第7章

 すでに、離婚に向けての準備は大方整い、いつでも話し合いに入れる状態になっていた藤田さん。後は、どのタイミングでご主人に切り出すか、具体的な相談をするために、私たちの都合を聞こうと思っていました。


 そんな折、珍しく実家から電話が掛かって来たのです。



「あ、もしもし、お母さん。どうしたの?」


「もう、いったい何なのよ、あの女! 幸ちゃん、いいからもう、うちに帰ってらっしゃい!」


「え、ちょっと、何? 何かあった?」



 電話に出た藤田さんの耳に飛び込んだのは、いつもはおっとりした話し方をする母親の、いつにないヒステリックな声でした。


 驚いて、少し落ち着くように言ったのですが、かなり感情的になっているため、気持ちばかりが先走り、支離滅裂で話の内容が入ってきません。


 すると、妹が電話を代わり、順序立てて説明してくれました。どうやら、藤田さんのご主人の母親(義母)から実家に掛かって来た電話に、両親がかなり腹を立てているようでした。




     **********




 お昼頃、突然電話を掛けてきた義母は、丁寧に挨拶をする実母を遮るようにして、いきなり電話口で怒鳴り始めたのだそうです。



 いったいお宅は、娘にどんな教育をしてきたのだ、うちは息子を養子に出した覚えはない、家のローンまで払わせて、最初からそういう魂胆だったのか、恥を知れ、etc…



 あまりの剣幕に、言っている意味が理解出来ず、娘(藤田さん)との間に何かあったのかと、オロオロする母親に代わって応対した父親に対しても、義母の罵詈雑言は留まるところを知らず。


 義母の言い分を要約すると、結婚する際、いずれ息子夫婦と同居することが条件だったのに、嫁(藤田さん)の我が侭で、一方的に同居を保留にされているのだといいます。


 息子(藤田さんのご主人)の話によれば、一応説得してはいるものの、首を縦に振ろうとはせず、嫁は自分の実家にばかり入り浸り、夫実家へはものの数十分の滞在で、ろくに口も利かないという無礼な態度。


 おまけに、嫁実家では、跡取りの妹夫婦のために建てた家に、無理やり自分の息子夫婦を住まわせておきながら、そのローンを息子に払わせるのは筋が違うし、嫁実家が経営する工務店の実質的な経営から資金繰りまで、すべて丸投げされて大変だと、息子がぼやいていたのだとか。


 そして最近になり、嫁の実家側から、妹夫婦と一緒に事業を拡大するため、婿養子に入るように迫られていて、勿論それだけは断るつもりだけど、そういう状況なので、当面同居の話を進めるのは無理だと言われた、というのです。


 こちら側の認識とまったく食い違う義母の言い分と、あまりにも無礼な物言いに、当初は冷静に対応していた父親も、最後には怒り心頭で、怒鳴るように電話を切ったのだそうです。




 藤田さんの実家は、両親と妹夫婦、そして10人程の社員を抱える工務店を経営していて、現在請け負っている仕事のほぼ全てが、中古物件の『リノベーション』というものでした。


 既存の建物の傷んだ部分を補修するだけでなく、間取りや設備などの機能や使い勝手を、ライフスタイルに合わせて作り変え、古い建物をより機能的でスタイリッシュにするといった建築技法です。


 それには、建築に関する深い知識や資格は勿論、ユーザーが希望するデザインを具現化し、それをプロデュース出来るインテリアコーディネートを含めた、高いセンスが必要不可欠なのです。


 ちなみに、今、藤田さん夫婦が住んでいる自宅も、藤田さんの妹夫婦が手掛けたものでした。結婚する際、新居の話になったとき、ご主人から『自身の親から、同居はしないといわれている』ということでしたので、マイホームを購入することに。


 希望していた新興住宅地に、たまたま築後数年で売りに出されていた物件を購入し、自分たちのスタイルに合わせてリノベーション。土地建物の頭金と、工事費用の計1500万円分を、藤田さんと彼女の実家が負担、残りをご主人名義でローンを組んだという経緯です。


