3.血の盟約


 あれから数日が過ぎたが、当然ながら姉の症状が良くなることはなく車椅子生活が続いていた。

 イツキはいまだに病気の事は話せないまま、適当な理由をつけては学校を休み姉の面倒を見ている。

 担当医のササキは治療法は存在しないと言うがイツキは納得しきれなかった。姉が眠っている間などの隙を見つけてはインターネットで治療法、前例、患者、手がかりになりそうならなんでも調べ、さらには評判のいい病院や有名大学などに手当たり次第にメールを送信していた。内容はもちろん姉を救って欲しいというものだったが、どこの返事もNOだった。

 何も解決しないままそんな生活が一週間続いたある日。久々の快晴だった。残酷な現実を突き付けながらも綺麗な青空を見せるセカイ。

 外の空気も吸った方がいいと考えた彼は姉の車椅子を押しながら近所の公園を訪れていた。

 敷地内の中央にある噴水は太陽の光をキラキラと反射させている。植木や花々は色鮮やかに輝き、花壇を舞っていたチョウが二人の前を悠々と横切る。

 イツキは日陰を見つけ姉の車椅子をそこへ停めた。木々のカーテンからは木漏れ日が揺れている。

 時折り吹く強めの風に彼女は呟く。

「……気持ちいい風ね」

 噴水の方へ目を向けていたイツキは姉の方へ振り返ると、姉はかぶっていた麦わら帽子を片手で押さえている。

 わずかな沈黙が続き、姉は言った。

「あのね、いっくん。姉さんはもう大丈夫だから、明日からはちゃんと学校に行くのよ」

「体力が戻るまでは付き合うって約束だろ」

 彼女は両手を膝に添え、空の方を見上げた。

「……ずっと、迷っていたの。いっくんがすごく頑張ってくれているのを知っていたから。だけどやっぱり、あなたはあなたのために生きて欲しい。人はね、限られた時間を生きるのよ。私の残り少ない人生に、あなたの貴重な時間を使わないであげて?」

「な、なん、どういう……残りって……」

「あらあら。いくら姉さんがおバカでも自分の身体の事ぐらいわかるのよ? だから昨日、お医者様に電話で尋ねたの。そしたら、入院を条件に無償で介護を受けられるそうなの。だからあなたの負担になることはないから安心して?」

 死を宣告された人とは思えない振る舞いにイツキは感情を露にした。

「バ、バカだろ! お、俺が……俺が何も感じないと思ってるのか。負担にならないわけないだろ。無償で介護? 鵜呑みにするな、どうせ人体実験に利用されるのがオチだ!」

「……。今のが、姉さんの一生のお願いでも、ダメ……かしら」

「……」

 結局イツキはその問いに答えられなかった。沈黙を破るように吹いた風が麦わら帽子を空へ舞い上げた。そしてイツキはようやく気づいた。姉の目を潤す涙に。彼を見て彼女は不恰好な笑顔で言った。

「……お願い」

 人生において未熟なイツキでも理解は出来ていた。だとしても、納得するほど聞き分けがいいわけでもない。不条理を呪った彼の言葉には憤りが混じる。

「……待ってろ。俺が、俺が必ず治療法を探してくる。例え他力本願でも、例え見苦しくても、俺は諦めない。だからお前も諦めるな」

「ふふ。しょうがない子……。姉さんの負け、ね。待ってます。だからきっと、迎えに来て下さいね」

 表面上は、笑っているように見えた。けど、彼にはなんとなくわかっていた。自分の無力さ。それを気遣った姉の笑み。



 それからのイツキは以前にも増して本気だった。今もまだ、姉に守られてしまっている自分自身が情けなかったからだ。

 慣れない辞書を引きながら英文を書くイツキ。あて先は海外の医療機関。返信を待っている時間も彼にとっては許し難かった。

 全てはダメ元、0.1パーセントでも可能性があるのなら彼は迷わず行動に移した。

 インターネットにも限界を感じ始めたイツキが次に行き着いたのは図書館だった。ここは世界でも有数の国立図書館。その蔵書数は2000万冊に及ぶ。

 外観は横幅三十メートル、二階建てで円柱や角柱の柱が規則正しく並びローマ遺跡を連想させる外観をしている。屋根部分は巨大なドーム状で無数の窓が確認できる。

 中へ足を踏み入れると無数にある窓のおかげで内部は明るい。一階と二階部分は吹き抜け構造になっており、一階から見上げると巨大な本の波に襲われるような錯覚に陥る。

 本の量に圧倒されながらもイツキは手がかりになりそうな本を片っ端から読み漁った。彼は強い決意と執念に突き動かされあっという間に小一時間が過ぎ去る。そんな中不思議な現象に遭遇した。

