Blip

第一章 イデア

 あの頃、あたしは多分―――――

 ううん、間違いなく、あなたと一生分の恋をした―――――






第一章 イデア



 どこまでも広がる、絵に描いたような青い空と海。空では海鳥たちが賑やかに舞い、海ではイルカたちが優雅に戯れる。

 遥か向こうに見えるのは丸みを帯びた神秘的かつ優美な水平線。それは人間がこの雄大な自然の中で、いかにちっぽけな存在であるかを思い知らせてくれる。

 ゆえに、古来よりこの海に浮かぶ島々の住民たちは、海の彼方にこそ神々の住む楽園があると考え、そこをニライカナイと名付けて信仰の対象としたのだろう。

 その大海原をゆくのは大自然に似つかわしくない武骨なシルエットの一群。

 圧倒的な威圧感を漂わせ、悠然と進む様は明らかに客船や貨物船といった類のものではない。そして一群の中心に鎮座するのは一際巨大なグレーの艦影。全通式の広い甲板にアイランド型の艦橋ブリッジ、艦尾にはためく真紅の旭日旗。

 海上自衛隊が誇る航空機搭載護衛艦・DDH183「いずも」だ。

 いわゆる「軽空母」とも言える陣容を誇るこの海上自衛隊史上最大の戦闘艦は、東アジア周辺諸国からは軍国主義復活の懸念と共に常に警戒の対象とされる一方、東南アジア諸国からは強力に軍拡を推し進める中国に唯一対抗できる存在として、そのプレゼンスが期待されていた。

 そんな良くも悪くも国内外の衆目を集めるこの巨大な戦闘艦の艦橋の裏手で、ひとりキャットウォークの落下防止柵に肘をつき、思い詰めた表情で大海原を見つめる白い制服姿の女性。

 吹き荒ぶ冬の津軽海峡で、かつ連絡船のデッキであればその姿はもっと様になったのかもしれないが、ここは穏やかな風と陽気がとても心地良い春の南西諸島沖。物憂げな表情が似つかわしくないことこの上ない。

 年の頃は二十代半ば、背丈は一六〇前後といったところか? 黒髪のショートボブでなかなかに愛らしい顔をしている。街中であればきっと男どもが放っておかないだろう。そう、彼女の職業にドン引きする男でなければ。

 彼女は神月夕陽こうづきゆうひ三等海尉。

「いずも」航空隊戦闘飛行隊に所属する、自衛隊初の女性戦闘機パイロット。TACネーム(部隊内通称)は「イデア」。そして彼女が搭乗するのは世界最強との呼び声高い、第五世代の最新鋭戦闘機・F35BライトニングⅡだ。

 急速に軍拡が進む周辺諸国との軍事的均衡を保つため、急遽、海上自衛隊初の戦闘機による飛行隊が創設され、本来ヘリコプター搭載護衛艦であった「いずも」に配備されたのは今から一年半ほど前のこと。もっとも機体は米国からの完成輸入で何とか間に合わせたものの、パイロットの方は独自の錬成ノウハウがあるわけも無く、航空自衛隊の若手戦闘機パイロットの中からの選りすぐりで編成されることになったのだった。

 ゆえに、「いずも」戦闘飛行隊に所属していること自体がエリートパイロットの証であり、彼女もまた、女性でありながら前所属の航空自衛隊千歳基地二〇一飛行隊でトップガンの称号を手にした期待の若手精鋭パイロットだったりする。

 だが、当のには全くその自覚はないようで―――――

「なんだ、ここにいたのかよ」

 背後からかけられた男の声に彼女の肩がピクリと震える。

「何の用?」

 誰なのかは声で分かる。振り返ることなく、海を見つめながらぶっきらぼうに呟く。

「ツレねえな。ちょっとは俺の話聞けよ」

 彼が肩に手をかけようとするのを払いのけると、夕陽は振り返って彼を睨んだ。

「気安く触わんないでよ、この浮気男!」

 その強気そうに見える目には涙が滲んでいる。

「あたしのこと遊びなら遊びって言って欲しかった! あたしばっかり本気になって初めてまで捧げて……バッカみたい!!」

 彼女は一気に感情を押し出すと、その場から走り去ろうとして彼に抱き止められた。

「ちょっ、離して!」

「……誰が遊びだって?」

「あんたよ! どうせあたしはその他大勢の一人なんでしょ!?」

「あいつに何言われた?」

「……あんたと結婚するから手を引けって」

 その言葉に彼は盛大に溜め息をつくと、真剣な眼差しで夕陽を見つめた。

 スラリとした長身に端正な甘いマスク。制服姿でなければ、男性モデルと言われても疑う者は誰一人いないだろう。彼の手が頬にかかる。その熱に心臓がトクンと跳ねてしまうのがとても悔しい。