 当初は、ごく普通の工務店でしたが、この業界の宿命ともいえる『不況』に煽られることが度々あり、その都度、何とか乗り越えて来たものの、正直、経営は厳しいものがありました。


 転機が訪れたのは、妹の結婚でした。インテリアコーディネーターの道を進んだ彼女は、同じ大学の同級生で、設計士の夫と結婚し、実家の工務店を継いで間もなく、主に大手から請け負う新築や、リフォームなどの施工から、独自のリノベーションへと、その方向を転換したのです。


 安価で購入出来る中古物件に、思い通りのリノベーションを施し、その費用を合計しても、新築よりコストが押さえられるとあって、中古と新築、それぞれのデメリットを克服出来ることも、追い風になりました。


 もともと、天性の才能に恵まれたふたり、彼らがプロデュースする空間は、口コミで若い世代に広まり、今では何組みも待ちが出るほどの人気になっていました。


 一時期は、会社の事業拡大も考えたものの、信頼できる外注先は手一杯で、ユーザーに納得して頂けるクオリティーを維持するためには、一つ一つの物件を丁寧に手掛けたいという方針から、身の丈にあった経営に落ち着いたという次第です。


 もし、藤田さんにも妹のような才能があれば、共同での事業展開の可能性もあったのでしょうが、残念ながら姉はそうした才能には恵まれず、大学卒業後は家業とは無縁のOLになりました。


 30代も半ば近くになり、ようやく結婚したご主人も、その分野とはまったく関係ない業種であることから、これまでも実家の家業に関わることは、一切ありませんでした。


 事業拡張の予定もなく、もとより業績も安定しており、ましてや、専門知識や高いセンスが要求される分野に関して、藤田さんのご主人に出る幕などあるはずもなく、自分たちの知らないところで吹聴していた嘘に、両親は怒り心頭、妹夫婦は笑うしかないといった状況でした。



「こっちは、お義兄さんの人間性を知ってたからいいけど、何も知らずに、お義兄さんに説明を求めたりしてたら、上手いこと言い包められるとこだったかもねって、秀ちゃんとも話してたの」


「いや、でもそれ、私のほうが初耳だわ。いったい、うちの実家は、旦那をどうしようとしてる設定なんだろう?」


「さあ? 今後、お義兄さんから連絡あっても、絶対に取り継ぐなって、お父さん、滅茶苦茶怒ってる。お姉ちゃんにも、さっさと帰って来いって伝えておけって」


「分かった。連絡ありがとうって、お父さんたちに伝えて。秀ちゃんにも、よろしくね」



 出来れば、実家にはこのまま騙されたふりをして、ご主人の言い訳を聞き出すことが出来ればおもしろいのですが、娘を不幸にしている男の母親から暴言を吐かれた後では、ご両親の感情を考えて、これ以上は無理です。


 そして、この出来事は、すぐに義母からご主人へ連絡が行くでしょう。慌てて妻の実家に連絡しても、ブロックされていると分かれば、藤田さん本人へのアプローチがあるはずです。




 そんなことを考えていると、不意に、知らない番号からの着信がありました。いったい誰だろうと、恐る恐るその番号に出てみると、受話器から聞こえてきたのは、義妹の声でした。



「もう、やっと繋がった!」


「ひろみさん? どうしたの?」


「お義姉さん、酷くない? 何も、家電も携帯も、着信拒否にしなくたっていいじゃない?」


「え? どういうこと? 私、着信拒否なんてしてないけど…」


「お母さんが、何度お義姉さんに掛けても繋がらないって言うから、試しに、私も掛けたんだけど、ホントに繋がらないし、今、娘の携帯で掛けてるの。悪いけど、こっちにかけ直してもらえないかな?」



 不審に思い、自分の携帯をチェックすると、勝手にいくつもの番号が、着信拒否設定にされていました。家電も同様で、いつからそうされていたかは不明ですが、間違いなくご主人の仕業でしょう。


