18.太古の森Ⅲ


 白騎士は反応出来なかった。友人の亡骸を前に警戒心が解けてしまっていたからだ。

 彼女の眼前、骸の喉の奥からこみ上げる硫酸。

 無慈悲にも襲われる寸前、

 一閃の斬撃が骸の腕を切り飛ばし、白騎士は後方へ蹴り飛ばされた。息つく間もなく骸の口から放出される多量の硫酸。血肉を瞬時に蒸発させるほどのそれは小柄な少女がすべて受け止めた。

 地面に腰をつけた白騎士は金髪の幼女を呆然と見上げていた。硫酸を左肩に多く浴びたフィレスの左腕は溶け落ち、左目も蒸発した。


「フィレス! くそっ」

 駆け寄ろうとするイツキの前には別の死体が迫っていた。


 フィレスは手にした刀身のない刃を一直線に振り下ろした。

 骸は真っ二つになり動かなくなった。柄を持ち変え、残骸の元にしゃがみ込むと首元についていたドッグタグを引きちぎった。

 立ち上がった少女は振り向きざまにそれを白騎士に投げ渡した。

「……貴様の友は儂が殺した。今、この場でな」

「お、お前。なんで」

 少女の抵抗に反応するかのように無数に吊るされていた死体たちが二人を囲む。

 フィレスは半透明の魔剣を投げ捨てると白騎士に歩み寄りしゃがみ込んだ。

「じっとしておれ。痛くはせん」

 無造作な手つきで彼女のローブを開き、上着を引きずり下げ胸元を大きく露出させた。

「ちょ、なっ何?!」

 白騎士は赤面するが、彼女の意思が尊重されることは全くなかった。

 フィレスは掌を自身の眼前に翳すと、目と瞑り言葉を重ねる。


『閉ざした祈り 深き安息に至りし』

 周囲に渦巻き始める魔力の風。螺旋を描くように二人を包む。

 翳した右手に語りかけるように詠唱は続く。


『終焉を司る破却 時は満ち 鼓動する忘却』

 その右腕は瞬く間に漆黒に染まる。黒と肌との境目は生きた細胞を連想させるように曖昧。

 宙に浮かぶ謎の文字列が、螺旋状の帯となってその腕を包む。


『彼の元に再臨し 我に罪を与えよ。……解凍リアラゼイション

 光の筋が漆黒の右腕を走り幾何学模様を浮かばせた。まぶたを再び開いたフィレスはおもむろにその右腕を白騎士のはだけた胸元に近づける。


「え、ちょっ、あっ……やめ……っ」

 胸に触れる直前、まるで肉体をすり抜けるかのように幾何学模様を光らせる漆黒の右腕がズブズブと胸元に引き込まれていく。肉体を損傷させている様子はなく流血もない。

 肘辺りまで挿入されたところでゆっくりとその手を引き戻す。

 白騎士の体内から徐々に引き抜かれる右腕。その手に握られる何か。

“何か”がこの世に触れた途端、周囲が歪む。存在してはならない何かを、理に支配された空間が拒絶しようとしている。

 四つ股の爪のような刃に、身の丈以上の柄。大鎌を模した得物。

 フィレスの手に握られていたのは白騎士が所有していた魔王の遺品だった。到底体内に収納できるはずもない大きさのそれは全貌をあらわした。

 白騎士は意識を失い少女はその場に立ち上がる。


『────その真名を、魔王の右腕クイーンネイル


 少女は手にした“それ”を頭上に掲げた瞬間、視界を歪ませるほどの振動。彼女らを包囲していた傀儡は塵となって吹き飛んだ。

 得体の知れない存在に共鳴するかのように大樹に出来たコブに亀裂が走る。ミシミシと音を立てながら裂け目は広がり、割れ目からは液体が溢れる。液がぼたぼたと滴るたびに、落下した地面からは小さな音と共に煙が上がる。付着したものを溶かすそれは濃密な硫酸。