「遊びなのはあいつの方だ。俺が愛してるのは夕陽、お前だけだ」

「嘘!」

「嘘じゃない。遊びなら面倒くさい処女なんかに手ェ出さねぇよ」

「………面倒臭くて悪かったわね」

「あ、いや今のなし。失言。えっと、ああもう、とにかく俺はお前のことが好きなの! マジで!!」

 開き直ってばつが悪そうに頭をガシガシとかく様子は、先ほどまでの二枚目キャラとは打って変わって子供のようだ。

 彼は門真敏生かどまとしき二等海尉。

 夕陽と同じく「いずも」所属のF35BパイロットでTACネームは「ガイア」。

 一見ちゃらんぽらんな印象の彼だが、高卒の航空学生出身である夕陽と違い、防衛大学校を優秀な成績で卒業した後、米国空軍での教育課程を経てパイロットとなった筋金入りのエリート。年齢も彼の方が二つ上だ。

 そして特筆すべきは彼が「航空自衛隊始まって以来の天才パイロット」という称号を得ていること。

「いずも」転属で初めて彼と出会ったとき、「北空の魔女」と呼ばれ腕に覚えのあった夕陽にとって、噂に聞いていた彼は倒すべきライバルだった。だが、何度手合わせをしても彼には全くもって歯が立たなかった。そして、その悔しさは圧倒的な実力差を前にしていつしか畏敬の念に取って代わり、それはやがて恋心に変貌を遂げた。

 周囲からは必死に止められた。女にだらしがない。泣かせた女は数知れず。

 空自時代、若くして一騎当千の猛者が集う小松の飛行教導群に所属していた彼の悪い噂は、彼女が遠く離れた千歳にいた頃からその腕前と共に耳にはしていた。

 だが、一年半の長きに渡る彼のあまりにも熱いアプローチに、ついには初めての身体を許してしまった。

 惚れた弱味。目の前に彼が寝た数多あまたの女が現れ、嫌というほど現実を見せられようが、彼の言葉をどこかで信じたいと思ってしまう自分がいる。

「だって、だってあの女の人が……」

「黙ってて悪かったよ。でもな、俺が本当に愛しているのは夕陽、お前だけだ」

「でもっ……」

 敏生は胸ポケットからスマホを取り出すと、夕陽に差し出した。

「出航前に全ての女に詫びを入れてきた。もう、俺にはセフレ一人いない。携帯番号も全て消した。女はお前の番号だけだ。確かめてくれてかまわん」

「敏生……」

 真剣な彼の眼差し。二人の視線が絡み合う。やがて夕陽はそっと視線を外すと、ふっと鼻を鳴らした。

「……携帯、もう一つ持ってるでしょ?」

 その冷たいひとことに敏生がギクリとした表情で目を逸らす。沈黙。

 やがて敏生はイタズラを見つかった子供のように、しぶしぶポケットからもう一つの携帯を取り出した。

「す、好きにしろよ」

「敏生……」

 夕陽はそれを受け取ると、何のためらいもなくポイッと海に投げ捨てた。

「あ゛――――――!?」

「何よ? 好きにしてよかったんでしょ?」

「あ、いや、その、海に捨てるのはまずいんじゃないでしょうか……、その、金属リチウムが生態系に及ぼす影響とかですね……」

 長年に渡るナンパ人生の文字通り汗と涙の結晶を夕陽に瞬殺され、敏生はしばらくの間茫然としていたが、気を取り直すと夕陽を見つめた。

「好きだ」

 彼女のおとがいを持ち上げ、そっと唇を重ねる。抵抗はない。柔らかいマシュマロのような唇がぎこちなくかすかに震えている。ひと月ほど前に初めて抱いた身体。

 空自初の女性戦闘機パイロットである「北空の魔女」の噂は当時、彼の耳にも届いていた。

 男を一切寄せつけない無愛想で冷やかな態度とその無慈悲な戦いぶりに、先輩パイロット達から有名なロールプレイングゲームに登場する魔女の名前をTACネームとして名付けられてしまった彼女。

 同業の女性は端から恋愛対象外であった敏生にとっては、そのエピソードも相俟って全く眼中にはなかった。

 だから初めて夕陽と出会った時の衝撃は今でも忘れられない。

 ルックスもさることながら、戦闘機パイロットにしてはあまりにも小柄で華奢な体躯。

 この娘が……千歳のトップガンだって?

