第6話 咲き初ぶ蕾は

 薄ら雲すらかかっていない、晴れ渡った青き空からではなく。地中からふつと沸き上がった嵐が過ぎ去りし渋谷のスクランブル交叉点は、根本の事態こそ収拾していたものの、事後の混乱で騒然となっていた。

 元来の姿がいかにあったかの原型も留めないほどに破壊しつくされて、陥没に隆起、瓦礫の飛散で荒れ果てた交叉点を中心に、規制線を設けて被害状況や実況見分などに努めているのは警察関係の人と車両。パニックと言う名の混乱の中で発生した、多数の怪我人への手当てや事後処理に奔走しているのは東京消防庁や救急隊員たち。未だ地中より破裂した水道管より、土砂を含んだ噴水たる惨状を呆然と見上げているのは土木関係者と、工事車両なども駆け付けている混沌の交叉点。

「何だか……凄い体験――、しちゃいましたね」

 たまたま通りすがっただけなのに――と、心の中で呟いた通りすがりだったOLは、泥で汚れたハンドバッグの中から取り出した眼鏡ケースの中へと、同じく泥で汚れた本体を収めた。今は脱力も激しく、汚れを拭き取る気力もなかった。


 あの時より今しがた、まもなく一時間が経過しても尚、全身でくすぶる寒気も止まらない。

 救急隊員より、ずぶ濡れとなった体が低体温にならぬようにと手渡されたオレンジ色の毛布で身を包んでも。定期的にぶるぶると、芯から震え上がる悪寒も止めどなく。

 今季一番の冷え込みを記録した時節に、予想外の水しぶきを浴び、全身ずぶ濡れとなった体は容易に温まり難い。まずは濡れた洋服を丸ごと着替えるなり、体とて風呂に入るなりして元から温め直さなければ根本の解決には程遠い。


 幸いなことに、交差点内で一時的に逃げ遅れ、取り残された三人に怪我はなかった。

 交叉点の外へ避難し終えた直後から、警察官や救急隊員から重ね重ねに事情を訊ねられた。そんな何度となくの状況確認に応じては過ぎた、この小一時間。

「もう、今日は会社に行くどころじゃないですね」

 ふふと強がりの笑みを浮かべたOLは、「くしゅっ」なるくしゃみを「すみません」と払いのけた後で。かの交叉点において、目の前で棒立ちされたお蔭でぶつかってしまったその彼を、勝手に棒立ち男と名付けた者の隣に腰かけた。

 今を思えばあの時、棒立ち男に追突したのち、尻もちをつかずにいたのなら。自分はどうなっていたのだろうか――なる、後から思えばぞっとする思考はまとまらない。

「全くだ」

 地下鉄は勿論のこと、交叉点近くを高架で通る地上の鉄道も、軒並み運転見合わせを含めた運行中止を余儀なくされていて、目下。大混乱に陥った首都の通勤ラッシュは、あとの混乱を残すのみ。臨時ニュースを挟んだ世間も、少しずつ平常を取り戻しつつある。

「突っ立ってただけなのにな」

 そう告げたのは、勤めている会社への連絡が取れたばかりの。こちらもまだ本名が知れずの名もなきリーマン。


 圏外を告げていたスマホの電波が、今は平常との御旗を立ててからすぐのこと。名もなきリーマンは、双方の安否を確かめ合う連絡を方々に入れながら、通りすがりのOLと棒立ちの男の会話にも参加している。

「とんだ災難だ――」そこまでを告げると視線を外した。述べる相手は、目には見えない通信先の向こう側。「とにかくお前らだけでやってみろ。……泣き言を言うな! いいな? まかせたからな」

 ぶっきら棒にも思える応対の端々に、幾分の思いやりを感じ取った棒立ち男も、通信が切れる寸前に「ちょっと課長ー!?」と叫ぶ声を聞き洩らさなかった。

 何となしに己たちは、同年代だろではなかろうか――と推測していた名もなきリーマンが、名もなき課長へ昇格した瞬間でもあった。

「アンタ、課長さんなんだ?」

 立派な肩書きがあったことに、若干のやっかみも伺えたか。訊ねられた当の本人は、何を今さらの念を滲ませながら答える。

「役職なんて、あってないようなものだ」

 スマホ画面のタップをし終えた指は、仕事一筋に燃えたであろう男の人の手だと、通りすがりのOLは目を細める。

「そんなこと。充分凄いと思いまっ、くしゅ!」

 またもや芯から震えあがった悪寒に反応したくしゃみが、両手で顔を隠した下から漏れ出てしまう。

「大丈夫か?」

「は、い。すみません、大丈夫で……くっしゅ!」

「いやでもホント、このままじゃ俺らも本格的に風邪引くな」

 ひとまずどこかで着替えを購入しては、着替えるかなどしなければ。本当はすぐにでも風呂に入りたいところだけれど――のスパか、ホテルかの温泉にでも――と思いつく限りの策を三者三様が巡らせていると。棒立ち男が「よいせ」と腰を上げていた。

「俺のマンションが近くなんだ。もし良かったら――」

 その先は、発せられずともすぐに悟れた。何ともありがたい申し出だとして、交差点内に取り残された三人衆たち一行は。呆然と混乱の場をそそくさと抜け出して行った、はずだった。

 しかしそこは、特ダネを得ようとするテレビ、ワイドショーレポーター各関係者からの引き続き突撃、取材申込みなども殺到しすぎて。もみくちゃにされる中で、棒立ち男と名もなき課長が紅一点、通りすがりのOLの両脇で人間ガード壁になりながらの大脱出模様になろうとは。予想外が、どこから転がり出るのか全くだに知れず。ほんの数時間前に体験したものの正体を、一番に知りたいのは当の本人たちだというのに――。


 三人はずぶ濡れのまま。立ち寄った大型量販店で、色やデザインを気にすることなく。とりあえずの下着からの一式を購入した後では、コンビニにも立ち寄り。辿りついた棒立ち男のマンションは、渋谷のスクランブル交叉点とは間逆に位置した、それこそ渋谷警察署の近くにあった。

「こんな近くに住んでるなんて……」

 ただのリノベーション物件だよ、なんて言われても。二十三区内で駅近だなんて、そう簡単に手が出るものではないだろうに――と密かに思う通りすがりのOLの心中を余所にしながら、名もなき課長もぽろりと告げる。

「なんだ。俺のマンションも実はここの、もうちょっと先の青山なんだ」

「ええ? マジすか? ご近所さんじゃないすか」棒立ち男は嬉しそうに反応してから続けた。「それなら、自宅に戻ったほうが――良かったんじゃ?」

「いや」

 濡れた髪を鬱陶しそうに掻き上げた名もなき課長は、濡れた状態が相当に不快で苛立たしくもあったのか。びしょ濡れの頭髪を手櫛で?きあげながら刺々しく答えていた。

「これ以上、汚れた状態で街中を歩くのも耐えられそうにない。邪魔するよ」

「どうぞどうぞ。ここへ来てからで何だけど。実はまだ引っ越す前で。何もなくて――」

 先の購入品で両手一杯の荷物を、まだ傷の一つもないフローリングの端に降ろした棒立ち男が、二人を部屋の中へ招き入れれば、確かに。リビングにはソファーやテーブルがなく、まっさらなダイニングキッチンには冷蔵庫類の家電もなく、シンクには水あかどころか水滴もなく。カウンターにはグラスの一つも見当たらなかった。

 かろうじて窓辺に設置されていたカーテンの隙間より、昼間の日射が射し込んでいることで現実である旨を実感できる不思議な空間として窺える。

「でも、電気やガス、水道はきてるから。シャワーは入れる。これ――タオル、使って?」

 棒立ち男は、先の量販店で人数分のタオルなども購入していた。

「それで買った手荷物が両手いっぱいだったんですね?」

 通りすがりのOLは、棒立ち男の気配り素直に感謝を述べる。

「ありがとうございます」

 男性二人はとても紳士だった。通りすがりのOLは、もしや個室に連れ込まれなどしては、襲われるのではないか――などと、勝手な被害妄想をしなかったかとすれば嘘になる。だけれど非、日常に巻き込まれた矢先。もっと凄いものに遭遇したのだから。ここは単純に甘えさせて貰おう、と礼を告げてレディーファーストも素直に受けた。でなければ本当に風邪を引いてしまう。


