第7話 夜明けの祈り
光速列車での宇宙空間移動は、ここまで何の問題もなく快適な一人旅であった。細く長い列車内でも一人、孤独で寂しくないとすれば、多少は虚勢を張っていることになるのかも知れない。それでも、すらりと整った容姿も端麗な男は、先頭車両の最前にある運転席より無限に広がり続けている銀河を見つめていた。
どうして現状、こうなってしまったのか。何故にこんな役目を負っているのかの経緯を語るには複雑も過ぎて、今。それを考える余計な労力は使いたくもない。つまりは溜まった心労も積み重なった疲労が、伏した目のこめかみ部分を両手で揉んでは解す自覚以上に堪えてしまっている、と自ら認めざるを得ない状況に陥っていた。
そうして男は一人、仏頂面のまま眠気覚ましのコーヒーでもと思い立ち、操作パネルを手動より
一両目の先頭車両を後にして、列車を動かす動力源やジェネレーターが集中している二両目を通過した後に、三両目として連結しているサロン車に足を踏み入れる。四両目以降には居住スペースの他に、食料や物資の備品保管車、予備のサブ動力源を担う車両を含めれば、現在ピックスは八両編成である。
男の、長身で恰幅の良い体をもってしても、その通路や車内は決して広いものではないけれど。大の大人が一人で宇宙を旅するにはそれなりの快適さで飽きはしない。窓の外の光景に大して代わり映えがない以外は。
身に纏う衣服の色は車体と同じく黒一色。ノースリーブのタートルネックシャツに、ワイドレンジも広いストレートパンツを好むのは、とび職人らが着用する理由と似ている。列車と機械いじりが趣味でもあり、功を奏したからこそ、光速での宇宙空間航行を可能にした列車ファントムエクスプレス、通称ピックスを製造できた。その外観が、五百系新幹線と蒸気SL機関車を掛け合わせたかの独特な容姿をしているのも、製造考案者が鉄道に掛けるロマンと言う名の夢を互いに譲らなかったからだ。
そうしたピックスの車体の下より、七色の摩擦帯がキラキラと煌めいているのも。動力稼働中のメインジェネレーターから漏れ出る零れ光が綺麗だから、という見た目の理由だけでわざと溢している。よってピックスが航行すると、その軌道を追うかのように。七色の光が放射状の波紋となって飛散する。
そも、本来は宙を翔け飛び、滞空浮遊もする船なのだから、車輪などは不必要なものだのに。車輪と車輪を繋ぐロッドの動きこそが、列車ならではの魅力であろうとした個人の強い拘りを反映した結果。ぱっと見の外観だけでは窺い知れない、車体下部側からならよく見える部分でも無駄に凝られた作りとなっていた。
車体の先端ノーズがスリムに尖るシャープな近代的フォルムをしている外装に比べ、内装がゴシック調のスチームパンク風であるのも製造者の単なる趣味である。
しかしながら、考案と製造の根本を担ったもう一人の功労者は既にこの世を去っている。男が、それを忘れようとして、何か――そう、仕事でもいい。何でもいいから、彼の死を考えないようにするには。一心不乱に違う物事へ没頭するしかなかった。
簡易なキッチンにカウンター、L字型のソファーなども配置して、寛ぎと癒しの空間を兼ね備えたサロン車で、男はコーヒーを淹れていた。離席した運転席の自動モニターが、このままの進路では浮遊しているものと衝突する旨のアナウンスを発し、接近物をレーダーに捉えているのも露知らず。
緊急を知らせる警告音は、わざと小さくしていた。けたたましいアラーム音を耳にすると、いつだって悪夢が甦ってしまう。だけれど思い出せるのは断片的なもので、いつも同じ場面に限る。
それは、土砂降りの雨の中――。
「父さん?」
少年が駆けつけたのちに対面したのは、降りしきる雨の中でシートの掛けられていた複数の内の一角だった。
激しくシートを叩く雨の勢いは強く、凹凸と起伏の差も激しい屋根のところどころには水たまりも出来ていて、時折。重みに耐え切れなくなった溜まり場より、ざざっと水の滝が落ちている。
到着した際に、母の息は既にないと伝え聞かされていた。泥でも塗れた辺り一帯を覆い隠すブルーシートの隙間より、ちらりと垣間見えた事故現場はさぞ凄惨を極めているのだろう、むき出しの残骸。飛散した破片に瓦礫。レスキュー隊などによる二十四時間体制の救助劇も、いまだに続けられている。
周囲の大人に促されるまま、父のもとへ辿り着けば。息も絶え絶えな父は、最愛の一人息子の手を弱弱しく取って握った。
「――っ」
しかし、温かかった手はすぐに少年の手の中から滑り落ちた。父が、その最期に何を言わんとしたのかも永遠に聞けぬままに。
突如に訪れた圧倒的現実が受け入れられず、遠い耳鳴りが様々なサイレンの音と入り混じり、どれが何だか聞こえもせずに。関係者が少年に「さ、こちらへ」と促すものも、どこかで鳴り続けている緊急アラームによって遮られてしまう。
あれから幾有余年。男には、最後にまともなベッドで寝たのがいつであったのかの記憶もない。
以来、ちゃんとした個室やベッドがあるにも関わらず。男はL字のソファーでしか眠ってこなかった。しかも、しっかりと眠れているのかと問われれば、答えは否だ。
そんな生活リズムでは、いつか必ず破たんすると、頭の中では判っているのに。いざ、しっかりベッドへ入ってしまうと直ぐに魘され、自身は体験していないのに、実際に事故へ巻き込まれたかのリアリティで飛び起きてしまう。
サロン車のソファーは、大人一人では持て余してしまうほどに大きくて広い。寝起きとて毛布の一枚もあれば完結、快適に過ごせるし。何かあれば、最も先頭車両に近いから――と男は、自分自身に言い訳をして。
ソファーの下に落ちている、ぐしゃぐしゃに溜まった毛布をぼんやりと眺めながら。淹れ立てたコーヒーの一口目、カップの淵に口をつけるか否かの時だった。
微かな予兆を逃したのは自身の慢心であっても。予告も無しにガツン、と車体に物がぶつかった音がしたと同時に。強固な車体につんのめるかの衝撃も走れば。ピックスはかなりの速度で走行している。その衝撃たるや、立ち踏ん張る程度では生ぬるく。おとと、と軽くその場で地団駄を踏むだけでは済まずに。
「あっち!」
高温であったコーヒーが口元に零れ、落ちた滴が自慢の服にもかかって一人、火傷をしそうになって慌てる。
「シット!」
トレードマークのスタイルを汚してしまった怒りが先にくるも、顔には出にくい。いつも難しい顔色をしている、と間違われ易いのも生まれつき。それでも男が、喜怒哀楽を露わにする豊かな感情を失ったとするならば、あの日に起因する。
「何だ、いったい……」
コーヒーカップをカウンターに捨て置き、汚したものもそのままにして。男は直ぐにピックスの現状を確認しようと窓辺へ駆けた。
何と、はたまた何にぶつかったと言うのか、その目で確認しようと壁に手をやり、白い壁紙で覆っていたサロン車の天井をフルスクリーンモードにして外の様子を窺えば。そこに漂っていたのはドングリの実に似た、灰色の小さな機体であった。
「脱出艇?」
一見するに緊急用の脱出ボートに見えた――が、とても小さい。大人が一人も乗れば定員か。
帽子に当たるかの殻斗部分の舳先からは、在り処を示す赤と青白の発信ランプを交互に点滅させていて、それは中に誰かが乗っている証拠でもある。
「何だってこんなところに……」
ピックスが航行していたそこは、太陽系からも遠く外れたカイパーベルト帯も大外。よもやまさかの、オールトの雲との間で、人工的なものと遭遇するとは夢にも思わず。
その種だけが単発、一つだけ浮遊しているだなんて考えにくい。どこかに母体ならぬ母船がなければ、それこそおかしな話だけれど。男はひとまずの思案を余所にして、脱出艇の救助に乗り出した。
ピックスの八両目に連結していた装備の一つであるアームキャッチで、浮遊していた小さき脱出艇を挟んではピックス側へと手繰り寄せる。脱出艇の腹の一部がへ込んでしまっているのは、艇そのものの強度に問題があったのではなく。単にピックスの装甲が頑丈過ぎた所為である。救助艇の中にこそダメージはないはず――と、男は。慎重にひと摘まみの実を丁寧に車体側へと引き寄せていった。
こうしてピックスに救助的な要素が組み込まれているのも、ファントムエクスプレスがそもそも、様々な事故や災害時に命の危機に瀕する者たちを迅速に救うべくして作られたものであった。
特筆すべきはピックスが保有する特徴的機能の一つ、大気中でも一定して待機可能となる抜群のホバリング能力だろう。ヘリやジェット機などとは違い、ローターや回転ブレードなどで飛行しているものではないが為に、周囲へ余計な風圧を撒き散らすことなく目的の場所へ辿り着ける。
これまでに幾度となく、嵐に巻き込まれ、横波を受けて転覆寸前となった大型客船に車体を横づけし、幾百もの乗客、乗員を一度に救い。一度は、雪山で大規模遭難した幾数もの登山パーティを、吹雪く夜間であろうと探し出して一気に引き上げたこともある。
突然の地すべりによって、地中深くに取り残された者たちの為に、穴を掘り進めると同時にいち早く駆けつけ、救い出したのもピックスだった。
雨にも風にも負けずの天候にも左右されず。そこが深海であろうと宇宙の果てであろうと駆けつけられる強靭なボディを持つその列車は今、大人の事情により孤独な一人旅も真っ只中。
無念から始まった希望の展望を詰め込んだ構想一年、製造にも約二年もの歳月をつぎ込み。画期的な代物を共に作り上げた友は、まもなくの完成を目前にして命尽きた。
