第三章 幸せの予感 ①



第三章 幸せの予感



 目を覚まして枕元の時計を見るとまだ朝の五時前で、カーテンの隙間からもまだ光は差し込んでいなかった。厚木基地から徒歩十五分のところにあるアパートの自室。築十年で二Kの安普請だが、プライベートな空間がしっかりと確保されているのはやはり落ち着くものだ。

 そして横に目を遣ると、愛しくて堪らない恋人が一糸纏わぬ姿でその小さな身体を丸め、自分にすり寄るようにして眠っている。敏生は彼女を起こさないよう、そっとその黒髪を撫でてやると軽くキスを落とした。

 二人が付き合い始めて半年以上が経過していたが、飽きるどころか彼女の魅力にはまっていく一方だ。

 こんな小さい身体で男達に交じって必死に戦っている、そう考えるだけで強く抱き締めたくなる。何が何でも守ってやりたいと心から思える存在。

 付き合いたての頃のすったもんだもどこへやら、今では陸に上がっているときは半同棲状態の二人。明日をも知れぬファイターパイロットの二人だからこそ、お互いが片時も離れたくないという当然の帰結であった。

 敏生はそっと起き上がるとドアの郵便受けから新聞を取り出し、再びベッドに戻ると腰を下ろして新聞を開いた。まずは表題をサッと一通り読み流し、それから気になった記事にバックする。

 注目記事は二つ。

〝今度は深圳で暴動。中国建設銀行の焦げ付き騒ぎが拡大〟

〝上海で株価続落。依然止まらず〟

 いずれも昨今の中国経済の不調に端を発した内容だ。

 中国政府の必死の市場介入で、リーマンショックの時のような明確なトリガーはないものの、専門家によっては、中国バブルは完全に崩壊した、という者もおり、そうなると日本も含めた世界恐慌がいよいよ現実味を帯び始めてくる。

 現に投資家達の間では急激な円買いが始まり、日銀が慌てて介入したものの、ここ一週間で対ドル、対ユーロ共に十円以上の上昇となっていて、輸出を柱とする日本経済にも暗い影を落とし始めていた。

 景気が悪くなれば社会的に不満が高まるのは必然で、こと、これまで右肩上がりだった中国においては、マネーゲームに明け暮れていた共産党幹部から末端の市民に至るまで、一夜にして財を失う者が後を絶たず、自殺や失踪が社会問題化し、中国を代表する巨大家電企業のカリスマ経営者がマスコミの面前で公然と指導部批判を繰り広げるなど、収拾のつかない状況になりつつあった。

