第8章
倒れている藤田さんに歩み寄り、呼吸と脈を確認した百合原さんは、すぐさま119番に通報しました。
救急車の到着を待つ間も、意識を失っている藤田さんに一生懸命声を掛けながら、彼女がちゃんと呼吸を確保出来ているか、どこかに怪我がないかなど、細かな気遣いをしていたのですが、
「まあ、可愛そうに。はやく連れて帰って、手当てしてあげないと」
そういって、藤田さんに歩み寄ったその高齢の女性が、彼女の身体に触れようとした瞬間、百合原さんは声を荒げました。
「動かさないで! 頭を打ってるかも知れないんですよ!」
「誰よ、あなた!? そっちこそ、うちのお嫁さんに勝手なことしないでよ! 失礼な人ね!」
「下手に動かせば、命に関わることだってあるんです!」
その遣り取りから、彼女が藤田さんの義母だと分かりました。
制止する百合原さんに対抗するように、ムキになって藤田さんに近づこうとする彼女の肩をそっと叩き、振り向いた彼女に言いました。
「大丈夫。あの人は、救急救命措置のレクチャーを受けている人だから、ここは彼女に任せましょう」
「でも、私は…!」
「それより、お嫁さん、入院になるかも知れませんから、お義母さんは先に戻って、その準備をしておかないと。だから、ここは彼女に任せて、ね?」
すると、義母は頑なな態度を一変させ、はつらつとした表情でとても嬉しそうに答えました。
「それもそうだわね。じゃあ、急いで支度しないと」
「ここへは、おひとりでいらっしゃったんですか? よければ、私の車で、ご自宅までお送りしますけど」
「いいわ。娘に電話して、迎えに来て貰うから」
「でしたら、私の電話を使ってください」
そう言って携帯を渡し、義母が長女に電話を掛けている間に、2階の踊り場で座り込んでいるご主人の側に行き、声を掛けました。
「藤田さん、松武です。大丈夫ですか?」
「あ…はい…あの…」
「何があったんですか?」
「その…あの…これは…」
「しっかりしてください。奥さんの緊急事態なんですよ?」
「違うんです…あの…俺じゃなくて…!」
「俺じゃない? 転落の原因は、お母さん、なんですか?」
「いえ…その…だから…そういうことじゃなく…」
しどろもどろで、質問の答えにならないご主人。目が泳ぎ、まるで知らない場所に連れて来られた猫のように、オドオドしているのです。
おそらく、彼がこの世で最も苦手とする存在と、あり得ない場所で、予期しない形で遭遇したのでしょうから、同類としては気持ちが分からないでもありません。
ですが、この状況を看過出来るはずもなく、同時に、事の如何に関わらず、ご主人が何を語るのかは、重要な部分でもありました。
そこで、彼の顔を両手で挟むようにして、こちらに向けさせ、じっと瞳を覗き込みながら、
「しっかりしなさい! あなた、お兄ちゃんなんでしょ?」
「え…? あ、あの…」
「状況も説明出来ないの? がっかりさせないで」
そう私が発した言葉に、スッとご主人の顔から表情が消え、それまでの動揺が嘘のように落ち着きを取り戻し、小さく深呼吸をすると、母親の動向を目で追いながら、私に向かって話しました。
「実は、僕もたった今、自宅に戻ったところなんですよ。そしたら、母が遊びに来ていて、妻とふたりで、階段越しに話をしていたんです…」
「それで、奥さんは?」
「帰宅した僕に気づいて、階段を降りようとしたんです。でも、足を滑らせてしまって…」
多分、それが嘘だということは分かっていましたが、今はそれには言及せず、適度に相槌を打ちながら、立て板に水の如く『妻が転落したのは事故』という弁明を繰り返すご主人の話に耳を傾けました。
何度も同じ話を繰り返すのは、相手にそれが事実だと強く印象付けるためのものであると同時に、自分自身すらも、それが事実と錯覚させる効果があり、おそらく彼は無意識にそれをやっているのでしょう。
やがて、自宅前に横付けされた救急車のサイレンが響き、百合原さんはすぐさま駆けつけた救急隊員に、藤田さんが階段から転落したらしいことを説明しながら誘導し、頭部に衝撃を与えないようにして運びました。
そして、こっそりと隊員の一人に、『ご主人によるDVの可能性があるため、自分も同行させてほしい』旨を申し出て、救急隊員の判断で、百合原さんとご主人、二人一緒に救急車に同乗して、病院へと運ばれて行きました。
「これ、どうもありがとう。娘と連絡が取れて、すぐに迎えに来るそうよ」