さぞや無念だったろうに。さぞや心残りであったろうに。その友が、命の灯火を消す前に「ピックスを頼む」と告げ、託したからには。男も、友と交わした約束だけは、何があっても貫き通したい一心だ。
考案設計から製造に至る全ての過程も二人三脚。実現を夢見た煌めく漆黒の車体ボディには、友情の証しとしてシルバー色で縁取るPHANTOM EXPRESSの文字が燦然と輝く。
そうした列車の外壁を担う第一装甲カバーこそ、何らかのエネルギー砲撃を受けても傷一つ付かない頑丈なもの。それにぶち当たったとして、中の人は本当に無事であったか――なる心配が、今になって過る。
ピックスと脱出艇は、出入り口の大きさも仕様も異なっていた。それを一つに繋ぐべく、吸着型圧縮ブリッジをピックス側より発射すると。細く、くしゃくしゃのしわ状であった紐の先が、脱出艇のハッチに吸い付いて。あとは固定の上で接続するのみ。
パシュンと高鳴った音を立てれば、きつく縛られていた紐状であったものが徐々に通路へとなり得て出来上がり。気圧と酸素を供給してやれば万事、ピックスと脱出艇はドッキングを完了し終えて一つになれた。
男が接続した蛇腹のトンネルを潜り抜け、脱出艇の出入りハッチを外部パネル操作で開けて中を覗き込むと、そこには。
「――子供?」
これには正直、驚いた。目を丸め、感情を露わにしない表情が驚愕で呆気に取られる。
現地球の宇宙開発レベルは、ようやく火星に探索機を一方通行で送り込める段階にすぎない。恒星間ワープだの、人口惑星への移民だのの時代はまだ到来していない時世において。これは一体全体、どうしたことだ。
男は恐る恐るで、寝入っている子供たちに手を伸ばした。あまりにすやすやと眠っているので、生きているのかの心配も過り。口元に手をやり、呼吸の有無を確認してしまう。
――良かった。生きている。
ほっと胸を撫で下ろし、男は次なる行動を考えた。大人が一人で満員の艇内には食料や水といったものが見当たらない。あるのは、肌と肩を寄せ合う三人の子供だけ。
その子供を一人ずつ、ピックスの中へと運んで行った。
一度は居住スペースの寝室に三人を並べたのだけれど、寝台以外には殺風景な光景しかないそこが、あまりに冷たい空間に感じて不憫を思った。
せめて目が覚めた時には明るく、温かな空間が良いだろうと、男なりに考えた結果。仲良く手を取り合っていた三児を、サロン車のL字ソファーへと招き、横にした。
ここなら天蓋スクリーン効果も利用して、燦々と陽の光が降り注ぐ森の中、といった擬似シチュエーションも施せる。その方が、子供たちの目が覚めた時に。余計な恐怖心などを与えずに済むと思ったからだ。
移動させた後で、それぞれに簡易なメディカルチェックを施しても子供たちは起きなかった。
ブランケットを掛けてやる最中も、泣き出されやしないか不安がなかった訳でもない。そんな大人の気がかりなどお構いなしに。子供たちはよほどに疲れているのか、深くに眠っている様子を男はじっくり観察していた。
見てくれは五歳児かそれ以下程度。男自身は結婚もしていなければ、子供もいない独身貴族。だから子供のことなど、これっぽっちの知識もない。それでも自身とてこの世に生まれ、子供時代があっての今があるのだから。物心がついた頃のことを思い出せと、記憶メモリーに呼びかけても。何分、三十年以上も前の話。早々に思い出せそうにもない。
横に寝かせた三児は左から黒髪、黒茶、焦げ茶の順で髪の色が段階的に明るくなっていた。顔の作りも、小さき背格好も程良く似ていて。男は勝手に三人兄弟だろうと思い込んでしまっていた。
そうして保護した経緯はともかく。子供たちを今後どうすれば良いのかの処遇を悩んでいた時に。真ん中で寝ていた子が、ふつと目を覚ました。
もそり、とブランケットの端を小さな手で掴みながら。もう片方の手では寝ぼけ眼をごしごしと擦りながらで。パチパチと瞬いたまん丸な目が、ここはどこかと彷徨う前に。恰幅のよい男を視界に捉えた。
ついに起きてしまったか――と狼狽えた男と。
「……」
互いに無言で見つめ合った一方は、この人は誰かとして、じーっと男を見つめたまま微動だにせず。一方の大人は、子供の次のリアクションを待っていた。こうした場合のマニュアルなど知り得もしない。
一時、男を食い入るように眺めていた男の子は、すぐ隣で寝入る子がいることにも気づき。左右を交互に見やる。そしてまた、次の一手を考え込んでいる男を眺めること三回を繰り返し。やがては男を見つめて、にぱっと笑顔を弾けさせて笑うのだった。
「……やぁ」
男が思い切ってこさえた作り笑顔はやはり引き攣っていた。不自然な笑顔で、ごく不自然な動作も途中で右手を振ってみせれば。黒茶色したくるくるふわ毛の男の子は愛らしく、にぱっと微笑み返し。男が振った手に、自らの短いリーチの腕を伸ばして、物怖じもせず手の平を合わせてくるのだった。
大きな手と小さな手が合わされば、小さき者の確かな体温が男に伝わる。どこからやって来たのかも知れない未知の生物かと思ったけれど、確かにそれは人間に違いなく。
「俺はアンディ。アンディ、ロイだ。アンディでいい。君は?」
言葉が通じるか、伝わるかどうかの不安も抱きながら訊ねれば。男の子は「僕、
――これならば大丈夫だ。応対もしっかりしている。すっかり物心もついた子供であるとアンディが確信している間に、雪夜は勝手に左右隣を紹介し始めた。
「こっちは
まだ寝入っている黒髪な子の後に、最も髪の毛色が明るい側の子の名も告げる。
「こっちが
「三人、兄弟なんだろ?」
「違うよ? でもそんな感じ」
きょとんとした屈託のない、濁りもない瞳は純粋そのもの。アンディは内心でほっとしながらも、尋ねずにはいられない。
「どうしてこんな所にいる?」
すると雪夜は明るかった表情を途端に曇らせ、暗くしょんぼりとうなだれた。するりと落ちたのは、合わさっていた手と手も同じく。ただ押し黙ったその首を横に振る。
「どこから脱出してきた?」
言葉を発せず、首を横に振るだけで。困ったかのような表情をされても、混乱しているのはアンディも同じである。
それと、尋ねたい最もな重要事項として。
「パパやママはどうした?」
「いない」
雪夜はきっぱりと言い切った。そこはこれまで同様、首を横にするかと思いきやの、ずばりの断言をされてアンディは天井を仰ぐ。完全にお手上げ状態だ。
そして雪夜は、アンディの衣服をぐいぐいと引っ張り、「お腹空いた!」と空腹を訴えるのだった。
雪夜たちの両親が、今現在ここにいないのか。生き別れ、はたまた他界なりで存在自体していないのかは突っ込んで聞けなかった。如何せん、子供たちだけで脱出艇なる救命ボートにより宇宙空間を彷徨う事そのものが、異常事態すぎてあり得ない。
矛盾や疑問を盛大に抱えながらも、アンディはひとまず中断していたピックスの進路を地球へと向け、再出発することにした。
少なくとも今、この世界で人間が母星としている惑星は地球だけだ。それ以外の星で人類はまだ繁栄する手立てを持っていない。
「――以上、アンディよりシーラトゥーへ」
驚きの遭遇があった旨と帰還の報告を一方的に送っても、『お疲れさま。気を付けて』なる返信が届く通信にすら時差が生じるその距離で。アンディは三人の子供を連れての旅路にすぐさま不安を覚え、時に後悔すらし始めるとは思いもよらず。
腹が減れば素直に目を覚ます三人の子供は、とにもかくにもよく食べた。二人前どころか、一人で一食につき十人前は当たり前に軽く平らげられてしまうと食費はかさみ、備蓄在庫は減る一方で最悪、目的地に着く前に底をついてしまうのではと頭を抱えて憂う羽目になるとは全くの想定外だ。
そうしてよく食べるのは三人とも同じなのだけれど、夜乃という子はとにかくよく眠った。起きている間はそのほとんどが食事の時間で、あとは寝ている。じっと寝入ったまま寝返りも打たず動かなくなるので、アンディは時々、生きているのかの不安に駆られ、寝息を確かめたくなるほどによく寝る子だった。
そんな夜乃が動かない分に代わって、雪夜と夜鷹の二人はよく動き回った。何にでも興味を示す冒険心は無限大。アンディが顔を合わせる度に、動力室や運転室などでは決して遊んではならない、絶対に入ってはいけないと言い聞かせても。そこは興味津々の子供である。大人の思惑、心配なぞ上の空だ。
特に雪夜は三秒と動かずにいれば死んでしまう天性なのか。落ち着きがなく、またよく転ぶ。きっと、そうして何も無い所でも躓き、転げ回っているうちに、慎ましく思慮深いといった部分をどこかで落としてきてしまったのだろう。全く以て大人しくしている時間も隙もない子であった。
破天荒な無茶ぶりをする雪夜とは違い、夜鷹には幾分の分別が備わっているらしく。危なっかしい雪夜を程良くフォローしたりする。この子は物事を見据えるに、真正面からだけではなく、一歩と引いた斜め後ろから見取れる目を持っているようだ――と、共に過ごす時間が長くなればなるほど、アンディにも三人の個性が見え始めた。
彼らを動物に例えるならば、のんびり調子のカピバラ長男。きかん坊な次男はさしものビーグル。末っ子はさながらラブラドールレトリバーかの如く、上二人の面倒見が良いとした絶妙のバランスで、この三児が成り立っていることを実感すればする程――その心は、一刻も早くこの義兄弟をピックスから降ろしたい、の一点張りとなるのであった。
ピックスは頑丈な高速列車だ。外壁装甲は滅多なものでは傷つかないとしても。内側から与え続けられ、積み重なるダメージに対しては大問題だ。
目覚めた初日こそ、物見の様子で大人しくしていた子供たちは。二日目にして早々より、車内で飛んでは跳ねての大暴れを展開していた。