 ずぶ濡れとなった三人がシャワーで体を温めた後は、何となしで会話を紡ぎ合い始めた。

「あれ? 眼鏡ですか?」

 最後にシャワーを終えた家主は髪にタオルを当てながら、名もなき課長が黒ぶちを宛がっていることに気付いた。

「ああ。普段はコンタクトなんだが。色々限界だったんで」

 着用していた眼鏡を取って、疲れた目元を指でもみ込む課長から、通りすがりのOLへと視線を移す。

「そう言えば眼鏡――、かけてなくて大丈夫なんすか?」そこまでを告げてから、棒立ち男ははっと気付く。「あ。もしかして、俺にぶつかった時に壊れました?」

 だったら弁償を、と申し出る棒立ち男の発言を、通りすがりのOLは両手を振りながら遮った。

「いいえ違うんです。あれは単に汚れちゃっただけで。近視持ちなので遠くはぼやけてますけど、むしろ手元や近いところは裸眼のほうが良く見えますから。皆さんのお顔、ちゃんと見えてますよ?」

 そこへ、黒ぶち眼鏡をかけ直した名もなき課長が便乗する。

「俺はむしろ、この似合わん眼鏡かコンタクトしてないと何も見えん」

「いいじゃないすか、眼鏡。むしろで男前度、上がってますよ?」

「茶化すなよ」

 通りすがりのOLの口元が、くすりと微笑するも。互いに思うところはただ一つ。

「怖かった……ですね」

 コンビニで仕入れた温かい飲み物を手にして喉を通し、胃の中からほっと温まれば、ようやく生きた心地も体中に充満してくる。

 あの場では交叉点の外へ逃げるのに精一杯だったけれど。それを「どんなお気持ちでしたか?」と訊ねられても。カメラやマイクを向けられている手前では「無我夢中でした」としか言いようがない。

「それに。何だったのかな……、あれは。あまりに一瞬のことすぎて」

 棒立ち男は、「一日分の休暇を貰った今日はどの道終いだ」とも言って、アルコールの瓶を掲げては口にもしていた。名もなき課長も「本当に。今日はもうどうとでもなれ」とばかりの。棒立ち男と同じ銘柄の瓶と瓶をかち合わせて乾杯している。

「あの人がいなければ、俺たちは間違いなく――」

 あとは無言。

 新品のフローリングで、思い思いに座り込んだ男二人と女子一人。まだやはり、どことなく放心状態から抜け出せなかった。


 そこから気持ちを入れ替えようにも。非、現実的な体験をしてしまった後ではよほどに尾を引くだろう、誰だって。

「そうだ」

 マンションに到着してから早、一時間以上が経過してから。棒立ち男が改まった。

「まだ名乗ってなかったっすね――今さらで何だけど。俺、親野辺おやのべって言います」

「私もお世話になっておきながら……ご挨拶が遅れましてすみません。萩野はぎのと申します」

 黒髪も長い頭をぺこりと下げれば、艶めくストレートの毛先がつるんと踊る。

 自己紹介もまた最後になった名もなき課長は、二人を交互に見やってから告げた。「嶋野木しまのぎだ。あの交叉点の近くのビルで、完徹した後だったんだが――二人は、出勤途中で?」

「俺は月が明けたら本格的に、こっちに引っ越そうかと思ってたところで。今はまだいつもの郊外から」

 萩野は男性陣を尊敬の眼差しで見つめた。

「お二人とも凄いですね。都内にマンションだなんて」

「そんなことないさ」

 親野辺が口を挟む。

「俺、独身だし。金使う趣味とかもあんまないから。いつか、あの通勤地獄からは絶対解放されたいって体で」

「わかるな、それ」

 嶋野木も同調していた。

「俺もそれで青山に。でも、会社が徒歩圏内になると。何かあると一番に出社かと思えば居残り、留守番。はっきり言って便利屋にされるだけで、良いことなしだぞ?」

「ああそうか。それがあったか!」

 しまった。そこまでの考えは及ばなかった――なる天井を仰いだ親野辺を眺める嶋野木の表情が緩むのを、微笑ましく見守っていた萩野にその嶋野木が問いかける。

「萩野さんは?」

「え? あぁ、私も郊外です。それこそ奥地からで本当、大変ですよね。通勤ラッシュ」

「萩野さんみたいに細いと、毎日潰されそうにならない?」

 あるある話題を振られて、萩野も少しずつ話の波に乗り出す。

「ありますそれ、凄くあります! つま先立ちどころか完全に、体が浮いちゃうこともしょっちゅうですから」

「はははっ! 大変だぁ!」

「本当にあるんだな、そう言うの。漫画か作り話かと思ってたよ」

 一頻り笑い合った後で唐突に、親野辺が口火を切った。アルコール瓶の底で、男女の双方を指し示しながら。

「――って。二人は知り合いなんじゃ……?」

 そうだった、と萩野ははっとして俯いた。嶋野木に対して『あなた――、どこかで?』だなんて。あの混乱に乗じた、ノリと勢いの出まかせで呟いていたものを脳裏に呼び起こせば。――私ったら、見ず知らずの方に何てことを!

「その節はとんな失言を――」

 恥ずかしすぎてフェイトアウトもした語尾は、親野辺の一言で寸断される。

「俺、てっきりアンタの彼女かと」

 またしてもの瓶の底は、嶋野木だけを指していた。

「いやいや違う。初対面なはずなんだが……」

 萩野は心の中で散々に懺悔を繰り返している。――嶋野木さん。その切は本当に御免なさい。ご迷惑をお掛けしました。だからどうか、その真面目一辺倒な紳士の眼差しで私をじっと見つめないでください。恥ずかしい。

「すみませ――」

 謝ろうとする間を、今度は嶋野木自身に遮られた。

「そう言えば、あの子も。いつの間にかいなくなってたよな?」

 親野辺は比較的最新の記憶を遡りながら焦点を定める。

「あの子? ――あぁ。見ぃーつけたの子か」

 ここは一つで、萩野も会話へ参加することにする。発した言葉は今さら取り消せやしない。ならばいっその事、重ねて注意を反らすのみ。

「あの軍人さんみたいな方も、何だったんでしょうか?」

「伝染がどうの、とも言っていたよな?」

息吹いぶく時を見極める電線――って何だ? それと交叉点とどう関係するんだろうな?」

 交錯が続く限り、生と死せるもの然りの輪廻は終わらない――と、あの子は真っ直ぐな目でそう言っていた。

 ここで萩野は、かの言葉を反芻するかに口にした。

「アクロスティックも終わらないって……」

 見つめる先は、発言者の嶋野木だ。

「あぁ――」短くつぶやいた後で、彼は。まだ半分は残っていたはずの、アルコール瓶の中身をいっきに空にする勢いで飲み干す。「なんとなく、咄嗟にそう思ってな」

 言っておかなければならない事がまだあるはずなのに。

 今、ここでどう表現して良いものかの共感が、じわりじわりと広がっていっていた。


 もしかしたら、我々は――似た者同士なのかも知れない、とする妙な連帯感と同調、領解心も働いて。目には見えずに、そこに明確な形もないけれど。それでも今、こうして出会い三人で居るのはきっと偶然ではないはずだとして。

「――あの」

 萩野は胸に秘める思いを、さもぶちまけるかのように切り出した。

「これは私の、勝手な推測なんですけど……」

 男性二人は彼女を注視する。何を言い出されるのかの、戦々恐々な視線を向けられなくもなく。

「あの黒いタールみたいなのが、最近よくニュースなんかでも取り上げられるようになった、あらぬものたち、って言うんですよね?」

「だろうな。じゃなきゃあんな現象、理屈に合わない」

「俺もそう思う」

 嶋野木に続いて同意した親野辺も、アルコールの残りを全て空にする。

「でもどうして、交叉点だけに出現するんだろうな?」

「それが多分。あの子が言っていた電線とか、伝染に関連してるんじゃないか?」

「それで私、思ったんです」

 混乱に乗じて、救急隊より渡された毛布をそのまま持ってきてしまい、どうやって返却すれば良いのかとする冷静な思考も複雑に巡る中で。

「人や物、それぞれの思惑が交錯する交叉点だからこそ。募ったり、すれ違ったりしている間にこじれて、縺れて。それが貯まりに溜まって、一気に噴出するんじゃないでしょうか?」

