第3話死神推参


「あ、セーブし忘れたまま電源切ってきちゃった……」

「唐突になんですか?」

 件の工場前にて、ラムネさんはそんな事をぽつりと呟いた。

 恐らく仕事の直前までやっていたRPGの事であろう。

 丸一日まともに働かず、ニートな生活ぶりを存分に発揮して、途中離脱するキャラクターのレベルを限界まで上げるという意味のないやり込みをしていたので、悲惨といえば悲惨な結末かもしれないが、当の本人はあまりに気にした風でもない。

「ま、前にも一度やったし、別にいいっか」

「前にもやったんかい!」

 どんだけ働いてないんだ。この人は……。

 そんなラムネさんの服装はいつもとちょっと違う。いつもならタンクトップにスウェットの下か、膝丈の短パン着用というだらしのない格好なのだが、今日は仕事を目的とした黒いロングコートを羽織っている。

 ちょっと厨二病的な格好にも見えるのだが、一応これが正式なラムネさんの仕事着だったりする。僕もその姿を見るのは久しぶりだが……。

 その衣装に何か特別な効果が付与されているとかではなく、本人曰く「ぶわっとロングコートがなびく様は結構格好いいでしょ?」との事なので、結局は厨二病的な意味合いが強いだけかもしれない。

 僕は恥ずかしいので、そんな格好はお断りだが。

「……しかし、僕一人でラムネさんのお守りとは」

 僕は重苦しいため息を漏らした。

 以前はみぞれちゃんがいたのだが、今回は学校の都合で仕事がお休みなのである。なので現場へはラムネさんと二人で行く事になったのだが、みぞれちゃんがいないというだけで僕のモチベーションは今の時点でかなり低い。

「失礼ね。私が大和のお守りでしょ」

「いや、それだけは違うと断言します」

 そこははっきりと言っておこう。

「ふーん。そんな事言っちゃっていいのかな? 仕事に参加できないみぞれが気を使って今日は晩御飯を作ってくれるらしいけど、大和は食べないんだ?」

「え、みぞれちゃんが晩御飯を作ってくれるんですか?」

 僕が【駄菓子屋亭】に入る日は、基本僕が料理を作る。

 それ以外の日は、みぞれちゃんが担当しているので、基本僕がみぞれちゃんの手料理を味わう機会というのは、そうそうないのである。

「大和のお守り大変だなぁ」

「そうですね。足を引っ張らないように頑張ります」

「よろしい」

 ラムネさんは上機嫌で門扉を開けた。

 屈辱的だが、みぞれちゃんの手料理には変えられない。

 今回は大人しく、その意見に従う事にした。

「いいんですか? 名渡山さんを待たなくて」

 既に今日行く事は事前に連絡済なのだが、当の本人が出てくる様子は一向になく、待つ事の出来ないラムネさんはそのまま奥へと進み始めた。

「ま、今日行く事は知ってるし、別にいいでしょ」

「出てこないって事は、幽霊絡みの件で何かあったんじゃないですか?」

「はっはー。まさか〜。そんなに事が急転するはずないでしょ」

「うわぁ。フラグ臭い台詞ですね」

「私の秘蔵のパワーグローブ賭けてもいいわよ」

「や、いらないですよ」

 何に使うもんなんだ。それは。

 ラムネさんの賭けにやんわりと断りを入れ、プレハブ小屋の方を見やる。

 そこには、以前嫌がらせをしてきた幽霊がいた。

「おう。久しぶりやなぁ」

 ダチになったわけではないのだが、妙にフレンドリーな態度だ。

「名渡山さんはいるか?」

「おらへんで」

 プレハブ小屋の方は今日もひっきりなしに電話が鳴り響いている。ポルターガイストも盛況なようだが、窓から覗く限り、名渡山さんの姿は確認できない。

「留守か?」

「ウィレム?」

「オランダの柔道王は関係ない」

 (ウィレム・ルスカ:オランダの柔道王。ミュンヘン五輪の二階級金メダリスト。後に猪木と格闘技世界一決定戦で戦う)

