第2話

 

 インディアンポーカーのお題を考え始めて数分が経とうとしていた。

「南雲、書けた?」

 鈴木が投げやりな声をかけると、南雲勇実は実にゆっくりと顔をもたげた。

「ううん。まだ」

「早く書きなよ」

「うん、じゃあ声かけないで」

 ピリッと部屋の空気が痺れたのは気のせいじゃないだろう。佐古は顔を上げ、鼻歌を唄っている王野を通りすぎて、その横で顔を青ざめている福森と目を合わせた。わけもわからずに男たちは背中に嫌な汗をかく。

 当の本人たちはというとまるで何事もなかったように口をつぐみ、鈴木はリラックスした姿勢で腕を組んで、南雲は時間いっぱいまでお題を考え続けた。

「はい、五分」

 さっきよりことさら乱暴な口調で鈴木が言い、全員が顔を上げる。顔を上げたまま誰も動こうとしない。鈴木はさっきのでありとあらゆる気力を失ったようだったし、なぜかさっきから王野は静観を決めこんでいる。

「あ、じゃあ僕、アミダ書きますね」

 空気を読んで福森は立ち上がり、全員分のお題が書かれた紙をかき集めると、壁際に置かれていたホワイトボードにペンで五本の縦線を引いた。

「それじゃ次はお題の方を」

 福森は一枚目を開き、それを一番左の線の下に書き込む。

〈お題:どんな動物に見えるか〉

「妥当な線ですね。安全志向すぎる気もしますけど」

「どうせ三秒で走り書きしたんでしょ」

 フッと世の中の酸いも甘いも噛み分けたような冷笑をした鈴木が気になったが、佐古はほっとけ、と肩を怒らせた。

 お題を考え始め、最初はお題くらいなんでもいいや、と適当に考えていた佐古だったが、よくよく考えてみるとこれがそこそこえげつないやり方であることに気づいた。あたりさわりないお題にしておいて、言葉を当てるゲームの方を楽しもうと思えばなんていうことはない。インディアンポーカーがただの数字当ての心理戦であることを考えれば、このゲームの楽しみ方はその考えが妥当だろう。

 でもこれは数字当てゲームじゃない。お題はまったくの自由。もし誰かにきわどいことを言わせようとするならば、それと同じだけのリスクを自分も背負わなければならない。それこそがこのアレンジゲームの新の醍醐味なのだ。

 佐古はこのゲームがどんなものか、まだ説明でしかわかっていない。面白いのかどうかもわからない。

 ただひとつだけ、このゲームの最大の落とし穴とも言える最悪のお題があることに、彼は気づいていた。

 佐古がふと見やると、ホワイトボードを見る王野の横顔はにやにやとほくそ笑んでいる。あいつ気づいてやがる。いや、そもそもこれが狙いだったのか。

 佐古は不安に襲われたが、それもアミダがあるから五分の一のことだ、と開き直った。少なくとも五分の一の確率では〈どんな動物に見えるか〉に当たるのだから。

「それじゃ次いきますよ」

 もったいつけて福森は二枚目を開き、中を見てあからさまにぎょっとした。なにか、人の心の闇を疑うような目で全員の顔を見回す。

「おい、なんだよ。言いたいことがあるなら言え」

 黙っていられずに佐古が急かすと、福森はもう一度二枚目の紙を覗き、それから佐古を見た。

「いや、このお題はちょっとやめといたほうがいいですよ」

「おいおい、今さらなにを言ってるんだ」

 やけに鷹揚な調子で王野が言った。

「もうゲームは始まっている。いまさらやめることはできないぞ」

「なに言ってやがる。お前が無理やり始めただけだろ」

 開き直ったはずの佐古は、なにかしらの危機を察してすかさずそう言った。しかし王野にとってそんな無駄な抵抗は織り込み済みなのである。

「だがお題に関しては鈴木が率先して方法をまとめたはずだ。おれが推し進めたというより、むしろ彼女が決めたことだろう。おれに文句を垂れるのはお門違いなんじゃないか?」

 確かにその通りだった。むう、と唸って佐古が鈴木を見ると、鈴木はこのゲームの危険性に気づいていないからか飄々としたものある。

「まあ、私が率先してやったのは認めるけど、別にさっさと開票したらいいじゃない」

 鈴木にまでそう言われて、福森は黙り、ペンを取った。そしてホワイトボードにこう書き込む。

〈お題:好きな人〉

 くっくっと笑いをこぼしそうになるのをこらえきれない王野。その様子を見て頬をそめて口元を緩める南雲。犯人はこいつか……。佐古はハアとため息をついた。

「南雲、これは秘密の言い合いっこじゃないんだ。お題に関して本人が答えなきゃいけない義務はない」

「ええ、知ってるわ」

 南雲は素知らぬ顔だ。腹の据わり方にはなんだか王野に似たところがあって困る。

「これは自分の言葉がなにかを当てるゲーム。でもその言葉を書くのは他人。つまりこれは自分の自己評価と他人の自己評価のギャップを楽しむもの。でしょう?」

 やけにつやっぽい声で南雲が振り返ると、いつもは邪険そうに彼女のことを振り払うくせに、こういう都合のいいときは目一杯利用する王野がそこにいた。

「その通り。他人はブスだと思っているのに、自分では美人だと思ってる。他人はオタクだと思ってるのに、自分ではコレクターだと思ってる。これはそういうギャップを見てコケにするゲームさ」

