第6章
我が家のリビングのソファーに腰かけ、寄り添う猫たちを優しく撫でながら、口元に微笑みを浮かべる百合原さん。その光景に、私も穏やかな気持ちに包まれます。
頂いたアップルパイを切り、カモミールティーを入れて、しばしば長い沈黙を挟みながら、報告を受けていました。
「とりあえず、メンバーのみんなには、個別にお話をしておいた。当時は、相当センセーショナルな出来事だったし、ずっと気になってた人もいたでしょうから」
「そう。でも、何だか申し訳なかったね。私のカミングアウトで、百合原さんまで巻き込んでしまって」
「私なら、平気よ。むしろ、これで結束が固まった気がしたし、松武さん同様、こういう機会でもないと、なかなか伝えるタイミングってないから」
にっこり微笑んで言った百合原さんに、私も笑って答えました。
「こうしてこの部屋にいると、不思議。また、こんなふうに笑えるようになるなんて、あの時には想像も出来なかったな」
「蓮くんは、元気?」
「毎日、元気でやってるみたい。クリスマスのお休みには、帰って来るって」
「そう。随分、身長も伸びたのかな? 会えるのが楽しみだわ」
「中身の成長が伴わないのが、残念だけどね」
そう言って笑いながら、パイとお茶を口に運ぶ私たち。あれからもう、5年の歳月が過ぎたのが、信じられない気分でした。
**********
彼の名前は、百合原 蓮くん。百合原家の長男で、現在17歳の高校生です。
とはいっても、彼が在学しているのは、海外の全寮制の学校で、学友たちと共に寄宿生活を送りながら、一人異国の地で勉学に励んでいました。
蓮くんと初めて会ったとき、彼はまだ小学6年生。成績優秀でお友達も多く、ママ似の整った顔立ちをした、明るくて活発な男の子でした。
翌年、中学生になり、勉強やクラブ活動に忙しくも充実した毎日を送っていたのですが、そんなある日、この街を騒然とさせる大事件が起こったのです。
いつになく、近くに聞こえた緊急車両のサイレンに胸騒ぎを覚え、玄関を出てみると、ご近所の方々も表に出て、何事かと話をしているようでした。
椎名さんの姿を見つけ、急いで駆け寄り状況を聞いたところ、どうやら近所のマンションで飛び降りがあったらしいとのこと。どうりでサイレンの音が近いはずです。
「それで、どうなったの? 助かったの?」
「分からない。でも、まだ中学生くらいの子らしいのよ」
「嘘…!」
その時、もの凄い勢いで走ってくる百合原さんを見かけ、声を掛けようとしたのですが、まるで周囲など眼中になく、足元は別々のサンダルで、髪を振り乱して必死で走る彼女の様子に、ただ事ではないと感じた私たち。
動揺する椎名さんに、百合原さんのお宅に行き、戸締りを確認して来てあげて欲しい旨を伝え、私はそのまま後を追い掛けました。
到着したのは、近所のマンション。そこには何台ものパトカーと救急車が停まり、沢山のギャラリーが取り囲んでいたのですが、百合原さんは人垣を突き破るように中へ飛び込みました。
追従した私の目に飛び込んだのは、今まさに救急車に運び込まれる少年と、その傍らに座り込んでいるもう一人の少年の姿。蓮くんでした。
「蓮ーーーーーっっっ!!!」
そう叫んで、息子に駆け寄り、力一杯抱きしめた百合原さんに、それまで必死で張り詰めていた心の糸が切れたように、瞳からぽろぽろと涙を零した蓮くん。
私たちから少し遅れて到着した蓮くんのお友達は、警察によって張られた規制線に、こちらへの侵入を阻止されてしまい、遠くから心配そうに眺めるばかり。そのすぐ脇には椎名さんの姿もあり、鍵を振っていました。
けたたましいサイレンを鳴らし、救急車が走り去ると、現場検証をしていた警察官が、蓮くんに言葉を掛けて来ました。話を聞かせて欲しいということで、百合原さんに少し待つように言ったのです。