 そうこうするうちに樹の繭は引き裂かれた。

 内部から這い出る巨大なヒトガタの上半身。目も口も何もない、人間の皮を剥いだような醜悪な容姿。酸を纏った体からは気化した液体が立ち上る。


 見上げるフィレスは臆することなく言う。

「魅せるではないか。そうでなくては役不足よなあ。さあその身を散らして儚く咲き誇るがいい、この儂が手ずから摘みとってやろう」



 はるか後方から見ていたイツキも畏怖の念を抱いていた。醜悪な魔物と、それさえを凌駕する異質に。

 彼の目には見えていた。白騎士のときには見えていなかった禍々しい腕の像が。透き通ったそれに実体はない。それでも確かに存在するそれは、少女の手にする大鎌に取り憑くように重なっている。それも大きな鎌を覆うほどの、さらに大きな影が。

「あれが魔王の……」



 大樹から生まれた巨人はその異常に長い腕をフィレスに振り下ろした。少女は微動だにしない。一撃が当たる間際、巨人の腕は形を崩し砕けた。咄嗟に砕けた腕を引き戻す。別次元の存在に干渉するには地上に存在してしまっている肉体では触れることさえかなわなかった。

 優勢に見えていたフィレスの足元がぐらついた。一瞬かすむ少女の体。

 砕けた切断面からは瞬時に新たな肉体が生え出す。再生すると両手を胸の前で合わせ、円を作るように手の形を変えた。そこから咲く薄紅色の五枚の花弁。中央に集まる魔力。

 程なくして膨大な魔力の波動が花弁から放たれた。

 強い光。揺れる地面。射程上にいた屍もろとも一瞬にして蒸発させる紅色の閃光。フィレスに被弾する間際、見えない障壁がそれを受け止めた。

 遮られた波動は周囲に拡散、森の木々を薙ぎ倒していく。

 絶え間なく放たれ続ける閃光に障壁がひび割れる。


 同時にフィレスの手にする禍々しい大鎌から溢れ出る影。光さえも飲み込む漆黒がすべてを握り潰す。


 ──静寂が訪れた。


 音も、光も、何もない。眼前に存在するものは黒に塗りつぶされた。

 あらゆるものを飲み込む漆黒の闇。

 波動、花弁の魔方陣、大樹の魔物、それらは無に帰した。

 後には何も残らない。まるで空間をハサミで切り取ったかのように、その場には何も残らない。

 間もなくして静かな森は再び姿を現し、一帯を徘徊していた屍は母体を失い地面に伏した。


 力なく倒れ込む金髪の少女。

 イツキはすぐに駆け寄り上半身を抱き上げた。

 とても小さな体は存在を維持できなくなっていた。抱きかかえるイツキの腕が少女の体の上から透けて見える。垂れ下がった前髪が蒸発した左目付近を隠しているが傷は治る気配を見せない。

「なんだよ、これ」

「……イ、ツキ、そこにおるのか……」

 少女の残された右目からも光が消えていた。合わない視点はどこか遠くを見ている。

「人、間、にも、剣がある、ことを……知って、おったか……イ、ツキ」

「そんなことはいいからさっさと治れよ。話はそのあとでいいだろ」

 ゆっくりと目を閉じると小さく笑った。

「やれやれ。案ずるな……我が主、様よ…………」

 それ以上は何も言わなくなった。彼が足元に目をやるとくるぶし辺りまでが完全に消失している。怪我とは全く別物のその現象。

 隣で倒れていた白騎士が目を覚ます。

 彼女は自身の腕を見て驚いた。魔王の遺品を所有する代償にその身は徐々に食い尽くされ、彼女の左腕は白骨化していたはずだった。しかし、その腕はぬくもりを取り戻していたからだ。

