第四章 その始まり ①
第四章 その始まり
その日もいつもと変わらぬ日常だった。
「海斗!! 右だ右!! スペースあるぞ!! ……ああもうっ!!」
頭を抱え、顔を真っ赤にして悔しがる夫に、元女性自衛官だった妻の香織が苦笑する。
冷静沈着で巧みな操艦技術を誇り、周囲から一目置かれている「そうりゅう」艦長の土方勇介も息子の前ではただのバカ親だった。
「せっかく海斗がスペースに飛び出したんだからそこは縦パスだろう!」
「まあまあ、田中君も左から二人来てたからあれはしょうがないでしょ?」
「そうそう、落ち着きなよ、パパ」
一人憤るも、妻と娘から突っ込まれては敵わない。しぶしぶ座席に腰を下ろす。
海斗は若手選手の育成に定評のある地元のJリーグチーム・サンアローズ広島のユースチームに所属していて、U18日本代表にもFWとして名を連ねており、その将来を嘱望されている自慢の息子だ。
「だいたい、もう四対一で圧倒的リードなんだから間違いなく勝てるでしょ?」
試合後の外食目当てについてきた娘の
「それは違うぞ七海。勝負は最後まで何があるか分からないんだ。点は取れるうちに取っておかないと後々痛い目に遭うことだってある。そう、あれは忘れもしない二〇一二年の……」
「あ、ほらパパ! チャンスチャンス!」
ドッと歓声が起こり、土方が慌てて振り向くと、歓喜の輪の中心で海斗がガッツポーズしていた。
「海斗か? 海斗が決めたのか!?」
「うん、凄いシュートだったよ! 三人背負っての反転シュート!」
「兄貴すげ~! ハットトリックじゃん!」
妻と娘がパチパチと拍手する横で土方がガックリと肩を落とす。
今日は全くツイていない。海斗の一点目はトイレ、二点目は七海にねだられてジュースを買いにいった隙に、そして今の三点目はよそ見をしていて、一つも息子のゴールシーンを見ることができていなかった。
「パパって本当に間が悪いよね~」
おかしそうに七海がケタケタと笑う。
「こら、七海! パパにそんなこと言うんじゃないの」
「大丈夫よ~。ママとあたし、二人の美女に挟まれてるんだから兄貴のゴール見れなくたってパパ幸せよね~?」
「え……? あ、ああ、幸せだけど海斗のゴールは見たかった……」
しょんぼりする土方を妻と娘が笑いながら慰める。と、ズボンのポケットに入れている携帯がブブブと鳴った。慌てて取り出すと「潜水隊群司令部」の文字が画面に表示されていた。
なんだ……?
「悪い、パパちょっと電話に出てくる」
そう言って父親が席を外すと、七海は愉しそうに母親を見た。
「また兄貴、ゴール決めちゃったりね」
「こら、そういうこと言わない」
「ってか、あたしお腹空いちゃった。早く焼肉いきた~い」
「全くこの娘は……」
天真爛漫な娘に香織は苦笑した。悪態はついているが基本的には父親が大好きな娘だ。
陸に上がっている時はなんだかんだ言いながらいつもベッタリで、夫もそんな娘に癒されていることは分かっている。
元自衛官だからこそ分かる潜水艦乗りの厳しさ。それゆえ、少しでも妻として夫の安らげる場所を創り出そうと、子供達の前では夫を最大限に立て、その様子を常に気にかけ腐心してきた。
だから電話を終え戻ってくる途中の夫の表情が、いつもと違い尋常でないことに気づいてしまった。
「ごめんママ、七海。緊急出航になった。いったん家に戻ってから艦に行く。しばらく戻れないと思う」
