第二章 深海までは何マイル?



第二章 深海までは何マイル?



 運河の見えるカフェで、夕陽は目の前に置かれたカプチーノに口をつけることなく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 一か月に渡る訓練航海を終え、乗組員達は交代で五日間の休みを与えられた。

 その上陸休暇の初日。

 話がある、と言われてこのカフェを指定してきたのは敏生だった。航空隊の基地がある綾瀬から、わざわざ離れたみなとみらいでの待ち合わせ。

 あの演習での一件以来、二人の間にはどことなく気まずい空気が流れていた。

 自分の非を認め、必死に赦しを乞う夕陽に、敏生は途中から目を合わせてもくれず、

「もういい、分かったから!」

 と、話を畳まれてしまった。

 あれから一か月。

 あんなにことあるごとにアプローチしてきていた彼が、明らかに自分を避けているそのよそよそしい態度に、夕陽の気分は沈んでいく一方だった。そして昨日、下艦時に気まずそうな表情で渡されたカフェの場所と時間を書いたメモ。

 何でみなとみらい? デートの時はいつも最寄りのさがみ野駅で待ち合わせしてたのに。もしかして、別れ話……?

 それなら合点がいく。隊関係者に修羅場なんか見せられないだろうから、わざわざ離れたこんな場所を指定してきたのかもしれない。もともと女には全く不自由しない彼。こんな面倒くさくてちんちくりんな自分なんか、さっさと見切りをつけられて当然かもしれない。

 あたし、もうダメなのかな……。

 じんわりと涙が浮かんでくる。待ち合わせの時間まであと十分。彼と会うのが怖い。

 でも……逃げちゃダメだ。

 ぐるぐると頭の中で思考を巡らせていると、目の前の席にドカっと男が腰を下ろした。

 誰? コイツ……。

「キミ、かわいいねぇ。ね、ヒマしてんなら俺と遊ばない? おごってあげるよ?」

 大学生くらいだろうか? そこそこのイケメンには見えるが、これで勘違いしているとあっちゃ痛すぎる。

 はぁ、本当に最悪。ウザい、朝っぱらから。

 こういうアホなやつはガツンと分からせてやるに限る。

「いいわよ。ただし、あたしに腕相撲で勝ったらね」

「えっ? マジで? よっしゃあー」

 自衛官とさえ言わなければ誰もが振り向く華奢でかわいい女の子。実年齢よりも若く見える彼女は、これまでもこの手の輩をたくさん相手にしてきた。

 夕陽はカプチーノを右側・・に寄せるとテーブルに肘を立てた。

「え? それじゃあコーヒーこぼれちゃうよ?」

「いいのよ、どうせあたしが勝つんだから。ほら」

 夕陽がバカにしたように大学生を挑発すると、彼はムッとした表情で夕陽の手を取った。

「キミのようなかわいい娘とデートできるんだ。手加減しないよ?」

 夕陽は溜め息をつくと窓の外に目をやった。

「いいから早く始めなさいよ。時間ないんだから」

 その言葉でカッとなった彼が一気に力を入れた。が、夕陽はびくともしない。

 当たり前じゃない。あんたみたいな優男に負けて九Gの中操縦桿を握れるかっつーの!

 バァン!!

 店内にオオッ、と歓声が上がる。

 結果は夕陽の完勝で、大学生の彼は苦痛に手首を握り締め、顔を歪めていた。

「おととい来なさい? ボウヤ」

 周りでクスクスと女性達の笑い声が聞こえ、彼は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にすると、夕陽を睨みつけた。

「お、俺は手加減したんだ! な、なのにツケあがりやがって!」

 ゴンッ!!