 ああそうか、コケにするゲームなのか。佐古はうんざりしながら、それが予想のついていた答えなので胃のあたりが少し痛くなる。

「なら、なんでこんなお題書いたのよ」

 今度は鈴木が南雲に言った。佐古は得も言われる緊張でつばをのむ。

「あんたがどんなお題を出そうと」

 そして鈴木はちらりと王野を見る。

「本人は実際にそうだってことを答えるわけじゃない。あくまで当てるのは、他人から自分への思い込み。つまり、どれだけ適当に答えたって構わないってことなのに」

 そういうことか。佐古は得心がいった。福森がこのお題はやめた方がいいと言った理由と、さっきから鈴木が余裕をかましている理由。福森と鈴木はこう思っているのだ。どんなお題が出されようと、馬鹿正直に自分が本当に思っていることを言う必要はない。

 たとえば自分はどんな動物のように見られているか、そんなお題なら、冗談めかしてゴジラとでも答えれば誰もコケにはされない。

 確かにその通りだ。これはゲーム。たかがゲーム。軽くあしらえば深手は追わない。

 でも本当にそうだろうか? 佐古は半信半疑だった。手を抜けばあっさりと逃げられる、そんなあからさまな抜け道を、王野が簡単に見落とすだろうか?

「それならそれで構わないわ。適当な答えで逃げるのも策ですもの」

 南雲は鈴木の抗弁を聞いてからゆっくりと口を開く。まるでそれは佐古への答えのようでもあった。

「でも、それならなんであなたはここにいるのかしら?」

 あごに指を当てて、上目づかいに、あたかも独り言をもらすかのように。美人なわけじゃないのに色っぽく女っぽい印象の横顔で。南雲のそれは挑発だった。

 なぜここにいるの? 本当にゲームを楽しむ気がないのなら?

 なぜだろう、と佐古は自問した。いや、自問するふりをした。ボードゲームなんてさして楽しむ気もないというのに、なぜこんな部活に籍をおいて顔を出しているのか。

 答えはわかりきっている。でも答えるのは難しい。

 そんな佐古の逡巡を置いてけぼりにして鈴木は不敵な笑みを浮かべた。

「なぜここにいるか? このふざけた部活まがいのお遊戯サークルに?」

 口調は冷静なのに、それはどこかドライアイスのような、凍てついた熱さを思わせた。

「そんなのあんたに答える義理はないけど、答えてあげる。わたしがここに来る理由なら決まってるわ。それが義務だから」

 ギム。そうかギム。佐古は反芻した。ギム。ギム。ギム。実のところ、仮部員である鈴木がここに来る必要なんてほとんどない。

 数合わせの幽霊部員。初めはそういう契約だったはずだ。

 ギム。部活名簿に名前を載せるだけで彼女の義務は果たされるんじゃないだろうか?

 いや、そうじゃない。わかってる。おれはなにを期待しているんだ?

 佐古の心の内の苦笑いを見透かすように、鈴木はさらにこう言い放つ。

「それに、そう。今日は店が休みだったから」

 その素敵な微笑みを、人でも殺せそうなゾッとする笑顔だ、と佐古は思った。


 ○


 佐古がその店の前を通りかかったのは二年に進級して間もない頃だった。

 迷子、いや、あいつらがおれからはぐれたんだな、うん。誰にともなく言い訳を並べていた佐古は、本当なら今頃クラスメートたちと街で遊んでいるはずだった。それがいつのまにかはぐれて裏路地に入りこんでしまった。

 それにしても一体どのタイミングではぐれたんだあいつら。などと周囲を見回すが、高架と土手に挟まれた狭い道は、どこからどう見ても高校生が遊びに出る場所じゃない。佐古はやれやれと首を鳴らす。

 ふと、佐古の耳にその音が飛び込んできたのはそのときだった。

 聞き馴じんだ音。ボールが弾む不規則なリズム。ゆっくり速く。コンクリートの壁を叩く音。シュート。リングにはねて、揺れるゴールのネット。鉄のネットがこすれあう金属音。ボールが目の前のフェンスにあたり、ガシャンと鳴る。

 佐古はハッとなった。いつのまにか金網のフェンスを握りしめ、コートの様子を見ていた。高架下の半面のバスケットコート。打ちっ放しのコンクリートにコートのラインだけが引かれている。そこに立って汗をぬぐっている人たち。ゴールのボードはボールが打ちつけられてあちこち色があせている。金網を握る指に、力が入る。

 佐古はフェンスの手前にいたが、中のすぐそこでボールが転がっていた。弾かれたボールが飛んできたのだ。

 コートからこちらへ一人のプレイヤーがボールを拾いに近づいてくる。半袖シャツの上にどこかのチームのユニフォームを着て、額から頭頂まですっぽりとヘアバンドで覆っている。そのせいか佐古には、へアバンドのすぐ下からのぞく目つきが印象的に映った。

 挑戦的な目。でも嫌な感じはしない。佐古のよく知っている目。勝負ごとのときの、集中力だけで研ぎ澄まされた目つき。人がなにかを追い求めているときの目だ。

 近づいてきたヘアバンドのプレイヤーは、細身で小柄だった。ポジションはガードだろうか。それともストリートではポジションなんてあまり関係ないんだろうか。ストリートバスケについて、佐古はあまり詳しくなかった。