倒れそうになる百合原さんの身体を支え、植え込みの縁に腰かけさせ、蓮くんを待つ間ずっと、震えが止まらずにいる彼女の手をしっかり握りしめながら、少しでも気が紛れるように、『大丈夫』『ゆっくり呼吸して』『蓮くん、すぐに戻るから』と、声を掛け続けました。
マンションから飛び降りたのは、蓮くんの親友で陽斗くんという男の子でした。放課後、下駄箱にあった彼からの遺書を見て、驚いて友人たちと手分けして探していたところ、このマンションに辿り着き、現場に遭遇したのです。
自殺の原因は、いじめでした。
中学生になり、それまで仲の良かった蓮くんたちとクラスが別になった陽斗くんは、クラス内で孤立した感じで、やや内気な性格も相まって、いつしかいじめのターゲットになり、それが徐々にエスカレート。
最近では、現金を要求されていて、お小遣いも貯金も使い果たし、お家のお財布から持ち出すことが頻繁にあり、それが両親に知られて酷く叱責されたものの、いじめられている事実を打ち明けることが出来ず、逆にお金を払えないことで、いじめグループから暴力を受け、とうとう堪え切れずに命を絶ってしまったのです。
恐喝した金額が合わせて十数万円と大きく、また、グループの中に14歳以上もいたため、悪質性、事件性が高いとして、少年事件として立件されることに。そのため、静かなこの街に多くのマスコミが押し寄せるなどして、かつてない大騒ぎになったのです。
周囲が騒然とする中、陽斗くんを失ったことで、激しく自分を責めていた蓮くん。クラスや部活が違っていたとはいえ、そのことに気付けなかったことが、悔しくてたまりませんでした。
格好のゴシップネタに、子供たちへの取材も過熱し、学校や教育委員会から配慮を求める要請が出されたものの、特に仲が良かった蓮くんたちへのアプローチは留まるところを知らず、あまりの過熱ぶりに、一部の人からは、蓮くんたちがいじめグループの一員のような誤解まで発生する始末。
まだ気持ちの整理もつかないのに、生前の陽斗くんの様子を訊かれることで、さらに自責の念に駆られ、外出も儘ならず、自宅で塞ぎ込むようになり、『死にたい』と口走ることが増えて行った蓮くん。
そんなある日、『助けて! すぐに来て!』と泣きながら、百合原さんから電話が掛かって来たのです。
我が家以外にも、お向かいの萩澤さんと、その日たまたま有給で自宅にいらっしゃった葛岡さんにも連絡したらしく、玄関で鉢合わせたふたりと一緒に中へはいると、母子でボロボロに泣きじゃくっている二人の姿がありました。
泣きながら『死にたい』という蓮くんに、『死ぬなんて許さない』と泣き叫ぶ百合原さん。ここへ来るまで、二人の間に相当な葛藤があったことは、容易に想像が出来ます。
百合原さんから連絡を受け、間もなく自宅に戻っていらしたご主人(蓮くんのパパ)も、半ばパニックになりながら、必死で蓮くんを説得しようと、マシンガンのように言葉を浴びせ始め、それに対して余計に感情が高ぶる蓮くん、百合原家は、収拾が付かない状態に陥ってしまいました。
そこで、一先ず親子を引き離すため、葛岡さんの長男、柊くんを呼び、百合原さんご夫妻を自宅に残し、私と柊くんが蓮くんを連れて、我が家へ移動することに。柊くんは蓮くんの二つ上、この街に来て以来のお友達で、お互いのことはよく知っていました。
彼に来て貰った理由の一つは、万が一の時のための助っ人です。中1とはいえ、スポーツもしている蓮くんが激高して、衝動的に自傷に走るような行動に出た時、私一人で押さえ付けるのは困難だと考えたから。
もう一つは、かつて柊くんも、自身の父親を不慮の事故で亡くしていたため、突然、大切な人を失う気持ちが理解出来るから。柊くんにしても、一連の出来事で、蓮くんのことをとても心配しており、急なお願いにも関わらず飛んで来てくれたのです。