 同時に周囲から気配を感じ取った。

 本体から切り離された無数の屍が、脳内に残されたわずかな電気信号により立ち上がっていた。電気信号が与えるもっとも単純な指令が如実に現れる。

“空腹”という生物の原点。新鮮な肉はその場に二つしかなかった。

 ざく、ざくと白い地面をゆっくりと踏み寄る無数の屍。こぞって彼らに向かっている。

 白騎士はその場でうつむいていたイツキの肩を揺すった。

「お、おい。何してんだよ、逃げねぇとやばいぜ?!」

 彼は少女を抱きかかえたまま動こうとしなかった。その間にも屍は歩み寄っている。

 そのうちの一体がイツキに近づく。

 喰いつこうと襲い掛かる屍を白騎士は素手で殴り飛ばした。

 彼女の拳からは小さな煙が立った。屍の体液はすべて硫酸に変化していたからだ。

 のろのろとした動きでもその距離は確実に詰められていく。

 次々に噛み付いてくる屍を白騎士はすべて殴り飛ばしていく。その拳は殴るたびに傷を悪化させていた。

 殴り飛ばされた屍はまた立ち上がり、しばらくしてまた追いつき彼らに襲い掛かる。その繰り返しに白騎士の皮膚は溶け、骨は露出し体力も失われつつある。それでも彼女に逃げる意思はまるでなかった。


 そんな中、イツキは自分の周りで何が起こっているのか知らなかった。知ろうともしなかった。

 右も左もわからない、異世界にただ一人。フィレスを失ってどうすれば姉が救えるのか。考えれば考えるほど絶望していった。

 ふと見上げると、やけに騒がしい。

 白騎士が一人で人影を殴っている。

 なぜ。

 何をしているんだろう。

 どうして逃げない。首輪の影響か? いや、逃亡はその範囲外だろう。

 疑問が彼の心を満たしていった。

 彼女が一人で必死に戦い続ける中、彼は悠長に考えていた。


 やがて、

 彼は側に落ちていた刀身の無い柄を手に取る。

 その意味を知ったからだ。


 少女を地面に寝かせると立ち上がり、両手で柄を握り締めた。

 空気が変わる。

 騒ぎ出す周囲の魔力。異変に気づき振り返った白騎士は自身の目を疑った。

「お前、それ」

 彼の手には擬似的に実体化した魔剣。

 周りをただ漂うだけの微々たる魔力は集まり、濃度を高め、半透明の刀身を生成している。



 “想像イメージする”

 ──思い出せ、あの時の感覚を。想像イメージを創造しろ。


「認めない。認められるわけがない。こんな結末を、俺は!!」



 彼が剣に乗せた思いは怒り、いや。憎しみにも似た、とても綺麗とはいえないもの。

 周囲を薙ぎ払うように一振り。彼らを囲んでいた屍の首が斬り飛ばされた。

 脳からの電気信号を遮断されても死体の筋肉に残された微々たる余力は屍を動かした。しかし動きは鈍い。

 のろのろとした動きで徘徊する屍の集団をイツキは片っ端から切り刻んでいった。腕と切り落とし、足をへし折り、胴体を断っていく。一心不乱に剣を振り回した。

 動き回る屍は消えても、彼は必要以上に剣を振るった。

 息も切れ、地面に剣を突き刺しその身を支えた。

 切っ先に向かい滴る水滴。

 肩で呼吸する彼の視界は大きくぶれる。

 手の甲にぬくもりを感じ、ふと見上げると硫酸でぼろぼろになった手が重ねられていた。

「……もう、いいだろ」

「……」

「……行こうぜ」

「行く、って。どこにだよ」

「あのチビはまだおっちんじゃいねぇだろ。……なんかやばそうだけどさ……でも諦めんなよ。てめぇが諦めたらそれまでだろ」

 彼は憤り混じりに言い放った。

「どうしろって言うんだ。俺は人間なんだよ、あいつが居なきゃ何も出来ない。クラスの同級生にすら勝てなかった無力な人間なんだよ」

 白騎士は彼の頬を強く叩いた。小さな破裂音が空間をこだました。

 脈打つ首輪。

 彼女にかけられた呪術が反応し心臓を締め付けるような痛みが彼女を襲う。その表情は苦痛に歪む。

「はぁ、はぁ……お前、姉貴を救うんだろ」

 驚いた様子のイツキに彼女はドッグタグを取り出しながら言った。

「……見ろよ。あたしの友人はこんなんなっちまった。どう足掻いてももう助けられない。でもお前は違う。姉貴はまだ生きてて、チビだってまだくたばっちゃいねえ。……そうだろ?」

 そう言うと彼女は胸を押さえながら膝を突いた。崩れる姿勢。

 イツキは咄嗟に抱きかかえた。

「……もういい、もうわかった」

「へへっ……この首輪が取れたら……覚えて、やがれ」

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