 突然響き渡る鈍い音。

「はいはーい、それまで。彼女を誘いたいならもっと男を磨いてこようね? ボクちゃん?」

 その声で夕陽が顔を上げると、敏生が笑顔を浮かべながら大学生の頭をテーブルに押さえつけていた。

「あ、強くなりたいならこれあげるよ。ただいま水兵さん募集中♪」

 そう言って、敏生が自衛官募集のチラシを彼の前に差し出すと、大学生は敏生の筋肉質なガタイと絶対的なルックスに分が悪いと判断したのか、慌てて転げるように店を逃げ出していった。

「なんだよ、せっかく親切に誘ってやったのに」

 敏生はつまらなさそうに呟くと、夕陽の前に腰を下ろした。

 その色男の派手な登場に周りの女性客達がチラチラと彼を盗み見しているのが癪に障る。

「よお」

「おはよ……」

「なんだよ、シケたツラして。あ、そこの綺麗なお姉さん、おしぼり二つもらえるかな?」

 敏生に声をかけられた女性店員が頬を上気させながら、慌てておしぼり二つと水を持ってきた。

 ちょっと、なに店員に色目使ってんのよ!? 面白くない。全くもって面白くない。

 敏生をキッと睨むも、彼は全く我関せずといった様子でおしぼりの封を切り、

「夕陽、右手」

 と言ってこちらを見た。

「え?」

「いいから」

 わけも分からず右手を差し出すと、敏生は夕陽の手をゴシゴシと拭き始めた。

「他の男の手垢なんかつけやがって。全くもって気に食わないね」

 それって……。

 夕陽は耳まで真っ赤になった顔を敏生に見られないよう、慌てて俯く。そして左手を胸に手をやり、軽く呼吸を整えると、

「で、話って何?」

 と、努めて冷静に尋ねた。

「ん? ああ、まあなんだ。その、夕陽とデートしたかっただけ。普通に誘っても来てくれるか不安だったからさ」

 ………は? なんじゃそりゃ?

「いや、ほら、あれ以来俺ら、なんとなく気まずかっただろ?」

「ちょっと待って! あの後、あたし敏生に謝ったじゃん! でも、敏生ずっと怒っててあたしに対してずっとよそよそしくて!」

「ああ、それはその……オトナの事情ってやつ?」

「…………あたしがガキだって言いたいの?」

「あ、いや、今の失言! ゴメン! 元はと言えば俺が悪かったんだ! この通り謝る!」

「ちょっとやめてよ! こんなところで!」

 突然テーブルに手をついて額を擦り付けた敏生に夕陽は慌てふためいた。

「いや、やめない! お前が許してくれるまで!」

「分かった! 分かったから! もう頭を上げて―っ!!」

 この光景、デジャヴだ。完全にデジャヴだ。

 彼と付き合い始めて、いや、付き合う前から幾度となく繰り返された光景。彼の女タラシたる所以ゆえん。でもあたしはこの先、たとえどんな目にあっても、きっと何度でも彼のことを信じてしまうのだろう。だって、彼のことが好きだから。好きで好きでたまらないから。

 本当にあたしってバカなオンナだよね……。

 夕陽は自嘲気味に溜め息をつくと、敏生から視線を逸らした。

「大体、何でこんなところで待ち合わせなのよ?」

 ああ、と、敏生はホッとした様子で体を起こすとテーブルに肘をついて身を乗り出した。その仕草に夕陽の心臓が跳ねる。

 そのカッコウ、やめれ。かっこいいとか思っちゃうから。

「いや、お前の観たがってた映画、ここら辺じゃもうここしかかかってなくてさ」

 今回の出航前にぽろっと呟いた話。そんなの覚えててくれたんだ……。

「じゃ、じゃあ、さがみ野から一緒に来ればよかったじゃない」

 キュンと鳴る胸が悔しいのでとりあえずは突っ込んでみせると、彼はガシガシと頭をかいた。気まずい時に出る彼のクセ。こんなところがつい可愛いと思ってしまう。アバタもエクボとはよく言ったものだ。