リビングのソファーに腰かけると、いつものようにお客様の横に陣取る、我が家の猫たち。ペットは飼ったことがない蓮くんでしたが、彼自身、無意識に、それでいてとても自然に、猫の背中を撫で始めました。
私は二人に冷たいお茶を出し、とりあえずそれを飲むように勧め、数口飲んで一息ついたところで、切り出しました。
「興奮したから、喉が渇いたでしょ。おかわりが要るなら、好きなだけ飲んでね」
うつむいたまま、私の言葉に小さく頷いた蓮くんでしたが、唇をぎゅっと結んだままで、それは彼の閉ざされた心を象徴しているようでした。
そんな蓮くんに、静かな声で、柊くんが語り掛けました。
「蓮、大変だったな。苦しかっただろ。俺で良かったら話聞くからさ、何でも言いなよ?」
「・・・」
とは言っても、そうそうすぐに話せるものではないことも、よく分かっていました。なので、もう一度お茶を飲むように勧め、
「まだ気持ちが混乱して、話し辛いよね。じゃあ、こっちから話すから、話せそうになったら、いつでも話して」
再び小さく頷き、グラスを口に運んだのを見て、私から話し始めました。
「私もね、少し状況は違うけど、中学生の時に、今の蓮くんと同じ経験をしてるから、共感するんだよね。言葉とか、気持ちとか、そんな単純じゃない、もっともっと複雑で、底なし沼みたいな、その闇の渦に執り込まれるような、苦しみと後悔と恐怖と罪悪感…」
「・・・」
「ああ、それ、俺もなんとなく分かります。父さんが死んだとき、聞きたいこととか言いたいこととかいっぱいあったのに、うまく纏まらないし、母さんに聞くのも悪いし、そのうち自分が悪いような気持ちになって…って、でもまだチビだったから、訳分かんなかったのかも知れないけど」
「柊くんもなんだね。私もね、突然お友達が亡くなって、気づいてあげられなかったのが悔しくて、止められなかった自分を責めてた。聞きたいことはいっぱいあったのに、もう本人はいなくて。だから、自分が死んだら、また会えるのかな、って」
「・・・」
「ちゃんと会って、もう一度、色んなお話をしたかった。そして、何もしてあげられなかったことを、謝りたかった」
「会…えるの…?」
不意に口を開いた蓮くん。真っ直ぐに私を見つめ、かすれた声で尋ねました。
「死んだら…、また陽斗に…会えますか…?」
私も、蓮くんの瞳をじっと覗き込み、尋ねました。
「蓮くんは、どう思う?」
「…分かりません。分からないけど…、陽斗と話がしたいです…」
「何を話すの?」
「何で、打ち明けてくれなかったのか…、訊きたいし…」
「うん、それから?」
「僕じゃ、陽斗の力になれなかったのかな…って…」
「うん」
「誰にどんなことされたのかとか…、どんなに辛かったかとか…、陽斗の話、全部訊きたい…」
「うん」
「同じです…僕も、何もしてやれなかったこと…謝りたい…」
「うん」
「陽斗に…会いたい…!!」
その瞬間、蓮くんの瞳から大粒の涙が零れ落ち、すぐ真横にいた猫が、そっと覗き込むように顔を寄せると、優しく涙を舐めました。
蓮くんは、再び猫の背中を撫で、掌に伝わったその柔らかく温かい感触に、堰を切ったように声を上げて泣き始め、手渡したタオルで、留まるところを知らない涙を何度も拭いながら、しばらくの間泣き続けました。
傍らで、時々蓮くんの背中を摩りながら、黙って寄り添う柊くん。まるで仲の良い兄弟のような二人の姿に、私も黙ったまま、蓮くんが落ち着くのを待ちました。
しばらくして、少し落ち着きを取り戻すと、詰まったり、同じ話を繰り返したり、思い出して涙を浮かべたりしながら、自分から心に抱えていたものを吐き出して行きました。私と柊くんは、じっくりと話を聞きながら、頷いたり、共感したり。