 上腕の黒いリストバンドで顔の汗をぬぐいながら近づいてきたヘアバンドは、それとなく目線を向けながら、フェンス越しに佐古のすぐ目の前でボールを拾う。

 へバンドがかがんだとき、汗の熱気が佐古の鼻筋をかすめた。ボールを拾い、顔を上げる一瞬、目と鼻の先で佐古とへバンドの目と目が合う。したたかで綺麗な目。ほんの一瞬だけのこと。佐古はその目に見とれた。

「なにやってんの」

「悪い、今行く」

 奥のコートから仲間に声をかけられて、ヘアバンドはさっさと遠ざかっていく。

 佐古は制服ブレザーの上から心臓をつかんだ。なんだ、これ。心臓がばくつくのを佐古は感じる。早鐘を打つ鼓動。忘れていた感覚。

 たったこれだけのことで触発されたのか? フェンスの手前にたちすくみながら、佐古は自嘲気味に鼻で笑った。高揚で体の感覚が浮ついている。ちょっとストバスのコートを見たからって、そこでゲームしてるやつらを見たからってなんだ。どうせ俺はもう――。

「あっ」

 悲鳴が上がり、コートがざわつくのを感じて佐古はそちらに目を向けた。

 さっきまで激しく試合をしていた連中がコートの一か所に集まって人だかりをつくっている。なにかあったのだろうか。思わず佐古はフェンスにぐっと顔を寄せる。

「大丈夫か」

 ガタイのいい男が汗をしたたらせながら、仁王立ちで足元に声をかけている。

「大丈夫」

 人だかりの中から声が返る。

「大丈夫っていってもなあ」

「今日はもうここら辺にしときなよ」

 口々に心配するような声が上がる。どうやら誰かがケガでもしたらしいことを、佐古は察する。バスケットに限らずスポーツをしていればケガはつきものだ。

「ふざけんな!」

 威勢のいい声が高架の下によく響き、佐古はぎょっとした。

「勝ち逃げかよ。大の男が集まってみっともない!」

 相手を煽るような口調でまくしたてているが、周りの男たちは困惑気味に顔を見合わせている。またさっきのガタイのいい男が言った。

「そういうことじゃない。ケガを心配してるんだおれたちは」

「賭け金の心配の間違いだろ?」

「そうじゃない、リン。そうじゃない」

「他のやつならケガくらいでそんな大袈裟なこと言わないくせに! いちいちゲーム中断して集まってきて、ねえ、私が男ならこんな大袈裟にした?」

 わたしが男なら? 佐古はフェンスの手前で固まった。今なんて言った? おれの聞き間違いだろうか。

「もういいっ」

 そう言うと、急に立ち上がった人影はすぐによろめく。近くにいた仲間が慌てて近寄るがその手を振り払ってキッとにらんだ。立ち上がったケガ人はさっきのヘアバンドをしたプレイヤーだった。

「ほっといて」

 そう言い捨てて、ヘアバンドは建物の中に消えていく。そのとき佐古は、初めてそのコートがどういうものなのか理解した。

 高架下のコートのすぐそばには建物があって、壁に「basket shoes store」と小さ目に書かれた下に、大々的にペンキで店名が書いてある。「Born To Ball」。

 佐古はその意味を偶然知っていた。友人でそんな携帯アドレスにしているやつがいたのだ。バスケットボールをするために生まれてきた――。それはいわゆる本場のストバスの世界のスラングというやつらしい。

 つまりこのバスケットコートは、バスケットシューズの店の裏にとりつけられたものなのだった。

 コートは一瞬お通夜のようにしんと静まり返っていたが、誰かが声をかけてすぐに活気あるバスケットコートに戻る。こんなことよくあることなのかもしれない。ケガも意見の衝突も。

 それでもなんだか無性に気になって、佐古はカバンのつかみを握りなおすと、土手沿いに店の表の方に回った。

 ちょうどヘアバンドは店を出てくるところだった。いや、もうそのとき彼女はへアバンドはしていなかった。

 水で流して軽く汗を拭いただけなのだろう、しっとりと濡れた髪の彼女が制服姿であることに、佐古は驚いた。それが同じ学校の制服で、タイの色が同じ二年であることまで示していたから。

 土手の横の脇道を抜けて店の表のこじんまりとした通りに出たところで、佐古は間の抜けたように立ち尽くしていた。スポーツバッグを肩にかけて店の自動ドアを出てきた彼女は、そんな佐古に気づき、あの鋭い目つきで一瞥をくれると、彼とは正反対の方向に歩き出した。

「おい、待てよ」

 どうしてだろう。なにが不安なのか。ただ気持ちに急かされるまま、佐古は彼女の背中を追った。

「おい、待てって」

 佐古が横に並んでも、彼女はまったく反応を見せずに前を向いたままだった。やわらかい汗と消臭剤かなにかだろうか、柑橘系の香りにどきりとして、佐古は首をぶんぶんと振った。

「おい、なにがあったか知らないけど」

「じゃあ、ほっといて」

 つれない態度に佐古も思うところはあった。でも今はそういう状況じゃない。佐古は彼女の腕を取った。思ったよりだいぶと細い腕。いや、同い年の女子ならこれくらいが普通なのだ。さっきの剣幕を見て、勝手に佐古が想像しただけのことで。