「先にちょっと用事を済ませておきたくてさ」

「用事……?」

 敏生は姿勢を正すと夕陽を見つめた。

「ちゃんと別れてきた。あいつと。ほら、今回の出航前にお前に喧嘩売ってきた……」

 そのひと言に夕陽の時間が止まった。やがて胸に、目頭に、熱いものがこみ上げてくる。

 もう、だからコイツは……。

「バカ……。言ってくれたらあたしも一緒にいったのに」

「俺が蒔いた種だ。お前にこれ以上嫌な思いはさせたくない」

 敏生はおもむろに立ち上がると、俯く夕陽の横に歩み寄り頭を撫でた。

「行こう。映画始まっちまうよ」

 夕陽はコクンと頷くと、滲んだ涙を指で拭い立ち上がった。

「もーう、今日は一日楽しませろよ?」

「お安い御用です、姫」

 敏生は笑うとスッと手を差し出す。夕陽はその手を取ると、少しはにかんで彼のエスコートに身を任せた。紆余曲折の末の、久しぶりの二人のデートの始まりだった。


           *


 二人がカフェを出て映画館に向かったその頃、海上自衛隊が誇る最新鋭潜水艦「そうりゅう」は、四、四〇〇tの巨大な艦体を大陸棚の途切れる沖縄トラフの深海に潜めていた。

 潜航してから既に一週間。

 海自初の非大気依存推進(AIP)艦である「そうりゅう」は、二~三日で浮上しては内燃機関を燃焼させるために大量の酸素を取り込む必要のあった従来のディーゼル潜水艦に比べ、二週間以上の連続潜航が可能と、その性能は飛躍的に向上していた。

 数か月の連続潜航が可能な米海軍の原子力潜水艦と比べると見劣りするものの、日本近海を作戦領域とする海上自衛隊にとっては充分な潜航日数であり、原子力潜水艦に比べ非常に静粛性に長けた「そうりゅう」は正に東シナ海の王者と言えた。

 その「そうりゅう」が監視・相対するのは中国の潜水艦。

 膨大な軍事費を投入し、海軍力の増強に注力する彼らの装備は、かつてに比べると最新化が図られているものの、ベースになっているのはあくまで古い設計思想の旧ソ連のものであり、お世辞にも強敵とは言えなかった。

 そして冷戦時代の昔より、日本海を舞台にソ連の潜水艦と水面下で熾烈な駆け引きを繰り広げ、その戦闘ノウハウを積み上げてきた海自の潜水艦乗りにとっては、ようやく外洋海軍への転換を図りつつある未熟な中国の潜水艦の監視など、赤子の手を捻るよりも容易いことだった。

「ソナーより艦長。感あり。方位〇―八―〇。推定距離二〇、〇〇〇。恐らく潜水艦。………音紋照合しました。中国海軍の元級六番と思われます」

 ソナーからのその一報に艦内に緊張が走った。

「動きは?」

「特になし。気づかれていません」

「よし。航海長、進路〇―八―〇。ダウン一〇度。速度このまま」

「了解。進路〇―八―〇。ダウン一〇度、速度このまま」

 とりあえずは尾行だ。彼らの動向を探るのが「そうりゅう」に与えられた任務でもある。

「これで四隻目です。ここ二、三日、やけに多いですね」

「ああ、これといった大規模演習は予定されていないはずだ……。気になるといえば気になるな」

 海面下での潜水艦の動きは軍事衛星をもってしても探知は不可能だ。敵に見つからない限り、海においては最強の艦と言える。

 それゆえに、各国の海軍が最も心血を注ぐのはその潜水艦探知能力の向上だ。

 特に日本の海上自衛隊は従来より、圧倒的な海上・航空戦力を保有する米海軍第七艦隊の対潜能力を補完するように増強されてきた。その米国が景気の低迷により極東アジア地域での軍縮を余儀なくされたことから、弱点である航空戦能力強化のために自前の空母を準備する必要に迫られ始めたものの、P3C対潜哨戒機を一〇〇機保有し、また一個護衛隊群当たり十五機の対潜哨戒ヘリSH60を有する海上自衛隊は、対潜能力だけで言えば米海軍に次いで世界第二位の実力を有すると言われている。

 そしてそのノウハウは自身が保有する潜水艦にもフィードバックされ、「そうりゅう」級は通常動力の潜水艦においては世界最強と言われていた。もっとも、どんなにハード《艦》がよくてもソフト《人》がついてこれなければ、その能力をフルに発揮することなどできない。だが、その点でも海上自衛隊の潜水艦乗りは非常に優秀と言えた。

