7.別世界への門


 姉の部屋を満たしていた霧状の煙が晴れていく。イツキの視界に映るのはフィレスの後姿と、彼女の前に出現していた大人一人分ほどの大きな結晶だった。

 半透明のブルーの結晶をよく見ると、その中で眠るように目を閉じる姉の姿。

「フィレス……これは一体」

 唖然とする彼に少女は答えた。

「許せ。この状況で蝋化の呪いを解くすべはありはせん。今のわしに出来たのは娘の時ごと呪いの進行を停止させることぐらいじゃった」

 イツキは安どの表情を浮かべた。フィレスの言葉の意味と、彼女が見栄を張るような奴じゃないことを理解していたからだ。

「あるんだろ。『今のお前』にはってことは、姉さんを救う手立てがまだ」

「愚問じゃな。単純な話だ、儂が力を取り戻せば事は済む。だがその前に問おう、すべてを犠牲に、すべてを失う覚悟があるのか否かを」

 彼はしばし沈黙した。フィレスの言葉に判断を躊躇していた、わけではない。静かに結晶に歩み寄るとその手で結晶に触れ想いをはせた。

「すべてを失う覚悟とか、犠牲とか、そんな大層な話をされてもな。俺にとってのセカイなんて小さいものだ。何のために生きていたのかもわからないまま、日々を惰性だせいで過ごしてきた。そんな中で姉さんは俺にとって光りのような存在だった。姉さんが笑顔でいてくれるだけで俺は良かった。他には何もいらなかったんだ」

「やれやれ、更生しようのないシスコン野郎のようじゃな。娘を救うためなら他者が、自分さえもどうなろうと構わんということでいいのじゃな?」

「ああ」

 フィレスは一笑した。

「見込みがあるぞ人間の小僧。望み通り娘の命は保障しよう、貴様の命と引き換えにな」

 結晶から手を離し、振り向いたイツキは視線を合わせるようにかがむと少女の頭に手を乗せながら言った。

「……フィレス。お前が、死神だろうが悪魔だろうが、俺にはどうでもいいことだ。俺には出来ないことをお前は出来る、だから感謝している」

 フィレスは困惑した。彼の命を搾取しようと考えている自分が、感謝されるなど予期していなかったからだ。彼女の頭の上で発生している侮辱行為を見過ごすほどのイレギュラーだった。

「な、なんなのじゃ急に。儂は生き返るために仕方なく主に力を貸すだけじゃ。煽てても死の宣告は消えんぞ。わかったらついてこい。娘についてはしばらく心配はいらんじゃろう。方針が決まったからには無知な主様に色々と教えることがある」


 居間へ場所を移すとフィレスによる説明が行われる。はずだった。おもむろにイスへ腰を下ろすと両手をテーブルに乗せ、

「まずは朝食じゃ。儂は腹が減ったぞイツキ、なんか作ってくれんか」

 内心イラっとする彼だったが今や運命共同体。仕方なく付き合う。が料理の才はまるでないのでカップ麺でごまかすことにした。

「ほら」

 差し出される税込み108円の味噌ラーメン。そんなこととは知らず少女の目は輝いていた。

「ありえぬ! 奇跡じゃ! 短時間でこのような……まさかお主も魔術師であったか?! 一体どのような術式を使ったのだ?」

「いいから食え。この魔法は一般人でも扱える代わりに効果時間が短いんだよ」

「なぬ! 制限魔法か。ならば……あぢっ。ぬ、ぁぁあ顔に跳ねた! イツキ!!」

 箸を握るように使い、どうやら猫舌のような様子に見かねたイツキはフィレスの横へ座り麺をフーフーする。その姿を不思議そうに眺める幼女。麺を取り皿へ少量移しフォークと共に手渡した。

 素直に従いモグモグする様子はまさしく子供のそれである。格好がつかないことに気づいているのかいないのか、食べ終わると再び高貴な振る舞いに立ち戻る。

「クフフ。よくやった我が半身、美味であったわ」

「で、具体的にはこれからどうするんだ?」

「主にはかつて儂が手中に収めた異界へ同行してもらう。しかし向こうの世界において主ら人間は最弱種。三日も生き抜けまい」

 とほっぺにナルトを貼り付けながら意味深に話す。見て見ぬフリでイツキは問う。

「最弱種?」

「わかりやすく言えば食物連鎖の最下層にいるのだ。とは言え儂もこの仮初の身では無力に等しい。だが儂らが生き抜く方法が一つだけある」

 フィレスの話では異界には5つの種族が対立しているらしい。

 一つは神聖種しんせいしゅ。全てを統べる地上の支配者で最も繁栄する種族。少女の言う帝国も神聖種による国家。神力しんりょくと聖剣を扱う。


 二つ目は魔種ましゅ。神聖種とは対を成す存在とも言える種族だが、個体数は神聖種の10分の1以下。それゆえに彼らは生物の死体を配下に加えるなどして勢力を保っている。魔力と魔剣を扱う。