「なによ」

 彼女のにらみには凄まじいものがあった。親の仇をその目つきだけで射殺そうとでもいうような。佐古は毅然として言った。

「ケガしてんだろ」

「だから?」

「女だからってかまわれるのが気に喰わないのかしらないが、ケガしてんならちゃんと診てもらえよ」

「これくらい大丈夫よ。なんでもないわ」

「なんでもないと思っても」

 思ってもいないのに、佐古はつい彼女の腕をとる手に力を込めた。

「あとからどうにかなることだってある。そうなってからじゃ遅いんだ」

 あとになってからじゃ遅い。佐古は自分で言いながらその言葉を噛みしめた。後悔してからじゃ遅い。ケガと挫折、痛いのはどっちだろう。それはわからないけれど、取り返しがつかないのは間違いなく前者だ。

 だが、あきらかにそれは差し出がましいことだったらしい。彼女はありったけの力で佐古の手をふりほどき、敵意をむき出しにして眉をつりあげた。

「ご高説ありがとう。でもなにか勘違いしてるんじゃない?」

 そう言って彼女はスカートをたくしあげる。おもわず固まった佐古は、つい彼女の白い脚線美に視線をやって、目を疑った。

「これ……」

「そう、これがケガ」

 彼女の白い脚はふともものあたりが赤くすりむいていた。すりむいていた。ただそれだけ。

「ひねったわけでもないし、強く打ったわけでもない。内出血もしてないし、痛みもない。ほんのちょっとすりむいて皮が剥けただけ。おわかり頂けたかしら?」

 憤然と、ただしちょっと勝ち誇りながら、彼女は佐古を上目づかいに見た。

 佐古はぐうの音もでなかった。さすがにケガが後から怖いと言ったって、こんなのはバンソーコーすらいらないレベルの傷で。それに上目づかいで得意げな彼女は、白い脚もあいまってかなり魅力的だった。

「あー……悪い。早とちりだった」

「いいよ別に」

 彼女が手を離すとスカートはひらひらと彼女の腿を覆った。

「全部あいつらが悪いんだから。ちょっとコケただけで大袈裟に。まったく馬鹿にしてるよね」

 気まずくなって佐古は口をつぐむ。早とちりで見も知らぬ女の子を追いかけて腕をつかむなんて無様で失礼もいいところだ。なんと言っていいかもわからず、佐古は頬をかいた。

「それよりあんた、 高なんだ? 二年だよね。私も同じ」

「え、ああ……」

「ちょっと話さない? 興味あるんでしょ、バスケ」

 佐古はうなずくべきかどうか考えた。興味がある、か。

「私、鈴木桃花。よろしく」

 彼女はどちらかというと凛として中性的な容姿をしている。それにしては可愛らしい名前だなあ、と佐古は思う。とりあえずこの少女チックでアンバランスな彼女の名前とか他のいろいろには興味がわいてきた。

「佐古郷平。三組だよ」

 自然と彼の顔には微笑が浮かんだ。


 ○


 福森は三つ目と四つ目のお題をホワイトボードに書いた。そして佐古は思った。これはまったく無記名投票の意味がないな、と。

 ホワイトボードのアミダの下の部分には、次のようなお題が並んでいる。

〈お題:どんな動物に見えるか〉

〈お題:好きな人〉

〈お題:弱点〉

〈お題:その人の自分では気づいてなさそうな恥ずかしい癖〉

 今のところそこまで危険なお題は上がっていない。健全なパーティーゲームの範疇である。佐古はそう考えていた。

 どんな動物に見えるか。これは自分で考えたお題だし、鉄頭鉄尾安全であることはわかっている。別に「自分は他人から犬のようだと思われている」と答えたからといって、「そんなに自分のことを忠実な人間だと思ってるのかしら」と南雲に嫌味を言われるくらいがせいぜいだろう。そんなのは痛くも痒くもない。

 好きな人。これは正直少しひやりとさせられた。でもこのお題なら大丈夫だ。好きな人、ということはつまり、自分が誰のことを好きだとみんなから思われているか、ということになる。対処法はいくつか思い当たるが、学園のアイドル的な人の名前を出せば、面白みはないが適当でもない。

 学校のマドンナの名前なら、同級生の噂で何人か名前を耳にしたことがあるし、実際に顔を見て美人だと息を呑んだこともある。

 たとえば高村まなみ嬢のことを佐古は思い浮かべる。一年の頃から、黒髪ロングのおっとりした顔立ちの美貌に、誰にでもやさしい性格、抜群のプロポーションが人気を集める、同学年のアイドルだ。

 告白する男子は数知れず、断られた男子も数知れず、でもそれ以上に彼女の心のこもった応対の仕方を、男子は並々ならぬ尊敬の目で見つめていた。ある男子はたった一言だけのラブレターを送ったらしいのだが、なんとその返事を便箋二枚分きっちりと書いてよこしたというのだから驚きである。もちろん返事は「ごめんなさい」だったわけだけど。