途中、クッキーを取り出し、ふたりに、
「食べよう。たくさん喋ると、喉も渇くし、お腹も空くでしょ。まだ先は長いんだから、ね?」
すぐにクッキーを手に取り、口に入れた柊くんに釣られるように、蓮くんもクッキーを頬張り、そのままふたりは夢中で食べ始めました。ここへ来てからすでに3時間、健康な中学生男子なら、お腹も空くというものです。
当然、それだけで足りるはずもなく、あるだけ全部食べつくすと、柊くんが言いました。
「ごめん、不謹慎かも知れないけど、なんか腹減っちゃって。蓮は?」
「うん、僕も。急に、何だか変だよね?」
「私も、そうだったよ。いっぱい泣いたときって、無性にお腹が空くもんなんだよね。じゃあ、ちょっと休憩して、何か食べるもの作ろうか? パスタとかでもいい?」
「はい、大丈夫っす。手伝いますか?」
「じゃあ、3人で手分けして、急いで作って、続きを聞こう!」
そう言って、お湯を沸かし始めた時、百合原さんたちと一緒にいた葛岡さんが、代表して様子を伺いに来ました。いったいどれだけ深刻になっているのかと思いきや、3人でパスタを茹でているという状況に、驚きを隠し切れません。
それとは別に、自宅では上げ膳据え膳で、何一つしない息子が、率先して動いている様子に、呆れるやら、腹立たしいやら。
ただ、さっき見た修羅場は脱しているのは確かで、とりあえず、これまでの経緯と今の状況を簡単に説明し、不安いっぱいで待っている百合原さんご夫妻に伝えてもらうよう、お願いしました。
そして、おそらくパスタだけでは足りない食べ盛りの二人のために、喋りながら食べられて、お腹が満たされるようなおかずをリクエスト。私が作れれば良いのですが、蓮くんは、私と柊くん、ふたり一緒に話を聞いてもらいたいので、出来れば席を外したくありませんでした。
気持ちが満たされるのと同時に、お腹も満たされると、その効果は相乗しますので、せっかくのこの機を逃すわけには行きません。ついでに、それが蓮くんの好物なら、尚言うことなし。
伝言から30分もしないうちに、百合原さんは沢山のお料理を作り、それをご主人と一緒に、我が家まで運んでいらっしゃいました。申し訳なさそうに私に謝罪と御礼をおっしゃるご夫妻。
「本当に、ごめんね。こんなにご迷惑を掛けて…」
「心配だと思うけど、後もう少し。蓮くん、たくさん話してくれてるし、お腹も空くようになったから、きっと大丈夫。もし足りなくなったら、また差し入れをお願いするかも知れないけど、その時はお願いね」
「ありがとね…」
「すみません、松武さん、息子を宜しくお願いします」
自分たちで作ったパスタと、ママの美味しい手料理を食べながら、心の内を吐き出して行くうちに、どんどん元の穏やかな表情を取り戻して行く蓮くん。やがて、自分の気持ちをあらかた吐き出せたと感じたのか、今度は、私たちに、当時のことを尋ねて来ました。
それに対し、言葉を選びながら、当時の経緯や感情を忌憚なく話す柊くん。彼もまた、突然の父親の死に、相当な衝撃を受けた一人でした。
**********
その日、休日にも関わらず、会社の用事があると言い、自分の車で出掛けた父親。柊くんは、朝から母親の趣味であるガーデニングのお手伝いをしていたそうです。
午後、警察から電話があり、父親が高速道路で事故を起こし、心肺停止状態とのこと。すぐさま母親に連れられ、搬送された病院へ駆け付けましたが、到着した時にはすでに手遅れでした。
でも、事態はそれだけでは終わらなかったのです。
車にはもう一人同乗者がいました。意識不明の重体で一緒に搬送されたのは、面識のない若い女性で、会社に連絡すると社用で出掛けた事実はなく、会社関係者でもないようで、ICUで治療を受ける彼女に尋ねることも叶いません。