 ラムネさんのしょーもないボケにツッコミを入れつつ、周りを見やる。

 扉が少し開いているので、留守という訳ではないだろう。

 そもそも今日僕達が来る事は知っていたはずだ。

 なら、どうして姿がないのか。

「おい。名渡山さんがどこに行ったのか、知らないか?」

「んー。源さんが連れ去っていったからなぁ……」

「源さん?」

「幽霊の親玉や。このポルターガイストの首謀者やで」

 僕は無言のまま『拒絶の壁』を展開し、幽霊を事務所の壁でサンドイッチにしてみた。

「うごごごごご……」

「お前、わざと言わなかっただろ」

「アカン。これはアカンて。ホンマに死んでまう」

「もう死んでるだろ」

 ため息混じりに、『拒絶の壁』を解除する。

 幽霊は解放され、四つん這いの態勢で荒い吐息を漏らした。

「で、源さんはどこにいるんだ?」

「そ、それは言えへんなぁ。源さんとの約束や」

 幽霊は鼻息荒く、そう叫んだ。

 僕は無表情のまま『拒絶の壁』を展開する。

 再び事務所の壁とのサンドイッチにすると、悲鳴が鳴り響いた。

「いやぁぁぁっっ。殺されるー」

「もう死んでるだろ」

 その自覚がないのだろうか。

「いいから喋れ。次はもっとキツイのいくぞ」

 悲鳴を漏らし、『拒絶の壁』を押し付けられた幽霊に対し、踏み込みを入れて力を加えると、更に悲鳴が漏れ聞こえるが、それがだんだんちょっと変な方向に聞こえてくるのは気のせいだろうか。

「い、痛いぃぃぃっっ。苦しいぃぃぃっ。でもこれが……。ちょっと、いい」

 僅かに頬を朱に染めて、こちらをちらりと見やる幽霊の目つきに、ぞわりと背筋を寒気が通り抜けた。

「どうしたー? こないな拷問やったら、ワシは全然口開かへんで。もっとや、もっときっついもんかましてみんかい、ボケェ」

「なんでこっちにケツを向けている?」

 幽霊が先程から『拒絶の壁』越しにケツを向けてくるのだが。

 なにかとてつもなく嫌な感じがしたので、『拒絶の壁』を解除する。

「どうしますか。ラムネさん?」

 これ以上相手にするのも嫌なので、ラムネさんに助けを求めるが、先程まで隣にいたはずの姿はそこにはなく、僕は慌てて周囲を見回す。

「大和、先行くわよ」

 そんな声の方向に目を向けると、ラムネさんはシャッターの閉じられた工場の前に立っていた。

「ちょっと待ってくださいよ」

「え、そんな、これだけやって放置とか……。生殺しやん……」

 ラムネさんの方へ向かう中、背後から悲壮めいた幽霊の声が聞こえてくるがそれは無視することにした。

「ダメですよ。勝手に入っちゃ」

 シャッターが降りているので、中に人はいないのであろう。

 機械が動いている音もない。

「大和、シャッターにロックがかかって動かないんだけど」

 側面にある出入口も鍵がかけられている。

「鍵がかかっている以上、名渡山さんはここにはいないんですよ」

 だとすれば源さんという幽霊は、名渡山さんをどこへ連れて行ったのか。

「大和、この工場の外はコンクリートの外壁で覆われていて、中は事務所とこの工場しかないのよね?」

「はい。別の場所から抜ける事は不可能ではないですけど、おっさん一人担いで出るのは困難かと」

 でも、門扉は閉じられていた。

 そして、事務所は鍵が空いた状態でもぬけの殻。

 更に工場はシャッター、出入口、共に鍵がかけられていている。

「……これは密室トリックね」

「いえ。門扉は鍵をかけていないので誰でも通り抜け可能です」

 僕の鋭いツッコミに、自慢げな顔で密室トリックと言い放ったラムネさんは少々むくれた顔をしている。

 確かに探偵業を名乗る以上、ミステリな展開を期待してなくもないが、既に幽霊が出てきてしまっている時点で、トリックが崩壊をしてしまっているので諦めたほうがいいだろう。