「電線は?」

「上手く言い表せないんですけど。例えば電線は感染源の胞子役、みたいなものなんじゃないでしょうか?」

 親野辺はどことも定まらない視線を横やりにしたままで告げた。

「つまり。孕んだ種は空を舞い翔け、やがては不満の塊となって根付いた交叉点のど真ん中で花開くと」

 嶋野木は合点がいく振りをして小刻みに頷く。

「なるほどな。それで息吹く時を見極めて、か」

「ど素人の私なんかではあの、あらぬものたちって呼ぶものの正体が何かは、皆目見当もつきませんけど……」

「でも。あの軍人さん風の男、やっつけてたよな?」

 それこそ流動体相手に物おじもせず。三人を交叉点の外へと逃がしている、ものの数秒の間に。かの騒動の根本は消え去った。

 威風堂々の恰好も良すぎて、礼を述べる暇もなかった。頑張ったと誉められもしたのに。すぐにどこかへ行って去ったその後は知れない。


 ようし、今夜はあの方を不屈の英雄とした私がヒロインの妄想を掻きたてよう――とした萩野は、脳裏の中で悶々と算段を描く。でもしなければ、巻き込まれてから沸騰しっ放しのアドレナリンが落ち着かない。

 会話を繰り広げながらも、手元ではずっとスマホを操作していた嶋野木が画面から視線を上げる。

「あの人が、巷で噂のあらがい屋なのかもな」

「抗い屋? 何だそれ?」

 親野辺は、一人分と開けていた空間をにじり寄り詰めてスマホの画面を覗き込む。

「――それって、さっきの?」

 早くも渋谷での一件は動画サイトなどに視聴者投稿がされていた。この世の野次馬根性というものは、ある意味ずぶとく滑稽だけれど。衝撃の瞬間に違いなく。

 画面に流れるコメントを見続けていた嶋野木が発する。

「あの、あらぬものたちを退治する専門の人たちらしい」

 萩野も画面を覗き込める距離へとすり寄った。

「退治屋さん、ですか」何とも物騒にして、命がけの職業だと思う。「――あらぬものに触れるだけでも、骨の髄まで腐るらしいって……噂にだけは」

「俺も。完全に都市伝説だと思ってよ」

 人間でいられなくなるともされては、どちらにせよ。安易に触れて、偶然でも出会いたくはない代物だろう。

 そのようなものと面と向かって対峙しては淡々と、事なきを得ようと戦うのだから、あの人たちは――普段、どんな妄想をしているのだろうか。


 縁あった二人に向かって、萩野は思いきって訊ねる決心を固める。

「あの――。親野辺さん、嶋野木さん。お二人って、その……」

 いざ切り出そうとする時に限って羞恥心が沸き上がってくるも。ここは訊くにチャンスの勝負時。

「こうだったらいいな、とか。こうなればいいな、とか。自分だったらこうするな、とか。……妄想することってありますか?」

 数時間前まで他人であった人に対して、一生一大の問い掛けだったにも関わらず。二人は真顔で瞬きを繰り返し、頭上には大きな疑問符が浮かんでいるかに見えて――もしや。盛大にやらかしてしまったかと、萩野は早くも後悔したけれど、時すでに遅しだ。ならば潔く砕けるか。

「……」

 沈黙の空気が漂う中で、立ち直れない後悔に沈みそうになる。やはり妄想は、自身だけの中にしまい込んでおかなければならないものなのだ――。

「あ、の……いえ、何でも……」

 羽目を外し過ぎた失言を詫びかけた矢先に。親野辺が突如、口火を切った。

「あるよ。それこそあるある話じゃないか」

 嶋野木も続いた。

「ぶっちゃけ。俺なんか妄想が糧みたいなもんだしな」

「え?」

 萩野と親野辺は、息もぴたりと合わせて嶋野木に視線を集めた。

 するとどうだ。ここまで一貫してクールが様になっていた嶋野木が困った顔してはにかんだ。――何その恥じらいは。こちらが照れるではないかと思えた残る二人の胸が一瞬、きゅんとする。

「え? って……皆、そうじゃないのか?」

 萩野の顔を見やっては次いで、親野辺の顔を見やっても彷徨う嶋野木の態度は、見えない恐怖に怯える小動物のよう。

「あー、いや。俺、ちょっと驚いただけで……」

「私もです。同じように思う人、初めてで……」

 ふいに、親野辺は嶋野木の肩に腕を回した。

「いやぁほんと驚いた! 嶋野木さんみたいな一見、お堅そうな課長さんでも妄想、するんだ? いやぁ俺、嬉しいなぁ!」

 顔を赤くもして、やや照れた嶋野木の声は微妙に上ずってもいる。互いに酔いが回ったか。

「だってするだろ? 誰だって。現実逃避や妄想壁の一つや二つ」

「そうそう、するする! 俺も根っから心は中二だから」

 親野辺が嬉々として白状すると。今度は真顔になって真っ向から否定する。

「それは痛いな」

「ちょっ、嶋野木さんひどっ!」

 それこそ二人とも一見するに、見てくれは恰好は普通のサラリーマンだのに。こんなにも話が通じて愉快な人だとは思ってもみなかったこと。

 萩野は面白くて可笑しくて。急激に親近感が沸いて近づいたことが堪らなく、嬉しかった。

「ふふふ!」

 そうして笑った彼女を、男二人は微笑ましく見つめていた。

「やっと笑った」とは親野辺が。嶋野木も「ほんと。そうやって笑ってくれたほうが、こっちも緊張感が解れる」と述べては、三人でようやく。ほっとの一息がつけた間でしばらく、面映ゆくそわそわしていた。


 それからも、取りとめのない会話を交わし続けた三人はすっかり意気投合もして。高かった陽はすっかり沈んでしまっている。

 いつか。そんなこともあったなと、良い思い出にするには斬新すぎた出来事だったけれど。

「――まぁでも、あれだな。この世は妄想で溢れているってことさ」

 多分にして。あれと指すものとてそうではないかと親野辺が告げれば。

「どんな形にせよ着実に。小さくとも欠片だろうとも。実現した者が勝者なんだ」

 嶋野木の言葉を真摯に受け止めるならば。萩野は負け組に値するのかも知れないと心の中で羨む。――二人とは違い。自分は何一つとして妄想を現実にできた試しなどないのだから。正直、羨ましくて堪らない。

 それでも親野辺も嶋野木も、ちゃんと妄想しながらもしっかりと。自分の足でこの世界に立って、地盤を築いては御殿を手にしたのだから。それはとっても素晴らしい事ではないか。


 対する萩野が、逐一呼び寄せる名もなき連鎖はずっと引きずっている負の連鎖ばかりだった。何をやっても駄目な、それこそ終わりなきアクロスティックを紡ぐように。何度も何度も。何をどうもがいても。膨らんだ蕾は簡単にしぼんでしまう。

 そうしている間にいつだって、根暗なもう一人も沈んでいた頭痛と共に目覚めてしまう――。

「萩野さん?」

 名を呼ばれてはっとした時だった。「――おっ! また地震か」マンションが縦に横にと小刻みに揺れていた。

「大きいな」

 いつ揺れやむともしれない地響きにも恐れ戦いていると、携帯やスマホからけたたましく緊急アラームが鳴り出す。

「遅ぇよ緊急地震速報」

「そもそも直下なら間に合わんだろ」

「震源地はどこ――」

 着信画面に目をやっていた親野辺の目が見開かれ、途切れた言葉の先を嶋野木が引き継ぐ。

「地震じゃないないぞ、これ! 渋谷界隈からの退避命令だ!」

 それは、新宿から渋谷放免にかけての広範囲に出された、避難推奨でも勧告ではなく。政府から出された指示だった。

「退避命令って……」

 萩野も急ぎ、自身のハンドバッグから携帯電話を取り出して内容を確認する。

「命令ってことなら、ここに居ちゃまずいってことですよね?」

 顔を上げた先の同意は取れなかった。親野辺と嶋野木はスマホの画面をひたすら操作していて、その内容と概要の視野と情報量に目も耳も奪われている。

「何だよこれ……」

「新宿近辺には退避指示? って何が起こってんだ? って、そうだ! テレビで何かやってないか?」

 自分たちが映し出されている映像など見る気も起きなかったこの数時間の間に、すっかり世間から置いてけぼりをくらっている感に陥りながら。

 親野辺がスマホ画面を操作してテレビを呼び出すと。そこにはどの局も同一画面を映し出す、緊急編成での放映が流されていた。


 ノイズ混じりの画面は縦にも横にも揺れもして。ようやく要点を捉えた画面の中央に見えた人影らしきは。

「――今、チラっと映ったの、人……だよな?」

「さっきの軍人っぽい人とはちょっと違う、か?」

「さっきのあの子……とも雰囲気がちょっと――違いますかね?」

 ホテルや高層ビル群の群れの間で、映し出された背中のシルエットは紛うことなく人であった。

 音量を上げれば、緊迫の模様を伝える実況レポーターの音声も届く。しかしながら、現場より幾分離れたところからしく、至近距離での撮影と解説はおおよその予測と想像にすぎない。

