2.歩行障害《フェイズ2》
大きなガラスに遮られた入院室の外。姉はベッドですやすやと眠っているようだった。
医者はイツキに言った。
「初めまして、僕は担当医のササキと言います。今、お姉さんは精密検査の過程で眠らされていますが、明日の朝にはいつもと変わりなく目覚めるでしょう。……それで、ですね。これはまだ本人には伝えていない事なのですが──」
そう切り出す医者の言葉を最後まで聞くことなく頭の中は真っ白になりそうだった。
イレギュラーな待遇とササキと名乗る医師の口調に悪い予感を感じたからだ。
「お姉さんの血液から微量のある物質が検出されたのですが……。最近、お姉さんに変わった様子は見られませんでしたか? 具体的には怪我に気づかない、など」
イツキの脳裏をある出来事が過ぎった。
「い、いや……でもあれは姉さんが抜けてるだけであって……」
下を向いた彼の目は泳いでいた。ササキは静かに話を続けた。
「初期症状として痛覚が麻痺することが広く知られています。そして、さらに症状が進むと下半身から感覚を失い歩行障害を引き起こすんです。お姉さんから検出された微量な物質、それは蝋化した血液の一部です」
「蝋……化」
かろうじて言葉を発した口は小さく開いたまま閉じなかった。発症率の低い奇病とはいえ話には聞いていた。テレビでも散々取り上げられたその病の名は──。
“
その致死率、100パーセント。
「……我々はお姉さんを蝋化病と判断しました。残念ですが、ここはもちろん世界中のどの医療機関でも治療法はまだ見つかっていない難病です。このままだと持って一年、早ければ半年で……」
ササキの話が彼の頭に入る余地はなかった。彼の思考は負の感情に埋められていた。
いつも荷になっていた自分、何もしてやれなかった自分、罪悪感や後悔もイツキの心を押しつぶす。
「遅かれ早かれ本人にも伝えなくてはいけませんが、あとはご家族である弟さんにお任せしたいと思います。力になれなくて、本当に申し訳ない……」
話を終えたササキは彼の様子から心境を察しその場を離れた。隔離された部屋の面会室で一人、呆然と座ったまま小一時間が経っていた。
ふと現実に戻ったイツキは立ち上がり、ガラス越しに姉へと目を向けた。病室のベッドに横たわる姉の容姿からは想像もつかない。この期に及んでまだ信じられない、信じたくもない。人工呼吸器も点滴も何も施されておらず、いつものように眠っているだけの姉がそこにいる。
ガラスに手を当てただただ眺めていた。気づくと彼の目を潤す何か。涙にも満たない程度の水分。何の治療も施されていないという意味を、理解した瞬間だった。
治療不可能の病、蝋化病。文字通り肉体が蝋化する病だ。具体的には皮膚、筋肉、血液等が人骨程度の硬度にまで硬化する。蝋化した部位は壊死状態に等しいが肉体は完全に性質を変え腐敗する物質ではなくなっているため腐ることはない。ゆえに闘病の末遺体となっても生前の姿を半永久的に残す。
この病の症状にはいくつかの段階が存在する。大きく分けて三段階。
フェイズ1、痛覚の麻痺。触覚が完全に失われるわけではなく発覚が遅れることが多々あり厄介。元々痛みには個人差もあり軽視されがちとなる。
フェイズ2、触覚の麻痺。通常下半身から始まり歩行障害を起こす。この段階で発症を認知する場合がほとんどである。まだ初期の症状に区別され、車椅子での生活は可能。
フェイズ3、蝋化現象。ほとんどの場合フェイズ2から半年ほどの潜伏期間を経て発症。蝋化は上記と同じく下半身から始まり寝たきり生活を余儀なくされる。フェイズ3からの進行速度には個人差があり蝋化が体を徐々に侵食する。早い者では一ヶ月程度で生命維持が不可能になる。
あらゆる延命治療も効果を現さず、彼らに唯一残された選択肢は蝋化が全身を覆う前に硬直する体勢を決めておくことぐらいだった。
翌日。
「ぅ、う~~ん」
姉はいつものおっとりした表情で目を覚ました。背伸びする姉の横からは朝日が差し込んでいる。感染した事例は確認されていないものの、我が身可愛さゆえに防護服で接する医者も少なくない。が、イツキは普段と変わらない格好で姉の横に座っていた。
「あら、おはよぅ。ずっと付き添ってくれていたの? 目の下、クマ出来てるじゃない」
「い、いや、別に……」
「お医者さん、なにか言ってた?」
姉の一言にイツキの動きが止まる。
「か、過労だってさ。でも重症の過労みたいでしばらくは車椅子使った方がいいって」
「うふふ、ほら姉さんの言った通りでしょ? いっくんはいつも心配しすぎなんだから。今夜はちゃんと寝なさいよ?」
本当の事は言えないままその日の昼過ぎには帰宅を許された。イツキは帰り際に担当医のササキから助言を受けていた。月一回の検診と、異常が見られたらすぐに報告。そして何より、フェイズ3まで進行してしまう前に事実を伝えろとのことだった。
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