アンディが廊下に転がっていた駒に似た物体を拾い上げ、「これは何だ?」と尋ねたのもきっかけにして始まりだった。
すると雪夜と夜鷹が、「こうやって使うの!」と惜しげもなく。小さな手のひらいっぱいに握った一つの駒を丁度の真ん中で二つに分離させては、宙に浮いたままの装置と装置の間で、細くもピンと張られた透明のワイヤーが出現する仕組みのようだった。そして子供たちは、足元に張ったワイヤー線を、トランポリンの如く踏み台にして飛び跳ね出した。
「凄いでしょ?」
「僕ら、これで飛べるの!」
子供たちが
「おい! こら! 車内で暴れるな!」
アンディがいくら制しても。二人は小さき体に無駄な小回りをきかせ、ピョンピョンとすばしっこくも逃げ回る遊びを考案しては覚えてしまった。
「きゃはは!」
「おい待て!」
二つの基点と終点が互いを一本の線で結ぶワイヤーは、駒をキャッチアンドリリースの要領で次から次に手早く繰り出し、使いこなせばその名の通り。高く、より高くのどこへだって飛べるのだという。付け加えて、柔軟なワイヤーは時として硬化する機能もあるらしく。どんなものでもすっぱ切れると言うのだから。
それを聞いたアンディは、悪夢だとして血の気が引く思いがしていた。現に、自由自在も過ぎる変幻自在な装置により、アンディは元より、ピックスとて翻弄されてしまっている。
「おじさん遅ーい! そんなんじゃ僕ら、捕まんないよーだ!」
「おじっ!」
確かに三十路は過ぎてはいるも、男としては最も脂がのった時期として。端整な顔立ちに苛立ちを乗せてひっ捕らえにかかる。
「そこの導線を踏むな! 天井を転がるな! 廊下を跳ね回るんじゃない! ピックスの車体に傷一つ、断線の一つでもさせてみろ! すぐにこの宇宙にほっぽり出すからな!」
追いかけっこの末にコップが割れ。内部装置の一部も壊れ。大暴れの果てに精密な機械がいかれて火花を上げたのちにオーバーヒートしたのも全て――こいつらのせいだと。可愛さ余って憎さも百倍。
やがてアンディは、冷静たれと溜息を一つ吐いてから、大人の対処法を編み出した。
「これ以上暴れたら、おやつと食事、抜きだからな」
その一言で、子供たちはたちまち大人しくなり。しおらしく正座する勢いで畏まるようになった。
花より団子。男子たるもの、これも一つの人生だもの。このくらいで動揺してなるものか――。しかし何度計算し直しても、地球までの燃料たる動力が尽きる心配はなくとも。肝心な食料が非常食を足しても尽きて足りなくなる過程が理解できずに。こうなれば最速、必殺技のワープで一路、終点の地球を目指すのみとのアンディは判断を下すのだった。――何故に俺がこんな目に。
あれ以降、漏れるは溜息ばかりなり。
そうしたアンディが運転台で最終アプローチ路を入力していると。悪戯っ子たちの入室を硬く拒む扉のロックも何のその。いつの間にか雪夜が入り込んでは、アンディの膝上に登り上がり、ちょこんと座ってしまう始末に至る。
――何故にいつもそこへ座る?
「……」
どれだけ鉄皮な表情で見下げても、雪夜はアンディを見上げて、にぱっと花咲く笑顔を弾けさせる。それはまるで、笑顔の花が太陽の下で開花するに似ていて。
さすればアンディとて、笑みを返さずにはいられない。相手は子供だ。
どんなに叱りつけても、その笑顔を向けられることで、最終的にアンディのほうが折れざるを得なくなる。そんな状況を知ってか知らずか。雪夜は、アンディの胸枕が安心する場所であるかのように。すよすよと眠りに落ちてしまう。
だとすれば、許すしかなくなるではないか。アンディは子供相手に降りろと、強引に振り落とす男ではない。
その存在が、運転の邪魔になることには違いない。それでも両手に握るマスコンより片手を離して、幼い背にそっと手をやってしまうのは何故なのか――。
こんなににぎやかな時を過ごしたのはいつ以来であったのか。
何より心から笑い、怒りもして。人の温もりを感じながら何かをしているのは――。そんな、まさか。こんな子が――?
アンディは涎を垂らしながら寝入る雪夜の顔を見つめた。あどけなく、この世の汚れなど何ひとつ知らないであろう、幼子が。寂しそうだから一緒に居てあげようなどと思慮するなんて考えられず。アンディは雪夜を抱き抱えたまま、運転席をそっと立ち上がった。
向かった先のサロン車で、他の子供たちもすっかり寝床にしてしまったL字のソファーでは。夜乃と夜鷹が体を寄せ合い眠っていた。その傍で食べ散らかしているのは好物のおやつたち。
アンディは甘味ものを好き好むほうではないけれど、長い旅路の非常食として積んだ事を感謝しながら。彼らの何気ない安らぎになって何よりだと思える温かさに満足感を覚えているのも確かだった。
そのきっかけをくれたのも。久しぶりに、アンディを心から和ませてくれたのは雪夜であるに違いない。
――不思議な子だ。すよすよと寝入る口の端から垂れるよだれは勘弁して欲しいところだが。
そう思った印象も、出会った交差が繋がり続けるものだとは予想もせずに。
やがてピックスは九十日振りに母星、地球へと帰還した。黒き八両編成の列車が大気圏へと突入すれば、真っ赤な長い尾を纏い、七色の光を方々にまき散らしながら高度を下げる。そして向かうは小田原にある根城――
城の地下にはピックスを収容するだけの、大規模な車庫が備わっている。もともとは蔵的なものであったものを、碎王の勧めと提案もあって、改装した現在はピックス専用の駐留所ならぬ整備待機の車庫となった。
ピックスが所定の位置で停まると、城主の碎王と彼の右腕である宗谷が出迎えていた。子供たちを保護したとの連絡を事前に入れていたことで、アンディが帰還するまでの間に、様々な手続きや口利きを終えてくれていたようだ。
「おかえり」
約三ヶ月振りに地を踏んだアンディは頷き、碎王は挨拶の手を差し出す。
「とんだ復路になったな?」
寡黙なアンディは握手をし終えた後で肩を竦めた。これでやっと、あの三人から解放されると思えば、長く休暇を取りたい気分にも陥る。
「全くだ」
「少し休めよ? こっちは静かで当分、出番はなさそうだ」
「だと良いが」
言葉も少なめでアンディは安堵の息を吐いている。
「それで、あの子たちはこれからどうなる?」
どちらにせよ宇宙での遭遇であり、過去に例のない事例であったからか。碎王たちが政府に提案した案での、超法規的扱いになったと聞かされる。
「保護? ここで預かるって言うのか?」
もともと鋭い目つきの上に更なる懐疑的な思いを乗せて。アンディは降り立った地よりサロン車を見据えた。その中で仲良く昼寝中なのは、話題の三兄弟。
碎王の隣で控えていた宗谷が口を開く。
「どう考えても訳ありでしょう? 僕が思うに、きっと碌な経緯じゃないと思いまして」
国籍すらも不明な子供を、国や関連機関が保護すればどの道、施設預かりとなってしまう。それに身元不明での発見場所が宇宙空間ともなれば、どこ国がどの法を適用するかで大人の事情はもつれに縺れた。
そこで宗谷が、事の顛末が落ち着くまでの間、碎王家で責任をもって預かるのはどうかと提案を示したそうだ。さすれば反対の意見は出ずに、すんなり保護責任者の覧には碎王の名が刻まれたのだと言う。
「……」
それを聞いたアンディはしばし考え込んだ。あれを檻から出すのは危険すぎると宗谷に告げるも。
「事が大きかろうと小さかろうと、みんな子供ですよ。この星の――ね」
そう言って軽くあしらった彼なら大丈夫かも知れない、としてアンディは。少し休ませてくれと言ってピックス操車場を一人、後にした。
地下より地上へ通ずる専用エレベーターに乗れば、最下層より上階へと引き上げるロープを巻き取るモーター音以外には静寂が訪れ、眼を閉じたアンディは狭い箱の中で天井を仰ぐ。――確かにそうだ。そうだと信じよう。
ここへやって来るまでにも様々な出来事があったけれど、今はここが我が家である。
奇跡で繋がった運命を信じよう。出会った至極の仲間を――。今の俺には、もうこれしか残っていないのだから。
やがて、昼寝を終えた三児たちが。優しくて面倒見もよく、料理が得意な宗谷をママと呼び始め、一城の主である碎王をパパとするまで、そう時間はかからなかった。
あれから十三年。月日は流れ、当初は碎王と宗谷の二人きりで始まった飛来外来種の駆除対応も、ピックスと出会う転機が訪れたのちに、活動の幅や手法、出番となる機会も増えた。
昼夜を問わず、出動して行く碎王たちの姿を見て育った三児は、己たちも力になろうと努力と修行を重ねた上で参戦するようになれば、そこに直人や遼臥らが新たな戦力として加わりもして。
碎王のSを取って改め、シーラとなったグループはやがて、二人一組のコンビも組んで、互いの弱点を補う計八人からなる一チームを結成。その活動領域は日本国内だけにとどまらず、国際的にも確立された一団にまで上り詰めた。その矢先。
「まさか……夜、一人で?」
雪夜は夜乃との付き合いが二番目に長い。彼を知り尽くす雪夜だからこそ、思うところもあるのか。夜乃が単独行動を取った理由を知りたくて堪らない。大事なことを口にしない彼だったけれど、これまで一度だって独りきりな状況を作り出すことなどなかったのに。
「雪夜」
碎王に名を告げられただけで、これから何をどうすれば良いのか有無なども確認し合わずとも知れる。
「飛べるな?」
「勿論」
いつだって一緒だった片翼を突如に失えば、途端に相応であったバランスも失われてしまうというもの。そんなの、僕が許さない。――夜乃。どうして一人で行ってしまったの。今すぐ訳を聞かせて!