席に戻った夫は先ほどの厳しい表情を消していて、申しわけなさそうに二人に頭を下げた。
「津波? 台風?」
心配そうに覗き込んでくる七海の頭を土方が優しく撫でる。
「うん、まあそんなところかな。ママの言うこと、ちゃんと聞くんだぞ」
「あなた……」
明らかにいつもと様子の違う夫を香織が不安気に見つめる。
「家を頼む」
土方は妻の手を握り、ひと言残すと自分の荷物を取り席を立った。
そしてピッチで躍動する息子を名残惜しげに見つめると、思いを断ち切るかのように
*
「姫ちゃん、可愛いでちゅね~。パパ、絶対姫ちゃんをお嫁にはやらないでちゅからね~」
「あっ、こら! お口にチューしない!」
刑部が生後八か月の
「何だよ? 姫ちゃんに妬いてんのか?」
ニヤリとニヒルな笑みを浮かべる夫に葵が溜め息をつく。
「バカ! お口にチューすると虫歯菌が移るのよ!」
その妻の言葉に刑部はああ、と口元を緩めると、
「大丈夫だ。虫歯菌は赤ちゃんに話しかけるだけで既に移ってるそうだ。あと、ご飯のふーふーとか。だから今さらだ」
とのたまい、娘に頬ずりする。
「まったく。あんたがここまでバカ親になるとはね」
葵がやれやれといった感じで笑うと、刑部は娘を縦抱きにしてギュッと抱き締め、妻に見せつけた。
姫子という名前は妻の葵が子供の頃大好きだった少女漫画のヒロインから名付けたのだが、刑部はこの名前をいたく気に入っていて、暇さえあれば抱っこして姫ちゃん姫ちゃんと頬ずりしている。
隊内ではクールな色男で通っているらしい夫が、家にいるときは娘相手に目尻を下げ、おむつ替えも厭わず進んでやっているなどと誰が想像し得ようか?
「そう言えば敏生クンと夕陽ちゃん、婚約したんだって? 隊長の奥さんから聞いたわよ」
「ん? ああ、先週な。まさか、敏生があのお子ちゃまにあそこまでハマるとは」
先週の休み明けの訓練後、全体ディブリーフィングで突然敏生によって宣言された二人の婚約。当然のごとく仲間達からからかい交じりの祝福を受け、翌日の訓練後にはライトニングから降りるなり、二人揃って空自以来の伝統である「バケツシャワー」の奇襲を喰らった。
肌寒い中、全身びしょ濡れになりながら、パイロットからグランドクルーまで総出で囃し立てられ、幸せそうに笑顔を浮かべる二人の姿が印象的だった。
「あらそう? 夕陽ちゃん可愛いじゃない。あたしが男なら放っておかないわよ?」
「そうか? あの娘、男を寄せ付けない雰囲気持ってるからなぁ。艦の若いやつらは結構ビビってるぜ? 〝北空の魔女〟とはよく言ったもんだって」
「女が男社会でやっていくのは大変なのよ。いいじゃない、好きな男にだけ見せる可愛い笑顔」
「そうか。じゃあ俺も奥さんにもっと笑って欲しいね」
「バカ」
どちらからともなく重なる唇。敏生は〝遊んだ女とのでき婚〟とバカにしていたが、実は葵との馴れ初めは中学生の時だったりする。当時、同級生で席が隣同士だった二人。それ以来、主に刑部が原因で幾度もくっついたり離れたりを繰り返し、結局はお互いに居心地のよい今の鞘に収まった。
深い口づけになり夫婦ともにスイッチが入ると、刑部は「姫ちゃんごめんね」と言って娘をベビーベッドに寝かせ、葵とソファに縺れ込んだ。お互いに激しく
妻の葵を裸に剥いたところで、ソファサイドのテーブルに置いてあった刑部の携帯が鳴った。画面の表示は部隊からになっている。刑部は溜め息をつくと、妻に口づけしてから電話に出た。
「はい、刑部です。……はい?