彼女が誰なのか、どういった関係なのかが気になるものの、パニック状態の中、すぐに父親を自宅に運ぶ手続きをしなければならず、帰宅してすぐに、葬儀の手配、菩提寺への連絡、親戚や友人・知人・勤務先等へのお知らせ、死亡診断書、火葬許可証等の書類的な手続き等々…。
まだ幼い子供ではありましたが、母親や親戚の人たちが動き回るのを見て、人が亡くなるということが、どれほど大変なことなのか、突然父親を失った悲しみとは別に、妙に冷静にその状況を受け入れている柊くんがいました。
その後も母親は様々な手続きに忙殺され、ようやく一段落したのは、葬儀から3週間が過ぎた頃。ふと、あの女性のことを思い出し、もし彼女が助かって、話が出来る状況であれば、会ってみたいと思った母親と柊くん。
父親の最期を知っているのは、彼女だけなのですから。
唯一分かっていた『長谷川ふみえ』という名前を頼りに、ふたりが搬送された病院に問い合わせると、すでにご家族によって転院された後で、警察に問い合わせても個人情報のため教えて貰えず、結局、彼女が父親とどういった関係で、なぜあの場所にいたのかは分からないまま。
身元の分からない若い女性と一緒にいて亡くなったことで、周囲に疑惑を残す形になり、無神経な人々からの好奇の目や、母親への遠慮もあって、表には出せない複雑な感情を抱いていたことを吐露しました。
「マジ、会って話が出来るんなら、その辺のこと全部訊きたいとは思うけど、物理的に無理じゃん? だから、もう死んだもんはしょうがないし、考えるの止めないとって、自分に言い聞かせてたな」
「やっぱ、そうだよね。でも、頭では分かってるんだけど…」
「心が納得しないんでしょ?」
「うん、そんな感じ。陽斗はもういないって分かってても、無意識に探してるっていうか。いないって思えば思うほど、会いたくて仕方なくなる…」
「じゃあ、無理にいないって思わなくても、良いんじゃないかな?」
そう言った私の言葉に、ふたりは驚いた顔で振り向きました。私も、ふたりの顔を交互に見つめながら、ゆっくりした口調で続けました。
「蓮くんも言ったみたいに、私も『もういない』『二度と会えない』ことが辛くてね。でもある時、もしまた会えたらって考えたのね。たまたま今は、遠いところにいて会えない状況なだけ、みたいな」
「でも、死んじゃってるわけですよね?」
「そこなんだよね。死後の世界って、何なの? 色々言われてるけど、結局何が真実なのかって、分からないじゃない?」
「確かに、そうっすよね」
「本当に死後の世界があって、死んだ後に再会出来るなら、そこで沢山話をするもよし。でも、死んだ瞬間、何もかも消失するんだとしたら、二度と会うことは出来ない。広い意味で再会出来るのは、生きてる人間の記憶の中だけなんだよね。肉体が滅びても、記憶の中の存在までは消えないから」
「けど…」
「うん。実態もなければ、コミュニケーションも取れない、だからこそ、辛いんだよね。いつか、科学がそれを解明してくれる日が来るかも知れないし、それは、自分の寿命が尽きた後かも知れない。間違いなく言えるのは、人間に生まれた以上、いずれ確実に自然から淘汰される運命にあるってこと。そしてそれは、人生で1回きり、後戻りは出来ないのよね」
「そうですよね…」
「私は、確実にコンタクトを取りたかったから、不確かな可能性に賭けるのを躊躇したの。仮に、可能性が50%だとしたら、駄目だった時のことを考えて、その子のために、生きてるうちにしかやれないことを完了させてからじゃないと、って」
「たとえば?」