そう言って、藤田さんの義母は私に携帯を返すと、すたすたと2階へ上がって行き、クローゼットの中から、着替え等を物色し始めました。どうやら、本気で藤田さんの付き添いをするつもりらしく、そこからも、彼女の怖いくらいの執着心が伝わります。
着替えの物色に夢中で、まるで周囲のことなど眼中にない様子の義母。何か話しかけようにも、目の前の彼女と自分の母親が重なって、無意識に心拍数が上昇します。
彼女からアクションがあれば、応対も可能なのに、無言の時間はそのまま私にプレッシャーとなって圧し掛かり、不安に苛まれた次の瞬間、不意に私の中に、泣いているまだ幼いもう一人の自分が浮かび上がりました。
『えぇ…ん… えぇぇぇぇ…ん…』
孤独と絶望の闇の中で、誰かの救いを切望しつつ、でもそれもとうに諦めた、自分のインナーチャイルドが発するネガティブな感情に飲み込まれそうになり、
『私がしっかりしなければ』
そう自分に言い聞かせ、今何をするべきか、どう対応することがベストなのかを、必死で頭の中で組み立てるものの、高圧的な目線で、蔑むように私を見下ろす母の虚像が、今再び、目の前に立ちはだかったのです。
必死で抗おうとする一方、このまますべてを放棄して、楽になれたら、という誘惑に流されそうになる気持ちがせめぎ合い、徐々に意識が遠くなり始めたその時でした。
「おじゃましまーす!!」
勢いよく玄関が開く音と、安心感を伴う聞き覚えのある声に、ハッと現実に引き戻された、私。
『助かった!』
救急車が病院へ到着するまでの間に、百合原さんが、メンバーにメールで連絡していたのです。最初に到着したのが椎名さんと萩澤さん、ふたりは私の姿を見つけ、手を振りながら駆け寄ってきました。
彼女たちに大体の現状を説明し、2階にいる義母から目を離さないようにお願いすると、テーブルに置かれたままだった藤田さんの携帯から、彼女の実家に連絡しました。
運よく、電話に出たのは藤田さんの妹の寿恵さんでした。姉の携帯から他人の声で掛かって来た電話に、すぐに何かあったことを悟り、藤田さんが救急車で病院に運ばれたことを伝えると、
「そんな…! どうして、姉が!?」
「今、病院に向かっている最中で、到着したら、同行した友人から連絡が入ると思います」
「どうしよう…! 私、どうしたら…?」
「とにかく、落ち着いて、私の話を聞いて頂けますか?」
動揺する彼女に、一先ずこのことは、ご両親には伏せておいたほうが良いかも知れないとアドバイスしました。
ただでさえ、大切な娘の身に起こった状況にショックを受けるだけでなく、そこへ、憎き娘婿や、その姑が絡んでいるとなれば、怒りとパニックで冷静ではいられなくなるかも知れません。
一刻を争う事態なら別ですが、とりあえず、搬送先の病院と、詳しい状態が分かるまでは、急いて事を荒立てないほうが賢明です。
「ご両親には内緒で、今から、お姉さんのお家まで来られますか?」
「すぐに行きます! 15分以内には、行けると思いますから!」
「事故を起こすといけないから、交通機関かタクシーで。病院へは、私がお送りします」
「いろいろ、すみません!」
そう言い、電話は切れました。
その間にも、メールを受け取ったメンバーが、一人、また一人と集まる中、到着した、ひとりだけ面識のない女性。彼女が、ご主人の妹のひろみさんでした。
大体の状況は母親の電話で聞いていたようで、私たちに挨拶をし、義母の居場所を尋ねる彼女に、2階にいることを告げると、勝手に物色をしていた母親を1階へ連れ戻し、とにかく一度自宅に戻るように言ったのですが、
「何を言ってるの、病院へ行かなきゃ。着替えだって準備したのよ!」
「他人の持ち物に、勝手なことして! まだ状況も分からないし、付き添いがお姑じゃ、お義姉さんだって気を使うでしょ!?」
母娘の、付き添いを『する』『させない』の押し問答に、唖然とするメンバーたち。幾分、持て余し気味のひろみさんを援護するため、ふたりの応酬に横から割り込んだ私。
「とりあえず、役割分担ということで、着替えは息子さんにお願いしましょうよ。もしかすると、そのまま退院するかも知れないし、お義母さんはお家に戻られて、準備をされておいた方が」
「そうね、そうよね! あなた、よく分かってらっしゃるわ! あなたのおっしゃる通りだわ!」
「ちょっと、お母さん!?」
「ひろみ、家へ帰るわよ。ああ、その前に、足りないものを揃えておかなきゃ。先に買い物に寄ってちょうだい」
義母はくるりと踵を返すと、半ば呆れている娘を急き立てるようにして、さっさと車へ乗り込みました。