「ま、いいわ。閉ざされているのであれば、突き進めばいいだけの話よ」

「え、なにを……?」

 僕が聴き直した時は、もう時既に遅く。

 ラムネさんは右拳を振りかぶるなり、シャッターをブチ抜いていた。

 強烈な衝撃波と同時に金属のひしゃげる音が響き渡り、ラムネさんの前に立ちふさがっていたシャッターは脆くも砕け落ちている。

「さ、いきましょ」

「え、え、え?」

 開いた口が塞がらず、動揺で言葉も出てこない。

「いいんですか? 本当にいいんですか?」

「大丈夫。大丈夫。タブンネー」

 なんの信用も出来ないラムネさんの返答に、僕はため息しか出てこない。

 そんな僕の心労はどこへやら。傍若無人な振る舞いの『史上最強の死神』は開けたシャッターから中へと入っていく。

「ここに名渡山さんがいるって、なにか確証はあるんですか?」

 恐る恐るといった足取りで、僕はラムネさんの後に続いた。

「ズバリ女の勘!」

 ラムネさんはドンッと胸を張る。

 聞いた僕が間違いだったと、その時理解した。

「旦那、旦那。ちょっと待ってぇーな」

 ラムネさんがどんどん先へ進む中、先程までケツを向けたまま硬直していた幽霊がフラ〜っと近寄ってきて、僕の肩口に手を添えてきた。

「なんか用か?」

「なんか妖怪って、ワシは幽霊やっちゅーねん!」

 ぺしっと肩口を平手で叩かれ、ツッコミを入れられる。

 僕は無表情のまま『拒絶の壁』を展開させ、地面とのサンドイッチにした。

「おごごごごご……。あぁ、潰れる。たまらへん。こんな責め苦を冷徹な無表情で出来るなんて、旦那は生粋のドSや!」

「知るか!」

 ゲシゲシと『拒絶の壁』越しに足蹴にしても、漏れるのは歓喜の悲鳴ばかり。

 これでは、完全にMとして目覚めた幽霊を喜ばせているに過ぎない。

「だから何の用だよ?」

「旦那、ホンマにあいつを助けるんでっか?」

「どういう意味だ?」

「源さんは……。あぁ、これは男と男の約束やから言われへんけど、ワシらかてこないな事を本当にしたくてしとるんとちゃうんやで」

「だが、仕事の依頼だ……」

「旦那……、ホンマは知っとるんか……?」

「あれから調べたんだよ。色々とな」

 あの調査の後も、僕達は工場に関しての情報を色々と調べていた。

 そして、その中から一つの答えを導き出した。

 だが、依頼は『工場の幽霊退治』であり。

 その決定権は【駄菓子屋亭】局長の駄菓子屋ラムネにある。

「ワシら、みんなあの死神に殺されるんか?」

 幽霊の問いに僕は「もう死んでるだろ」とはツッコミを入れられなかった。

 死神は死神。

 破壊神ではない。

 必ず殺す神。

 死を司どる神なのだ。

 それは無機物、有機物を問わず。ありとあらゆる物の命を刈り取る。

 それが『史上最強の死神』なのである。

「あとはラムネさん次第だな」

 全ての詳細を知ったラムネさんが、どういう決断をするのか。

 それは死神の弟子である僕ですら分からない。

「あいつは……、この奥におる……」

 幽霊は苦慮の表情を見せた後、そんな事を呟いた。

 こちらが詳細を理解した上での行動だと知って、諦めたのだろうか。

「そうか……」

「源さんは……、源さんは、勘弁したってもらわれへんか?」

 幽霊が懇願の表情でこちらを見やる。

 その熱い視線が僕には息苦しく感じた。

 罪悪感なのだろうか。

 だとしても、僕にはどうにもできないというのが現実なのである。

 僕は何も言えず、更に奥へと足を進める事になった。



 工場は薄暗く、静寂した空気に満ちていた。

 コンクリートの床は冷たく、止まっている機械からは油の匂いがする。

 それしかない空間。人の気配すらない。

 無言のまましばらく歩いていると、ラムネさんの背中を発見した。

「ラムネさん?」

 だだっ広い空間の真ん中にラムネさんが立ち止まっている。

 何事かと前を見やると、そこには名渡山さんがいた。

「名渡山さん……?」