 潜水艦乗りの任務は過酷だ。

 二四時間三交代制勤務で、艦内は非常に狭く、プライベートは皆無に等しい。娯楽は仲間と映画やドラマのDVDを見ることくらいだが、音は出せないのでヘッドフォン着用が義務付けられている。

 光の届かない深海の息苦しい密閉空間で長期間に渡り過ごす閉塞感だけでなく、敵性国の潜水艦と遭遇するたびに激しい駆け引きが繰り広げられ、極度の緊張状態に置かれることも珍しくない。

 そういうわけで、潜水艦乗りは急減圧に耐えられる身体的適性だけでなく、強靭な精神力と忍耐力も求められる、海自の中でもエリート中のエリートなのだ。

 その「そうりゅう」艦長を務めるのは土方勇介ひじかたゆうすけ二等海佐。

 防大卒業以来、潜水艦勤務一筋の生粋のサブマリナーで、隊内で右に出るものがいない操艦技術と、沈着冷静で分け隔てのない性格も相まって、乗組員達から畏れ敬われていた。

 そう言えば今日は海斗かいとのサッカーの試合がある日だったな……。

 ふと、高校生の息子の顔が土方の頭をよぎる。

 家庭においてはとても子煩悩な父親。女性海上自衛官WAVEだった妻と隊内結婚し、一男一女を儲けた。若い頃は長期航海を終えて帰宅するたびに顔つきが変わっている子供達にショックを受けていたが、今ではそういうものと割り切り、上陸時は出来る限り家族で過ごすようにしている。

 妻が元WAVEだけあって、夫の仕事に理解があるのも救いだった。おかげで家族仲は非常によく、子供達も思春期であるにもかかわらず、反抗することもなく父親によく懐いてくれていた。

 もっとも、どんなに家族仲がよいところで自分の任務の内容など話せるわけもなく、子供達はまさか父親が今、中国の領海のすぐ外でその動向を探っているなどとは夢にも思っていないだろう。他国の潜水艦に遭遇するたびに、今回は無事に帰れるのだろうか? と家族を思い浮かべてしまう自分は、本当はこの職業に向いていないのかもしれないと感じている。だが、自分を信じて命を預けてくれている六十四名の乗組員達のことを考えると、弱音など吐いてはいられなかった。

 頑張れよ、海斗。今度父さんがおかに上がるまで絶対に勝ち進むんだぞ。

「ソナーよりブリッジ。元級六番、速度を上げた模様」

「よし、速度十五ノットに上げ。近づき過ぎないように気をつけろ」

「了解。速度十五ノットに上げろ」

 少なくともあと一週間は深海の闇とお付き合いしなければならないだろう。普通の人間であれば気の狂う環境の中、「そうりゅう」は息を潜め、中国の潜水艦を追った。


           *


「美味しかった~。ごちそうさまです」

 すっかりわだかまりも消え、心底嬉しそうに笑う夕陽の表情に敏生も釣られて相好を崩した。

 港の夜景を望む桟橋の手摺に寄りかかりながら、湾内を航行する船を二人で眺める。

「本日はご満足いただけましたか? 姫」

「ウム、ワラワは満足じゃ」

 二人はコツンと額を合わせるとクスッと笑い、そっと唇を重ねた。

「ふふっ、敏生のキス、鴨肉のソースの味がする」

「それはお互いさま」

 再び唇が重なり合う。今度は長いキスになった。お互いの背中に手を回しどちらからともなく密着する。

 敏生のこと、なんでこんなに好きになっちゃったんだろう……。

 恋愛なんかには全く興味が無かったはずの夕陽。ただ、自由に大空を翔ることだけを夢見て脇目も振らずに頑張ってきた。それが今では、少なくともプライベートのときは彼のことで頭がいっぱいで。

 彼の手が夕陽の頬を優しく撫でる。とても温かくて頼りがいのある手。

 出会って以来、彼はいつだって優しかった。アプローチこそすれ無理に迫ってくることもなく、いつだって夕陽の気持ちを優先してくれた。何より初めての恋愛に臆病で勇気の出ない自分のことを一年半もの間、ただじっと待ち続けてくれたのだ。

〝あんたなんかどうせ遊びよ〟

〝彼があんたみたいなお子様相手にするわけないじゃない〟

〝やめときなよ、絶対に傷つくよ?〟

 彼を取り巻く女達からのやっかみや、夕陽を心配する周囲の声。

 やめてよ! 敏生のこと何にも知らないくせに!