珍しく黙した雪夜を余所に、碎王はチームの司令塔として腕を組んだままで指示を出している。
「夜鷹。お前は直人と遼臥のバックアップだ」
「おっけー、まかして!」
「宗谷」
言葉にせずとも了解しているだろう右腕もやはり、碎王の言わんとしている旨を了承している。
「着地点を定めておきます。ご武運を」
碎王は、狭い道路に沿って車列を曲げていたピックスの先頭車両にも告げた。
「そこじゃ狭ぇだろ?」
運転席に座っているアンディが答える。
「補給は降ろした」と言った通り、弾薬が尽きかけていた直人と遼臥も。弾倉の補てんはすでに充分だとして、問題なしなるサインを無言で掲げている。「――上空から被害状況を確認してみる」
そう言い残したピックスが、狭き通路より漆黒の車列を垂直上昇させて夜空へと浮かび上がって行くのを待っていたかのように。その同刻、並列して立ち上がるものはもっと陰湿にどす黒く。今の人類にとっては悪しきすぎるもの。
「オーバータイムは、嫌いじゃないがな」
腕組みを解いた碎王は、その場で足元の状況を確認していた。砂利で滑るか、と試す足底で何度も足場を確かめて。やがて、ゆっくりと腰を落とした攻撃態勢も構え、準備を整える。
さすれば後方でバックアップを担う相棒、宗谷も力添えなる片足の踵を上げる。
つま先立ちの状態から、くいっと踵で目には見えない取っ掛かり――サイドペダルらしきものを踏み込めば。円形状の大車輪が宗谷の四方、三百六十度の帯球状ともなって地中より現れるのだった。
目には見えないタクトを操り、全方位を最適化。透明化したメモリや数値を浮かび上がらせるそこは、彼だけのフィールドコックピットに早変わり。半透明のモニターには、刻々と現状を映し出すスクロールが流れては消える中で、地上と地下と、上空の状況も瞬時に把握するのも彼の役目。
「地下の浸食度合を鑑みても、もはや八百」
宗谷が告げたのは、ビクトリアの幅と高さと容積だ。その他末端はあえて含まず。
そこへ、上空から戦況を一瞥していたアンディが通信に割り込む。
「中野坂上辺りにまで被害が及んでいる。新宿御苑側に追い込んだらどうだ?」
このまま市街地もど真ん中でドンパチをやらかしていれば、それだけ被害も重ねて大きくなる一方だ。
最初は都庁前交差点の中のみでうねっていたビクトリアとて、待ち侘びた夜を迎えて再起する度にデカさを増して、都庁の二倍にまで成長するに至った。そんなものに倒れ込まれれば、都庁とて一溜りもなかっただろう惨状は繰り返せない。
せめてこれ以上、高層ビル郡や居住区に対しても。なるべく被害が及ばない策で決着を図らねば。
「ビクトリアの芯根は、現在も都庁前の交差点です」
宗谷が策を呈する前で碎王は唸る。
「無理に線路を越えさせるのは得策じゃねぇな」
「代々木公園が最善かと」
軍師の意向に反対する者もいなければ、その場にいる全員が計画に乗ったとしての行動に移るのもシーラ結束の証し。
宗谷は、いつも片手にしている大型の無線機に口を寄せる。
「シーラトゥーより対策本部。立ち入り規制範囲を五キロ圏へ拡大願います」
敢えての停電を促された区域も、今やそれ以上の広範囲で更なる広がりも見せている中で。ノイズ混じりの応答が切れ切れに流れてくる。
「対策本部、了解」
そして、思わぬ呼びかけも含まれていた。
「――碎王」
突如の指名を受けて、碎王は「俺か?」と確認の視線を宗谷に向けて。宗谷は「コール、シーラワン」と指を耳に当てて、そのままイヤホンマイクで返答を、とのサインだけで答えた。このような非常事態中に連絡を寄越そうとするのは、あの人しかいないとして。
「おやっさん?」
碎王が表情を緩めながら通信を乞う者に応じると。その耳に届くは。
「――派手にやってくれたな?」
喉をごろごろと鳴らす、独特の笑い方をされれば、それが誰を示すかもよく解る。
「面目ありません。一筋縄じゃいかないヤツでして」
「そのようだ――が、これ以上やられては。わしとて容認できなくなるやもしれん」
「承知しております」
「知っての通り、自衛隊は国家防衛、最後の砦」
全てを告げられずとも互いに知れているけれど。最終の国力手段は、それこそ最後の一手として取っておかなければ意味がない。
「これ以上お手を煩わせません。必ず、駆除します」
碎王がきっぱりと断言してみせたそこは首都も東京。大都市の拠点、新宿のど真ん中で。都民のシンボルさえ木っ端微塵にされては政府としても捨て置けない。平時で対、
「頼んだぞ? 碎王」
シーラのバックには国家と世界もついている。
そんな事実を知ってか知らずか、怒れし黒の流動体が、鼓膜を劈く咆哮を奇声と同時に上げた。
爆音なる音量で唸った反旗たる雄叫びの中で、擦れ合った空気の摩擦が摩擦を呼び寄せ、ちかちかとプラズマスパークも発生してしまう。非常用電源以外の電気という電灯の明かりしか灯っていない暗闇の首都に、放電の雷鳴がさも切なく、また美しげに轟く。
「またっ!」
「こいつっ!」
雷が嫌いな夜鷹は「やだもう、こいつ嫌い!」と涙目になりながら強く両目を瞑り、耳を塞いだ。
「夜鷹! ぼさっとしてるとやられるぞ!」
「うっさいよ遼ちん! 遼ちんに心配してもらうほど俺ってばどんくさくな――っ!」
黒の流動体は、頭部以下でも五百メートルはあろうかという巨体を駆使して、流れる曲線を描きながら夜鷹たちの場所へストレートパンチを見舞っていた。
咄嗟に遼臥が夜鷹に対して、横っ飛びのタックルを強烈にかまさなければ、避け損ねていただろう夜鷹の愚痴が転がった先でこぼれ出る。
「あいつ! ぶっとばす!」
降り上げるは虚しき拳を突き上げ、ここでは無意味なホームラン予告宣言も飛び出る。
「後にしろ!」
二人の傍で、愛銃のグロッグ十七を握り、立て続けの発砲を繰り返しているのは直人だ。頼りのグリーンオーダは今やない。あるのはこれまで培ってきた勘と直感のみで、むしゃぶり食らいつこうと伸び来る触手を、研ぎ澄ませた感覚のみで撃ち落とす。
「もたもたするな! 俺たちでやっこさんの気を代々木方面に引かせるぞ!」
「夜鷹、お前は根を見張ってろ」
「わーってんよ! 遼ちんいちいちうるさい!」
同刻に割り込み、「先陣、お願いします」と告げたのは宗谷で、「俺を気にせず撃ちまくれ。心配なぞするな。きっちり三十秒で片づけてやる」と発していたのは碎王だった。
雪夜は
耳元でひゅるりと鳴ったビル風は、ビクトリアより発せられる耐熱蒸気に触れたせいか、生ぬるく。『――オールユニット、シーラワン始動。トゥエンティーセカンド、反動に注意せよ』との通信が、装着している片耳のイヤホンマイクから聞こえてくるも、自身は見据えるものと揺るぎない。
黒くドロドロとしたタールが溢れては、落ち続ける滝の表面のどこにその目があり、口があって耳としているのか図らずも。確かに、かの者たちが、あらぬものと呼ぶのもよく解る。
それは、この世に根付いてはならぬもの。互いに共存だけは出来ぬもの。この世界で生まれたものたちの全てに、生き得る権利もあろうけれど。この水の惑星、地球では。後から生まれた外来種に根付く権利を与えられない。先たる種の保存こそが優先されなければ、人類側が終わってしまう。
「夜を返してよ」
通常の戦闘中であれ、滅多に厳しき強面など見せない雪夜だけれど。今夜だけは一味違った。
どちらにせよ譲らないとした、どす黒き流動の手が。よだれと飛沫を飛ばしながら、宙で浮かぶ雪夜を薙ぎ払おうとするも。身軽に跳躍、くるくると器用に回転しては、どこへとなく着地する読めない軌道に翻弄されて、ビクトリアは掴めず苛立ち、徐々に拠点としていた都庁前の交差点――跡地より、ずるずると本体を動かし始めた。移動せざるを得なくなったその足元で、ちょこまかと小賢しくも連鎖の弾丸を放つ人間、二人も気に食わない。
ビクトリアの背部側へ回り込んでいた夜鷹は、中野方面をその背にしながら。例えどれ程にほの暗こうとも、真っ暗闇の中で蠢こうものなら見落とすことなどない、確かな星を見極められる心眼で確認している。
「よっしゃ! 芯の根も一緒に動いてる。ママぁ?」
次の指令を参謀に請えば、『鷹はそこで待機ね』とした返答があり、同意し兼ねた夜鷹の頬がぷすーっと膨れた。
「えー?」
しかしながら、夜鷹も弁えている。現状における己の枠割りが、一歩と引いた先導役であることを。