 そういう対応はところどころで女子の反感を買いながら、それでも根っからの人の良さで社交の輪が絶えないのが高村まなみ嬢なのである。

 もはや同級の男子からは神格化されつつあるアイドルのような存在。誰が彼女のことを好いていたっておかしくはない。というわけでこのお題も問題はないだろう。

 次は弱点か。いかにもこれは鈴木の考えそうなお題だ。自分で思っている弱点と他人から思われている弱点は違うだろうし、これはなかなか面白いアイデアだと言える。

 それにしても鈴木は自分の弱点を人にどんなふうに見られていると思っているんだか。他の四人はどちらかといえば弱点だらけだからまだマシにしても、一番痛いところを突かれそうなのは弱点のなさそうな鈴木なんじゃないだろうか。

 このお題に関しては出たとこ勝負になる。はっきり言って範囲が広すぎて相手の出方を見ないと何とも言えないのだ。ゲームのなかで対策は練ればいい。いずれにしてもそれほど怖いお題ではない。

 恥ずかしい癖。これも難敵だ。弱点と同じように、対策はやはりゲーム中に考えるしかない。

 事細かに設定されたお題であることからも、これが慶太郎のアイデアだと予想はつく。こういうゲームが大好きなあいつらしい。どんなふうに答えてもなんだか恥をかかざるをえないところが実に癪だ。あとでイジメテおこう。

 というような塩梅で、残すところのお題はあと一枠。それも誰のものかわかっているから心臓に悪い。福森が最後の一枚の紙を開いて、それを見て、ホワイトボードに書き写す。

〈お題:そいつを好きだと思っているボードゲーム部員〉

 やっぱりだ。涙を呑んで佐古は天を仰いだ。残念ながらそこには彼を慰める青空ではなく、染みだらけの色褪せた天井があるだけだったけれど。

「これは……範囲を限定し過ぎなんじゃ」

 福森が遠慮がちに抗議の声を上げる。と、王野はこぶしで机を叩いた。

「なにを言う慶太郎! ここはなんだ? この部活動は? いって見ろ!」

「ボードゲーム部です、けど……」

「そう、ボードゲーム部! 花も恥じらう恋の園、その名もボードゲームサークルだ。気まずい? 限定しすぎ? なにをなまっちょろいことを! 恋愛とは戦争だ。そんな甘い覚悟では身近な幸せひとつつかめない!」

 福森は、はあ、とわけもわからないまま勢いで説得され、南雲は目をキラキラと輝かせながら静かに拍手を送っていた。佐古は頭を抱えていたが、鈴木はいたって変わりのない顔色で、退屈そうに窓の外を見ている。

「まあ、とにかくこれでお題が出そろったわけですが」

 福森がおずおずと司会進行を務める。

「で、アミダはどうします? 僕がてきとうに横の線を引くんで、あとから誰かに上の場所を選んでもらうってのでいいですか?」

 一同は沈黙の頷きでもって応える。それを打ち破るように王野が声を上げた。

「ではアミダを引く役はおれが受け持とう」

 そうくると思ったぜ。佐古はフッと口角を上げた。

「それでは慶太郎、おれが後ろを向いているあいだに線をひきたまえ。おれは、あとからアミダを見ずに引く場所だけ指定すればいいわけだな」

「いや、ちょっと待て」

 遮った佐古を、王野は悠然と振り返った。

「なんだい? なにか問題でも?」

「そこに偶然、絵が飾ってある」

 壁にはパズルめいたトリックアートの絵が額縁にはめられて飾ってある。その位置はホワイトボードの正反対。つまり王野がホワイトボードに背を向けると、ちょうど絵画の額のガラスに、反射したアミダくじが映る位置である。

「ちょこざいな真似しやがって」

「なにを言ってるのかな? おれはただフェアに行こうと思って後ろを向こうとしただけなんだが」

 にやにやと王野は余裕ぶっている。それにしても油断がならない。一体この部室に、どれだけの仕掛けがほどこされているのか。佐古は不安になった。ことこういったゲームにおいて、おれがこの男の一枚上手に立てるものだろうか。

「それじゃどうする? 目隠しでもするか?」

 悪くはない案だが、頭の中で佐古はその案を却下した。敵のアイデアなんて受け取れるわけがない。

「お前は部室の外に出てもらう」

「周到だねえ」

「おれもついていく。どっかから覗き見ているとも限らないからな」

 どんどんと袋小路に迷いこんでいく。考えすぎだろうか? でも用心に越したことはない。王野のお題で一番の損害を被るのは誰か。そのことを佐古はしっかりと把握していた。

「それじゃ西校舎を一周して戻ってくるから。まあ、線を引いて待っといてくれ」

「ちょっと待って」

 今度は鈴木が佐古が遮った。

「そいつも連れていきなさいよ」

 そう言って鈴木が指で差したのは南雲だった。指で差されながら南雲はうわの空に首をひねった。どうしてわたしがそんなことしなければならないのかしらと、ばかりに。

 なにあの子下手くそに媚売って、という言葉を佐古は思い出す。それは同級生たちの言葉で、でも佐古は彼女たちの非難が根っから真実だとは思っていない。とはいっても、その片鱗はまちがいなく南雲勇美本人のなかにあった。