 完全な一目惚れ。男社会の厳しい世界を、小さな身体でもがき苦しみながらも必死に泳いできたであろう彼女に、一瞬のうちに心を奪われた。

 自分のことを強烈にライバル視する彼女にひるむことなく、出会ってその日のうちに想いを告げた彼は、男性経験がなく逃げ惑う彼女に真正面から当たり続けた。たまに悶々とする思いから他の女達をつまみ食いはしたものの、一年半の時を経てようやく撃墜おとした大切な宝物。

 口説き落とした瞬間、よそ見されてなるものかと、戸惑うウブな彼女をおもんぱかることなく、ファーストキスから初体験までを一気に奪い去った。

 女タラシの面目躍如。だが、脇の甘さもまた彼らしいといえば彼らしかった。 

 次々と二人の間に現れる過去(?)の女達。夕陽の表情を曇らせたくない一心で、敏生は彼女達に一人一人会っては最後の一発をかましたい衝動を必死に抑え、別れを告げてまわった。

 もっとも、人妻や彼氏持ちといった後腐れのない連中はキープしておこうと思っていたのだが、それももはや夕陽の手によって海の藻屑だ。

 そう、俺にはもうこいつ一人だけなんだ! 

 そう考えるとなぜだか無性にムラムラしてきて、敏生は彼女の背中に添えていた右手を下ろすと、夕陽の形のよいヒップを鷲づかみにした。

「―――――!?」

 突然の彼の暴挙に驚き、離れようとする夕陽をガッチリとホールドしてその唇を貪る。あまりの激しさに彼女の悩まし気な声が零れ、それが一層彼を煽る。

 クソッ、何でこんなに可愛いんだよ!?

 止まらなくなった彼は、彼女の制服の白いスカートをめくりあげると、その中に手を這わせて―――――

 ゴンッ!!

「痛っ!」

 突然繰り出された彼女の頭突き。

 さすが米軍からも〝Northern Witch(北の魔女)〟と称賛されるだけの女……。ってか、この色っぽいシーンで女が頭突きするか普通!?

「敏生のバカっ!」

 額に手を当てながら視線を上げると、夕陽がスカートを押さえ、目に涙を溜めて自分を睨みつけていた。

「やっぱりあたしの身体だけが目当てなんでしょ!?」

「ちげえよ! ってか好きな女に欲情して何が悪い!」

 パシンッ!!