いざない屋が出現させたと表明した、あらぬものたちは依然として排除できておりません。現在、消防、警察、陸上自衛隊により新宿都庁前及び、中央公園付近の一帯、半径一キロ範囲は完全に封鎖されています。また――」

 中継カメラの絵が切り替わり、避難地域に含まれている首都高中央環状線が閉鎖状態である現状を放映している。大江戸線を含む地下鉄やJR、各私鉄各線も今朝方の渋谷区出現から引き続き運行を中止していて、復旧のめどが依然立っていない旨も繰り返し映しながら。レポーターも矢継ぎ早に情勢を伝えた。

「避難対象地域に当たる都民の速やかな避難や誘導、今度の対策を政府は、各関係各所と連携しながら協議中ですが、抜本的な解決策は――」

 ここで映像と音声は途切れた。モノクロな砂嵐音だけになった画面と音声が、余計に不安を掻き立てて。それから遅れること数秒のちに。再び、渋谷界隈は小刻みな振動を含む揺れで揺さぶられ、深い底からドンと突き上げられる重低音の鳴りも体感すれば。嶋野木は画面から視線を外して天井を仰ぐ。

「いったい、何が起きているんだ?」

 この日本で、渋谷と新宿付近で起きている事態とは。

「私――」

 萩野がすくりと立ち上がれば、オレンジ色した救護用毛布がフローリングの床に落ちた。

「行かなきゃ」

「萩野さん?」


 親野辺がどうしたことか、と嶋野木と視線を合わせてからもう一度訪ねる。

「どうか、しました?」

 窓辺へと歩んだ萩野が、外の光を遮っていたカーテンに手をかけ一気に開けた。透明なガラス一枚を挟んだ外界は、すっかり夜の帳を下ろしている。

 鮮やかなネオンに高いビルの上には赤い点灯を繰り返す航空灯。しかしそれも、大元の電力供給が途切れれば非常用電源に切り替わらない変わりに、光は一斉に失われてしまう。

 一寸先は闇。そこに「はぁ」と吐息が漏れれば、ガラスが内側から曇り、萩野は己と目が合う。

「私……、行きます」

 暗くなった室内で、嶋野木が真っ先に立ち上がっていた。

「行くって、どこへ?」

 親野辺も重くなっていた腰を上げる。

「それなら一先ず、俺らも避難指定場所へ行きますか」

 渋谷区とて先ほど、避難退避命令が出ているのだから。じっとしていることで再び巻き込まれるのは真っ平御免だ。元より電気という電源を失えば、極度に生活基盤が崩れてしまう現代人は酷くもろい。

「そうだな」

 嶋野木が同意を表すると、振り返りながら二人を見やった萩野が言った。

「私、新宿へ行きます」

 それは実に、強い意志を込めた宣言でもあった。

「は?」

「萩野さん?」

 目を丸めた二人は視線を絡める。――この人はいきなり何を言い出すのか、と。

 しかしながら萩野は、胸の前で固く握った拳を開いては胸に当てた。己の思いを落ち着かせ、または整理するかのように発する。

「自分でもよく解らないんです。どうしてそう思うのか……。でも」

 真っ直ぐな瞳が、暗い中でも親野辺と嶋野木を交互に見据えた。停電となって、頼れるのは非常用電源を持つビルから漏れるわずかな光と、ゆっくり瞬く航空灯のみ。それは確かな道しるべのよう。

「何が起きているのか解らなくて、とってもすっごく怖いんですけど」

 現に、まだ向かってもいない足に震えがきていた。

「本当に心底怖いんですけど――」

 ぽろり、と片方の瞳から涙がこぼれ落ちた。頬も伝わず、綺麗に落涙したそれは。フローリングの床で小さなドームを形成して。小さな輪を見届けた親野辺は、何とも言えない心情を覚えていた。

 あの時、終わっていたかも知れない運を。紡いでくれたのはあの人たちだ。そして、あの人たちはまだ戦っている。何とも得たいの知れぬものと。

「私。行かなきゃいけない気がして」


 自分たちが応援したくとも、例え駆けつけたとして微塵の力にはなれぬとも。この目で見届けたい興味深々が恐怖心を凌駕するならば。

「――わかった」

 親野辺は、両手で太ももを叩きながらきっぱりと言い放っていた。

「親野辺……、お前」

 驚いた嶋野木は、親野辺の胸倉を掴み上げる。

「何言ってるんだ? 俺たちは妄想こそ一流でも、実際には何の力もない一般人なんだぞ?」

「だからだよ、嶋野木さん」

 胸元を締め付けていた手と手を重ね、離させながら親野辺は告げた。

「それでも。もし、何か一つでも微力になるのなら。俺も行く」

 そうと思える根拠や自信はどこからくるのか。

「あああっ、たく! 何なんだよ!」

 嶋野木は天井を仰ぎ、頭髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜながら「頭を冷やせ!」との声も荒げる。

「萩野さん、親野辺。俺たちはただの人間、通りすがりの一般市民なんだぞ? 脳内ではどれほど無敵を誇っても、現実であんな、得体の知れないものとやり合えるはずわけないだろう?」

「わかっています」

 思わずに高ぶった感情の滴を拭った萩野は静かに告げた。

「もう最前線はこりごりです。ただ、こんな時だからこそ、何も知らずに過ごすのは嫌だな……って」

 何の力にもならないのは承知の上だ。そして、見たい知りたいだけの好奇心だけで、戦場に近付くのはどれほど無謀で馬鹿げた行為であるのかも重々承知。

 それでも、親野辺はあの時。新たなる始まりを見上げていた。昨日までとは違う、初めての経験が突然に飛び込んで来た。

「どうせなら。いい日だった――って。俺も、そうして終わりたい」

 お前はどうだ、と問いかけた視線の先には。交叉のど真ん中で出会った名もなき同士。

「本物、かよ……」

 何もかもが現実で。夢や幻などではなく。今がまさしく、繰り返しで起きてはくれるなと願う、今日だけでの出来事で終わって欲しい。

 頭上で組んでいた腕を下ろした嶋野木は、呟きながら改まって親野辺と萩野を見渡す。

「――ったく。主役は譲ったんだがな」

 こうなれば、後はどうとでもなれ。――脳内妄想なら、誰にも負けやしないのだから。

「どうやら。俺たちはその連鎖ってやつに巻き込まれようだな」

 親野辺は照れを隠すかのように、後頭部を掻く。選ばれた者だとか、そんな大層なものではなくとも。

「息吹く時を見極めるんだろ?」

 一秒先に何が起こり得るのか判らない時勢にして、こうなればノリと勢いで突っ切るまでと腹もくくる。さすれば、己の中で何かがすっと軽くもなって、吹っ切れた気もした。そうでもしなければ、男としても恰好も示しもつかない。ダサい自分など、性にも合わない。

「でも、親野辺さん。嶋野木さん、お二人を巻き込むわけには……」

 恐縮した萩野に、二人は交互に告げた。

「ここまで来て、そりゃないでしょーよ?」

「終わらせよう。紡がれたアクロスティックを」


 そうして三人は、避難民でごった返す通路を逆行しながら一路、徒歩で新宿方面を目指していた。

 日頃は煌々と明るい首都は、電力供給が大幅にカットされた非常灯のみで、一見するに薄暗く静まり返っているかに見えた。なれど時折、内臓によく響く低音や地響きがゴゴゴと唸るのもまた不気味な現象を体感しても、三人の足は止まらなかった。

 親野辺のマンションを出てから、封鎖されている大通りを避けた結果の裏道などの遠回りもした所為か。新宿御苑近くに到着するまで四十五分もかかってしまった。

 すでに、近隣住民や通りすがりの人々の群れはそこになく。世界に誇る巨大都市新宿界隈から人気は消えている。普段は人々の声に車の往来、列車の音などの生活音で溢れているものも、今や深い静寂で包まれているところに、轟音。そして何とも表現しがたき嘆きの唱和。

「あれ!」

 報道が途切れる前の情報による騒乱の現場が都庁側なれば、三人が到着した場所から直線距離であと一キロ少し。

「見てください!」

 高層ビルとビルの間で、黒くぬめる流動体がサルサを踊るかのように蠢いている様子を、萩野が指を差しながら二人に促す。その一瞬、「――あれ? あの子は……」と、彼女にだけ見てとれた姿があっても、男性陣が視線を向けた先では。

「何だよ、あれ……」

 想像も絶し、妄想も及ばない真っ黒なだけの巨体が屈めていた首を上げ、長い背筋を伸ばすと都庁の高さを越えてきた。漆黒の夜空にも負けぬ、黒き躯体は全体的にぬめり滑らかかつ、俊敏にして精細。それが一様にもこちらに向かって来ているようにも見えて。