 周囲の風評とは裏腹に、自分だけが知っている彼の顔。そう、あの時だって。

 それはまだ、彼と正式に付き合い始める数か月前のこと―――――


           *


 その日の朝、夕陽はベッドを起き上がろうとしてふらつくと、そのまま枕にボスッと顔を埋める羽目になった。

 這うようにして体温計を探し出し、脇に挟む。

 三十九度二分。

 我が目を疑うも、起き上がれない身体が何よりの証拠だ。枕元の携帯に手を伸ばし、職場をコールすると敏生が出た。

 敏生、出勤早いんだな、と朧げに考えながら病欠を伝える。心配そうな敏生から二三、質問をされたが、朦朧とする意識で答えると電話を切った。

 やばい……インフルエンザかな? だったら病院行って薬貰わなきゃ……。

 だが、起き上がろうにも身体が言うことを利かず、夕陽はそのまま意識を手放した。

 どれくらい眠っただろうか?

 夕陽!! 夕陽ッ……!!

 ああ、なんかあたしを呼ぶ声がする……。ドンドンって、そんなに力一杯ドア叩いたら壊れちゃうよ、敏生……。

 ………敏生!?

 夕陽は必死になって起き上がるとベッドを這い出し、ふらつきながらやっとの思いでドアを開けた。

「夕陽!! 大丈夫か!?」

 敏生の顔を見た瞬間、ふらっと倒れそうになり、彼に抱きとめられた。

「凄い熱だな。インフルかもしれないから病院行こう」

 敏生は一旦、夕陽を横抱きにしてベッドに寝かせると、彼女に聞きながら保険証や診察カード、ブランケットなど身の周りの用意を始めた。

 枕元の時計を見ると隊に電話してからまだ三十分しか経っていない。

「としき……、しごとは……?」

「隊長に休みもらった。夕陽を病院に連れてくって言ったら一日休んでいいって。どのみち今日は僚機ウィングマンがいないと訓練にならないし」

「ごめんね……」

「気にするな。頑張りすぎなんだよ、夕陽は」

 敏生はテキパキと準備を終えると、夕陽を抱え起こしてパジャマの上からセーターを着せた。

「や……」

「ん?」

「あんまり近づかないで……汗くさいから……」

「そんなことないさ。いつもの夕陽の匂いだよ。心地良くて安心する」

 敏生にぎゅっと抱き締められる。まだ付き合ってもいないのに、恋人のような優しい扱い。嫌じゃない。いや、むしろ嬉しくて益々熱が上がりそうだ。

「さ、行こう病院。予約入れといたから。寒くない? 車、スーパーの駐車場に停めたから少しかかるけど」

「だ、大丈夫……」

 再び敏生に横抱きにされ、夕陽は赤く火照った顔を見られないよう彼の胸にそっと顔を埋めた。


 診察の結果は案の定インフルエンザで、夕陽は一日で熱が下がるという吸入薬を処方してもらった。敏生が隊に確認を入れたが、熱が下がってから三日間は出勤禁止とのことで、このまま大人しく寝ているしかない。

 部屋に戻り、説明書通りに吸入薬を吸引してベッドに潜る。

「疲れたろう、少し寝とけ」

 横になった夕陽の頭を敏生がそっと撫でてくれた。出会ったあの日から、ずっと変わらない優しい眼差し。

 もう帰っちゃうのかな? いやだな、そばにいて欲しい。

 思い余ってつい、咄嗟に彼の袖を掴んでしまった。

「夕陽?」

「……帰るの?」

 何言ってるのよ、あたし。敏生に風邪移っちゃうから帰ってもらわなくちゃいけないのに!

 そう思うのに、一方で無意識の自分が彼を引き止めてしまう。

「大丈夫、ずっとそばにいるから」

 柔らかく微笑む彼に安堵し、やがて夕陽は眠りについた。


 再び目を覚ました時には部屋に西日が差しこんでいて、意識が戻ると夕陽はガバッと起き上がった。

 敏生……! 敏生は!?