母親に振り回されつつ、『お騒がせしました』と、私たちに会釈するひろみさんを呼び止め、『詳細は、後で電話します』と言って、携帯を見せると、先ほど受けた電話番号と察したようで、彼女もこっくり頷き、一旦この家を後にしたのです。
入れ違うようにして、玄関前に停車したタクシーから降りてきたのは、藤田さんの実妹、寿恵さんでした。
タッチの差で、両家が接触しなかったのは、まさに奇跡。もし、顔を合わせて、トラブルにでもなっていたらと思うと、誰もが冷や汗ものです。
同時に、そのタイミングで百合原さんから着信があり、収容された病院名を伝えるために、たった今到着したばかりの寿恵さんと電話を代わり、すぐさま、彼女は自宅で待機していた夫に伝え、そのまま病院で合流することになりました。
「その病院なら分かるから、私が」
「じゃあ、帰りに百合原さんをお願い」
そう申し出てくれた萩澤さんに車のキーを渡して、病院までの送迎を託し、寿恵さんに藤田さんの携帯をお返ししました。
「何かあれば、松武か百合原まで、連絡してください」
「すみません、お世話をお掛けします」
一応、寿恵さんの了解を得て、私たちは藤田さんの自宅で、百合原さんたちが戻るのを待つことにしました。そして、もう一つ、それまでにしなければならないことがありました。
ここ最近、常に、ご主人とのやり取りを録画していた藤田さん。もしやと思い、以前録画されていた室内の映像のアングルから、それらしい場所を探してみると、
「あった!」
「こっちにも!」
リビングに設えられた本棚と、2階踊り場のニッチ。どちらの場所も、一見してわからないように設置された小型のカメラが、室内を録画し続けていました。
とりあえず、そこにいた全員で確認してみると、撮影された映像には、藤田さんが転落した時の状況が、音声とともに鮮明に記録されていました。
**********
映像は、藤田さんが録画スイッチを入れたところから始まりました。少しして、玄関が開く音がし、入ってきたのは、藤田さんの義母でした。
突然の訪問だったのでしょう。驚いたように声をかける藤田さんに、義母は無言のまま勝手に2階へ上がり、その後を藤田さんが追います。そこへ、再びドアが開く音がし、現れたのはご主人でした。
妻と母親が一緒に2階にいるという状況に驚きながら、自分も急いで駆け上がり、何やら三人がもみ合うような様子の直後、藤田さんは短い悲鳴を発し、そのまま1階まで転落したのです。
「そっちの映像は!?」
「再生するわよ」
リビングからの映像では、よく分からなかった位置関係も、2階のニッチの映像で、はっきりと確認することが出来ました。
最初に階段を上がった義母、それを追いかけるように藤田さんが上がり、最後に駆け上がってきたのがご主人。
義母が藤田さんに『あなたには看病が必要だから』云々と、自分と一緒に自宅(義実家)へ行くように言い、それをやんわり断る藤田さん。ふたりを追い掛けながら、少し強い口調で、実母にやめるように言うご主人。
義母が、藤田さんの手を引っ張り、連れて行こうとしたのを、ご主人が止めに入り、3人がもみ合うような格好になった次の瞬間、いきなり義母がご主人を突き飛ばしたのです。
突然のことに、思わずしりもちを付いたご主人と、びっくりして固まる藤田さん。しかし、その次の瞬間、義母はくるりと向きを変えると、2階踊り場の端に立っていた藤田さんを、さっきご主人にしたと同じように、突き飛ばしたのです。
それは、ほんの数秒間の出来事でした。義母には、一切の躊躇は見られず、年齢からは想像出来ないほど、プログラミングされたロボットのような無駄のない動き。そして、
「どうして、お母さんの言うことがきけないの? あなたには、がっかりだわ」
誰にともなくそう言うと、硬直したまま、声も出せずにいるご主人を無視し、ゆっくりと階段を下り始め、階段の一番下まで辿り着いた丁度そのとき、室内に飛び込んだ私と百合原さんに鉢合わせ、あとは周知のとおりです。
すぐに、百合原さんに電話をして、その事実を伝え、百合原さんは対応にあたった病院関係者に事情を話し、すでに救急隊員からもDVの可能性を知らされていた病院側も、警察に連絡。
到着した警察から、別々に事情を聴かれたご主人と百合原さん。食い違う双方の話に、百合原さんは録画された映像の存在を伝え、後程それを警察に提出することになりました。勿論、ご主人は妻、藤田さんと接見禁止です。
やがて、病院で合流した藤田さんの家族とバトンタッチし、妹の寿恵さんにもその事実を伝え、後はご両親にどう話すかの判断は彼女に一任して、百合原さんたちはこちらへ戻ることに。