「まずいな」そう呟いた嶋野木は、くっと眉間にしわを寄せる。「本当の地獄は、この夜にあるのかもしれない」

 親野辺も同感を表す。

「あれがこの闇夜で蠢くのか。おぞましいな」

 そうと言葉にするのも簡単だ。けれど実際、目の前で目撃しては足が竦んで動けなくなってしまっては後悔、先に立たずだ。

「どうする――?」も何も。ノリと勢いだけで再びの最前線へやってきた三人に何が出来るのと言えば。「――危ない!」

 親野辺と嶋野木は、弾道も直下。自身らに迫りくる巨体を避けるためだけに萩野を連れ庇いながら真横に飛ぶだけで精一杯だった。


 縺れに縺れ、倒れ込んだ姿勢は腹ばい、ずっこけもそれぞれに。その真横すれすれに落下してきたものは黒き重心を持つ、あらぬ物体。触れれば骨まで溶けると言われるものは、ぬめる流動体の先端がひくひくと痙攣していて、一度大きくドクンと反射反応してからはピクリとも動かなくなった。

「……」

「あっぶね……」

 大いに冷や汗を流した三人が、三様の姿勢を正す前に。

「うぬら、そこで何をしている!」

 頭上より降りかかったものは野太き男のしゃがれ声だった。

「かの地は新生なる領域。おいそれと一般人が踏み込む地ではないぞ?」

 真っ先に立ちあがった萩野は、服についた埃も払わずに問いかけていた。

「あなた誰?」

「うぬら……、何屋だ?」

 その男は倒れ伏した黒き物体の傍で、手を合わせながら萩野を睨みつけている。恰好は至って普通のスーツ姿だ。首元は開襟、ノーネクタイ。スキンヘッドに近い短髪剃り込み人相悪しとなれば、やくざかコイツ――と、親野辺と嶋野木は萩野の後ろで息を呑む。――やべえよ、萩野さん。見てくれといい、話し方といい、まともとは思えないそいつに関わらないほうが――。

「私たちは……」

 ここへ参いった経緯を何とまとめ、説明すれば良いのか浮かばずに。ただ、同じ量販店で購入した着替えの種類が似通ってしまい、三人が纏っているアウターのブルゾンは揃いのユニフォームに見えなくもない。

「あえて言うなら……通りすがりの、ただの外屋がいや?」

 何だそれは、という空気が漂うも。人相悪き男は堂々と自ら名乗りを上げる。

「我らこそがいざない屋よ。かの地、かの星を正すべき、正しき道へ誘いし者!」

 返答を受けて――ほうら、やっぱり! 親野辺と嶋野木は冷や汗を覚えた。ただでさえ巨体な物体が地響きと轟音を道連れに倒れ込んできたものが、何であるのかも知れない雑踏の街角で。萩野は、不可思議な事態に物おじもせず負けずに問いかけている。その眉間にしわが寄りがちなのは、近くて遠い微妙な距離が、彼女にとって最も裸眼で見え辛く。綺麗に焦点を合わせようとすれば、自然と目を細くしてしまう目つきが悪くなっただけ。だけれどそんな啖呵を、親野辺と嶋野木の両名は頼もしく思えている。――強いな、この子は。

「正すべき、って? 一体何を粛清しようと言うの?」

 それに答えたのは、新たなる飛来者だった。

「させるかよ」

 外灯の頂上に、すらりと降り立った男はさも好漢。

「――って、そもそも。こいつらはそんなモンじゃねぇって、何回言ったら通じるんだよ?」

 暗闇の中でも、その溌剌とした発声はよく通り、立ち振舞いはいかにも物語りの終演を飾るに相応しき男の中の男だと親野辺は感じ、嶋野木も心の中で同調していた。


「何を戯言。あらがいい屋の頭領、碎王さいおう

 萩野ら外野三人衆は、高低差のある場所で会話を紡ぐ男たちを注視している。

「んだから何なんだよ、その抗い屋ってのはよ?」

 碎王と呼ばれた男は、長袖のシャツの下にはがっしりと逞しき筋肉質な肉体美を隠し持っているであろうと窺える大柄も軽やかに。外灯から音も無く飛び降りては、ずっしり重量級な大男を何なく受け止めたアスファルトの地に足を付けてから、誘い屋と名乗った男と一直線上で対面する。

「勝手に名付けてメディアに流布してるの、お前らだな?」

 碎王は呆れ、誘い屋は頭を揺らしながら不気味にほくそ笑む。

「うぬらが分不相応に抗うからよ」

「はっ。不相応とは心外だな」

 鼻息を吐いては捨てた碎王は誘い屋を一瞥する。

「それを言うなら誘い屋。てめぇらこそ便乗するだけしか能が無い、分相応の野次馬じゃねぇか。いつだって我らと複数形で言うが、大体いっつも単品じゃねぇか」

「ぐふふ」

 顔の前で両手を擦り合わせていた誘い屋の男は指摘などは聞き流し、前かがみであった姿勢を正しながら碎王を睨み据える。

「この世は無常、生き散り以て然り。この神聖なる――」そうして足元に視線を移す。うっとりと恭しく眺める様は、この世に生まれた不可思議な黒の物体。「あらぬものたちは増えすぎた地球の生態系を正すための神の使いよ」

「何の罪もない万物の命を、勝手好きたるやで奪って良いとでも? 呆れた神様だな」

「そうさな。この星の支配者の如く、生態系の頂点に立つべく、さも創造主たる面や人間の傲慢さに星は呆れておるのよ!」

 誘い屋は口から飛沫を飛ばしながら力説している。

「増えすぎた愚かな人間こそが排除されるべきなのだ。それがこの地球という名で息吹く星が望むこと! ゆえに我らはあらぬものたちを誘い、崇めるのだ! この世界は、あらぬものたちによる秩序と浄化を受け入れるべきであり、ゆえに超調整に従わないものは根こそぎ滅ぶべきよ!」

 碎王は片耳の穴を小指でほじってから述べていた。

「あぁそうかい。以上で御託は終わってくれたか?」

「碎王よ」

 まともに取り合わなかった好漢に対して、誘い屋の野郎は一瞬の怒りを蓄えていた。けれども握った拳は震えた後ですぐに解かれる。

「哀れなヤツよ。おのが無力さ、抗うことへの非力がどれほど無駄であるのかを理解できぬとはの」

 碎王が、何と返答してやろうかと開いた口を一旦閉じては発しようとした時だった。

「その通りだ、抗い屋」


 外野衆は、足音もなく参上しつつある第三の男の登場に視線を向けた。

「これ以上抗うのはよせ!」

 悲壮も漂う白衣を纏い、暗闇の中からぽつりと。一粒のろうそくの火に似た明かりを揺らめかせながら登場した者もまた、妄想に取りつかれた内の一人か否か。ただ、混沌極めし最前線で、三者三様の三つ巴図が描かれていることを、外野三人衆は憚らずも察している。

「てめぇもしつけぇーなぁ? 帰れっつたろ!」

 碎王は誘い屋と向かい合っていた体勢を翻し、白き衣で身を纏った男を向かい合う。

ゆえつ屋。最初っから諦めて嘆くだけじゃ救いもねぇって。何度学べば――」

 故つ屋と呼ばれた男は、碎王の発言を遮る。

「生なるものが望み、生んだものより抗うのはそも、人知及びなきこと! 我ら人間は、かの大星らの営みを前にしては無力であって、自然の成り行きに身を任せるべきであり、抗うべきではないなのだ!」

 誘い屋が、さも嬉しそうに肩を揺らしてほくそ笑む。

「そうれ見ろ。故つ屋は何と素直に運命を受け入れておることか。碎王、うぬも見習うべきぞ?」

「言っとくが。お前らが神だのあらぬものだのと呼ぶものは、元よりそんなモンじゃねぇって――」

 碎王の反論は、故つ屋によって遮られた。

「我ら故つ屋とて、誘い屋の方便に同調している訳ではないが、碎王。今――」白い胸に手を当てての熱弁は続く。「我ら人間がすべきことは抗うことではなく、神妙に。この世に生まれざるを得なかった、元来存在してはならぬ、あらぬものたちの意志を尊重すべきなのだ。その行うべき行動に対して反抗するのではなく、粛々と受け入れる事こそが、人としてやるべき万策ではないのか?」