「おっ? 起きたか?」

 敏生はローテーブルにモバイルパソコンを置いて何やらカタカタ打ち込んでいる。

 よかった、いた……。

「仕事?」

「ん、昨日の報告書まだ上げれてなかったからさ……。どうだ、調子は?」

「あ、うん、だいぶ……」

「どれ」

 敏生は大きく伸びをするとベッドに身を乗り出し、夕陽の額に手を当てた。その彼の温もりがとても心地よい。

「お、だいぶ下がったな。お粥作ったけど食えるか?」

「え? 敏生が作ってくれたの?」

「まあね。夕陽の料理の腕前には到底及ばないと思うけど」

「……ありがとう、食べる」

「よっしゃ」

 立ち上がり、鼻唄まじりに用意を始める敏生を目で追い続ける。

なんだろう、この感じ……。

「ほい、出来ました」

「すごい……あんかけつゆって、本格的」

「へへ、うちのお袋秘伝の味だぜ。起き上がれるか?」

「ん……」

 背中を支えられ上体を起こす。

「じゃあ、ほい。あーん」

「あ、じ、自分で食べれるから」

「いいから、あーん」

「はい……」

 真っ赤になりながら口を開く。

 これって……どう見ても恋人同士じゃん!

ええい、とパクつくと口の中にお粥とは思えない濃厚な味わいが広がった。

「おいしい……敏生おいしいよ!」

「マジで? やったぁ」

 嬉しそうに笑う彼。その表情に胸がキュッと締めつけられる。

「これさ、お袋が昔、近所に住んでた仲の良かった中国人のおばさんに教えて貰ったんだって。そのあんの中にピータンを刻んだのが入っててさ。あ、ピータンは日本産だから」

 笑顔で得意げに語る敏生に胸が高鳴る。

 やっぱりあたし……敏生のことが好き……、大好き……。

 そう思うと何故かボロボロと涙が溢れ始めて、夕陽は子供のように両手の甲で目を塞いだ。

「夕陽? どうした?」

 突然泣き始めた夕陽に動揺する彼。

「あたし、あたしね……敏生のことが……」

「タンマ。今その先は言うな」

「え……?」

「俺は弱味につけ込んで夕陽をモノにするような真似はしたくない」

「弱味って……」

「今の夕陽は病気で弱ってるところを優しくされて揺らいでるだけ」

「そんなこと……」

「今日は好きな女の子のことが心配で様子見に来ただけだ。それ以上の下心はない」

 敏生の手が頬に添えられ、親指でそっと涙を拭ってくれる。

「初めて会った日に言ったろ? お前のこと正々堂々とモノにしてみせるって。だから早く良くなって」

 こんな彼のどこが遊び人だというのだろう? 少なくとも夕陽の前ではどこまでもまっすぐな男。

 でもずるい。あたしだってこの溢れる気持ちは吐き出したい。

「ん? 何か言った?」

 口元に耳を寄せてきた敏生の襟を掴むと、夕陽は彼の頬にチュッとキスをした。

「……今日のお礼。これならいいでしょ?」

 突然の奇襲に敏生は驚いた表情で夕陽を見つめていたが、やがて相好を崩すとぽりぽりと頭を掻いた。

「へへ。俺、なんか幸せだ」

「あたしも……」

 そう言うと夕陽は急に恥ずかしくなり、布団を引き上げて顔を隠した。

「さ、食べちゃおうぜ」

「うん」

 それから敏生はしばらくそばに寄り添ってくれて、お互い次の休みに二人で行きたい場所やお店などをとりとめもなくおしゃべりした。病床ながらそれがとても楽しくて幸せで。

 ふと気がつくと既に夜の八時を回っていた。

「おっと、もうこんな時間か。じゃ、帰るわ。大人しく寝てるんだぞ」

「うん、今日はありがとうね。あ、そこに部屋の鍵があるから掛けて行ってくれる?」

「へ? だってお前……」

「まだ立てそうにないから。大丈夫、スペアあるし」

 それは、夕陽にとってはかなり遠回しな告白。敏生は何かを言いかけたが、それを飲み込むと優しく微笑み、

「おやすみ」

 と言って夕陽の頭を撫で、部屋を出ていった。


