めていて、日米連合軍とまともにやって勝てるなんて思っちゃいない」

「だったら……」

「勤勉なバカ、こいつらが幅を利かせ始めるとロクなことにならない。それは歴史が証明している」

「ハンス・フォン・ゼークトか」

「ああ、授業で習っただろ?」

 ワイマール共和国(ドイツの前身)陸軍の参謀総長だったゼークトは、軍人を有能か無能か、勤勉か怠惰かで四分類し、それぞれの用兵を説いた。

 勤勉かつ有能な者は参謀、

 怠惰だが有能な者は司令官、

 怠惰かつ無能な者は伝令、

 そして勤勉だが無能な者は銃殺した方がよい、と。

 勉強だけでのし上がった人間は、大抵の場合プライドが異様に高く、自分が有能だと勘違いして余計なことをする。そしてその結果、組織を混乱に導くことが多い。

 カリスマ経営者が一代で築き上げた企業を次のサラリーマン社長がガタガタにしてしまうのが典型的な例で、旧日本軍の大本営の失敗も正にこれに当てはまる。

 学歴が幅を利かせ、想像力が欠落した社会においては往々にしてあり得ることなのだ。

「先月、中国中央軍事委員会のナンバー2が失脚しただろ? 表向きは賄賂の発覚だが、あれは間違いなく派閥争いだ。彼は穏健派の領袖だった。彼の失脚により北海、東海、南海の三大艦隊トップの首がすげ替えられている。いずれも武断派、損得勘定のできない〝勤勉なバカ〟どもだ」

 敏生の背中を嫌な汗が伝う。今朝方、必死に打ち消した想像。

「格差社会に不況が追い打ちをかけて人々の不満が高まっている。経済立て直しを迫られた指導部は大ナタを振るわざるを得ないが、軍部はこれを断固阻止するだろう。そして自分達の正当性を主張するには外に目を向けさせるのが手っ取り早い」

「まさか……」

「いつの世も戦争の陰に不況あり。あいつらは時代遅れの帝国主義者だ。覚悟はしておいた方がいいかもな」

「……それが本省情報本部の見解か」

「声が大きいよ。俺の正体は若葉も知らない。〝はるさめ〟でも知らされているのは艦長だけだ。おかげで今日は遅刻するところだった」

 話し終えた槙村がニヤッと笑い、追加のビールを頼もうと呼び出しボタンを押した瞬間、襖が開いた。

「ただいま~。面白かった~~~!」

「見事な包丁捌きよね! ゾクゾクしちゃったよ」

 夕陽と若葉の二人がきゃあきゃあとはしゃぎながら戻ってきた。すっかり打ち解けて仲よくなっている。

「ねぇねぇ、敏生、あたしフグ頼んじゃった。だって食べたことないんだもーん」

 甘えるようにすり寄ってくる夕陽に敏生の口元が緩む。

「じゃああたしはせっかくだからフグのひれ酒でも頼もっかな? 和馬付き合ってよ」

「了解。じゃあ今日はとことん飲みますか」

「さんせ―い」

 楽しそうにはしゃぐ夕陽を抱きとめ、その温もりに幸せを感じながらも、敏生は湧き上がる不安を完全に拭い去ることはできなかった。


           *


 お開きになり、さがみ野駅に戻ってきた時には既に日付が変わっていた。もっとも明日は休日なのでゆっくりと寝ていられる。二人して飲み過ぎたので、多少二日酔いへの不安が頭をもたげたが。

「素敵なカップルだったね~」

「俺らほどじゃないけどな」

「アハ、何それ~?」

 駅から敏生のアパートへの帰り道。すっかりと出来上がった夕陽が後ろ手を組みながらふらふらと敏生の前を歩く。気持ち良さそうに鼻歌を交じえながら。

「若葉さんと色々お話ししちゃった」

「どんな話だよ? 俺のこと?」

「へへ、なーいしょ。女同士の秘密~」

「何だよそれ」

 敏生が後ろからぐいっと夕陽を抱え込む。

「ふにゃ~」

 夕陽は敏生にもたれ掛かると、甘えたように彼の腕に頬ずりした。とても安心する彼の温もり。だから油断が生じたのかもしれない。

「結婚かぁ、いいな……幸せそう……」

 そう酔った勢いで呟いてから、夕陽はハッと我に返り慌てて口をつぐんだ。

「あっ、いや、今のは催促なんかじゃないからね!? あ、あたし敏生の重荷になりたくないし、今のままで充分幸せだし」

 結婚の二文字は口にした瞬間、醒める男が多いので絶対に禁句だと友人達から聞いていた。特に遊び人の気がある男に対しては絶対要注意だと。 案の定、顔をしかめた敏生に、肝が一瞬にして冷える。だが、敏生の反応は予想外のものだった。

「いつ誰が夕陽のこと重荷なんて言ったよ?」

「敏生……?」

 敏生のいつになく真剣な表情に動揺する。睨みつけるような眼差しが少し怖い。

「今のは夕陽の本心だと思っていいんだな?」

「え?」

 敏生は腕を解くと夕陽の右手を取り、フライトジャケットのポケットから小箱を取り出して彼女の手のひらに乗せた。

「付き合ってまだ半年ちょっとだし、渡すのは当分先だと思ってたけど……」

 思ってもみなかった展開に、夕陽が信じられないといった表情で手のひらの小箱を呆然と見つめる。

「開けてみろよ」

 敏生に促されて恐る恐る蓋を開けると、そこにあったのは見覚えのある眩いばかりのエンゲージリング。先月のデートの際、ふらりと立ち寄ったジュエリーショップで思わず「可愛い!」と声を上げてしまった時のもので、値段は六桁は下らないはずだ。驚きのあまり夕陽が敏生を見上げる。

 敏生は照れた様子で目を逸らし、指輪を手に取ると、夕陽の左手の薬指にそっとはめた。

 そしてその手を撫でると、意を決したように夕陽と目を合わせた。

「俺、プライベートの時は夕陽とずっと一緒にいたい。夕陽と一時も離れたくない。もう俺には他の女なんて目に入らない。こんなに人を好きになったの、お前が初めてなんだ。せっかく手に入れた大切な宝物、誰にも渡したくない。俺だけの夕陽を一生束縛したい。だから……お願いです、神月夕陽さん。俺と……結婚してください」

 敏生がプロポーズの言葉を言い終える頃にはもう、夕陽の顔は涙でぐしゃぐしゃで、言葉を紡げずにただコクンと頷くと、両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。

 敏生はホッと息をつくと、自らもしゃがんで彼女の頭を優しく撫でる。

「どうだ、俺の方がよっぽど重いだろ?」

 夕陽は何も答えず、ただ、顔を覆いながら首を横に振った。

 秋の夜半に浮かぶ月はどこまでも清く、そして白かった。

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