「――ったく」

 碎王は短い頭髪をがしがしと掻きながら告げる。

「べきべきべきべき、うるせぇーなあ! そんなにべきべきしたいんなら、妄想しながらその辺りの枝でも板でも折ってろよ!」

 そして一息を吐いてから続けた。

「いいか? お前らが勝手に名付けたあらぬものってのもな、そもそも存在しー―」

 言葉は丁度のそこで途切れた。前か後ろか、突先か足元かも分別つかない黒の巨体が、のそり、むくりと起き上がったのだ。

「しぶてぇ」

 碎王はぽつりと呟き。強面の誘い屋は微笑み、拝む両手を擦り合わせながら「これぞ神の思し召しよ!」と称え。故つ屋は「我らは無力! あるがまま、成すがままに生を全うすべき!」と涙をこぼしながら絶叫する光景を、外野三人衆は固唾を呑んで見守るしか術はなかった。むしろ、突っ立っている以外に何が出来ると、後ずさるのみ。


 地にひれ伏した黒の物体は、流動的に形を変えて立ち上がろうとしていた。そして喘ぐ。この暗闇より必死に、新たなる希望の光を求めて生まれんが為にもがくかの。

「痛っ!」

「くっ!」

 その嬌声は声にして声にならず。音なき音はガラスを引っかくかの波動と、高くも低くも共鳴し合う音波や不協和音も含みながら咆哮すれば。怒号の波動だけでも街灯のガラスが木っ端微塵にはじけ飛ぶ。後は惨状。都市を形成する街の一角を模っていた景色は砕け散り。アスファルトに散った破片もまた泡を吹くかになだれ散る。

「な、んなんですか? これ……」

「耳が……、鼓膜が……」

「何がどうなってるんだ?」

 外野三人衆は起こる事態に、ただただ狼狽し、しかめっ面でうろたえている。

 誘い屋は再び両手を擦り合わせて拝みだし。

「このお怒りよう、碎王よ。そなた、これを何とする?」

 訊ねられた碎王は一喝していた。

「煽るだけ煽っといて後はこっちに一任、横流しってか? 良い身分だなぁ、おい」

 そう述べながら、ごつごつとした男らしい大きな手で右耳を押さえるかに添える。

そう。完全に根付いちまって埒が明かねぇ」

 片耳に装着している超小型のイヤホンマイクより、即座の応答が碎王にだけ聞こえた。

『――雪の見立てによれば、電線の中で様々なものに伝染しているようですから』

「だが。逃げ回ってると言うか、逃げ足が速ぇってのともちょっと違うんだよなぁ……」

 音声だけであるにも関わらず、相手先は煮え切れない碎王の思いをも掴んでいる。

『――際どいタイミングと囲いが必要なようです。バックアップは直ぐそこにまで。ピックスも、もうまもなく』

 碎王は片目を歪めて地理を思った。しかし埼玉方面には疎く、今いち場所はぼんやりだ。

「羽生ってそんなに遠かったっけか?」

『――水面転移ウォータードライブを使用したくても、その揺れだと出口が安定しませんからね。公共交通機関が全面ストップの今、自力で移動するしかないんですから』

 遥か遠くに居ても、すぐ背に存在を感じる相棒の宗谷が言わんとする事は悟れた。

「ピックスがありゃあ、もっと楽に事を運べたんだろうが」

『――仕方ありません。ジェネレーターの機嫌が悪ければピックスなんて、ただの置き物ですからね』

 今頃も、それぞれにぶつくさと文句を垂らしながら、へいこらと息を切らせ、走っては飛んで来ているだろう仲間たちの姿が見ずとも目に浮かぶ。そして、紡ぐ。

直人なおとよ。渋谷の殿しんがりは潰したんだろ?」

『――無論だ。速攻完璧、跡形も無く』

 イヤホンマイクにて繋がる無二の戦友たちが、今。一つの場所へ集わんとしていた。

遼臥りょうが。羽生も片付いたんだろ?」

『――おうよ。誰かさんの所為で残弾、厳しかったけどな』

『何さ! 一発で決めらんなかったの、遼ちんが甘かったからでしょーよ?』

 多少のお茶らけもチームワークの良さの表れだとして、碎王は器用に口の端をにやりと上げた。これでこそ無敗のシーラに相応しく。

「みんな、聞け」

 碎王は、自身の体勢をも整えながら告げていた。


「未明からの応戦も、まもなく本体を残すのみだが、根付き方が半端じゃない」

 それこそ碎王は、今朝。直人が渋谷で出現したしっぽ部分であろう殿を退治し。遼臥たちが須影団地交叉点で仕留めた頭の切っ先も消滅させている頃から、この新宿で倒しては復活してしまうものと対峙していた。先端から末端まで直線距離に換算すれば約五十六キロ。とんでもなく広範囲で根付いてしまっていることになる。

 それだけのスケールを持つものとの対峙は初めてのこと。すっかり帳も降りた今や、無限のループだけは何としてでも避けたい。

「どの種も。魔の十一分クリティカルイレブンミニッツの前に叩き潰してはきたが。恐らくその大元の根源、すなわち、ここにバカでけぇ図体をした本体マザーがいるに違いない」

 一頻り咆哮したのちに、横たえていた体をのっそりと起き上がらせた黒き壁は、人の形のようで人ではなく。四肢とも見えなくもない四辺の先からは、ぼたり、ずるりと黒の流状タールが糸を引きながら溢れ落ちる。しかしながら、流れ出た箇所では次から次にと流動体が押し上げられているので、あるべき形は失わず。ぼしゃり、べちゃりと、ねばつく音を引きずりながら人成らずの巨体を夜の下で形成している。抱える容積、ボリューム。失、量共に、どれをとっても規格外で巨大すぎる。

「際どい戦線になるだろう。気合い入れとけ」

「これが――」

 萩野は、新宿にある高層ビル群より高くに成長してゆく黒い物体を仰ぎ見ては、後ずさりながら圧倒されている。明りが乏しき都市の中で、薄ら光さえ呑み込むそのものが。

「あらぬ……もの、の正体?」

「――違うよ」

「え?」今の声は確かに、今朝にも聞いた。「君は……」

 萩野が見つめた先には、ブリティッシュ系の身なりをしたかの少年が、夜空よりひらりと舞い降りて来るスローモーション。

「あらぬものなんかじゃない。この星では決して、根付いてはならないもの」

 少年の足先と靴底が体重を支えた点は、何もなき空中にて。大概の目には捉えられないほどに細く、強固なアンカーワイヤーの線があろうとは万人には想像もし難く。

 碎王は、宙に浮くかの状態で静止した少年の名を呼んだ。

雪夜ゆきや。見立てってヤツを聞かせろ」

「長い間、眠りについては力を蓄えて、蕾となっては息吹いぶく――つまりは成長しきるのをずっと待ってたんだ。複雑に交じり合う電線を触媒にして、根を伸ばしては僕らの注意を方々に分散させて逸らしている間にね」

 親野辺と嶋野木は背後に人の気配を感じて振り返った。

「あんたは……」

 それは今朝がた遭遇したあの軍人風の男で、碎王が直人と呼んだ男こそ。

いきと死せるものの執念とは全く、子癪で凄いな」

 その直人と肩を並べて歩んで来たスーツ姿の男も、「どの道、切り離してやらねぇとな。咲けない蕾のままじゃあ、無念も晴れないだろう」と述べながら外野三人衆の脇を通り過ぎ。「遼臥」と告げた碎王の隣に立ち並ぶ。

 碎王を真ん中にして、直人と遼臥が両脇につけば。それぞれに視線を合わせては頷く連帯感も一体。それも連鎖が紡いだ一部始終か、と萩野は震えた全身で最前線の男たちを見入っていた。これぞ万物の中心――。私は今、きっと誰よりも語られるべき物語りの中心にいるのだと更なる実感もして。


 宙に静止していた雪夜の隣には、もう一人の茶髪の少年らしきも現れた。遼臥とは似たスーツ姿でもこちらは、その袖丈が若干にして大きいらしく。見栄を張ったワンサイズ上もすぎて、ぶかぶかの裾がひらひらと舞っている。

夜鷹よたか、見えるか?」

 碎王に訊ねられた青年は、黒き壁と周囲を一瞥、見渡しながら遼臥の隣にすとんと綺麗に落ちては着地した。

「――深すぎて根は無理。交差点や電線を利用して自ら信号機も操るなんて、学習能力も高そう」

「確かに。お前よりかは賢そうだ」

「何よ遼ちん!」夜鷹は頭一つ分と差のある遼臥を見上げてつっかかる。「俺の見極め力、まだ信じてねーの?」

 ぷうと膨らむ頬を突き、むしろ信じているとの返事は、茶髪をわしゃくしゃと撫でまわした手により返されて。ぶ厚き背越しに齎される報告を経た碎王は、仲間の顔も見ないで吐き捨てた。