 鈴木はどうやら南雲のことも疑っているらしい。

「グルじゃないなんて誰も思わないでしょ」

 それは鈴木の言う通りだった。

 ここいにる五人の誰もが知っていて、ひとりが絶対に認めようとしないこと。王野は器用に口笛を吹きながら本棚の本を漁っている。

 佐古が目で合図を送ると、南雲はにっこりと笑い返し、上品な仕草で立ち上がった。

「構わないわ。ちょっと散歩したかったところだもの」

 それに、と南雲の口が動くのを佐古は見逃さなかった。彼女の目線が誰に向かっているのかということも。

 福森にあとを任せて部屋を出た三人は、とりあえず廊下を歩きだす。先頭を切って一人先を行く王野と、そのあとに並ぶ佐古と南雲。

 とりあえずこれで部室のなかで不正が行われる危険はなくなったわけだ、と佐古が考えていると、隣りで南雲がぼそりとつぶやいた。

「部長の思い通りにならないよう必死ね」

「癇に障るからな、あいつの思惑に踊らされるのは」

 佐古が答えると、南雲は顔を上げて楽しそうに言った。

「あなたのことじゃないのよ」

 おれのことじゃない? そうは言っても部室で王野の抑止力たりうるのはおれぐらいのものじゃないか。

 佐古が首をひねっていると、てくてくと足を速めて南雲は王野に近づいていく。王野は近づいてきている気配に気づかないのか、気づきたくないのか、歩調をそのままに歩いている。そして南雲に腕に抱きつかれて捕まった。

「ダーリン、少しでも長く一緒に居られてわたしは幸せです」

 途端に王野は苦い顔。二の腕に顔をすりつける南雲を邪険にすることもできず、助けを求めて振り返った王野に、佐古は顔の前で手を振ってお手上げだ、と告げる。

 第一なんでおれが王野を助けなくちゃならないのだ。苦しんでいるなら、むしろざまあみろと言ってやりたい。佐古は魂が抜けたような王野の機械的なやりとりを見ながら内心でほくそ笑む。

 猫のようにじゃれる南雲と、そのあまりの握力に腕を握りつぶされて顔をしかめる王野。そんな馬鹿みたいな光景を見ているうちに、佐古はいっとき、部室で行われているゲームの悲惨な結末について考えることをやめた。


 ○


 なにあの子下手くそに媚売って。

 そんな声が聞こえて佐古は顔を上げた。あまりにも強い悪意がこもっていたからか、佐古は最後尾の自分の席に座っていたのに、教室前方で発せられた声がはっきりと耳に届いた。

 それは授業間の休憩時間のことで、そこでなにがあったかを佐古は知らない。でもそのとき、佐古よりもずっと悪態の近くにいた南雲が悪意たっぷりのその言葉を聞きのがしたはずがなかった。

 そのときの佐古はクラスメートの南雲勇美のことをよく知っていたが、一方でまったく知らなかった。というのも、彼女の噂ならいくらでも耳にしたことがあったが、実際に喋ったりなにか目立つことをしているところを見る機会はほとんどなかったからだ。

 でも彼女は確かに、この春に転校してきた当初から噂になってもおかしくないくらい目立つ存在だった。

 エキゾチックとはこういうことを言うのだろうか。佐古にはよくわからなかったけれど、たぶん南雲は一般的な基準からいえばかなりの美人に部類される。パーマがかった胸まであるロングの黒髪、それぞれのパーツが整って印象的な顔立ち、良家の子女を思わせる大人びた雰囲気。転校生の新鮮みを抜きにしても、男たちがぐっとくるには十分すぎるルックスだったのは間違いない。

 ところが南雲の名前を一躍有名にしたのは、その外見や立ち居振る舞いではなく、新学期早々に起きたある事件だった。

 その外見で最近南雲が女子のひがみを買っている様子は、鈍感な佐古をしても察していた。即座にグループをつくり出したクラスの女子の交友関係のなかにあって、ぽつねんとひとつだけ外れていた席が、南雲だったのだ。

 そしてその休み時間にそれは起こった。女子たちの、たぶん暇潰し程度にしか意味のない棘のある言葉で。

 佐古が顔を上げたとき、南雲はすでにつかつかと例の女子に歩み寄っていた。

「な、なによ」

 相手に言い訳を許す間もなく、華麗なコンビネーションが決まった。右ジャブ、左ストレート。舞い散る鼻血。教室に居合わせたバカな男子が思わず口笛を吹いたのも、思わずうなずけるほど洗練されたパンチだった。

 停学一週間。問題児・南雲勇美誕生の瞬間である。

 その出来事は佐古の頭にも鮮烈に記憶された。なにせあの美しいコンビネーション、ではなくて、女子が女子を本気で殴る瞬間を、彼が初めて目の当りにした瞬間だったから。それになにより、ぞっとする南雲の横顔が頭から離れなかった。

 あのとき、南雲は笑っていた。子供のように無邪気に。悪を滅する正義のヒーローのような無自覚さで。そのことを思い出すと今でも佐古は身の毛がよだつ。良かれ悪しかれ、ああいった本能の爆発を前にすると、どうしても足がすくむ。

 南雲勇美は以後、新入生たちのなかでタブーのように扱われるようになる。彼女をデートに誘う勇者は現れなくなり、噂はぴたりとはいかずとも半減くらいにはなった。

 だからある意味でそれは必然のことだった。

「そういえば、あれは惜しいことをした」

 そういって柄にもなく悔しそうに王野が話し出したのは、南雲の例の事件についてだった。テーブルには、パンチとガードだけボタンで操作できるふたつのボクサー人形がついたボクシングゲームが置かれ、王野と佐古はそれで対戦している。

 佐古ボクサーが右パンチをくり出すと、王野ボクサーがタイミングよく左ガード。と同時に王野ボクサーの右パンチが佐古ボクサーの顔面に炸裂して、勢いよく佐古ボクサーはあおむけに倒れこんだ。