「直っち、遼ちん! そのまんま真っ直ぐね!」
「その呼び方やめろ!」
相方との距離が離れようとも、いつもの掛け合いは忘れない。
『雪夜。そのまま連れていけ』
「でもパパ! このどこかに夜がいるんだよ?」
『大丈夫だ、あいつなら――』
黒き巨人と対面していた雪夜の視線が、碎王たちらが陣取る新宿御苑方向を向いた時に。ビクトリアも、首らしき頭部の頸椎をぐるべちゃりと回転させては、前進していた足を止めてしまう。
「しまった!」
焦った雪夜には、宗谷が優しく言葉をかけている。
『――そのまま。雪は呼んであげて?』
「ママ?」
パスン、と一打の花火が夜空に上がった。
それは警告を示す照明弾。
夜空の下で、逆Uの字を描いた白煙もやがては輝きを失い、薄らと消えた。その代わりとなって遥か彼方の上空より、煌めく何かがやって来ている。
『――着弾、五秒前』
白き光速の流星が、光の帯と雲を引きながら一路、ビクトリアの太き巨体めがけて飛来していた。
向かってくるものに脅威を感じたビクトリアもまた、それらの侵攻を防ぐべく、腹に抱えていた中腹からざわざわと、たなびく繊毛をぞわ立たせながら迎撃しようと算段して構えた。そんな一発如きに、との慢心を裏腹にして。
一発であったはずの弾道は、着弾前に二つに割れて。二つとなったものは四つに分散。四散したものより、さらに細かくとなった弾薬が、追うものと追われるものとに分かれれば。同時複数個所で摩擦と爆発を起こした爆炎が、鮮やかなオレンジ色と黒煙を入り混じらせる爆煙幕を大きく張った。
大気と風をも計算に入れて、味方となった緞帳に似た爆炎のカーテンへ向けて碎王は呟く。
「悪いな。明日は生き得るものの為にある」
まだ譲る気はないとする――こちらも無言の拳を一発、振り抜く。
そこで、くっと萎縮する無音の波が先行していた。一気の収縮は、次なる時には飛散を求めて膨張するのみ。伴ったのは空振の波。
音より先に衝撃波に襲われて割れ散るのはビルや露店の窓ガラスたち。そこかしこでパチパチと放電の摩擦を起こしているのは、擦れて生まれた静電気。――それは何も、お前だけの専売特許ではないとした、沈黙の布告を含みに入れて。
さすれば煙幕の中で身動きがとれなくなっていたビクトリアは。何が起こり得たのかの理解も出来ぬままであっただろう、一瞬のうちに。異生物とて「うっ!」と嗚咽き、圧倒的圧力によって伸されようとするものを押し返すことも敵わず、屈みこんだ反動もままに仰け反り返るのだった。
流動体とはいえ、地にタールで煮える足をつけていたその足元さえすくわれて。三度目の正直。巨体は、代々木公園方面へ向けてスローモーションで倒れゆく。道連れは、あがくも空しく、宙を切り裂く風の音だけ。
「碎王の屋号、
巻き起こる爆風の壁が到来し、過ぎ去るのを建物の陰でやり過ごしていた直人と遼臥は、倒れ込む様子を見届けている。倒木するものの方角がようやく定まり、ほっとしているのか。
「見た目と威力のギャップが凄いよな」
碎王の戦闘スタイルは、己の拳一献で相手を圧倒させる重圧壁撃一本勝負。その気を集中させれば、大気の壁を一枚の重力板にして押し出す風圧攻撃などもお手のもの。
「前から疑問に思ってたんだけどさ?」
遼臥が直人に尋ねている。
「何だよ、この期において?」
足元に転がって来た小石を靴で蹴り出しながら、遼臥は顎を指でも擦る。
「俺らが必殺技的な時に使うあの屋号ってやつ、ぶっちゃけノリだろ?」
それが今更どうした感を前面に出した直人は半眼となり「……で?」とだけ返す。
「いやなに。ノリと勢いは必要だけどさ――」
「んだから。何が言いてぇーんだよ、お前は」
遼臥は埃を被って痒くなった鼻筋を掻いた。
「ん。ママさんだけ持ってないのは何か、訳でもあんのかなっ――て!」
「よそ見しないで二人とも!」
注意喚起しながら空中より舞い降りた夜鷹が、「早く撃って!」と要望すれば。胴部が倒れ込むのを防ごうと、脚部が懸命に踏ん張ろうとしているのを直人と遼臥は瞬時に悟り。互いにグロッグ十七を構えて引き金を引く。
撃ち抜かれても再生しようとする根を断ち切ろうと、トリガーを紡ぐ間に。その上空で「だあわっ!」と情けない声を発して宙を転がってしまっているのは雪夜である。
屋号発動に対する反動に注意せよ、と言われていたのに。踏ん張るタイミングがずれてしまい、風圧に押されて吹き飛ばされてしまった。
飛ばされた先が代々木公園側であったのならマシであったのだけれど。事も有ろうに、雪夜が自身でこさえた足場のワイヤーに躓き、すってんころりんと転がった先は、吹き返しの風圧に巻き込まれたベイパースクリューの中であった。
そのままころころと、きり揉み状態で向かう先は。あわよくば食ってやろうと大口を開けては、その喉元を伸ばしてまで望むビクトリアの開口もど真ん中。
「ちょっ、雪!」
それに気づいた夜鷹が、これより自身が飛んで行っても間に合わないとした焦燥で冷や汗が出た束の間。
「まかせろ」
寡黙な運転手がピックスを操って突進していた。
――ボポーンボポーンボポーンボポーン、トゥルルトトゥルルトトゥルルトトゥルルト……。
雪夜は、急速に視界が狭まり暗くなる――ビクトリアの体内へ取り込まれそうになる、その寸前に。ファントムエクスプレスが奏でる独特の汽笛を耳にする。
――ボポーンボポーンボポーンボポーン、キャラトゥンキャラトゥンキャラトゥンキャラトゥン……。
魂のこだまは、諦めてなどいない証し。
「アンディ!」
八両編成の鋼鉄列車は、いざ雪夜に被りつき、呑み込んでやろうとする口元へ向かって一直線に進んでいた。
そのまま直進すれば、口内へと突進しようものの先頭車両は。鋭き先端ノーズを急速上昇させて、事も有ろうか敵の顔前で車底の腹を見せてしまう。
急速旋回の勢いもそのままに、先頭車両は二両目以下を引き連れながら、大気の宙で車列の円を大きく描く。そこに急遽の急激で出来上がったのは一回転の垂直ループ。そのルーピングも最終、八両目の最後尾が、丁度の具合でビクトリアの顎下に接触すれば。鋼鉄車両による、下から上へのアッパーパンチが華麗に一発、見事に決まる。
そうして平手よりも固く頑丈な拳の鋼鉄拳に突き上げられれば、ビクトリアは天を仰ぐしか術はなかった。
弾かれた水気が、びじゃと大きな音も立ててはしぶき、四方八方へと飛び散る黒き噴水の点と線。べじゃん、ぼじゃんと泡吹きながら滴る流線は、艶めく黒の直毛が毛根より抜け落ちているかのよう。巻き散らした飛沫らしき液体は細かな糸をも引きながら。軽くも重くねばつく曲線は滝ともなって、都市の一部を覆い尽くす。
頭部を失い、人間の体裁を成していたバランスをも失いかけて。下から湧き上がり続ける流動タールを倍増、増殖しては浮き上がる脚を踏ん張ろうにも。小賢しき連中が、橋と橋とを繋ぎかけるものを次から次へ、ぶちぶちと撃ち落としてしまい柱とならない。さしもの大木も重力に従い、もはや倒れる引力に応じる他は――の念仏など唱えず。本性とて、このままでは終われないの一択だ。
縁あってこの地球にまで飛んで来ては、繁殖しようとする種の思念は、そう容易く終われるものでもなく。微塵でも可能性があるならば、それに縋る。そして託した。このままでは倒れて終わってしまう――。咄嗟に、ビクトリアとて救いの手を伸ばしていた。
垂直ループを披露したピックスは、パンチを見舞った速度もそのままに。今度は捻りを加えたコークスクリューも取り入れながら雪夜の元へと急ぎ行き、参上の算段を整えてもいた。
何をも溶かすとされるビクトリアの体液を浴びても、その車体はものともせずに。ぬめり、巻き付く黒きタールなどは。街中に即席で作り上げたジェットコースターになぞらえたコースを走り抜ける風圧だけで拭い取った先頭車両が、まもなく地面に到達二秒前とした雪夜に追いつき。アスファルトとの間に滑り込んだ天井ハッチに自ら手をかけた雪夜は、辛くも拾い上げられる恰好で事なきを得た、その先で。
「何!?」
ピックスの車列が、ガクンと大きな衝撃を受けては急停止していた。
ファントムエクスプレスとしては短い八両編成であるものを、それでも一般的な車やトレーラーを思えば長い。その車列の長さを考慮して運転をしている筈なのに――いったい何を引っかけた?