 とりあえず、義妹に電話を折り返し、『どうやら操作ミスで全部の電話を拒否していたようだ』と説明してその場を取り繕い、彼女の話を聞くことが出来ました。


 義妹から聞き出した『ご主人の実家での藤田さんの人物像』は、先ほど実妹から聞いた通りのことに加え、とんでもない鬼嫁的なものにされているようでしたが、幸い、義妹には自分の両親と同居したいという希望があり、むしろ藤田さんが同居を拒否することには、歓迎の立場でした。


 彼女自身、義親(特に姑)との関係に不安があり、同じ『嫁』という視点で、藤田さんに対する嫌悪感がほぼ皆無だったのは、お互いにとってラッキーこの上なく。



「でね、もしお義姉さんさえ良ければ、二人で協力しない? 私だって、旦那の親と暮らすより、自分の親と暮らしたいから、気持ちは分かるもん」


「ああ、そうなんだ」


「実際、お義姉さんの実家だって、お兄ちゃんのこと必要としてるんでしょ? だったら、何もかも丸く収まるよね?」



 咄嗟に、この場は、義妹の提案に乗るふりをすることにした藤田さん。


 現実には、ご主人は藤田さん実家から出禁扱いなのですが、一先ずそれはさておいて、電話も繋がらなかったことにして、当面このことは二人だけの秘密ということにしました。


 義妹自身、義親と相性が悪いらしく、藤田さんもそうと信じ込んでいるため、溜まっていた愚痴を吐き出していましたが、すっかり自分に気を許している彼女の様子に今がチャンスと思い、あのことを尋ねてみたのです。



「一つ、いい? 前から聞こうと思ってたんだけど、もしよかったら、亡くなった弟さんのこと、教えてもらえないかな? 無理にとは言わないけど、私、何も知らないもんだから」


「ああ、雅彦のことね。いいよ。別に隠すようなことでもないし」



 そう言うと、義妹は、自分たちがまだ幼かった頃のことを、話し始めました。




     **********




 藤田さんのご主人は、三人兄妹の長男で、2歳下の妹と、さらにその2歳下に弟がおり、サラリーマンの父親と専業主婦の母親の5人家族という、当時はよくある家族構成の家庭でした。


 一家が普通の家庭と違ったのは、次男の雅彦くんが病弱で、生まれて間もない頃から入退院を繰り返していたこと。退院しても一か月、早ければ翌週には再入院するような状態で、兄妹の母親は、それはそれは献身的に看病をしていたのです。


 お昼間、母親は病院に付きっきりのため、時間を縫って上の子たちの食事の支度をし、帰宅後に家事一切を片付け、夜間は少しでも医療費の足しにと内職をし、寝る間もないほどでした。


 それでも辛い顔一つ見せず、『子供たちの笑顔が、自分の幸せだから』と、看護から家事まで完璧にこなす姿には、周囲の誰もが賞賛しました。


 そんな生活が何年も続き、雅彦くんが5歳になったある日のこと。退院して、久しぶりの自宅で、楽しそうに3兄妹で遊んでいたのですが、食後、お薬を飲んでしばらくすると容体が急変。


 すぐに救急車で病院に運ばれたのですが、容体は悪化の一途を辿り、家族の祈りも虚しく、残念なことに、そのまま息を引き取ったのです。


 あまりにも突然の旅立ちに、母親の悲しみようは見ている周囲が辛くなるほどで、来る日も来る日も、自分を責め続けていました。


 ところが、悪いことは続くもので、間もなくして、今度は長女のひろみちゃん(義妹)に雅彦くんと同じ症状が出て入院、時を同じくして、長男克明くん(ご主人)が腕を骨折する大怪我。


 そのうえ、父親の祖母が脳溢血で寝たきりになり、母親は病人と怪我人の子供ふたりを抱えているにも関わらず、介護を持て余していたご主人の長兄家族から引き取って、自宅で面倒を看ることに。


 まだ雅彦くんの悲しみも癒えないというのに、次から次へと不運が続き、母親は新たな看病やお世話をしなければなりませんでした。


 彼女を心配した周囲からは、『一度お祓いでもしたほうが良いのでは』などと、真剣にアドバイスされるほどでしたが、皮肉なことに、看病に没頭することで、悲しみが薄らいだのも事実でした。