「蓮くんの場合、じきに、加害少年たちの審判が始まるでしょ。もう何も証言出来ない陽斗くんに代わって、蓮くんが知ってる陽斗くんの色んな事を、警察の人や、もしかしたら裁判所の人たちに話せるチャンスがあるかも知れない。逆に、それが出来るのは、陽斗くんのことを知っている、蓮くんだけだから」
「陽斗のこと…」
「うん。それだけじゃないよ。もっと遠い未来を考えたら、やれることは無限大にあると思うの」
「僕にも、何か出来るのかな…」
「急がなくていいし、無理はしなくていいと思う。今はまだ、悲しかったり、苦しかったり、辛かったりするのが当たり前。大切な人を失うって、心も身体も引き裂かれるような痛みを伴うものだから。後悔するのも、涙が出るのも、それだけ陽斗くんのことを大切に思っていた証なんだよね。泣きたいときは、思いっきり泣いて良いんだよ」
「いいの…?」
「勿論! 100年経っても、悲しいものは悲しいんだから、タイムリミットなんて考える必要なし。他人に見られるのが嫌なら、一人で泣いてもいいし、話したくなったら、いつでも私と柊くんが聞き役になるし、ね?」
「うん、俺もいつでもOK!」
「立ち止まって動けない時は、『陽斗くんならどう思ったか』『どう言ったか』って、考えてみて。陽斗くん宛の、お手紙を書いても良いと思うし。答えにも、解決にもならないかも知れないけど、手掛かりや、きっかけにはなると思うの。そうやって、私も乗り越えて来た一人だから」
すると、蓮くんはこっくり頷き、私と柊くんにお礼を言うと、
「なんか、急にすごく眠くなってきちゃった。ちょっとだけ、横になってもいい?」
そう言って、横になった途端、静かな寝息を立て始めた蓮くん。まだ12歳の子が、ずっとずっと、夜も眠れないほど苦しんでいたのです。こうして私たちに胸の痞えを吐き出したことで、ようやく少しだけ、心が解放されたのでしょう。
やがて時間の経過とともに、少しずつその痛みは薄れ、徐々に記憶の片隅へと追いやられて行き、ある日、穏やかな日常に溶け込む自分に気が付くのです。あれほど激しかった痛みを和らげるのは、『時間』という薬だけ。
今はまだ、その激痛の中にいる蓮くんの、一時の安らかな寝顔を覗き込み、小さく微笑んだ柊くんに、私も小さく微笑み返し、そっと毛布を掛けました。
柊くんに蓮くんを任せ、ずっと待機してもらっていた百合原さん夫妻に連絡すると、すぐに迎えにいらっしゃいました。久しぶりに見た穏やかな息子の寝顔に、少し安心した感のおふたり。
「蓮、起きて。帰るわよ」
「起きなさい、蓮。どうして起きないんだ?」
声を掛けても、身体を揺すっても、ぐっすり眠ったまま、全く起きる気配がありません。
そこで、おふたりにこれまでの大まかな経緯を説明し、話せる範囲で、蓮くんが心に抱えていたものをお伝えしました。百合原さんもご主人も、涙を浮かべながら話に耳を傾け、穏やかな息子の寝顔を優しく撫でました。
余程深い眠りに落ちたようで、何度声を掛けても起きない蓮くんを、自宅までご主人が背負って連れ帰ったのですが、その後、ほぼ一昼夜眠り続け、やっと目覚めたかと思いきや、トイレとご飯を済ませると、また長時間の眠りに就くのを繰り返し、ようやく普通に起きだしたのは、五日後のこと。
それからしばらくの間は、ぼんやりした感じでいましたが、日を追う毎に、徐々に生活のリズムと、本来の自分を取り戻して行った蓮くんでした。
**********
お茶を飲み干し、ほっと息を吐いた百合原さん。
「もしあの時、どうしても死ぬってきかないなら、私も一緒に逝くつもりだった」
「そっか…」
「松武さんがいなかったら、私たちは今こうして、ここにはいなったよ。私たち家族を救ってくれて、ありがとう」
「そんなことないよ。蓮くんも、百合原さんご夫婦も、負けなかったからだと思うよ」
「いきなり留学するって言いだしたときは戸惑ったけど、あの歳で人生の目標を見つけたんだから、大したもんだと思うの」