 左頬にヒットする彼女の強烈な平手。

「バカ! 敏生の助平! 時と場所考えろっ! もう知らないっ!!」

 そう叫ぶと夕陽は目を擦りながらその場から逃げ出してしまった。

「いってぇ……」

 頭突きに平手。面倒くさい女だと最初から分かってはいたが、まさかここまでとは。これまでの女達とは勝手が違い過ぎて、それが逆に彼の心を一層激しく揺さぶる。

「振られてやんの。ひでえ男」

 背後から聞こえてきた笑いを含んだその声に振り向くと、防大の一期先輩で悪友の刑部太一おさべたいち二等海尉が馬鹿にしたような表情でこちらを眺めていた。

「こんなところでオッパジメようとするか普通。神月のことになるとお前、本当に見境ないのな」

「最後までするつもりはなかった」

「あれでか?」

 刑部はクックッと笑いながら敏生の肩に腕をかけると、親指を立てて背後を指した。

「少なくとも〝こんごう〟の見張ワッチりは神月の白のパンツを見たぞ」

 彼が指すその五〇〇メートルほど先には艦隊防空をつかさどるイージス艦〝こんごう〟が遊弋ゆうよくしていた。

「……つうことはお前も夕陽のパンツ見たのか!?」

「こんなところでめくりあげたお前が悪いんだろ」

 それを言われてはグゥの音も出ない。刑部は、苦虫を噛み潰したような複雑な表情の敏生の頭をからかうように撫でまわした。

「空自一の天才パイロット、もとい、米軍からも稀代のWomanizer(女ったらし)と謳われるお前があんなガキンチョに手をこまねいてる姿が純粋に笑える」

「マジで好きなんだから仕方ないだろ」

 悪友に散々に馬鹿にされて敏生は子供のように膨れた。

「純愛だねぇ。まあでも既にやっちまったから純愛じゃねぇな。全く、めんどくせえ生娘に手ぇ出しやがって」

「遊んだ女とデキ婚した脇の甘いやつに言われたくねぇよ」

「おっと、俺はどうでもいい女とはナマでしねぇよ?」

 刑部はニヤッと笑うとポケットからスマホを取り出して画面を敏生に見せた。

「どうだ? 俺の新しいオンナ。可愛いだろ? 肌なんかムチムチしててさ」

「まさかあの鬼畜なお前がここまで親バカになるとは」

 彼とは防大時代からの付き合いで、それこそ休みのたびに二人でクラブに繰り出しては女漁りを繰り返していた仲。そんな男がスマホ画面に映る性別すら判然としない赤ん坊にアホみたいに目尻を下げている。

「いいぞ、娘は。この歳にして世の父親が嫁に行かせたくない理由が分かった」

「お前みたいな男には特にな」

「ぬかせ」

 敏生の突っ込みに笑うと、刑部は胸ポケットにスマホをしまった。

「午後からは古巣との合同訓練だ。それまでに〝イデア〟の機嫌は直しておけよ。周りがやり辛くてしゃあない」

 そう言って刑部は敏生を指差すと、艦橋の中に消えていった。

 彼の言わんとしていることは分かっていた。海上自衛隊は基本的に艦内での恋愛はご法度だ。

 艦内における女性自衛官の居住区もよほどのことがない限り立ち入り禁止で、艦長ですら立ち入りを躊躇するくらいである。長期に渡る航海の中、禁欲生活を送らざるをえない乗組員達を刺激しないための海の掟だ。

 そもそも個人携帯ですら防衛機密保持の観点から乗艦中は所持禁止となっている。持っていても大抵の場合は繋がらないのだが。

 なので彼らの行為は世が世なら〝軍法会議〟ものなのだが、そこはごねる空自から統合幕僚監部の仲介で半ば強引に譲り受けた虎の子の戦闘機パイロット。空自サイドとしてはむしろ問題を起こして戻ってきて欲しいくらいに考えている手前、海自としては彼らの多少の言動は渋々ながらも黙認せざるを得なかった。

 だからこそ極力目立つ言動は慎め、ということなのだろう。

 さて、どうしたもんだか……。

 敏生はボリボリと頭をかきむしると、溜め息をついて艦内へと戻っていった。


           *


 今日こそは絶対に負けないんだから!!

 夕陽はF35Bのキャノピーを下ろすと、目の前で発進の指示を待っている僚機を睨みつけた。

 そのコクピットに座っているのは上官であり、ちゃらんぽらんな彼氏。いや、もう彼氏と呼んでいいのかすら夕陽には分からない。

 だいたいあたしのこと本当に大切に想ってくれてるんなら、あんなとこであんなことする!?

〝さっきはすまなかった! まさか「こんごう」のワッチにお前のパンツ見られてたなんて気づかなかった!〟

 だからそうじゃないって! ……ってか何だそりゃ!? ワッチがあたしのパンツ!? ちくしょう「こんごう」め、沈めてやる……って違う! 悪いのは全部敏生じゃない!!

〝絶対に許さないから!〟

〝ゆうひ~~~~~~~!!〟

 泣きそうな顔で自分の足元にひざまずき、許しを乞うてくる空自最強のパイロット。

 ちくしょう、何でこんなやつを可愛いと思っちゃうんだあたしは。

〝……仕方ないわね。じゃあ午後の訓練、あたしに勝ったら許してあげる。敵機を多くロックオンした方が勝ちよ〟

 彼の圧倒的な実力は分かってる。こちらが不利なことも。でも無条件で彼の胸に飛び込むことなんかできない。女の意地ってやつだ。だが、彼の反応は、喜ぶと思っていた彼女の予想とは全く異なるものだった。

〝夕陽、それは……〟

 そう呟いて絶句した彼の表情に息をのむ。

 何で? あんたに圧倒的に有利な条件を提示してやったのに、何でそんな顔すんのよ?

〝分かった……〟

 そう言って自分のもとから立ち去る寂し気な背中。

 あいつ……、もしかしてあたしとなんかじゃ勝負にならないって考えてるわけ?何でわざわざそんな面倒くさいことって?

 だとしたら……馬鹿にしてんじゃないわよ!!