 ふらりふらりと幽鬼の如くおぼつかない足取り。

 目的のない足取りは、どこかゾンビを彷彿とさせた。

「あのさ、話があるんだけど」

 そんな名渡山さんに対し、ラムネさんは声を掛けた。

「とりあえず顔見せてくれないかな。源さん」

 その言葉に名渡山さんがピクッと反応を示す。

「何故ワシだと分かった?」

「女の勘」

 女の勘なのかよ。とは流石にツッコミきれなかった。

 立ち尽くす名渡山さんは暫し無言を貫いていたが、突如ケツから白い煙のような塊が出てきたかと思ったら、その体は地面に崩れ落ちていく。

「ワシが源じゃ」

 ケツから出てきた白い煙がそう自己紹介した。

「ケツから出てくるのかよ!」

「人に乗り移る時は、口から入ってケツから出て行く。これ幽霊の常識じゃ」

「知らねぇよ。そんな常識!」

 とりあえずツッコミは入れておいた。

 恐らく名渡山さんは源さんに乗り移られて、自分で工場内部から鍵をかけて幽閉されたのだろう。密室トリックも見事に崩壊したというわけだ。

「はじめまして。私は駄菓子屋ラムネ。探偵兼死神です」

「ほぉ、あんたが……。若くて美しい。まるで妖刀のようじゃな」

 それは果たして褒めているのだろうか。

「ワシらを殺しに来たのか?」

「退治が依頼目的ですから」

 ラムネさんは淡々と返す。

 その内に秘めた感情は如何なるものなのだろうか。

「あの……。そもそもどうしてこんな事になったのですか?」

 僕は源さんに尋ねた。

 この事件は調べても、色々と謎が多いのだ。

「僕等が調べた情報によると、この××工場は、ここ最近妙に業績が上がっています。社長の企業努力と言ってしまえば簡単ですが、社員の数が増えたとか、労働時間が長くなったとか、そういう証拠は見つからなかった。ただ生産業績が上がっているという事実だけはあるんです。可能性としては、社員のサービス残業も考えられますが、夜に工場の灯りが落とされていたという報告もあります」

「──つまり、社員ではない者が働いて生産効率をあげていた。更に言えばそれ等は諸経費リスクの少ない効率の良い人材である、と」

「違法就労している外国人の線も当たってみましたが、この辺りは夜になれば人通りも少なく、そういった目撃例もありませんでした」

「──以上の事から、推察されるのは、××工場は夜中に幽霊を働かせて生産効率を上げていたと。当たっているかしら?」

「間違いはない」

 源さんは深々と頷いてみせた。

「ここいらは戦後直下までは墓場じゃったが、戦災のゴタゴタで一気に開発が進んでの。工場はワシらの墓場の上に出来上がった。ま、夜中まで騒がしくなければとワシらも黙っておったんじゃが、あの名渡山という奴が社長になってからおかしな事になっての。あやつはワシらを無理やり働かせて不当な利益を得ておったんじゃ」

「だからストライキの意味を含めて嫌がらせを?」

「そうじゃ。そうしたら奴はワシらを退治しようとしたという訳じゃ」

「疑問なんですが、名渡山さんは幽霊が見えてませんよね。どうやって無理やり働かせていたんですか?」

「これを使ったのよ……」

 ラムネさんはそう言いながら、くしゃくしゃに握りつぶされた紙の束みたいなものを放ってきた。広げてみると、それは長方形で奇妙な文字が書かれている。

「霊能力者のお札『魔幻妖滅符』ね。幽霊や妖怪に対して強力な防壁を張る事ができるシロモノよ。それにこういった鉄パイプに張り付ければ、物体のないものだってぶん殴ることが出来るの」

 足元に転がっていた鉄パイプを拾い上げ、掌でポンポンと叩きながら説明しているのだが、妙に鉄パイプを持つ姿が似合っているのはどうしてなのだろうか。

「大和、気づいてた? このお札、門扉の内側や事務所の壁、工場の入口とかにも付けられていたのよ」

「……つまり、幽霊達はこのお札で外に逃げ出せないように軟禁させられていたのか。それに、例え見えていなくても、お札を貼り付けた武器を適当に振りまわせば誰かには当たるって寸法か」