それにしても、キレたご主人がしたならともかく、なぜ、義母がそんな行動に出たのか、よく理解出来ないメンバーたち。
百合原さんが戻るまでの間に、さっき藤田さんから聞いた、ご主人の幼少期の出来事と、『代理ミュンヒハウゼン症候群』のこと、そして、藤田さんの義母が、その病気である可能が高いことを説明しました。
常識からは考えられない壮絶な出来事に、皆一様に言葉を失い、誰かと目が合っては溜息をつくばかりです。
「それで、ご主人のお母さんは、どうなるの?」
「まずは、事情を訊かれるところからだろうけど、藤田さんの実家は絶対に許さないだろうし」
「でも、病気っていうことなら、状況が変わってこない?」
「それに、藤田さん、まだ離婚してないから、家族間の揉め事だと、うやむやにされないかな?」
「怪我の状況にもよるだろうけど、病院からの通報で警察が動いている以上、なかったことにはならないと思うし…」
「そうさせないために、今までみんなで協力して積み重ねて来た事実が、役に立つんじゃないかしら」
不意に聞こえた百合原さんの声に、一瞬にして空気が変わりました。大きく頷きながら、そこにいた誰もの顔に笑みが溢れました。傍にいるだけで、皆に力を与えてくれる、本当に頼りになる存在です。
一緒に戻って来た萩澤さんから車のキーを受け取り、これで、お仕事組みを除いた全員が集結しました。
**********
その後の藤田さんの様子については、幸い、転落したときに出来た軽い擦り傷以外、大きな怪我もなく、病院に到着して間もなく、意識を取り戻したそうです。
脳震盪を起こしたようなので、念のために今日から数日、検査入院をすることになり、萩澤さんが寿恵さんを送って行く際、先ほど義母が準備していた着替えを渡して正解でした。
寿恵さんの話では、やはり両親がかなり立腹していて、すぐにでも離婚に向けて話を進めるといっているそうで、もし裁判になったときは、是非協力して欲しいとお願いされたそうです。
そして、一緒に病院へ行ったご主人はというと。
「まあ、呆れるくらい口達者に、『あれは事故だった』って力説してたわ。でも、警察だって『はい、そうですか』って納得するほど、甘くないわよ」
「あの旦那の本性については、たっぷり証拠映像があるしね」
「それに、それを知らない人なんて、もうこの街にはいないでしょ」
ご主人の裏工作の事実が十分集まり、約束通り、情報を提供してくれた人たちに、しばしお預けにしていたご主人の本性を解禁した途端、その情報は、水面下であっという間に広がりました。
そして、その拡散に大きく貢献した一人が、やはり葛岡さんのおばあちゃん。
普段は、あること、ないこと、不確かな情報を、尾ひれを付けてはあちこちに吹聴し、迷惑を掛けることも多いおばあちゃんでしたが、今回ばかりはそのスピーカーっぷりが、私たちの期待をはるかに超える威力を発揮してくれたのです。
藤田さんのご主人としては、有名人も排出している大学の創始者一族で、夫は学部長、息子は外国の全寮制の名門校へ留学中、本人も民生委員という社会的地位の高い百合原さんに取り入ることで、自分の立場を盤石にしたかったようですが、その目論見は外れました。
他人の手の内を予測し、心理を操ることにかけて、天才的な才能を持つ藤田さんのご主人でしたが、どうやら今回ばかりは、自分を過信したようです。
百合原さんが過去の失敗から、いじめやモラルハラスメントなどをしている人間の嘘を見破る力を付けていたことを見抜けなかったことが、彼の最大のミスでした。
そして、彼女の側にいる、自身と同類である『私』という存在に、未だ気づいていないという事実も致命傷になったのだと思います。
そのとき、私の携帯に着信があり、先ほど義母を連れ帰った藤田さんの義妹、ひろみさんからでした。
「先ほどは、どうも…」
「あの、すみません、私、どうしたら良いのか…!」
「落ち着いてください、どうされたんですか?」
「たった今、母が…!」
かなり焦った様子で、つい今し方、母親が自宅に来た警察官に『話を聞かせて欲しい』ということで、警察署に行ってしまったのだそうです。
同様に、兄も事情聴取を受けているらしく、義姉、藤田さんの転落が、単なる事故だとばかり思っていたひろみさんは、もう何がどうなっているのか、頭の中がパニック状態だと言うのです。
何か知っていることがあれば、教えて欲しいといわれ、事情を説明するので、もう一度こちらへ来られるか尋ねると、即座に了解し、10分もしないうちに到着しました。