 門真機の吸気ダクトカバーが開き、アフターバーナーが焚かれると、彼の機体はあっという間に「いずも」を発艦していった。

 STOVLタイプ(短距離離陸・垂直着陸)のF35Bは機体を急激に射出するカタパルトが不要なので、その発艦に派手さはない。

 夕陽は甲板員の合図で愛機を前進させると、スタート地点に着いた。

 発進OKのハンドシグナル。

 吸気ダクトカバーを開いてリフトファンを起動し、回転ノズルを斜め下に向けると夕陽は親指を立て、甲板員に敬礼した。それを受けた甲板員はその場で身体を深く沈めると甲板の先を指差す。

 GO!!

 フルスロットル。

 アフターバーナーを焚き、一気に加速するとF35Bが勢いよく「いずも」を飛び出した。

 ハイレートクライム《急角度上昇》―――――

 満載排水量二六、〇〇〇トンの巨大な「いずも」があっという間に水面に浮かぶ木の葉と化す。

 一気に高度三六、〇〇〇フィートまで駆け上がると、一足先に上空で待機していた編隊長の敏生と合流した。

「イデア、しばらくこの場で闘空中哨戒だ。警戒を怠るな」

 インカムから流れてくる彼の指示。

「了解」

 喧嘩中の恋人とはいえ任務中は上官だ。私情は挟まず素直に指示に従う。「いずも」の遥か上空を大きく旋回しながら一〇分ほど経過した頃、動きがあった。

「ガイア、レーダーに反応。IFF反応なし。数・八。敵機と判断」

 レーダーに映る敵機に動きはない。それはそうだろう。ファーストルック・ファーストキルを目的に開発された最新鋭のステルス戦闘機。本日の演習相手であるF15Jが同じタイミングでこちらを見つけられるわけがなかった。

「ガイア了解。こっちも確認した。ロックオン」

「了解。ロックオン」

 ヘルメットのバイザーに映し出される複数の目標を同時にロックオンする。僚機同士はデータリンクされているので敏生と夕陽が同じ目標を追尾することはない。

「ガイア、フォックスワン」

「イデア、フォックスワン」

 フォックスワンとは中距離のレーダーホーミングミサイルを発射した際の隠語であるが、もちろん演習なので本当に撃つことはない。F35Bが積むAAM4ミサイルは一〇〇キロメートルの射程をマッハ四で飛翔し、その高機動性は狙った獲物を逃がすことはない。 

 ゆえに実際の戦闘であればこの時点でほぼ終了、那覇から飛び立った八機のF15Jは全滅ということになる。

 もっともこれが訓練である以上、今頃、遥か彼方ではロックオンされたF15Jがフレアを放ち回避機動をとっているはずだ。実戦での生き残りに一縷の望みをかけて。


           *


 F35Bによるアウトレンジからの攻撃とF15Jの回避機動の演習が終わると、次は空中戦闘機動演習に移る。いわゆるドッグファイトだ。

 ファーストルック・ファーストキルを身上とするF35Bではあるが、専守防衛を旨とする自衛隊においては先制攻撃は許されない。戦端が開かれる場合は必ず相手の攻撃があってからだ。

 よってF35Bといえど緒戦ではそのステルス性は全く意味をなさず、ドッグファイトが必要となる。

 回避機動訓練を終えた八機のF15Jがこちらに向かってくる。一方のこちらは二機。すれ違った瞬間からドッグファイト開始だ。

 今日こそあんたに勝つわよ―――――

 夕陽は、二時方向の少し上を飛ぶ編隊長の門真機を睨みつける。

 レーダーに映るBlip(ブリップ、輝点)が迫ってきた。もう少しだ。前方に複数の点が現れたと思った瞬間、それは一気に膨らむと物凄い衝撃波を残して次々と後方へ抜けていった。

「イデア!! ブレイク!!」

「ラジャー!!」

 二機は散開すると背後に回った敵機を追う。

 ドッグファイトという言葉は、相手の背後に回り込んでロックオンを狙うその様子が尻尾を取り合う犬同士の喧嘩に似ている事に由来するが、F35の登場はそのドッグファイトの概念すらも変えてしまった。

 まず、この機体には映画「トップガン」でその存在を知られるようになったヘッドアップディスプレイ式の照準器がない。それはフォックスワンの時と同様にパイロットの被るヘルメットのバイザーに映し出される。

 そしてそれが意味することは―――――

「ロックオン、ユーアーキル」

 F35Bとのすれ違いざまにかかった、女性の声による無慈悲な撃墜宣告にイーグルドライバーががっくりと肩を落とす。

 そう、F35Bはパイロットが敵機を視認するだけで全方位ロックオンが可能なのだ。必ずしも相手の背後に回り込む必要はない。そしてF35の積む短距離ミサイルAAM5はオフボアサイト攻撃(前だけでなく、横や後ろへの攻撃)を可能としていた。

 まずは一機!