 めちゃくちゃなようでいて、ある意味考え抜かれた狡猾なシステムだと思う。

 一方的にこちら側の命令だけを従わせる奴隷を作り上げていたとは。

 そして、奴らが反抗の意思を見せれば、誰かに始末させる。

 自分の手は汚さず、誰の悲鳴も聞こえず。

 そしてまた別の幽霊をかき集めて奴隷にする。

 それがこの工場で行われていた、現実だった。

「──ついでに言うと、その霊能力者って奴は、恐らく能力者よ。霊魂や妖怪に物理的干渉を行える発明品を作っているの。このお札もその商品の一つね」

「知り合いですか?」

「しいていえば、敵ね」

 ラムネさんがここまで敵意をむき出しにするのも、珍しい事だ。

「その霊能力者は、新たなビジネススタイルを教える代わりに、お札代と称したお布施を要求しておったけどな。お札がなければ、あいつはワシらを軟禁する事も懲らしめる事もかなわん。毎度高額なお布施を渡し、お札を購入しておったがここ数週間ほど、霊能力者との連絡が途絶えたらしくてな」

「潮時と思って逃げたわね」

 それは詐欺師まがいの商法だが、虎の子である『魔幻妖滅符』の入手が不可能になった事で、反撃を恐れた名渡山は協会組織に『幽霊退治』の依頼を出したのだろう。

「……で、どうしますか。ラムネさん?」

 そこまで話を聞いてしまった以上、幽霊を退治してしまうのはなにか間違っている気がしてならない。

「でも退治しなきゃ、お金貰えないのよね」

 現実的にシビアな問題を口にした事で、僕は何も返せなかった。

「お前さん方も仕事なんじゃろ。ほれ、さっさと倒せばよかろうて」

 そんな僕達を見かねて、源さんはその場に座り込むと、自らの首を手刀でトントンと叩いて示してくる。

「いや、そうは言われましても……」

 複雑な事情を前に、僕は困惑の表情を見せていたのだが。

「大和、お水」

 ラムネさんがそう言って手を差し出してくるので、僕は斜め掛けしたショルダーバックの中からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出した。

「まさか──、水鎌すいれんを出す気ですか?」

「そーよー」

 ペットボトルを受け取ったラムネさんは蓋を片手で回し開け、それを床へと傾ける。バシャバシャと水がこぼれ、足元を濡らしていくが、一向に気にした様子は見せない。

 ラムネさんは足元に出来た水溜りに指先を入れると、それをすくいあげるように持ち上げた。するとそれは水の帯のようになり、次第にそれは巨大な鎌のように変異していく。

 曰く、それは死神の水鎌。

 ラムネさんは水鎌すいれんと呼んでいる。

「お、おおぅ。美しい……」

「見とれている場合じゃないですよ。早く逃げたほうがいい」

 源さんにそう忠告しながらも、僕は一気に後退してラムネさんとの距離を引き離すことにした。

 『史上最強の死神』『殺せない 殺さない 殺させない』Ⅲノットキルの二つ名を持つ死神が鎌を持つという事は、処刑執行という意味合いなのだろう。

「その美しき鎌で殺されるのなら、文句などない……」

 源さんは覚悟を決めたような表情を浮かべ、その場に居直っていた。

「だが頼みがある。どうか仲間だけは開放してやってくれ。その望みさえ叶えられるのであれば、この首、貴殿の鎌の餌食となろう」

 斬首の前の罪人の如く、首を差し出す。

「残念だけど、殺すのはアナタじゃないの」

 そんな源さんを前に、ラムネさんは水鎌を構えながら、そう呟いた。

「それはどういう……」

「殺すのは、こいつ」

 水鎌の切っ先が名渡山を差す。

「この私を騙して汚い仕事をやらせるなんて、随分いい度胸してるじゃないの。少し、死神の怖さって奴を身をもって知るべきじゃないかしら?」

 そう語るラムネさんの表情も怖い。

 薄ら笑いを浮かべているが、絶対怒っている人の顔だ。

「大和……。死にたくなければ、自分の身は自分で守りなさいね」

 言葉が不吉である。

 僕は念には念を押しておくべきと思い、『拒絶の壁』を展開させた。

「ん……。なんだ……?」

 直後、ラムネさんのこぼした水が床を広がり顔を濡らしたのか、名渡山が目を覚ました。

「ここは……?」

「こんばんわ。名渡山さん」

 状況が飲み込めず、起き上がり、キョロキョロと周りを伺っていた名渡山の動きがピタリと止まる。当然だろう。目の前には水鎌を携えた死神が立っているのだ。

「あ、あんたは……?」

「……私? 私は駄菓子屋ラムネ。探偵兼死神よ」

「あぁ。例の探偵さんか。なら、話が早い。私はきっと幽霊に体を乗っ取られて工場に連れてこられたんだ。人的被害が及んでしまったのなら、もう後には引けません。探偵さん、どうか幽霊を全部退治してください」