「だろうよ。何度倒しても根強く復活しやがって。しかもその都度、巨大化しやがる」

 雪夜も夜鷹に続いてふわりと地上に舞い降り、碎王の斜め前に降り立っては体の正面こそ黒きものと向かい合わせながらも、視線だけは碎王に寄こす。

「芯の根を輪転させてるんじゃないかな?」

 そして意味深な眼を携え、くるくる巻き毛をゆるく、ふわりと揺らしながらこうも告げた。

「パパも。もう気付いてるんでしょ?」

 野太き手で顔をぶるんと擦った碎王は唸った。

「そうさな――。輪番する外来種バグジーなんぞ聞いた試しもないが。こんなにも、拮抗するとは思いもよらなかった」

 実のところ、碎王自身もここまで苦戦を強いられた経験は初だった。大抵は魔の十一分を目安とした範囲内で事は足り、片付いてきた。そも今回とて、一回一回はものの数分で片付いてきたものを。

「この――ビクトリア。何かいつものとは違いすぎる」

 耳についた言葉を萩野は繰り返し、恐る恐るで問いかけていた。

「ビクトリアって?」

 見ず知らずとも輪に入り、訊ねられずにはいられなかった。


 その場に集っていた誰もが、紅一点に視線を集中させている。しかし、間を置かれるのは沈黙ばかり。

 業を煮やした直人が、短く咳払いをしてから口火を切った。

「……飛来ナンバーだよ。今年の、二十二番目だからな」

「飛来、ナンバー?」

 目を丸めた萩野たちの存在を碎王は顎をしゃくって懸念する。「直人、誰だ?」

「あぁいや。今朝がた、渋谷の交叉点に取り残された人たちだ――ってか、あんたら」直人は親野辺たちを一見する。「何でこんな所にいるんだ? ここは危険だ。早く安全圏まで退避しろ」

 嶋野木は妄想と想像をフル回転させながら、眼鏡のブリッジを上げ直して口を開く。

「ビクトリアって、もしかして。この黒い流動体は雌なのか?」

「……」

 またもや関連する一同が互いに視線を投げ合う沈黙を行き交わせば。誘い屋は「そうかそうか! やはりかのものは母体であったか!」と拝み直し。故つ屋は「終わりだ! 今度こそこの地球は新たなる生命の息吹きによって終焉を迎えるのだ!」と膝を折って項垂れた。だけれど双方共に、顔に浮かべているのは満面の笑み。

「ややこしい事になった――」碎王は再び呆れ、天を仰いでぼやく。「直人、遼臥。悪ぃんだけどよ、その外屋衆ら。送ってやってくれ」

 了解の手を上げないまでも。直人は一般人を巻き込む訳にはいかないとして、「頼むから。避難指示に従ってここを離れてくれ。本当に危険なんだ」と告げた。

 萩野を見つめる直人の視線は本気そのもの。気圧されるままに、萩野は両手を胸元で小刻みに振っては頷く。

「ごめんなさい。すぐに離れますから!」

 さもなくば、命が危ないことなど誰にだって分かろうもの。――何より邪魔に、そして足手纏いなどにはなりたくはない。特に、この人たちを前にしては。

 何より成り行きであったとはいえ、目的は果たせたのだから。

「行きましょう、親野辺さん。嶋野木さん」

 そうした彼女の言動に、二人は素直に従った。正直、もうあとわずかでも正気でいられる気がしない。一刻も早くこの場を去りたい足はずっと震えていた。一刻もこの場から去りたい。逃れたい。気持ちはそれでいっぱいだ。

「あぁ。行こう」

「こっちだ!」

 そうして外野三人衆が踵を返す寸前に、呼び止められる。

「あぁ悪い! ――こいつらも」

 頼むよ、と手渡されたのは。伸びきり、気を失っている誘い屋と故つ屋たちだった。

「え?」

 伸びた理由は自ら気を失ったのか、気絶させられたのか定かではないにしろ。

「こいつら、口達者に煽るばっかで何の役にも立たねぇヤツらでよ。まぁそれでも人には違ぇねえから」

 親野辺と嶋野木それぞれに、一人ずつ大の男の首根っこが差し出された。それで覚れる。――こいつらも、まさかの同族だったのかと。

 無駄に虚勢を張った上に、恐怖と対峙した我慢の限界を突破しては白目も剥くだろうにの、その二人とて、心底からの悪気はなかったに違いない。むしろ、信じるものを一心に貫いた根性は大したものだ。

「ついでに。警察か自衛隊か、とにかく公的機関のヤツらに会ったらしばらくの間、拘束するよう伝えてくれ。シーラの碎王からって言やぁ、それで通じる」

 両名の手が掴んだものは確かに人であったから。連れて行けと命じられ、引き受けない状況でもなく。親野辺は単に了承の意を唱えるしか術はない。

「わかった。野放しにならないよう、伝えておく」

 嶋野木も便乗した。心の中では、何で俺が――の念もなくはない。だけれど、遭遇した以上、乗り切らなければ明日はない。

「他に出来ることは?」

 乗ったもん勝ち。明日はまかせた。

「行け《Go》!」

 掛け声は、ゴールへ向けての号砲でもあったのに。

「――そうだ!」

 踏み出したばかりの一歩目に急ブレーキをかけたのは、先頭の萩野だった。続いていた後続の親野辺と嶋野木は、立ち止まったその背に衝突しかけてつんのめるも、何とか踏ん張り。萩野が振り返り、言葉を発した先は碎王へ向けて。

「ここへ来る途中で、あの子を見ました」

「あの子?」

 碎王に告げたのは、彼がそろい踏みした戦士たちの大将だと直感していたからだ。最高の司令塔にしてリーダーであろう最もなオーラが、碎王という男からはにじみ出すぎている。

「はい」

 誰のことかと最初は訝しげていた碎王も、すぐに察し、細かく瞼を瞬かせながら片手を上げた。

「そうか――。ありがとな」


 そうしてようやく萩野は走り出した。親野辺と嶋野木は気絶している男二人を引きずりながらも、賢明に駆けた。時折、足底から這い上がってくる振動は、先の者たちが抗っている何よりの証拠。そして、ドンと押された大気に背中を押され、一キロと走った先でその脚も止まった。上がる息とて続かない。それより――。

「親野辺さん! 嶋野木さん!」

 耳が良かったのは幼い頃から音楽で培い、唯一、万人より発達した褒めるべき聴力が異常を察知していた。

「伏せて!」

 悲鳴に近い、萩野の知らせを受ければ。もはや、何だと確認する間もなく。親野辺と嶋野木の体は条件反射で動く。

「っ!」

 覆いかぶさり、通り過ぎたのは重すぎた重低音と透明な風圧の壁。一瞬、息も止まったかの圧力に押しあてられた重力から解放されれば。ひしひしと――生死の境で戦っているんだな、と感じずにはいられない。

「これ……」

 アスファルトの上で両膝をつき、立ち上がれなくなっていた萩野は埃もついた手を眺めながら呟く。

「本当に現実なんですね……」

 呆然とするその耳には、近くて遠いところでぼすん、ドウンと鳴り響く音もとめどなく届いている。

 今もこの瞬間に、戦っている人がいる。そう思えば、こんな所で立ち止まっていてはならないのに。今になって腰が抜けてしまった。

「あぁ……どうしよう」

 そうして顔を覆った。言い出したのは自分だ。ここまでやって来たのも自分自身の選択だ。だのに今さら、怖くて怖くて堪らなくなった。どうしてあんな所にまで行ってしまったのか。命があっただけでも奇跡に近かった、ギリギリの境界線へ。

「――萩野さん」

 親野辺は、抱えるものを一旦地面に据え置き。彼女の前で片膝をつく。

「俺も怖いですよ。でも、今。後悔はしてないですから」

 手を差し伸べた横で、嶋野木も続けた。

「カーライルも言っている。失敗の最たるものは、失敗した事を自覚しない事だと」

 それは誉め言葉か、はたまた後の祭りかと萩野は一時、眉を潜めた。

 咲き渋った初な蕾が闇の中で開花しようとするように。あの人たちも、それを止めるべく戦うのだろうとして。萩野は振り返ろうとした動作を止めた。そんなものは後でも出来る。今すべきことは――、前を向くこと。