「ああくそ、しぶてぇ。それでも朽ちねぇってか」
唸る碎王の声を、装着しているイヤホンマイクで耳にしながら。アンディが後方モニターで何が起きたと視認する前に。
「うわあああっ!」
「っ!」
ファントムエクスプレスの最後尾車両を手摺りの如くに鷲掴み、完全転倒を防ぐべく未然の緩衝材にもしたビクトリアによって、ピックスとその天井に張り付いていた雪夜は掴まれたあげくに放り投げ飛ばされていた。
「雪ーっ!」
さしもの雪夜とて遠投されて、より遠くへと投げ出された反動に勝てるものでもなく。再び宙へと放り出されてながら転がる。
「鷹っ!」
ファントムエクスプレスも、これまでの進行方向とは逆への転覆を齎されて。運転席のアンディは目前に迫ったビルへの衝突を避けようと、咄嗟に運転技術の駆使に入った。その体はシートベルトによって座席に固定されていても、縦に横にと激しく揺さぶられている。
連結する車体と車体の間も、柔軟に作られている仇も恩として。唸る車列を操るのは両手に握る丁字型のマスコン一卓。両足でペダルを踏み込み、時に緩めるのは速度や角度を決める微調整の為。無論、車体と車体の感覚とて長年の経験から熟知済み。
商業ビルへ体当たりしかけた車列全体にかけるは、補助も全開にした急ブレーキ。車体下で七色の摩擦痕をたなびかせながら、金属同士が擦れ合う甲高くも野太い急停止音も悲鳴を上げつつ、車輪を回していたロッドも逆回転。
ギリギリのところで踏みとどまった証しのギシャアン、ブシャンと鼻息の荒い蒸気も吐いた先頭車両は、長く尖った先端の両目で、あとはまかせろ――とばかりの白銀眼を渋く光らせる。そうして停止した先頭車両とは違い、遠心力に振り回されている二両目以下たちのコントロールも取り戻すべく。アンディは、ピックスの全車両を繋ぐ連結を一気に開放するのだった。
一両目と二両目、三両目から順次順当に、車両同士を繋ぎ合わせていた車列が一両ずつ切り離された。
八両全てが個々に単独、独立しては。普段の進行方向とは逆となる、後退しながらの加速度的な中でも制御を失わず。四両目は天井高ぎりぎりの高さで歩道橋下を訳なくくぐり抜け、五両目などは首都高架を跨ぐ半トンネル下に潜り込んでは、一旦姿を消してからまた現れる。通過した後に残り、なびきながら散り消える七色の光粉。そうしてそれぞれが、街の中で衝突しそうになるもの全てを回避しながら、車道に沿って進むではないか。
「アンディー!」
最も遠くへ投げ飛ばされていた雪夜が、アスファルトの路面に手、頭、背中、尻の順でのタッチダウンした後で前転三回、側転捻り一回転後に。さし迫る車体に対して、大きな目を丸めていた。――このまま僕を拾って!
無論、アンディにも見えていた。
見失いなどするものか。呼ばれ、届かぬものなど一度で充分。
分裂したものを、再び元へ戻す作業とて運転手の務め。ここは首都の道路だ。狭きものもあれば、三車線以上もある複合道路も多く。時には上下に違う段階分離帯として中央ガードレール代わりの壁を立てている物に車体を擦り付け、相手側を傷つける訳にもいかない操車技術は、すれすれの一センチもの隙間を残す余裕のすり抜け走行なるコブラロールにしてお手のもの。
「乗れ」
その一言で雪夜は飛べる。
迫り来る波乗り車列に背を向けては駆け出して、大きく跳躍した雪夜の足元に。ピックスの八両目がテールサイドを流し気味にしたスライドドリフト走行で突っ込んで来る。しかも大きな交差点で、全車が合流しようかと突入する直前に。車輪を地にしていた車体が自ら意志を持つかに、くるりと飛び跳ねては大きく横転。横軸に一回転しながら、進むべき道を選んで向きを変えていた。
見事な回転軸でわざと横転したのは、同じく交差点へ侵入しかけて来たトラックの姿があったからだ。
ヘッドライトだけが頼りな交差点の信号は全てが青灯。全方向からの進入を可としたクロス十字路で、八両目はトラックとの衝突を回避すべく、横飛び回転で飛び避けたのだ。
何かがトラックの頭上を飛び越えて行った。と、驚いたトラックの運転手も急ブレーキを踏んだのちに。制動距離を空滑走しては、タイヤより白煙を上げてながら交差点を通り過ぎた先で停め置いた。
「ななな、何だよおい!?」
ドアを空けて後方を見やっても、既に過ぎ去ったものの形は跡形も無く。アスファルトの路面上に残っていたのは、キラキラと虹色に輝く光の粉を纏った二本の軌道だけ。それも、ふっと撒かれた風に乗ってすぐに掻き消えてしまった。
――俺は今、いったい何を見たというのか。
むき出しにした眼を凝らしても、やはり過ぎたそこには何もなく。
避難命令が出ているのは知っていた。なれども大切な家財道具を置いて逃げることは出来ずに一人、最後まで残っていたのが災いしたか。疲れも溜まって幻でも見てしまったのか。何て事だ。こんな事に巻き込まれると知っていれば、もっとに早く逃げていたのに――。
「おじさん、早く逃げて!」
どこからともなく降ってかかった声にも押され、ドライバーは「ひっ!」と短い悲鳴を上げて、慌ててトラックのドアを閉めては再び走り出した。
ピックスの天井、天板に着地した雪夜は。次なる交差点でも合流と連結を重ね、元の八両編成へと戻るPHANTOM EXPRESSの文字を連ねた車体上を全速力で駆け抜けていた。そして飛ぶ。ピックスを踏み台にして。
「夜乃ーっ!」
――見つけた。混沌の交差点の中で。
もう大丈夫だ。夜鷹にもしっかり見えていたから。
「くそったれ! 撃ち尽くした!」
「こっちもだ!」
直人と遼臥は装てん数十七発のグロックを握ったまま、撃ち手を下ろした。補給したばかりであった大量の弾倉も尽きるとは。脚元で空となって転がる薬きょうたちが、まだ湯気を立てていて温かい。何よりビクトリアと言うバグジーに近い分、異臭も混じっていて焦げ臭い。
「当たってるよな?」
怒鳴り合うかの掛け合いは互いに喧嘩腰だ。
「お宅の弾道が甘過ぎて。こっちは十中八九、追加オーライのケツ叩きに回ってる分も多かったぞ?」
直人が遼臥の物言いに噛みつく。
「何だと?」
一発の弾丸を撃つのは容易い。発射した弾丸に次の弾丸を命中させて、威力の連鎖を計ろうなどと、射撃のプロでもそう簡単にはゆかないのに。副業以下の趣味程度、妄想全開のヤツらに何ができる――だなんて、ほざく時期は疾うに過ぎた。
人間、どこで秘めた才能が開花するのかわからない。現にあれ以来、直人と遼臥は持ち前のノリと勢いを用いて、シーラの中核メンバーとなっている。
「摩擦が少なすぎて、連鎖の連鎖に程遠いんだ。これじゃ幾ら俺らに力量の分があっても、結果に繋がらねぇ」
本体の粘度はあまりに高く、ねっとりドロドロ。高速の弾丸を急所めがけて撃ち込んでも、着弾した瞬間に勢いは殺され。本来であれば追従、更なる効果を生み出すはずの弾丸たちが、全力を出し切れないままで終わってしまう。
「そう思う根拠のソースはどこにあるんだ?」
「ソースだあ?」
直人が何と言い返そうかと口を歪めれば、碎王が通信に割り込んでくる。