 内憂外患、か……。

 二つの記事を読み込みながら寝起きの思考を巡らせるが、やがて首を振ると天を仰ぎ溜め息をついた。

 やめよう。考えても仕方ない……。

 バサっと新聞を膝の上に落とすと、ひんやりと柔らかい感触が背中に乗った。

「おはよ、敏生」

「起きたのか?」

 敏生は新聞を畳むと、振り向いて裸の夕陽をグイッと無理矢理抱き込み、自分の膝上に横たえた。

「にゃんッ」

 可愛く甘える彼女の頬をそっと撫でる。

「どーしたの? 眉間にシワなんか寄せちゃって。敏生らしくなーい」

 夕陽が子猫の仕草でコンコンと敏生の眉間を拳で突つく。

「あ、いや、この新聞の連載小説の展開がなかなかショッキングでさ」

「ふーん? てっきり横浜ベイダース一〇連敗にショックを受けてるのかと思った」

「お前な~」

 悪戯っぽくからかってくる彼女の髪をくしゃっとかき混ぜる。

「敏生、せっかく防大卒のエリートなんだからもっと国際面とか経済面読んだら?」

「やだね。難しいことは嫌いなんだ」

「もったいな~い。航学上がりのあたしと違って頑張れば将軍様になれるのに」

「馬鹿言え。俺はな、お前との愛と大空に生きるの」

 敏生はそのまま夕陽を抱き起こすと、唇を塞いだ。お互いの存在を確かめ合うように艶めかしく舌を絡ませる。いくら求め合っても足りることがない愛しい恋人。

 敏生は夕陽をベッドにそっと寝かせると、その美しく豊かな乳房に顔を埋めた。愛らしい頂を口に含むと彼女が堪らず可愛らしい声を漏らして仰け反る。

 敏生はしばらくの間、夕陽の反応を探るように舌と指を滑らせていたが、やがておもむろに顔を上げると夕陽を見た。

「……なあ、今夜課業後にダチと飲みにいく話だけどさ……」

 突然愛撫を中断し、全く色気のない話をしてきた敏生に夕陽がキョトンとする。

「お前も一緒に来ないか?」

 防大時代に寮で同室だった敏生の親友の乗る艦が横須賀に寄港しているとのことで、数年ぶりに一緒に飲みにいくとの話は聞いてはいた。

「え? だって久しぶりに親友さんと会うんでしょう? 男同士の積もる話って言ってたじゃん」

「いや、何となく、さ」

 そこで、ピンときた夕陽はガバッと起き上がると敏生の両肩に手をかけた。

「あ! あたしなら敏生のこと信じてるから大丈夫だよ? せっかくなんだから羽伸ばしてきなよ」

 また、疑われたくないとか考えているのかもしれない。

「うーん、そういうのじゃなくて、その、やつに夕陽のこと自慢したいというか……さ」

「え……?」

 敏生と付き合い始めて半年以上が経過した今、彼が決して遊びでないことは夕陽も理解している。だが、数多の女性と浮名を流してきた彼。特定の彼女の存在はこれまで聞いたことがないということを刑部からも聞いていた。だからこそ、その敏生の発言に驚きを隠せなかった。

「……敏生の親友さんにあたしのこと彼女だって紹介してくれるの?」

 二人が付き合っていることは「いずも」のクルーなら群司令、艦長から先任伍長、甲板員に至るまで誰もが知っている。だが艦内恋愛禁止の建前上、それは公然の秘密というもので大っぴらに公言して歩くわけにはいかず、窮屈な思いをしていたのは事実だ。

 幸せであるがゆえに逆に不安が募り、証を求めてしまう女の性。だからこそ彼の申し出につい涙が溢れてくる。

「嬉しい……」

 夕陽は敏生の胸にしがみつくと静かに嗚咽した。

「おいおい、こんなんで泣くなよ」

 敏生は困ったような表情を浮かべると、何も答えずに泣きじゃくる小柄な身体をそっと抱き締めた。

 恐らく、夕陽は自分の知らないところであらぬ噂や中傷に何度も嫌な思いをしてきたはずだ。決して褒められたものではない過去の自分の所業が彼女を苦しめていたのだとすると、取るべき道は一つしかないのだが。

「なあ、夕陽」

 敏生は彼女を引き剥がすと、涙に濡れた顔を覗き込んだ。穢れのない、澄んだ大きな瞳。

 その綺麗な瞳に吸い込まれて思わず胸の内が溢れそうになり、敏生は慌てて喉元まで出かかった言葉をのみ込むと、不思議そうに見つめる夕陽の頭を優しく撫でた。

「愛してるよ」

 耳元で囁き、再び彼女の美しい裸体をベッドに横たえる。そして自身の焦燥感を打ち消すかのように彼女を激しく貪り始めると、夕陽もまたそれに応えて快感に身を捩じらせた。


           *


 佐世保に司令部を置く第二護衛隊群第二護衛隊所属の汎用護衛艦「はるさめ」(DD102)は、グアム沖で二週間に渡って実施された日豪共同訓練に参加した後、報告と補給のため自衛艦隊司令部のある横須賀に寄港していた。

 停泊期間は三日間で、乗組員達は二交代での外泊を許可されている。

 戦闘指揮所CIC士官の槙村和馬まきむらかずま二等海尉は急いで艦を降りると、横須賀中央駅から京急で横浜に向かった。特急で三十分ほどだが、なんとなく落ち着かない。駅に着くと早足に待ち合わせのメッカである駅東口の百貨店の時計前に出て、焦る気持ちで待ち人を探す。