警急呼集(非常呼集)と聞いて、裸の妻が不安そうに起き上がる。
「はい、……分かりました。すぐに向かいます」
刑部は電話を切ると、携帯を元に戻して再び葵に覆い被さった。
「ちょっと、行かなくていいの?」
「こっち済ませてからだ。こんな状態でいけるか。しばらく戻れないかもしれないのに」
「だって、何かあったんでしょう? 急がないと?」
「知らん。集合時に話すんだと。どうせ隊長は今、家族で御殿場のアウトレットだし、敏生達はディズニーランド。他のやつらだって出かけてる。こっちは基地まで歩いて十分だ。時間は充分にある」
「本当にあんたってクールよね」
「そんな俺に惚れたんだろ?」
「バカ」
二人はクスッと笑い合うと、夫婦の営みを再開した。
*
遡ること五時間前―――――
槙村は濃紺の幹部作業着に着替えると、自室を出て、職場である
「和馬もこれから
「ああ。なんだ、若葉は艦外か?」
「そ。信号だよ。やだな、日に焼けちゃう。真っ黒に日焼けした花嫁ってどうよ?」
「花嫁が若葉なら何だっていいさ」
槙村は周囲に人がいないことを確認すると、若葉の唇にそっと口づけた。
「ちょっ、誰かに見られたらどうすんのよ!?」
真っ赤になって口元を両手で覆う若葉に、槙村は柔らかく笑うと、
「これから薄暗い部屋で八時間、レーダーと睨めっこだ。これくらい許せ」
と言って若葉のヘルメットをポンと叩き、職場へと急いだ。
ドアの前で見なりを整えてからCICに入ると、普段は艦橋に上がっているはずの艦長が詰めていた。いつにもまして緊迫した雰囲気が漂っている。
「遅いぞ、槙村」
「すみません、野暮用で。……何かあったんですか?」
前任者とワッチを交代し、持ち場につきながら槙村が訊ねると、艦長は顎をしゃくりながら槙村の担当する目の前のモニターに目配せした。モニターの中心には「はるさめ」と僚艦の「てるづき」を示す二つの緑色のBlip、そして左下の離れたところには〝味方以外〟を示す赤色のBlipが複数示されていた。恐らく中国艦だ。
「五隻も?」
驚いてモニターを見つめる。
「哨戒中のP3Cより入電。中国艦隊の構成は昆明級駆逐艦一隻、蘭州級駆逐艦一隻、江凱級フリゲート艦三隻」
最新鋭艦のみで構成されたその報告内容にCIC内がドッとどよめく。大規模演習の事前通知もなく、これだけの陣容で尖閣へ向かってくることは非常に珍しい。室内の空気がさらに張り詰める。
「CIWS《シウス》(近接防御火器システム)とチャフ(ミサイルへの目眩まし)の安全装置は一五〇キロメートルの時点で既に解除した。どう思う?」
艦長が槙村の横からモニターを覗き込むように顔を近づけた。
「やつらの対艦ミサイルの射程は一二〇キロメートル前後。やるつもりならとっくに撃っててもおかしくありません」
「だよな。ただの示威行動と見ていいか」
「あるいはこちらのシースパロー(対空ミサイル)の射程三〇キロメートルギリギリまで迫るつもりかも。やつら、こっちが先に撃てないことは分かっていますから」
「だが、俺らに全て撃ち落とされてハープ―ン(対艦ミサイル)で反撃を喰らうことくらい想定しているだろう。となると防御を考えてある程度のレンジは取ってくるはずだ。俺なら六〇~七〇キロメートルの地点でぶち込む。本当に仕掛けてくるつもりなら、な」
なるほど、敵に与える対処の時間を極力短く、そして反撃に備えるには妥当な距離だ。
もちろん、敵が先に撃ってこないことが大前提なのだが。
「なあ、本当にやつらはやってくると思っているのか?」
「分かりません。ただ、最悪の事態を想定しなければいけない状況になりつつあります」
「それはそうだが……。いまいち現実感がない。駄目だな」
「私もです」
数年に渡り領海線で睨み合いが続いているものの、これまで最も緊迫した事態は中国艦による射撃レーダーのロックオンだけだった。なぜ今さら? という艦長の気持ちは槙村にも分かる。情報部員の彼自身、頭では理解していてもやはりどこか雲をつかむような感覚は拭えなかった。戦後七十年以上が経過した現在。それだけ日本人は平和に慣れ過ぎていた。
艦長は厳しい顔で槙村のもとを離れると、矢継ぎ早に各科に警戒指示を出し始めた。
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