『――お前ら。ソース如きで喧嘩するなよ。ソースくれぇ、俺が支給してやっから』
いったい何の話かと、直人と遼臥は互いを見つめた。恐らくにして多分、碎王はソースの意味をはき違えている。けれども今、それをここで説明しようにも正そうにも、時間と労力がもったいないとの無言の合意で同意する。つまりはスルーが大人の対応。
「頼むよおい……」
城主碎王は根っからの勝負師であるのに、横文字にはからっきし弱い。
「ま。フォローの達人がどうとでもしてくれるさ。どうせ何とかした後でまた、射角が
「冷静に愚痴ってる場合かよ」
遼臥とてそう告げながらも、平静に嘆いていた。――では、どうする。ビクトリアは寸前のところで踏みとどまってしまった。
「大将の屋号でも駄目。鋼鉄のアッパーも駄目。補佐たる俺らの弾も効果なしじゃ、お手上げじゃねーか」
シーラのナンバーツーは。前線より一線を敷いたところで、決着を図るべく決心の瞳を揺るがせている。
『――シーラワン』
呼ぶは、十七年もの間、共に時を過ごして連れ添ったパートナーにして無二の親友。
その間に雪夜は。代々木公園の中で、ぽつんと一人佇んでいた夜乃の傍に駆け寄っていた。
「夜乃!」
夜の帳の下で、その子は呆然と立ち尽くしている。
「夜!」
自らが風の如くで宙を駆け。颯爽と地に足をつけたステップもワン、ツー、スリーのタイミングで踏んだ雪夜は夜乃の腕に手をかけた。
「夜?」
どこか遠くを見つめる目は、うつろったままで雪夜を捉えない。
「夜! しっかりしてよ!」
強く掴む両手で、雪夜は夜乃をがくがくと前後に揺さぶる。すると、どこともなく彷徨っていた視線は、近くの者にゆっくりと焦点を定めた。
「……雪?」
ほっとした笑みが雪夜からこぼれる。
「そうだよ! 夜、どうしちゃったの? 直人さん、心配してるよ?」
無論、僕も――と発言しかけたものは。吹いたそよ風にすらかき消されそうな呟きによって中断される。
「……たの」
「え?」
雪夜は、もう一度言ってと促す。さすれば夜乃は、今度こそ雪夜の目を見ながら、はっきりと告げた。
「母さんが、呼んでたから」
雪夜の目が大きく見開く。
「夜……」
そんなはずなど、ある訳がない。三人とも捨てられた身。一度は本物の両親によって。二度目はあの日に。残された三人は、本当の兄弟以上の絆を以てして、身を寄せ合っては過ごしてきたから余計に。三人一体の感覚も強い。誰が今どこで、何を考え感じているのかも、よく分かっていたつもりだったのに。
雪夜は、緩めていた顔を真剣なものへと戻す。
「夜。ねぇ――」
夜乃の視線が、再びビクトリアへ向こうとするものを雪夜は体で遮り、揺すりもして阻んだ。
「夜、聞いて? 僕を見て!」
彷徨うものを一喝すれば、夜乃の視線は雪夜を見定める。
「おいでって……」
呼んだのは、君ではない。
「違う! あんなもの母さんじゃない!」
そんなはずが、ある訳もない。
「あれはただの
しかし夜乃は納得しない。
「……でも、僕を呼んでた」
これでは平行線だと思ったのか、雪夜はせっつく姿勢を緩め、夜乃の腕を掴んでいたものの片腕を放しながら優しく問いかければ。
「どうして、そう思うの?」
夜乃も、ぽつぽつと語り始めた。
「夜にしか生きられないの、一緒だと思って」
雪夜の脳裏にも、深々と雪が降り続けるあの日の景色が甦った。
夜乃と雪夜が初めて出会ったのは、雪の降る夜のことだった。
暗く明りのない森林が深い野の中で、雪夜は一人、薄着のパジャマ姿で横たわっていた。
空は分厚い灰色の雲で覆い尽くされ、降りしきる雪に降りやむ気配は窺えない。
白くもあろう雪がさくさくと、降り積もり続ける暗闇の中で。雪夜は眠くて眠くて仕方がなかった。
ここへ至る経緯の元を辿れば、自業自得になるのかも知れないけれど。戻るよりかは遥かにマシだ。後悔はない。
その耳に届くのは、雪が降り続くカサカサと乾いた音と。樹木の木々に降り積もる傘雪たちが、身を寄せ合いながら時に耐えきれなくもなっては落ちる、粛々とした響きのみ。
最初はそれに耳を傾けているだけでも楽しかった。それでもやはり、徐々に体温は奪われ、冷え続ける寒さは身に堪えた。
やがて、凍えそうだった寒さそのものを感じなくなれば。このまま、真っ暗な闇の中で眠ってしまえば良いのだと。とうには意識を手放し、雪夜は近づく眠気に身を委ねた。
ふと、温かな心地良さを感じて意識が目覚めれば。ぼんやりと灯る明かりを見つけた。
温かいと感じたものは、誰かに抱きしめられている人肌のぬくもりと、毛布と。「大丈夫。夜は明けるよ」と呟かれた、激励の文句。
幼き雪夜は、たったのその一言だけで「僕は生きていてもいいんだ」と無言の涙を流せた。
それからの事は走馬灯。
雪降る夜の野で夜乃に出会い、助けられた雪夜は。雪夜を見つけた夜鷹なる星とも出会って生き繋げてきた。
何度も大きな風や揺れを体験し、流れる星と星の間を飛んでは別れ。三児を見捨てた大人たちが、最後の時に何と叫んで告げたのかは思い出せずに。
「夜は嫌いだ」
夜乃が囁き、雪夜は静かに聞いている。夜乃は三人の中で最も夜を過ごした経験が長い。だからなのか、夜乃は夜が嫌いだった。
陽が沈んでから明けるまでの間、夜乃は眠る。押し寄せる恐怖に負けぬ為なのか、押し殺す為なのかは計り知れず。昼とて滾々と眠るのは、いつか来る夜に備えてのこと。そんなことは雪夜とて百も承知。
「でも、雪たちが助かるのなら――」
雪夜は、はっと息を呑んだ。夜乃が次に何と述べるのかが知れたからだ。
「僕が行く」
雪夜が知っている夜乃は、人一倍眠る彼の、優しき面と立ち向かう勇気を伏せ持つ肝っ玉の強さだ。普段はずぼらで、だらしなくぬぼーっとしていても、いざなる時こそ夜乃は夜鷹を守り、雪夜をも救ってきた。
――どうしていつも、大事な時に限って何も言わずに一人で決めてしまうの!
俯いた雪夜の、握った拳が震えていた。
「そんなの駄目」
「……雪」
伏した顔を上げれば、雪夜の表情は厳しいものへと変貌していた。
「そんなの駄目に決まってる!」
「雪……」
今度は夜乃が、雪夜を宥めるべく拳を握った手に手を添える。震えているのは、あの日と同じだ。
そうした思いが伝わったのか、雪夜も隠すことなく夜乃に本音を告げる。
「夜。バグジーと接触し過ぎたんだよ。朝からずっと、近くに居たんでしょ?」
渋谷の後で、雪夜が新宿に立ち寄った時には既に、夜乃も察知していたのならば。雪夜たちが埼玉は羽生との間を往復している間も、夜乃はバグジーと共に居たことになるならば、然り。
「伝染、しちゃったんだね」
種は、保存の手段の一つとして。異種の心につけ込む行為も平気で行う。それは微々たりとも磁場を通じて感染したり、匂いを通じて記憶に呼びかけたりもする多種も多様で千差万別。
夜乃はあまりに長い間、バグジー、ビクトリアと時間を共にし過ぎた、結果。
「呼ばれたと思う、呼んでると感じる共感に共鳴したら、あいつの思うつぼだよ!」
だから、目を覚まして――夜乃!