一先ず、興奮している彼女を椅子に座らせ、言葉を選びながら、簡単にこれまでの経緯を説明して、藤田さんが撮り溜めた映像の一部と、先ほどの映像を見せました。
予想もしていなかったであろう兄の言動と、信じられない母親の行動に困惑して、押し黙ってしまったひろみさんに、百合原さんが穏やかな口調で尋ねました。
「こうしたことに、何か心当たりはあるかしら?」
「いえ、ただ…」
少し躊躇った様子を見せたものの、すぐに、意を決したように口を開いたひろみさん。
兄に関しては、そんな人間性であったことなど、これまで全く気が付かなったそうですが、母親の過剰なまでのお世話好きは、今に始まったことではなく、以前からどこか違和感を覚えていた、と。
「小さい時、病気になると、母はすごく優しかったんです。でも、元気になると機嫌が悪くなって、怖かった…」
「それは、具体的にどういう感じだったか、覚えてるかしら?」
「特に、お薬のとき。飲むのを嫌がると、すごく怒るんです」
「お薬を飲まないと、良くならないからじゃなくて?」
「元気になってくると、違うお薬を飲まされるんです。すごく苦くて、飲むと気持ちが悪くなるんですけど、私が嫌がると、母は決まって言うんです。『どうして言うことがきけないの? がっかりだわ』って」
「それって…!」
「ええ、ビデオの中でも、母が言ってましたよね。私、なぜか母にそう言われると、それ以上逆らえなくなって」
間違いなく、彼女は子供たちを病気に仕立てるために、ひろみさんと、突然死した次男にも、何らかの薬を飲ませていたのでしょう。
そして、ひろみさんもまた母親に支配されている、インナーペアレントの被害者だったのです。唯一、兄と違う点は、他者に対する攻撃性が見られないこと。
その違いを決定づけたものは、彼女自身が、直接母親から虐待されていたという『自覚』も『実感』もなかったからではないでしょうか。逆に言えば、兄には強烈にその自覚があったはずです。
弟妹が病気だったのに対し、兄だけが骨折だったのは、当初兄にも同じ薬を投与したものの、発育の差で思ったほどの効力が見られず、看病の対象を『病気』から『怪我』に変更した可能性が否定できません。
そして、その手段が故意によって骨折させられたのだとしたら、それを受けた本人にとっては、まさに想像を絶する恐怖と苦痛だったはず。
何より、自分に手を下しているのは、この世で最も信頼し、無償の愛を注いでくれるはずの『実の母親』なのですから、その絶望感は言葉に出来ないものでしょう。
「私は、どうすれば良いんでしょうか…? 母と兄に、何をしてあげれば…」
「専門の医療機関でのカウンセリングになると思うけれど、快復するためにはまず、本人がそのことを認識する必要があると思うの。でも、難しいと思う」
「そんな…」
がっくりうな垂れ、瞳にいっぱい涙を溜めているひろみさん。
本人に自覚がなく、有効な治療が施せない場合、それ以上の被害を生み出さないためには、周囲の人間、とりわけ家族がフォローするしかないのですが、概ね普通に生きて来た彼女にとって、それは全くの未知の世界。
何より、ひろみさんもすぐにはその現実を受け入れられないでしょうし、彼女自身、母親からの支配を受けていた以上、取り込まれる危険も少なからずあり、いっそ座敷牢にでも閉じ込めない限り、コントロールするのは不可能に思われました。
「駄目元だけど、よければ一度、私が話してみましょうか?」
「え?」
「私もね、あなたたちと同じような幼少期があったから。出来ることなら、何とか呪縛から解き放たれて欲しいもの」
「お願い…お願いします! 助けて!」
こっくりと頷き、メンバーたちの顔を見ると、皆が笑顔で頷き返しました。
百合原さんは、そっと彼女の髪を撫で、穏やかな口調で言いました。
「それじゃ、大至急調べて欲しいことがあるの。あなたの家族について、出来るだけ詳細な事情。亡くなった弟さんのことや、お母さんの子供の頃の家族についても、全部」
「わかりました。すぐに調べます!」
その日のうちに、ひろみさんは、親戚、知り合い、当時ご近所だった知人など、思いつく限りの人たちに片っ端から問い合わせをし、そこで判明したのは、家族も知らなかった母親の悲しい過去でした。
そしてもう一つ。夜遅くになって連絡が入り、指示された彼女が母親を迎えに行った先は、警察とは違う場所でした。
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