 何者かの声が聞こえる。それは通常の空気を振動させて伝わる声ではなく、頭の中に直接響く声。それも地獄の底から聞こえる呼び声のような、低く禍々しい声。

『……。……求メヨ』

 イツキは辺りを見渡した。しかし周囲に異変は見られない。それでもその不気味な声は頭から離れなかった。思わず立ち上がったイツキは耳を澄ました。すると不思議なことに脳内に直接聞こえる声には聞こえてくる方向があるようだった。

『……渇望セヨ』

 彼は声に惹かれるように歩み始めた。無数の本に埋め尽くされた迷路の様な館内を迷うことなく進む。自分がどこへ向かっているのかはわからなかったがどこへ行けばいいのかは理解できた。

 どれだけ歩いたのだろうか、ふと気づくと周辺には窓もなくひと気もない。先ほどまでいた広々とした空間とは打って変わり本の壁が四方を遮る。

「行き止まり。……じゃ、ない」

 イツキは何故かそう思った。

 目に入った本棚から百科事典のような分厚い本を一冊取り出すと、空いたスペースの奥が不自然なことに気づく。同じ要領で本をよけていくと本棚の奥に人一人がやっと通れるであろう小さな一枚扉を見つけた。

 試しにドアノブに触れてみるとその扉は易々と開く。その先には下り階段が続いている。怪しく不気味で、恐怖心がなかったわけではないがそれを上回る探究心が彼をその奥へ踏み入れさせた。

 薄暗い内部の光源が何かは解からない。壁はひんやりとしていてコンクリートか石だとわかる。一本道を下った所で小さな空間に辿り着いた。どうやら行き止まりのようだ。

「本?」

 小さな部屋には装飾の施された台座があり、その上には一冊の本。ハードカバーで覆われた分厚い本だった。

 表紙に書かれた文字はあらゆる言語とも異なる文字。

 当然読めるはずのない彼だったが、目で追うだけで不思議と声が出る。


「……我……血の盟約に従い……汝に……附する……彼の者の名は……、」

『──Mephostophiles《メフォストフィレス》』


 刹那、その本を中核に漆黒の闇が溢れ出し全てを飲み込んだ。


 “なんだ!?”


「!?」


 “あ、あ。声が、出ない? いや、違う”


 発したはずの声も闇は飲み込んだ。

 自分は喋っているのか、それとも頭の中で考えているのか、どこを見ているのか、そもそも生きているのかさえ判断できない。

 全てが無に帰す黒の中、一つだけ感じるものがあった。バクバクと高鳴る心臓の鼓動。彼が動揺するほどそれを強く感じる。同時に自身が生きていることは実感できた。その時、眼前に先ほどの本が浮かび上がった。自分の姿さえ見えない闇の中、何故か本だけが浮かび上がったのである。

 外灯に惹かれる羽虫の如く彼はその本に右手を伸ばす。

 指先が本に触れた瞬間、腕に走る嫌な違和感。ふと目を向けると肩までの皮が破裂し露出した筋肉が真っ赤に血塗られている。

「うぁぁあああああ!!」

 何も見えなかったにも関わらず皮を失った右腕と本だけははっきりと視認できる。確かに感じる激痛はまぎれもなく右腕のもの。錯乱したイツキは後ずさりしようとする。しかし足がぴくりとも動かない。足元へ目をやると半生状態のミイラが数体、自分の足元に掴みかかっていた。

「な、なんだこいつら!! 離せ! 誰か! 姉さん!!」

 そう叫ぶ彼の目の前に一人の女性が立っていた。それは自力で立てるはずもない姉の姿。

「あらあら。落ち着いて、いっくん。腕が、痛いの? 姉さんが治してあげる」

「ね、姉さん……?」

 彼女はイツキの右腕を乱暴に握り締めた。

「痛っ! 姉さん、何を」

 そして見慣れた笑顔で言った。

「痛いならこんな腕、もいじゃいましょう」

 肉体がちぎれるぶちっという生々しい音の後に、彼の断末魔が響いた。

「あぁぁぁああああっ!!」

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