「名渡山さん……。私に嘘を吐いていませんか?」

 それは死神の最後の猶予だったのだろうか。

「な、なんのことやら?」

 だが名渡山はその蜘蛛糸すら、自ら断ち切ってしまった。

 死神は微笑を浮かべる。

 右手一本で携えた水鎌の刃が名渡山の首筋を捉える。

 そこから引き戻せば、その首は名渡山の体から切り離されているだろう。


「幽霊は、あなたの奴隷じゃない」


 その一言。場は静寂が満ちた。

 おっさんの表情がみるみる内に変わっていく。

 偽善で塗り固めた笑顔は割れ、唇がふるふると震え、どす黒い笑みを蓄えた。

「えぇ商売やァ思うたんですけどなァ。バレたらかなわんわァ」

 俯いた名渡山がため息を漏らす。

 次の瞬間、名渡山は懐から拳銃を引き抜くと、ラムネさんめがけて引き金を引いた。

 乾いた発砲音が工場内に響き渡り、水鎌を握ったラムネさんの体が爆ぜる。

 まるで水風船が破裂するかのように、その体は水の塊となって周囲の床に飛び散っていった。

「……なっ!」

 名渡山は目の前で起こった状況が理解できず、目を白黒とさせながら表情をグシャグシャにしてみせた。

 無理もない。目の前の居た人間を撃ったら、その人間が水の塊となって弾け飛んだのだ。常識で考えればあり得ない事だし、拳銃を使ってまで始末を付けたリスクが意味を成さなくなったのだ。

「ど、どういう事だ?」

 名渡山は慌てて、こちらに銃口を向けてくる。

「無理ですよ。あの人に常識なんて通用しない。「銃で撃たれたら死ぬ」なんてのは、所詮人の世界の話でしょ」

「わ、訳の分からん事を言うな!」

 名渡山は激昂していて、今にも銃をこちらにもぶっぱなしそうな勢いだ。

 まぁ、そういう可能性も考慮に入れて『拒絶の壁』を展開させたのだけど。

「僕としては、自首する事をお勧めします。何の罪になるのかは知りませんが」

 幽霊を軟禁し、人権を無視した労働環境下で無理やり働かせた罪なんて、果たして存在するのだろうか?