「和馬!」

 その声に振り向くと、スラリと長身のボーイッシュな女性が満面の笑顔で駆け寄ってきた。

「若葉。悪い、待ったか?」

「待った」

 そう言って彼女はわざとらしく膨れるも、すぐに表情を崩しクスクスと笑った。

「うーそ。災難だったね、艦長の呼び出し」

 彼女は同じ「はるさめ」航海科士官の深山若葉みやまわかば三等海尉。防大時代の後輩で、今は槙村の恋人でもある。

「あの人、話なげーんだよな」

 槙村はうんざりした様子で溜め息をつくと若葉の手を取って歩き出した。

「どうする? いったんホテルに荷物置きにいく?」

「いや、時間もないから店に直行しよう」

「だね」

 相槌を打つと、若葉はクスッと笑った。

「敏生先輩、驚くかな?」

「驚くんじゃないか? 何せ俺らのこと、まだ犬猿の仲のままだと思ってるだろうからな」

「そんな時期もあったね~。懐かしい」

 若葉が嬉しそうに腕を絡めてくる。一泊だけとはいえ、恋愛禁止の艦内から脱出できた解放感。どちらからともなく、いちゃつきながら雑踏を歩く。店に着くと、既に敏生が個室で待っていた。

「よっ、久しぶり」

「よぉ……って、あれ? 深山!? え? どういうこと?」

「久しぶり~、敏生先輩」

 二人はしてやったりの表情を浮かべると、敏生の前に腰を下ろした。

「え? なになに? お前らもしかして……」

「まあ、こういうことだ」

 槙村が笑いながら若葉の肩を抱き寄せると、敏生は悔しさと嬉しさの入り混じった表情を浮かべて頭をかいた。

「やられたよ。一番想像できないカップリングだ。マジでびっくりした」

 その言葉に二人が顔を見合わせて笑う。と、若葉がふと敏生の席の横に置かれている使用済みのおしぼりに視線を落とした。

「ん? もう一人誰かいるんですか?」

「え? ああ。その……」

「ただいま~~~。あっ」

 襖を開けていきなり登場した夕陽に、今度は二人が目を見開いた。一方の夕陽も突然の対面に慌てている様子だ。敏生は彼女の手を取ると、自分の横に座らせ軽く咳払いした。

「えー……、俺の彼女で同じくライトニングのパイロット、神月夕陽……さん。ん? ちゃんかな? 夕陽、こいつが俺の親友の槙村和馬で、こっちが後輩の深山若葉」

 敏生が照れくさそうにそれぞれを紹介すると、二人はハッと我に返った。

「何で俺らは呼び捨て……ってか、敏生に特定の彼女……。マジかよ、心臓止まるかと思った」

「夕陽ちゃんだっけ!? 大丈夫!? 敏生先輩にひどい目にあわされてない!?」

 初対面の夕陽を前にして遠慮のない二人に敏生が顔をしかめる。

「お前ら俺を何だと思ってるんだ!?」

「カーマスートラの化身」

「見境なしのスタリオン。女の敵」

 間髪入れぬ二人の返答に敏生はムクれて立て肘をついた。そのやり取りに夕陽がプッと吹き出す。

 敏生って、昔っからいじられキャラなんだ。

 夕陽はグッと笑いをこらえると、

「神月夕陽といいます。今日はあたしの知らない敏生のお話、いっぱい聞かせてください」

 と言ってペコリと頭を下げた。

「可愛い……。こりゃ、あたしも惚れるわ」

「ダメだ! 夕陽は俺のだ!」

「ぷっ、焦ってやんの。敏生先輩もかーわい~~~~」

 真顔で夕陽を抱き締める敏生に若葉が楽しそうに笑う。他愛ない会話を繰り広げながら料理と飲み物を注文し、とりあえず運ばれてきた生ビールで四人は乾杯した。

 喉を潤し一息つくと、槙村が思い出したように口を開いた。

「そう言えば聞いたぞ。米軍のやつらに」

「何を?」

「お前、この間の環太平洋合同演習リムパックでロナルド・レーガン(米第七艦隊空母)を撃沈したんだって? マードック提督が激怒していたらしいぞ」

 リムパックは二年に一度、環太平洋における米国の同盟諸国海軍をハワイに集めて、二か月弱に渡り実施される多国間合同演習だ。海上自衛隊は一九八〇年以来、毎回欠かさず参加しており、今回も空母「いずも」の他、イージス艦「みょうこう」と汎用護衛艦「さざなみ」、P3C対潜哨戒機三機が参加した。