「ああ、くそっ」

 なぜおれはこんなことをしているのだろう。と思いつつ、勝負事で負ければなんの理由もなく悔しくなる。そんな佐古を無視して王野は言った。

「うむ。おれもぜひ見たかった。教室で一ラウンドK.O.勝ちか。まさか四月早々そんなおもしろイベントが発生するとは思っていなかったので準備が足りなかった」

 準備でどうにかなる問題じゃないだろう、と思いつつ、佐古は倒れたボクサーを引き起こす。

「言っとくがそんないいもんじゃなかったぞ。鼻血の掃除させられるわ、殴られた女子はヒステリー起こすわで」

「でもあのときは話題騒然でしたよね」

 ボードゲーム部の第一部員こと福森がはしゃいだ声を出した。

「一年のあいだでも結構噂されてましたよ、そのナグモって人のこと」

「いいからお前は棚を拭け」

 佐古がそう言いつけると、福森はせっせと棚の雑巾がけを再開する。妙にかしこまったやつだが、いい後輩だ。一体王野はどうやってこんな掘り出し物を見つけてきたのだろう。その辺りを聞き出しておくか、と佐古は椅子の向きを変えて後輩の方を向いた。

「なあ慶太郎、お前はなんでこの部に入ろうと思ったんだ? 悪いことは言わんからやめといたほうが身のためだぞ」

 失敬な、と王野が窓際で歯をむき出しているが佐古はそれを無視する。慶太郎は手を止めて振り返った。さわやかな短髪はまるで野球少年のようだが、その穏やかで線の細い顔は見るからに文化系である。

「僕、ゲーマーなんです」

 佐古はテレビゲームの類を思い出す。けしてそれはボードゲームを意味するわけではないだろう。

「でも他に得意なことはないし、かといって部活しないでまっすぐ家に帰るのも退屈で。そんなとき王野先輩に声をかけてもらって」

「部長だ」

 どうでもいいことを王野は訂正する。というかまだ部になっていないのだから、正式には王野は部長じゃない。

「部長に声をかけてもらって、これだ! と思ったんです」

「本当に本気か? これだと思ったことが実は違っていたってこともよくあるだろ?」

「おい郷平、さっきから好き勝手言ってくれるじゃないか」

 王野は不服そうだが、佐古はそれも無視する。

「どうせ部活として認められても、ここでやるのはグダグダすることぐらいだぞ?」

「いえ、それでもいいんです。くだらなくても思い返すと結構楽しかったって思ったりするもんですよ」

 屈託のない笑みに佐古は目がくらむ。どうも普通にポジティブすぎて話にならない。いい後輩ではあるが、先が思いやられるな。まあ、本人がいいと言っているなら構わないか。

 佐古が思い切り息を吐き出すと、福森は心配そうに声をかけた。

「あの、もしかして、僕が部に入るとなにかマズイことがあるんですか?」

「そうじゃない。ただ、お前も苦労するぞ」

 もう一人の自分を、王野の新たな犠牲者を見つけたような気がして、佐古はうんうんと神妙に頷いた。

「さて、今日の分はこれくらいにして、また明日の放課後にでも掃除に来るか」

 窓から空が暮れていくのを見て王野がつぶやき、三人は各々片づけの準備に入る。凄まじい音で部屋のドアが開き、部屋にいた全員がその場で固まった。

 何事か状況を判断する前に、佐古は声に出した。

「南雲勇美……」

 開け放たれたドアの前には南雲が立っていた。

「ボードゲーム部の部室というのはここかしら?」

 佐古は王野と顔を見合わせ、福森がおずおずと言った。

「正確には部室になる予定の部屋です」

「そう。じゃああなたたちがボードゲーム部ね」

 南雲はつかつかと部屋に入りこみ、なぜかその威圧感に佐古は後じさる。

 彼女は獲物に狙いを定めるように大きな瞳の奥をぎらつかせ、三人の銅像と化した男を値踏みすると、すっとその目を王野に定めた。

「あなたが部長ね」

「うむ。そうだ」

 一目で部長と判断されて喜んだのか、それとも部長と呼ばれて嬉しかったのかはわからない。王野にしてみれば待ちに待った女性部員だったわけだけど、佐古は不吉な予感しか感じていなかった。

 南雲は一歩、王野に歩み寄る。

「わたしを、」

「まあ待て」

 なぜか王野は南雲の言葉を制していた。

「申し訳ないが、それより先にこちらから聞かねばならないことがある。そちらの答え次第ではいかなる要請にもおれの返答はNOだ」

「じゃあ、わたしの答え次第ではYESと言うのね?」

「そういうことだね」

 間近で向かい合う二人を眺めながら、まずいんじゃないか、と佐古は思った。さっきも王野とは南雲の話をしていたし、興味を持っているようだった。そういうときのこの男の、知的好奇心を満たそうとするときのデリカシーのなさときたら……。

「君がエンコーやバイシュンをしているという噂は事実か、否か?」

 時すでに遅しだった。佐古も福森も、そして南雲も、時が止まったように言葉を失っていた。

 たしかにどこかで聞いた南雲の噂にそんなものは混じっていた。彼女の噂のなかで一番ショッキングな類のものだろう。でも真偽が気になったからって、そんなストレートに聞くやつがあるか?