 そして返す刀で斜め上を見る。

 よし、二機目!

 夕陽に撃墜されたF15Jが次々と戦闘空域を離脱していく。肝心の門真機の姿はどこにも見当たらない。そうこうしているうちに夕陽が四機目をロックオンした。

あと一機、あと一機で敏生に勝てる!

 急旋回で敵機を追う。

 そのライトニングの鋭い動きに自身の体重の七倍のGがかかり、耐Gスーツが血液の降下による失神ブラックアウトを防ぐため、圧搾空気を送り込み下半身を強烈に締め上げる。

 いた! 五機目―――――!!

「ロックオン!!」

 勝った、敏生に―――――

 その後、すかさず六機目も墜とした夕陽の機の横に、いつの間にか門真機が並んでいた。

「よくやった、イデア。訓練終了だ。帰投する」

 取り立てて抑揚のない、編隊長としての事務的な声。

 初めて彼に勝った高揚感の中、それがどことなく気になった。


           *


 基地に帰投し、機を降りると夕陽は敏生を見つけて駆け寄った。

「あたしの勝ちよね」

 腰に手を当て、わざとらしく胸を張る。

「ああ……」

 敏生は全く興味なさそうに頷くと、夕陽の方を振り向きもせずさっさと行ってしまった。

 え……? 敏生、怒ってる……? 何? 何でよ? 初めてあたしに負けたからって、まさか逆ギレ!?

 憤然としてその場に立ち尽くしていると、

「どうしたんだよ? イデア」

 と、背後から声がかかった。振り返ると、TACネーム「アッシュ」こと刑部が笑いながら歩み寄ってくるところだった。夕陽達と入れ替わりでこれから訓練に入る予定のはずだ。

「何でもないですよーだ」

 夕陽は敏生の防大一期上であるこの刑部という男が苦手だった。全てを見透かしたような鋭くも冷ややかな視線。「いずも」転属前は小松基地第三〇三飛行隊に所属し、「G空域の悪夢」と呼ばれた、やはりかなり腕の立つ男。

「何、お前らまだ喧嘩してんの? やつには早く仲直りしろって言ったんだがな。まあ、処女くせえガキはそう簡単に歩み寄らんか」

「あたしはちゃんと歩み寄りましたっ! てか、誰が処女くさいガキよ!?」

 夕陽がプクッと膨れると、刑部が楽しそうに声を上げて笑った。

「歩み寄ったって、どんな風に?」

「今日の演習、ロックオン数であたしに勝ったら許してあげるって」

 その夕陽の言葉に刑部の表情から笑みが消えた。

「お前、マジでそれ言ったの?」

「えっ?」

 言葉の意味が分からず、夕陽はキョトンと刑部を見つめた。

「仮にも編隊長のあいつが僚機のお前を見捨てて単独行動なんかできるわけないだろ。その上、昔の仲間達を相手に撃墜を競い合うなんざ……、例え訓練であっても仲間想いのあいつからしたら耐えられないだろうな」

 それはガツンと頭を殴られたような衝撃。出撃前の敏生との会話、そして彼の寂しそうな表情がフラッシュバックする。

 正直、頭に血が上って彼に勝つことしか考えていなかった。それ以外は何も考えられなかった。ドッグファイトの間、彼はどんな思いで自分の愚かな行為を見つめていたのだろう? 編隊長として、自分の死角で恐らくひたすらフォローに徹しながら。

「ゲームじゃないんだぜ? 神月」

 刑部は夕陽の肩をポン、と叩くと愛機の下へ立ち去っていった。さっきまで勝ち誇っていた自分に対して、腹立たしさと恥ずかしさが一気に込み上げてくる。

 あたし……最低だ……。

 夕陽は天を仰ぐと、敏生が消えた艦橋の扉を見つめた。

 追いかけなくっちゃ……。でも、敏生に何て言ったら……。

 しばらくの間、夕陽はその場で逡巡していたが、キュッと唇を噛み締めると彼の後を追って駆け出した。

 きちんと謝ろう、彼に対して。そして今日、自分が墜とした仲間達に対してはせめて心の中で。たとえ彼が許してくれなくても。

 真っ青な南の空を、何も知らないカモメ達が鳴き声を響かせながら通り過ぎていった。

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