 三つ目は亜人種あじんしゅ。神聖種にも魔種にも加担しない。彼らが従うのは己の誇りと信念のみ。神力も魔力も扱えないがそれに匹敵するほどの高い身体能力を有する。


 四つ目は海王種かいおうしゅ。主に海をテリトリーにする種族。総個体数は未知数。海という孤立した環境ゆえ多種と関わりと持とうとしない。ほとんどにおいて傍観を徹底している。


 最後が人類種じんるいしゅ。最弱の存在。特筆すべき点はそれぐらいだ。神聖種には奴隷のように扱われ、魔種には死兵の素材程度にしか考えられておらず、他の二種においては眼中にすらない。




 数日が経過し、異界の門を開く時がやってきた。時間は深夜。

 二人が今いるのは凶悪犯といわれる者たちが収容される某刑務所の中心部。既に敷地内全体を覆うようにフィレスのお絵かき……ではなく魔方陣が仕込まれている。例のごとく彼女の透過魔法により二人が感知されることはなかった。

「主の協力なしに儂の目的は成就されん。本当に構わんのだな?」

 そう尋ねる少女の斜め後方、イツキはポケットに両手を突っ込みながら淡々と答える。

「他人がどうなろうと俺には関係ない。ましてやそれが犯罪者となれば議論の余地もない」

「ほぉ。同族3000人を生贄にするというのにその平常心。何故お主だけが儂に接触出来たのか、今ならわかる気がするぞ」

「何度も言わせるな。俺にとっては姉さんだけがセカイのすべてだったんだ。姉さんを救えるというのなら躊躇なく悪魔に魂を売り渡す」

「……大した逸材だ」

 と彼に伝わらない程度の声量で呟やき、にやりと笑みを漏らす。間もなくしてフィレスの詠唱が始まった。

「Per me si va ne la citta dolente」

 ──我を過ぐれば憂ひの都あり。

「per me si va ne l'etterno dolore」

 ──我を過ぐれば永遠の苦患あり。


 彼は依然として少女の数歩後ろでただ見ている。

 彼女の言葉が積み重なるたびに、静かに、ゆっくりと、それでも確実に周囲の空気が変化していく。二人を中心に辺りに風が吹き始め、地面に刻まれた魔方陣がぼんやりと紅い光りを放ちだす。

「per me si va tra la perduta gente」

 ──我を過ぐれば滅亡の民あり。

「Giustizia mosse il mio alto fattore」

 ──義は尊きわが造り主を動かし。


 異質な風になびくフィレスの金髪。イツキも風を防ぐように顔に手を当て目を細めた。

 詠唱が進むにつれ照度も増していく。その輝きは命の輝きでもあることを彼らは把握している。異界への門を開くために必要な魔力を肩代わりするために、死刑囚の命を代用することにしたからだ。

 やがて彼らの前には地獄から這い出てくるかのように禍々しい赤黒い門が地面より姿を現していく。

「fecemi la divina podestate」

 ──聖なる威力、比類なき智慧。

「la somma sapienza e 'l primo amore」

 ──第一の愛、我を造れり。


 イツキは目を見開き、思わず数歩後ずさりする。

 全貌を見せ始めたそれは無数の人の体で組まれたような生々しい門。顔の様なものも見て取れる。その表情はどれも恐怖や絶望、苦痛などと言った負の感情を体言しているようだった。

「Dinanzi a me non fuor cose create」

 ──永遠の物のほか物として我よりさきに。

「se non etterne, e io etterno duro」

 ──造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ。

「Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate」

 ──汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ。



 詠唱が終わる頃には不気味な門が完全に具現化していた。それは高さが3メートルほどにもなる大きなもの。

「これが……門だっていうのか」

 呆然と見上げる彼をよそに少女は躊躇なくそれに近づくと無数の腕に絡まれるように飲み込まれていく。

「フィレス!」と彼女を追おうとした彼も門は飲み込む。

「なんだ、こいつ?! 離……っ!」


 魔方陣が放つ怪しげな光りが徐々に弱まり、二人を喰らった門は地面に引き込まれていくように消えた。

 後日、世間には奇妙なニュースが報道されることとなる。

『昨晩、囚人3000人が一夜にして脱走。脱走経路は不明』と。

 彼らが身につけていた衣服などはすべてその場に残され、まるで生身だけが消滅したのではと推測せざるを得ない状況に関係者は頭を悩ませた。

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