 佐古はたちくらみでふらつきそうになる体を、テーブルに手を置くことで必死にこらえた。

 王野はマイペースに話し続けた。

「おれはボードゲーム部の部長だ。つまり責任がある。もし君が問題を起こしているというなら、残念だがいかなる要請にも答えはNOだ」

 物は言い様だが、どこまでが本心だかわかったものじゃない。なにより理由はともあれ、あんな聞き方は人として最悪だ。

 佐古のそんな考えは、福森とも合致していたに違いない。でも彼女の共感は呼べなかったらしい。南雲本人は気を悪くするどころか、その場でふっとやさしく微笑んだのだった。

「そんな噂は本当じゃないわ。どうせあのサンドバックが喋ったんでしょうね」

 穏やかで柔らかい口ぶりでサンドバック、と彼女は言った。右ジャブ左ストレートを顔に浴びせられて、数日の間学校を休んだ女生徒のことを佐古は思い出す。

「ふむ。つまり噂は事実無根であると?」

「なかにはそれっぽいのもあるけど、大抵はね。少なくともお金で身体を売るほど、お小遣いには困ってないの」

 彼女が嘘を言っているかどうかはわからない。けれど部活なら無条件に入れてやればいいじゃないか、と佐古は思っていた。もうすでに入部を許可しなくてはならないくらいの失礼を王野は犯しているのだから。

 思いが通じたのか、王野は鷹揚にうなずいた。

「わかった。要請に応じよう。歓迎するよ、南雲勇美」

 もったいぶった言い回しで両手を広げた王野だったが、南雲は不満げに彼を見つめた。

「ねえ、それにしてもさっきの聞き方は酷いんじゃないかしら」

「なぜだい? 本当のことじゃなかったのに」

「女の子の繊細なハートが傷ついたらどうしてくれるの?」

「そんなのおれの知ったことじゃないさ。噂なんてただの噂なんだから。それが意味を持つと自分で信じない限りそんなものに意味はない。大事なのは事実だからね」

 すると南雲は急にうつむいて肩をわなわなと震わせ始めた。もしかして泣かせてしまったんじゃ。佐古の背中に冷ややかな汗が流れる。なぜ王野はそんな冷たい言い方じゃなくて、もっと優しくしてやれないのか。

 だが次の瞬間、弾けるように顔を上げた南雲は、そのままの勢いで王野の胸に飛び込んで抱きついたのだった。

「嬉しいわ! ありがとう、ダーリン」

「だ、ダーリン?」

 王野はかゆいところに手が届かないような奇妙な顔で南雲を見た。

「ええ。だってわたしたち結婚するんでしょう? 結婚はまだ先だけど、恋人同士ならダーリンでもおかしくないわ」

 王野は笑った。が、頬をひきつらせて、うまく笑えてはいなかった。

「なにをバカな。おれは君の入部を認めるだけさ。さっき君は言いかけただろう。わたしをボードゲーム部に入れて欲しいって」

「いいえ。わたし、こう言いかけたの。わたしをお嫁さんにして欲しい、って。答えはYESなんでしょう? たしかにあなたはそう言ったもの」

 目をうるうるさせて、南雲は王野に迫る。屁理屈魔神のはずの王野も、なぜかこのときばかりは反論出来ず、そのとき佐古は初めて見たのだった、困り果てて救いを求める王野の表情を。

「ねえ、わたしの目を見てダーリン。わたしたち今から恋人なのよ? もっとわたしのことだけ考えて。わたしと一緒の時間を過ごしましょう。大丈夫、肉片が土に還るそのときまで永遠に愛し続けてあげるから」

 南雲の変わり身に、佐古は呆気にとられていた。福森もぽかんと口を開けてできたてほやほやのカップルを眺めている。

「うん、君、ちょっと頭がおかしいんじゃないか?」

「大丈夫、そんな言葉気にしないわ。それが意味を持つと信じない限り、そんなものに意味はないんですもの」

 本気なのか冗談なのか、王野の体にすがりついて離れない南雲。だが王野は一瞬の隙を見て彼女の両手を引き剥すと、素早く窓を開けて飛び降りた。

「先輩、ここ二階ですよ!」

 慌てて福森が窓をのぞきこむ。佐古も隣りの窓から見ると、王野は一階部分の屋根に器用に降り立つと、そのまま渡り廊下の屋根伝いに逃げて行った。

 やつは猫かなにかか。佐古が呆れていると、ちょいちょいと肩を叩かれる。

「失礼」

 そう言って南雲は佐古の前に割り込むと、開いている窓の枠に乗り移り、翻らないようにスカートを抑えて器用に一階部分の屋根に乗り移る。そして王野がたどった道のりを、軽やかにステップを踏んで追いかけていき、校舎の陰に姿を消したのだった。

 そして嵐が過ぎ去ったかのように、部屋には痺れだけ残した沈黙が漂っていた。

「……帰るか」

「あ、僕が鍵を職員室まで返しておきますから」

 部屋の前で福森と別れながら、佐古はしみじみと思う。本当に福森がいてくれてよかった。もしそうでなかったとしたら、まるで変人の集いじゃないか。想像するだけで寒気がして、自分の体を抱きしめる。

 とにかく部員はこれで三人。明日までにあと一人揃えば、いよいよおれも覚悟を決めなければならない。

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