「雪! 危ない!」
その手を離せと、両者の間に割って入ったのは誰でもない、ビクトリアだった。
危険だと感じる前に、雪夜の体はとっくに動いていた。それは生きる為への執着ではなく、これまでに培い体験してきた経験と勘が、避けよとする反射神経に作用してしまう直感で働いてしまう。
「わっ!」
上から踏みつぶそうとする手の形をした流動体が、バチンと地を叩くものを。飛び避けたと表するよりも、咄嗟と動きすぎた足が縺れて無様にもずっこけてしまった。
ころころと転がるさまは、トランポリンの上でわざと転んでは遊ぶ子供のようで。アンディからの知らせによって、代々木公園へと集った直人と遼臥の足も止まる。
「流石は天性きっての回避能力主だな」
「ほんと、奇跡のずっこけが奇跡的すぎて。こっちの感覚がおかしくなる」
そうと発する先に到着したのは宙より舞い降りた夜鷹であって、歩道と花壇の境にある縁石で後頭部を打ちつけ、「あ
「大丈夫?」
打ちつけた頭部を片手で擦りながら、雪夜は夜鷹の差し出す手を借りて立ち上がる。
「夜は?」
「行ったみたい」
雪夜は夜鷹を睨んだ。憎いからではない。現状が不満だらけだからだ。
「行かせちゃ駄目だよ! 夜、自分が犠牲になれば良いって思ってるんだよ?」
「だから余計に。こっちも態勢、整えないと」
夜鷹も知っている。身内のことになればなるほど、雪夜は感情的になり暴走しやすいことを。そうして孕んだものは、うずうずと熟す時を待って、ついには一気の爆発を起こす。それを例えるならば、超新星のビッグバン。その星の誕生を、夜鷹は間近で実際にその目で見たことがあるからこそ、その凄さも恐ろしさも知っている。
「鷹は何で、そんなに冷静でいられるのさ!」
「知ってるでしょ? 俺には、希望を失わない星なら、どんな暗い中でも見えるってこと」
夜鷹の名を持つ目は伊達ではない。雪夜はあの雪の夜に見つけてもらえた。だからこそ、奇跡の目利きも信じている。けれど、夜乃を助けたいと思う焦燥は募るばかりで、身も心も落ち着きやしない。
夜鷹は尚も言った。
「例え輝くものがほんのひと欠片でも。まだ光が見えるってことは、鷹も希望を失ってないってことでしょーよ?」
「それでも。僕は――鷹」
じっとなんてしていられないんだ、と台詞を吐いて。雪夜は夜鷹をその場に残して飛んで行った。
同刻、直人も凪射るものを撃ち払っているうちに、ついには遼臥とも逸れ、一人孤軍となっていた。否、あえて一人を選んだのかも果たして、正解か不正解か。今となっては遅し。だけれど偶然か、縁あってのことかも定かではなきにしろ。夜乃とばったり出くわしたのは、幸いだったか。
「夜乃」
夜空より、ふらりと舞い降りたその姿は見紛うことなく。しかし相手は無言で直人を視認したのちに、視線は外す。その動さ一つで直人は、夜乃にはしっかり自覚があるのだと知れる。
「お前のする事に、俺はいちいち口出ししたりはしねぇが――」
それでも、夜乃が直人をこの世界へと引きずり込んだ。相棒として手を組んで欲しいと望んだのは夜乃のほうからだと言うのに。パートナーに何の断りもなくと言うのは、あまりにあんまり過ぎやしないかと。
「っ!」
直人は、急激に視界が奪われ。意識が遠のくのを踏ん張れなかった。
「夜……、お前――」
全身から力が抜ける。立ってもいられなくなり、意識が朦朧とする中で直人は、夜乃に手を伸ばした。
立ち尽くす、その肩は掴めた。なれど、「ごめんなさい。みんなが助かるなら、僕はずっと夜の中でいい」と呟く視野も掠れ掠れに。
「何度も同じ夢を見たんだ。それは眩しくて眩しくて、目を開けていられないほどの明るい地平線。あれは――僕には眩しすぎる」
そんな事を、夜乃はぼそぼそと喋っただろうか。
「馬鹿、野郎……。お前にとって俺は、こんな程度だった、のかよ……」
直人は口癖のくそったれ――までを発言できず。どさり、とその場に崩れ落ちた。
「直人さん!」
もう一陣の風を纏い、夜乃の下へ飛んで来た者は。バグジーが放つ独特の異臭にまかれた直人を抱きかかえようともしながら、「夜! どうして!」とも叫んでいただろうか。
「駄目だよ! これ以上、ビクトリアの毒気に浸食されたら、いくら夜でも――」
そこでまたもや、邪魔な者を食い潰そうとする手や手と、足なるタールの触手が四方より飛来して。雪夜は自身より倍はあろう体格差をものともせずに、直人の腕を肩にひっかけては、ひらりと飛び避ける。
「夜! 自己犠牲だなんて、僕は許さないから!」
追従の手も止まず、ビクトリアによって引き離される距離も遠のく。
「夜が僕を助けてくれたんじゃないか!」
いつだって、夜乃が雪夜の希望だった。あの真っ暗闇の中で夜鷹の眼があったとは言え、自身も凍えてしまう危険を冒してまで救い出そうとした、あの手を伸ばして包んで、温めてくれたのは。
「ねぇ、夜! 聞こえる?」
ビクトリアが再構築した、何重にも及ぶ黒きタールの壁や層に目標を阻まれ。雪夜の視界からは既に夜乃の姿は見えない。それでも届いていると信じたい。だから言うよ――君にも。
「やめて! 僕から夜を奪わないで!」
雪の降る夜に生まれた雪夜の、二度目の奇跡も夜乃がくれた。
その星を夜鷹も見ていた。あれから三人は本当の兄弟にように寄り添って生きてきた。
そんな何をもを引き換えにだなんて、そんなもの。僕が許さない――!
「夜! 待ってて! 今度は僕が! 夜を必ず助けるから!」
雪夜の持つ奇跡の星が、爆発寸前なる膨張を見せたのを。夜鷹もやはり見逃していなかった。
「パパ! 夜を助けて!」
ひゅるひゅるりと、寒気の空風が首都に颪を呼び寄せ、吹き荒れている。一頻りの夜も更け、東の空はひっそりと白んでもきている。
まもなく夜明けだ。引いては押しての文字通り、一進一退で一時は膠着もした首都決戦も、まもなく終焉の時を迎えようとしている。
その袂で、宗谷が通信で碎王に乞うていた。
『――時間を稼いで貰っても?』
夜が明けるまで、さほど時間は残されていない。
「いいのか? 大切に貯めてきたお前の時間だぞ?」
夜にしか咲くことのできない花は、きっと次の機会を求めて眠るだろう。どこかでひっそりと、再び花を咲かせる為の力を温存できる場所も求めて。ここではない新たなどこかへ、飛び去ってしまう可能性も無きにしも非ず。
『僕は最初から、あなたに全てを託していましたから――』
言ってくれるな、との返答はない。それが、碎王の決して快諾ではない、けれども承諾の証しである旨を。相棒は誰よりも知っている。
「全員、退却」
号令は迷わずに下すのが碎王、という男の生き様を物語り。中央をすべて空となした、その都市で。佇み静まり返るは高層のビル郡や、点滅すらやめた信号機たち。往来のない交差点は、果てなき空へと続くその先も無人と化して。
「――嘘でしょ? なんで? だってまだそこにはママが!」
代々木公園付近より、しばし遠くへ退避したのは雪夜たちも同じであった。集結したそこに、足りない仲間はただ一人。
碎王は取り乱し、連れ戻そうとする雪夜の腕を掴み取っては、静かに首も横に振る。必ずこうなると宗谷が懸念した上で、止めてくれと望んだことだ。
「よせ。もう間に合わん」
「何で!? 何でママが……? ママ!」
宗谷は何をも言わずとも温かな飯を作って食わせてくれた。奥深い愛情で大いに世話もやいてくれた。時に困らせもしたけれど、何時だって優しき笑顔で応じてくれた、まさしく母のような存在であったものが――その中心点で。自ら弾けようとしている。
「何で……、どうしてなの!」
碎王に捕まれし腕を、雪夜は怒りと憤りのまま強引に振り切るも。白い尾を引いて昇ったそれは、既に届かぬところに到達してしまっている。つまりはシーラの最終手段。これが成功しい得ぬのならば。国家は転覆どころか、滅亡の危機に瀕する。
大役の役目を果たすべく。呼び寄せられた頂点で破裂した弾道は、蜘蛛の巣を描いた独特の爆円を広げて四散した。
六本もの矢筋となる裾野も広げ、挙句にひび割れた先から粉々に散り。空に浮かび上がった巨大な六辺爆裂は、美しき雪の結晶を咲かせたのちに、後は光の粉となって舞い散るのみ。
誘導しい得た直下には、大きなへ込みが円を成す。つまりは爆心地点で、そこには宗谷がいた。しかしその姿は、何をも根こそぎで吹き飛ばした爆発によって跡形もない。
確かに始まってしまっていたものはもはや、止める術などどこにもなくて。雪夜の足がどれほど速かろうとも間に合わなかっただろう。
碎王は一点を眺めている。光の粒がキラキラと、眩しき夜明けを受け入れようとする空に染み入る光景を、ただじっと見届けるかのように。
――祈ろう。あいつが信じて咲かせたその花が。やがてはしぼみ、種を落として次なる芽を出すその時を。
碎王の決心は、信じていると繰り返し念じる、心の奥底で呟かれている。
その片手に握っているのは、宗谷と揃いの懐中時計だ。
いつもはパンツの裏ポケットの中で、大事にしまってある物を今は手の平で握り。時間を確認するのに、チラリと垣間見れば。止まったままの秒針が、進むべき方向を見失ったのか。逆の左回りで進んでいた。
確信だとか信頼だとか、そんなものでは物足りぬ。それは掛け引きなどなき、夜が明ける必然とそれこそ一緒だとして。
セルバンテスも残したように。
真の勇気というものは、極端な臆病と無鉄砲との中間にあるのだから。
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