 幸い、克明くんもひろみちゃんも無事快復し、甲斐甲斐しくお世話を受けていたおばあちゃんも、発症から四年後、安らかに眠りに就き、これでようやく母親も楽になれると誰もが安堵したのも束の間、またひろみちゃんの病気が再発したのです。


 さらに、彼女が入院中に、自宅で階段から転落した克明くんが、今度は両足を骨折して入院し、退院するまでの間、母親はずっと二人の病院に泊まり込みで付き添いをしていました。


 その後、今度は母親の祖母に介護が必要になり、周囲からは、『あなたばかり大変な仕事を負担することはない』と進言されても、本人としては『放っておけないから』と、自ら進んで引き取り、涙ぐましいほどの献身的な介護を続けたのです。


 その後も、父方の両親、母方の両親と、誰かが要介護になるたびに自宅に引き取り、随分長い間、介護を続けていた母親。


 その姿を見た周囲の誰もが、『自分も彼女に介護をして欲しい』といわしめるほどの献身ぶりで、最後に介護していた母方の父親を送り出したのが、3年前のことでした。



「お義母さん、ずっと苦労のし通しだったんだね」


「うん、そうなの。やっとおじいちゃんから手が離れて、お母さんも、長男夫婦と一緒に、楽しく暮らしたくなったのかな、って」


「そうだったんだ」


「私も子供の頃、入院したりして、随分迷惑を掛けたから、恩返ししたいんだよね。うちの子たちも、お母さんに懐いてるし、お母さん面倒見がいいから、多少甘えようと思ってる部分は否定しないけど」



 そう言って、悪戯っぽく笑った義妹。考えてみると、今までこんなふうに彼女と話をしたことはなく、実はとても気さくな人柄だったことに、初めて気が付きました。


 他者に献身的だった義母や、寛容で感謝の気持ちを忘れない義父、同じ両親に育てられ、片やモラルハラスメントの加害者となったご主人と、そうならなかった(と推定される)義妹。


 一見して、この家族から、そうした原因に結びつくようなものも考えにくく、ふたりの違いはいったい何なのか、謎は深まるばかりです。



「それより、お義姉さん、体調は大丈夫?」


「え? 体調?」


「しょっちゅう実家に帰るのも、ずっと体調不良が続いてるからだって、お兄ちゃんが言ってた」



 常態化しているらしいご主人の嘘によって、鬼嫁だけでなく、病気にもされていた藤田さん。まあ、確かにご主人のせいで、精神的、肉体的にも、ダメージを受けていたことは事実ですが。



「全然、大したことはないから、心配しないで」


「なら、良かった。お母さん、ああいう性格じゃない? だから、自分が力になりたいって思ったのよね。まあ、お母さんに任せておけば、何から何までやってくれるから、治療に専念出来るんだろうけど」


「そうなんだ」


「病気のお義姉さんほっといて、私と同居なんて、お母さん絶対に『うん』て言わないもん。お兄ちゃんの言い方だと、かなり重症みたいな口ぶりだったから」


「それは、何て?」


「お義姉さんが委任されてる民生委員の仕事も出来ない状態だから、全部お兄ちゃんがやってて、個人情報とか、機密書類とか、すごく神経使うって」


「へぇ…、そう」


「お義姉さんの実家のお仕事も、お兄ちゃんがいないと回らないんでしょ? いくつ身体があっても、いくら時間があっても足りないって。そんなに忙しくて、お兄ちゃんの身体、大丈夫なのかな?」