 ま、拳銃ぶっ放してる時点で、罪状は一つ増えているのだけど。

「うるさい!」

 名渡山は引きつった笑みを浮かべながら、僕に向かって発砲した。

 乾いた銃声が再度工場内に響く。

 同時に壁を穿つような鈍い音が響き渡った。

「お、お前は……、一体……?」

「以前に展開させましたが、『拒絶の壁』は銃弾程度なら余裕で防げますよ」

 僕の前に展開された『拒絶の壁』には、ひしゃげた鉛弾が張り付いている。

「そ、そんな、バカな……」

「言ったでしょ。常識なんて意味を成さない。ましてや『史上最強の死神』を常識にあてはめようとするなんて、おこがましいことなんですよ」

 二度の発砲ですら意味を成さないという現実を前に、名渡山の自我は著しいショックを受けたのか、目は周り、明らかに危ない顔つきとなっていた。

「この、バケモンがァ!」

 涎をだらだらと垂れ流した名渡山は、全弾撃ち尽くさんと言わんばかりの勢いで、拳銃を連続発泡する。

 だが『拒絶の壁』を前に鉛弾は傷一つ付ける事なく、硝煙の匂いだけを周囲に漂わせた。

「ひ、ひぃぃぃ」

 名渡山の顔が恐怖に引きつっている。

 こちらはただ銃弾を防いだだけなのに、酷い扱いだ。

 そんな名渡山の足元には飛び散った水飛沫がある。

 それらが少しずつ集まり、一つの形を再形成しようとしている事に果たして名渡山は気がついているのだろうか。

 水飛沫が水の塊となり、それは人の形を成し、そして再びラムネさんになる。

 常識の範疇を超えた存在。それが『史上最強の死神』なのだ。

「ひっ、ひっ、ひぇぇぇぇっっ」

 恐怖に慄いた名渡山は拳銃を捨てると、背を見せて逃げ出そうとする。

「逃がさんぞ」

 それを見ていた源さんは、素早く名渡山の口から入り込むと、再びその体を乗っ取ってしまった。

「今じゃ。死神さん。ワシごと斬れィ」

 向き直り、大仰に身構えてみせる。

「いい覚悟ね。気に入ったわ」

 笑みを浮かべたラムネさんが水鎌を肩に担ぐと、大きく振りかぶって見せた。

 踏み込みと同時に強烈な横薙ぎの一撃が炸裂する。

 瞬きすれば、見逃してしまうほどの神速の一撃。

 一拍の間。──直後、『拒絶の壁』に一筋の線が生じると共に真っ二つになって崩れ落ちていく。銃弾すら防ぐ『拒絶の壁』も、死神の一撃には耐え切れなかったようだ。

 僕が『拒絶の壁』を解除するのと、ラムネさんが右手を払う動作はほぼ同時であり、ラムネさんがそうすると水鎌は水の帯となり、飛沫となって地面に散らばった。

「……名渡山は?」

 棒立ちになる名渡山はピクリとも動かなかった。

「殺したわ」

 淡々と発する言葉に、僕は何も反論できなかった。

 ラムネさんは悪くない。

 拳銃を持ち出し、発砲してきたのは名渡山なのだ。

「じゃあ、源さんも……」

「あー、ビックリした」

 僕が残念そうにそう言おうとした直後、名渡山の尻から源さんが出てきた。

「お、おまっ……」

「おっ。どうやら、まだ生きとるみたいじゃの」

「いや。もう死んでるだろ」

 まさか、またこのツッコミができるとは。

「え、じゃあラムネさんは一体何を殺したんですか?」

「ん、んん……」

 僕が疑問をぶつけた直後、なんと名渡山が目を覚ました。

「ここは……。あらやだ。お客さんかしら。こんばんわんこそばー」

 名渡山の様子が明らかに変だ。

 先程までの恐怖におののく表情はなく、まるで憑き物が落ちたかのような爽やかでキラキラとした顔つきにはなっているのだが、どこかおネエチックになっているのは気のせいだろうか。

「あの……」

「あら〜。可愛いボーヤ。なんか私に妖怪? って、私は妖怪じゃないわよ!」

 うぜぇ……。

 引きつった笑みを浮かべつつ、名渡山の足元を見やると、何やら棒状のものが転がり落ちていた。それはどす黒く、グロテスクな形状をしていて、モザイク必須なものである。

「こ、これは……」

「とりあえず名渡山の悪い部分だけを殺したつもりだったんだけど、なんかおまけで別の部分も切っちゃったみたいね」

「や、どうするんですか。これ」

 名渡山がおネエになっちゃってるんですけど。

 幽霊退治の結末が、依頼人がおネエになって終わりなんて、どんな小説よりも奇なりだと思うのだが。

「ふ。こういう時のために私は最後の秘策を残していたのよ」

 なんか状況が最悪を通り越して、カオスの巣窟のように成り果てている中、ラムネさんは顔中に脂汗を浮かべながら、追い詰められた表情でそう語った。

「一体、何を……?」

 僕の疑問に、ラムネさんはクルッと踵を返してみせる。

 同時に全速力でそこから逃げ出し始めた。

「逃げるのよ。大和!」

 工場からの逃亡を図るラムネさんの逃げ足は、恐ろしく早い。

「えぇぇぇぇぇっっ。ホントーにこんなオチでいいんですか?」

「幽霊は殺されなかった。幽霊退治の必要もなかった。名渡山の性格も直った。全部万事問題解決の流れでしょ。なら死神はクールに去るぜって心境よ〜」

 その台詞は是非とも逃亡状況でない時に聞きたかった。

 なんだか腑に落ちない解決方法となったのだが。

 こうしてこの事件は、幕を閉じたのである。

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