 槙村が言うのは演習の終盤、各国参加艦艇がオレンジ国とブルー国に分かれて戦う模擬海戦でのことだった。海上自衛隊とオーストラリア、ニュージーランド、チリがオレンジ国艦隊となり、米空母機動部隊を中心とするブルー国艦隊と相対したのだが、劣勢で味方艦艇が次々と撃沈判定をされ、夕陽や他の仲間達も米イージス艦や空母艦載機に撃墜されていく中、ブルー国艦隊の鉄壁の対空防御網を奇跡的に突破した敏生と刑部のライトニングが「ロナルド・レーガン」の他、四隻の艦艇を沈めて一矢を報いたのだった。

 その時の「いずも」は艦隊司令から甲板員に至るまでもう大騒ぎで、大戦果を挙げて帰還した敏生と刑部はライトニングから降りるやいなやクルー達に寄ってたかって揉みくちゃにされ、手荒い祝福を受けた。もちろん夕陽も悔しさを隠してその輪に加わったのだが、敏生のどことなく浮かない表情が気になり、その晩、二人っきりになった時に理由を尋ねたところ、

「沢山の仲間が殺られて……、僚機のお前を撃墜されて喜べるわけないだろ」

 と不貞腐れたように吐き捨てたのだった。そんな彼がとても愛おしくて、思わず抱きついてキスしたい衝動をその場はグッとこらえたのだが。

「刑部と二人でな。でも辿りつけたのは仲間たちのフォローと犠牲があってこそだ」

 敏生がテーブルの下でそっと夕陽の手を握る。

「鬼畜コンビか! レーガンも浮かばれんな。で、その刑部先輩は元気か?」

「でき婚したよ。今や娘にメロメロのバカ親だぜ?」

「マジで!? あのクールな刑部先輩が!? 想像つかな~い!」

 そこから防大時代の思い出話に花が咲き始めた。夕陽が置いてけぼりにならないよう、若葉が気を遣って一つ一つ当時の状況などを説明してくれる。敏生と槙村が当時アメリカンフットボール部に所属していたこと、そこへ若葉がマネージャーとして入部してきたことから始まった関係であること。開校祭の棒倒し競技での敏生の大活躍や、課業での笑える失敗談など、夕陽にとっては敏生の知らなかった一面を知ることができてとても楽しい。

 そして、槙村と若葉が実は昔は犬猿の仲だった話に至り、敏生が身を乗り出すように食いついた。

「まあ、お互い当時から意識し合ってたってことだな」

「そういうことだよね~」

「何を他人事のように!? お前らがガキみたいな騒ぎを起こすたびに大隊長の俺がとばっちりを受けてたんだぞ!?」

「ああ、その節は大変お世話になりました」

「うんうん、苦しゅうないゾ」

「お前ら~~~~~~」

 苦虫を噛み潰した表情でビールを呷る敏生に二人は愉快そうに笑うと、槙村が少し真顔になって敏生に向き直った。

「実はさ、結婚するんだ、俺達。この航海が終わったら」

「えっ?」

 突然の報告に敏生が固まる。

「式はまだだいぶ先だけどな。さっさと籍は入れちまおうかと。お前に真っ先に報告しておきたくてさ」

「わあ、おめでとうございます!」

 夕陽が手を合わせ、目を輝かせながら祝福する。

「うふふ、ありがと~。よかったら夕陽ちゃんも敏生先輩と一緒に式に来てね」

「はい! 是非!」

 そこからは女二人で結婚式の話題で盛り上がり始めた。この手の話に男二人はなかなかついていけず適当に相槌を打っていると、襖がガラッと開いて女性の店員が顔を出した。

「お客様、生簀のお魚を捌きますが、よろしければお魚ご覧になられますか?」

「わあ、夕陽ちゃんいこうよ!」

「うん! 敏生もいく?」

「俺はいいや。二人でいっといで」

 店員に連れられて二人が楽しそうに出ていくと、敏生と槙村はホッと息をついた。

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