 勿論、それらはすべてご主人の嘘なのですが、義妹含めた義家族はすっかり騙されているらしく、全く疑っていない様子でした。



「みんなが、お兄ちゃんを頼りにしたい気持ちも分かるよ。でも、このままじゃ倒れちゃうかも知れないから、程々にしてあげてね」


「うん、分かった、気を付けるわね」


「じゃあ、また連絡するね」



 そうして電話を切り、いろんな情報やら、感情やらが入り乱れ、混乱する頭を整理して、藤田さんは私たちに連絡をしてきたのでした。




 しかしながら、次から次によくそれだけ自分が賞賛されるストーリーを作れるものだと、呆れるのを通り越して感心する一方で、義妹が話した家庭環境に、もの凄く引っかかるものを感じた私たち。



「それにしても、ちょっと病人や怪我人が多すぎない?」


「うん、私もそう思った。老人の介護は、自ら進んで引き受けたとしても、義妹の病気や、うちの旦那の骨折が立て続けでしょ? それも、2回も。ホントに呪われてたのかもって思ったよ」


「義弟さんが亡くなって、すぐ、義妹さんも同じ病気になったんだよね? 何の病気だったの?」


「それが、原因不明で、病名も分からないんだって」


「今はもう大丈夫なの? 義妹さん、お子さんもいらっしゃるんだよね?」


「うん。最後に入院したのは、6年生の時で、それ以降は、再発してないみたい。先生の話だと、身体の成長で、抵抗力がついたんじゃないかって。ただ、その頃は、お兄ちゃんは両足骨折で動けないし、おばあちゃんの介護も重なって、お義母さんは一番大変だったみたい」



 すると、それまで黙って話を聞いていた百合原さんが、ぽつりと言いました。



「もしかすると、『代理ミュンヒハウゼン症候群』かも」


「何、それ?」



 耳慣れないその言葉に、首を傾げる藤田さん。それについて、百合原さんは、分かりやすく説明しました。




 『ミュンヒハウゼン症候群』は、実際には健康にも関わらず、周囲の関心や同情を引くために、病気を装ったり、自らの身体を傷付けたりする、虚偽性障害といわれる精神疾患の一種です。


 自分自身を患者に仕立てる『ミュンヒハウゼン症候群』に対して、側にいる誰かを患者に仕立てる『代理によるミュンヒハウゼン症候群(代理ミュンヒハウゼン症候群)』の2種類があります。


 後者が母親の場合、自分の子供を患者に仕立てることが多く、虐待されている子供の中には、そうしたケースが少なからず含まれているといわれています。


 普通の虐待と違うのは、傷害自体が目的ではなく、子供(自分の代理)を患者に仕立てる手段として、傷害行為に及び、周囲の関心を自分に集めることで、満足感を得ようとすること。


 ですが、いくら傷付けることが目的ではないとしても、実際にそうした行為を繰り返すことで、重篤な障害を負ったり、最悪の場合、命を落とす危険もあるため、決して放置できない現実なのです。



「って、それ、犯罪じゃないの!?」


「勿論、犯罪よ。自分の子供とはいえ、他者を傷つけるなんて、許されないでしょう。実際に、それで命を落とした子供だっているんだから」


「まさか…」



 原因不明の症状で、わずか5歳で急逝した次男、雅彦くん。不意に、重苦しい空気が立ち込めました。


 四半世紀以上も昔の事ですから、医学的には今よりずっと遅れていたのは確かですし、何より当時はまだ医療関係者でさえ『代理ミュンヒハウゼン症候群』についての認識が浸透していなかった時代です。


 あるいは現代の医学なら、彼の病気を解明出来るかも知れませんが、残念ながら、今となっては彼の本当の死因について、確かめる術はありません。


 また、次男の死後すぐに、それまでは何の症状もなかった長女(義妹)に、同じ症状が出るというのも奇妙です。さらに同じ時期に、長男が骨折。


 そこへ父方の祖母の介護が重なり、そちらに手が掛かるにしたがって、子供たちは快復に向かい、祖母が他界した直後に、ふたりほぼ同時に、症状の再発と骨折をするという、取って付けたようなタイミング。


 今度は、自分の祖母の介護が始まると、間もなくしてふたりとも快復。その後も、夫婦の両方の両親の介護が次々と続き、それ以降、長男の怪我や長女の再発もなく、現在に至ります。