           *


 結局、その後もタイミングを逃すばかりで、二人が正式に? 付き合うまでにはそこからさらに二カ月の時を要したのだった。

 彼の唇をはみながらふと思う。

 今、ためらいも無くこうして彼の腕の中にいる自分。あの、勇気を出せずにジレジレとした日々は一体なんだったのだろう、と。

「敏生……大好き……」

 自然と気持ちが口から溢れ、そっと頬を擦り寄せる。

「俺もだよ、夕陽」

 啄ばむようなバードキスは、いつの間にか互いを求め合う激しいものへと変わっていき、先に耐えきれなくなった夕陽から唇を剥がした。

 よろめく彼女を敏生が抱きとめ、その美しい黒髪に頬を寄せる。

 二人はそのまましばらく抱き合っていたが、やがて敏生がそっと夕陽を離した。

 愛おしげに見つめ合う男と女。だが、彼の口から漏れた言葉は夕陽の思惑とは正反対のものだった。

「帰るか」

「えっ?」

 てっきり今夜は帰したくない、と言われるものと思っていた夕陽は驚いた表情で彼を見た。

「いや、帰港した翌日だし無理はいけないかな、と思ってさ」

 どことなく落ち着かない表情の彼。その目が真実を語ってないと思うのは女の勘ってやつだ。まさか、でも……。

「……これから誰か他の人と会うの?」

 思わず零れてしまった彼への疑念。即座にしまった、と思った。自分以外の全ての女性に区切りをつけてきてくれた彼に、これは言うべきじゃなかった。

 あたしのバカ! もう何があっても彼のこと信じるって決めたじゃない!

 だが、彼は疑われて怒るどころか、慌てて夕陽の両肩をつかむと、

「違う! 断じて違う! 神に誓って!」

 と必死に弁明してきた。その彼の様子に、夕陽は素直に反省すると俯いた。

「……ごめんなさい。でも、じゃあ何で……?」

 敏生は気まずそうにガシガシと頭をかくと、背の低い夕陽を器用な上目遣いで見た。

「お前、あの時〝あたしのこと好きにしていいよ〟って言っただろ?」

 あの時、というのは恐らくひと月前の訓練後のことだろう。

「その言葉がずっと頭から離れなくてさ……。この一か月、もうお前の顔見たらあたりかまわず押し倒しちまいそうで、こらえるのに必死だったんだ」

 …………へ?

 予想だにしなかった彼の告白に夕陽はポカンと口を開けた。端から見たらさぞや間抜けな顔を晒していることだろう。

 そういえば……あたしそんなこと言ったような気がする。そりゃあ、あの時は彼に赦して欲しくていろんなことを口走った気が……。

 そこまで思い返して夕陽はボンッと爆発した。

 あ、あ、あ、あたしったら何てことを―――――っ!?

「だからさ、その、俺このままだと欲望剥き出しでお前にひどいことしちゃいそうだから。もう、お前に嫌われたくないし……」

 悪戯がバレた子供のような、バツの悪そうな顔。この可愛い男が米軍からも一目置かれる日本最強のファイターパイロットだなんて、誰も思わないよね?

 彼の様子に夕陽は平静を取り戻すと、

「それが敏生の言うオトナの事情ってやつ?」

 と意地悪く尋ねた。

「わ、笑いたきゃ笑えよ」

 恥ずかしそうにプイッと横を向いたその横顔に夕陽はクスッと笑うと、後ろ手を組んで首を傾げ、彼を見上げた。

「あたしは……いいよ? 何されても。だって好きだから、敏生のこと」

 驚いた表情で自分を見つめ返す敏生から気恥ずかしさで視線を逸らし、その逞しい胸にコツンと頭を預ける。

「だから……今夜は一緒にいて。ね?」

 その自分の仕草と言葉がこの色男を完膚なきまでに叩きのめしたことなど、恋愛初心者の彼女には全くもって気づくべくもなく、ただその彼の温もりに幸せを感じて小さな身体を預けるのだった。


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