「そうだね」
しばらくして、学校へも通うようになり、亡くなった陽斗くんのために出来ることは、何でもやった蓮くん。その間、何度となく落ち込みと回復を繰り返し、その度に、私や柊くんと話をしていましたが、それも徐々に減って行ったある日のこと。
突然、外国の全寮制の学校に入り、そこで勉強をしたいと言い出し、その言葉通り、自らてきぱきと手続きを進め、蓮くんは日本を旅立って行きました。なんでも、目的の大学へ進学するため、中学生の今から現地の全寮制の学校へ入り、勉強をするのだとか。
彼が希望するその大学は長い歴史があり、医系や理工系では多くのノーベル賞受賞者を輩出している世界有数の名門、また研究の分野は多岐に渡り、超心理学や超常現象の研究に於いても権威があり、将来その分野に特化した研究者になりたいのだそうです。
蓮くんの興味は『魂の存在』の有無。死後、何らかの形で意識は残るのか否か、残るとすれば、コンタクトは可能か等、未だ科学では解明されていないそれらを、きちんとした科学的な立場から証明することが、最大の目的だといいました。
いよいよ来年からは大学生になる蓮くん。彼がその研究に着手するには、すでに確証されている多くの研究で実績を積み、さらにそこから新たな研究を積み重ね、揺るぎない地位を確立するところから始めなければならず、気の遠くなるような長い年月が掛かることでしょう。
当初、留学に難色を示していた百合原さんのご主人。ご夫妻が蓮くんの留学を最も懸念した理由の一つは、ご主人のお父様でした。
ご主人のご実家は、曽祖父様が創始者である大学の理事長を務めており、百合原さんのご主人も学部長をしていました。
志望校は世界的な名門大学でもあり、留学自体はOKだとしても、将来的に希望する研究テーマを、堅実な父親(蓮くんの祖父)がどう思うか、とても不安でした。猛反対されて、再び彼がネガティブになってしまったら、元も子もありません。
ですが、予想に反してその反応は肯定的で、むしろ、親族に一人くらい、そうした毛色の違う研究者がいても面白いと、全面的な資金援助まで申し出てくださったのだそうです。
ご主人も、今では蓮くんのよき理解者となっていて、仕事柄、学会などで現地へ赴いた際には、父子水入らずの時間を過ごしているようです。
「幽霊の研究なんて、いかにも子供が考えそうなことで、馬鹿げてるって言ってしまえばそれまでだけど、案外、みんな心のどこかでは、知りたいと思ってたりするのよね」
「お祖父ちゃんが味方なら、蓮くんも心強いよね」
「本当に恵まれてるわ、あの子。あとは、途中で投げ出したりしないことだけ、祈るばかりよ」
「大丈夫。彼なら、絶対」
そう、彼ならきっとやり遂げるはず。たとえ、本人が望んだものとは異なる結果だったとしても、最後まで導き出した結論に、悔いはないと思います。
次に会うときには、また一回り大人になっているだろう彼の持ち帰る土産話が、今から楽しみで仕方ありません。
不意に、百合原さんの携帯が鳴り、電話は藤田さんからでした。どうやら、急いで話したい用件があるらしく、私と一緒ならなお都合が良いということで、そのまま我が家に来て貰うことに。
数分もせずに、到着した藤田さん。神妙な顔つきで、たった今あったという、実家からの電話の内容を話しました。
「お義母さんが、マジギレして、実家へ電話して来たらしいの。それで、うちの親も『話が違う!』って、頭に来てて」
「何があったのか、詳しく話して」
藤田さんはこっくり頷くと、先ずは差し出したお茶をゆっくり飲み、一呼吸入れてから、詳しく話し始めました。
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