「すみません」

 ぱち、と自らの頬を叩いてから二人が差し出した手を取り、立ち上がった。

「行きます!」

 こんなの、昨日までは妄想もしていなかった。それが今、現実の一分、一秒も先が読めない事態に巻き込まれているのも信じ難くて堪らない。なれども今宵。孕んだ蕾だけは咲かせてはならない事だけは漠然とだけれど理解できた。だから走ろう。全力で――前に進もう。


 外野三人衆と二人が最前線を後にしている同刻。碎王たちは一度目の共同連鎖を不発に終えて、次なる行動に移っていた。

「やっぱいつも通りじゃ通用しねぇな」

 不発と言っても、高層ビルに匹敵するほどに立ち昇ったビクトリアを一度は倒した。根こそぎ足元を掬われ、倒れた黒きタールの軍勢は仰向け状態のまま、背中から崩れ伏した。それはまるで、巨大なザトウクジラが海面に浮上してはそのまま、ブリーチングするかのように巨木が、地上へ向けて落下したのだから。真っ向から倒れ来るものを受け止めきれなかった都庁は、四方に風圧と破片をまき散らしながら凄まじく破壊尽くされるに及ぶ。

「あっちゃーっ!」

 夜鷹が片手で小さな顔の半分を覆い隠した。そして指と指の間から、チラリと瞳を覗かせる。

「これの賠償責任、こっちに来ないよね?」

 相手の大きさに比例して。被害範囲が広がってしまうのは政府としても承認、承知しているとは言え。交差点の範囲内に収まりきれなくなったものをこれ以上、退治できないからと言って放置しておく訳にもいかない。不滅は、闘志だけで十分だ。

「余計な考えはあとにしろ」

「何さ! 遼ちんの下手っぴ!」

 べっ、と舌を出した幼稚な言動もなされている新宿駅を中心とした半径一キロ圏内は、爆撃を受けたかの惨状をも晒している。頂点を失くした、都民の象徴。そこからドクドクと止めどなく垂れるは黒きタールの帯と飛沫。

 激しく隆起した瓦礫の上で仁王立ち、腕を組んでいるのは。

「碎王」

 呼ばれて振り返らずとも、背後に居るのは直人だと気配で知れる。

「当たってた、よな?」

「あぁ。ど真ん中にな」

 そうと答えたのは愛銃の残弾を確認している遼臥だった。

「連鎖もした。だのに手応えがまるでない」

「お前らもそう思うか?」

 見据えるは沈黙の黒流。今は静かでも、どうせすぐに動き出す予感も的中しているはず。

「見て。あの信号」

 最も高い瓦礫の最上段で雪夜が指差し、脇で夜鷹も見つめる先に。

「ずっと青のまんま。多分もう、あっちもなりふり構ってられず、必死なんじゃないかな?」

 首を折られた信号機の電気はまだ通じているらしく、健気にも青色を点灯させている姿はさも侘し気に。

「進軍は良好、ってか?」

「かと言って。俺らが負ける訳にもいかねぇ」

 碎王は組んでいた腕を解く。

「――宗。ピックスはあとどれくらいで飛べる?」

 問いかけた返答は、無線を通じてあるべき姿を。希望の蕾となって碎王たちの最後尾に現していた。

「おまたせしました」

 声に釣られ、全員が振り返れば。細い体のラインが程よく強調されているラフな服装にして、落ち着き払った温和な声もらしき童顔が優しく微笑んでいた。


おせぇぞ、アンディ」

 拠点とする根城のある小田原から新宿まで、どうやって移動したとは。その場にいた誰も疑問に思わなかった。空も海中さえも自在に駆けることが可能な史上唯一の鋼鉄列車、通称ピックスさえあれば、光速移動などお手のもの。

 直人より散々に遅いと愚痴られ、その先頭車両の運転席で、仏頂面の男は喜怒哀楽に乏しき顔色を変えずにただ、「遅くなってすまない」とだけ吐く。

「ママ!」

 雪夜が真っ先に宗谷に駆け寄り、飛びついた。抱き付く頬に頬を摺り寄せ、「ママぁ!」と甘える姿は幼児のよう。

「ふふっ。雪ったら子供みたい」

 続いて夜鷹も駆けつけ、宗谷の薄っぺらい体格に張り付いている雪夜ごと己も抱き付く。

「えぇ? 何、何ーぃ? 珍しい! ママが現場に出るの、久しぶりじゃね?」

「ちょっ、夜鷹まで。まだ終わってないんだから、ほら――しゃんとして」

 甘えたな次男坊と三男坊を手際よく引き離しながら宥める姿は母親のよう――だけれど宗谷は正真正銘の男性であった。

 面倒見の良さ、気立ての良さ、どこをとってもしなやかで男らしいその左手には。彼の武器にして、最大の特徴でもある大型無線機が握られて。本体より伸びる長きアンテナ一本で、宗谷は世界中をの戦況を把握し、ここではないところの戦場もバックアップしている。

「ところで、夜乃よるのは何で単独行動してんだ?」

 真っ先に問いただされた直人は眉間にしわを寄せた。

「いや、それがな?」

 渋谷の一件が終わったのちに、先に羽生へ飛ばしたつもりだったのに。羽生団地交差点での騒動が終わっても尚、夜乃の消息は知れなかった。

「お前が見失うって、それ。相棒としてどうかと思うが?」

「碎王」

 直人はチームの長に呆れ顔を向けた。

「確かに戦場じゃあ、あいつとコンビかも知れんが。普段は寝るか食うかばっかで。コミュニケーションも一方通行、これっぽっちも取れないんだぞ?」

 愛銃のグレッグを握っていないもう片方の指で、極小の幅を表現して見せると。

「そんなことないよ?」

 雪夜が口を挟んだ。

「夜。直人さんのこと誰よりも信頼してるし、傍にいるの好きだって言ってるよ?」

「ほーん」

 直人はじと目で雪夜を据え見た。

「俺が毎日聞かされる言葉は、腹減った、しかないがな」

「照れてるんですよ」

 宗谷が三者の中に割って入る。

「うちは大食漢が多いから。食費だけでも毎月、最低でも三百万はかかるでしょう?」

 さらりと告げられた真実に、遼臥が素直に驚いていた。

「三百? マジか!」

「育ち盛りにも程があるな」

 呆れた直人とて、その大食いの内の一人だけれど。育ち盛りと称された小柄な長男、夜乃。次男、雪夜。末っ子、夜鷹ら仮の三兄弟の食欲は、大柄な遼臥や碎王すらも軽く凌駕している。

「それなりに役に立ちたいって責任感、感じてるのかも?」

 同意を求められた碎王は一人、誰とも違う場所を見据えていた。

「あれもまた、腹に抱えていやがんのか……水臭ぇ」

 呟くものを、宗谷は聞き漏らさなかった。

「嫌な予感、ですか?」

 まだ咲かぬ蕾を無理矢理に咲かせる碎王ではないことを良く知る宗谷が、パートナーの横に並び立つ。

「嫌な夜だ」

「僕もそう思います。あまりにも重々しくて」

 現場に来て、実際にものを見てみなければ解らないこともあるとして。宗谷は漆黒の空を仰いだ。

「こんな夜は初めてです」

 ぴゅるりと風も鳴いていた。


「え。もしかして……」

 瓦礫と砂利の上で一歩だけ進んでは止まった雪夜に対して、宗谷が真っ先に気付いて反応している。

「雪?」

 その瞳が、まさかを覚えてはっと見開く。

「夜、一人で?」

 淡々と囁かれたものでも、チーム内ではイヤーマイクを通じて言葉は拾われている。互いを認識し合い、気合を入れ直すにも充分すぎて。黒き結晶の中で、一つの命が消えようとしていると予期した視線は、彷徨いながら闇夜に吸い込まれてしまう。

 仲間の内の一人を欠くも集った六人の最後尾で、荒々しく鼻息の如くに白い蒸気がぼすん、と上がった。そして煙る、地を這った水蒸気を纏いて現れたのは。艶めきたった漆黒のボディと、足元には虹色の光を眩く散らすプラズマスパーク。閉じていた瞼をそっと上げれば、鋭き三辺の眼光に宿した白銀の前哨ライトが神々しくも二つ、闇夜の中で燦々と輝く。

「雪夜」

 碎王に名を呼ばれた視線は、既に行き先を捉えて据えた無言の顎を引いた。帳の降りきった天には一筋の雲もなく。そこで輝き、佇んでいるのは無数の星たち。

「飛べるな?」

 彼の意志は絶対的命令ではないけれど、それだけの価値があった、これまでも。

「勿論」

 だから飛べる。そこに、確かな答えがあろうと、なかろうと。行けと言われたのならば、雪夜は飛ぶ。迷いなく、いざ咲かんと孕む蕾に向かって。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る