 つまり、義母の周囲には常に『病人』『怪我人』『要介護者』がいて、看病する人がいなくなると、すぐに何かしら次の要介護者が現れるという状況が続いていたことになるのです。


 要するに、幼い子供たちを病気や怪我に仕立てるために、何らかの薬を盛ったり、わざと怪我をさせた可能性が高く、介護していた祖父母たちにしても、人為的にそうした状況に仕立てたのでは、という疑念すら湧いてきます。


 そして、仮に義母が『代理ミュンヒハウゼン症候群』だとすれば、もう一つ気になるのは、現在の義母の心理状態です。


 3年前に、要介護だった実父が他界し、今は介護も看病もしておらず、義妹によれば、やたらと長男に同居の話を持ちかけるようになったのも、ちょうどその頃からだといいます。


 そして、今回、藤田さんの実家にまで電話を掛けたのも、ご主人がついた嘘の中にあった『嫁の体調不良』というキーワードが、義母の病気を再燃させたのだとしたら。


 3年間も、誰の看病もしていないことで、すっかり周囲の関心が薄れ、義母の承認欲求がピークに達しているとしたら、藤田さんは格好のターゲットになり得たはず。何とかして、自分の手中に収めたいと思っても不思議はありません。


 普段は息子から、嫁や嫁実家に関して口出し無用とされていたのでしょうが、ただでさえ自分に懐かず、実家に入り浸っている(と息子から吹き込まれている)ことを我慢してきた義母にとって、その攻撃の矛先が嫁実家に向けられたと考えれば、すべての辻褄が合います。


 あくまで、推測の域を出ませんが、そうした状況から鑑みても、義母の行動は、限りなく怪しいことを指し示していました。



「私、どうすれば良いの?」


「とにかく、早急に、自宅を出たほうが良いかも知れないわね」



 そして、ここへ来て再び悪魔の触手を動かし始めた義母。藤田さんの実家にまで電話をしてきたことから、彼女を手に入れようと、今後どんな手段に出るか予測がつきません。


 さらに、義母が嫁実家へ電話を掛けたことをご主人が知れば、性急な動きを見せる可能性が高く、こちらも最大級の警戒が必要になります。


 ならば、藤田さんがするべきことは、一つ。



「今日、このまま実家に帰ることは出来る? 無理なら、うちへ泊まってもらっても良いけど」


「うん、大丈夫。とりあえず、着替えと、身の回りのものだけ持って出れば、後は何とでも」


「じゃあ、すぐにそうして。私と、松武さんが同行して、実家まで送るから」


「分かった。じゃあ、先に戻って、荷造りして待ってる」



 藤田さんには、私の車で一緒に行くように言ったのですが、自分も車で来ており、一件だけ寄りたいところがあるというので、30分後に、彼女の自宅で待ち合わせをすることにし、一旦別れました。


 思いもよらなかった意外な人物の出現と、予想を上回る展開の速さに、いつもは冷静な百合原さんまでが、少し落ち着かない様子でした。




     **********




 約束の時間より少し早く、百合原さんとふたり藤田さんのお宅へ到着すると、駐車場には彼女の車が停まっていました。すでに戻っていることを確信し、インターホンを鳴らそうとした時でした。


 中から聞こえたのは、何が大きな物が落下したような鈍い音と、かすかに伝わる振動。瞬時に、嫌な予感が走った私たちは、急いで玄関に駆け寄り、念のために預かっていた合鍵でドアを開けると、



「藤田さん!?」


「どうしたの!? しっかりして!!」



 私たちの目に飛び込んで来たのは、リビングに倒れ、ぐったりしている藤田さんの姿でした。


 そんな藤田さんを見下ろすように、2階の階段踊り場に座り込み、ただただ震えているご主人の姿がありました。



 そして、家の中にはもう一人、私たちとは初対面の高齢の女性が。



 愛おしそうに、倒れている藤田さんを見つめる彼女の瞳に、私は軽い吐き気を覚えると同時に、痛みを伴うほど激しく総毛立ち、震えるご主人の姿と、かつての自分が重なりました。

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