6.契約延長
『隕石か、爆発か。月の7割が消失』
その朝、イツキは自室のテレビに釘付けだった。
新聞やテレビ、各種メディアは破壊された月の話題で持ちきりだ。報道そのものを疑い空を見上げるも彼の目には全体の7割が消失した月しか映らない。昨晩は確かに満月で、一日で三日月になるなんてことはありえなかった。
この時、彼は気づかなかった。月の規模が大きすぎ新聞の片隅に追いやられてしまった怪事件。彼らが昨日いた図書館に寄贈された2000万冊の本が全て、白紙になっていた出来事に。
彼の背後で少女が憫笑する。
「どうじゃ、儂に体を譲る気になったか」
唖然たる面持ちで振り返るイツキとは対照的に、少女は悠然たる態度で言い加えた。
「貴様の気が済むまで疑うがよい。この如何ともし難い事実が変わることはないじゃろうがな」
突然訪れた非日常。100万人に一人の難病と遭遇し、訳のわからない魔導書の声に導かれ『血の盟約』を交わし、魔術とやらを目前に44億年存在した天体を破壊され。
常人には受け入れ難い出来事に判断基準の麻痺する彼を、新たな事態が翻弄する。
突如、別室から聞こえる鈍い音。“どすっ”っという何かが落下した音。ある程度の質量を持った、無機物ではない何かが落下する音にイツキの心拍は上がった。
嫌な予感が彼を動かす。
居間へ飛び出るが異変は見当たらない。外出禁止だった少女も彼へ続くがイツキは気にも留めない。居間ではないとすると残りは姉の部屋しかなく、呼吸を乱した彼は足早に向かった。
ドアを開いた彼らの目に映った光景はイツキを安心させるものではなかった。
ベッドから転げるようにぐったりとする姉。あの時のように咄嗟に抱きかかえるイツキに姉は重たいまぶたを開けた。
「……あらあら。また、転んじゃった、みたい……ね」
その声にも表情にも、昨日の様な力強さは感じられない。
「お、おい。起きるときは呼べって言ったろ。どうし……て……」
彼の言葉は途切れた。何故なら気づいてしまったからだ。抱きかかえた姉の両腕が、蝋状に硬化していることに。
蝋化病は発症から半年は潜伏期間が存在すると知られている。彼の姉は多めに見積もっても半年には遠く及ばない。にも関わらずその症状は明らかにフェイズ3のそれだ。
さらにフェイズ3の進行は通常、心臓や脳から遠い足から進むとされている。腕まで蝋化が進んでいるということは死期間近を意味していた。
「な、なんでだよ……こんな、早すぎるだろ」
「……貴方は、貴方の人生を……生きて……」
姉はゆっくりと目を閉じた。彼女の腕からは既に体温といえるものは感じない。彼の腕の中で硬化していくのが理解できた。
「生命力が低下しておる。もって数分じゃろうな。急かすつもりは毛頭なかったが、選ぶのだ。死人を生き返らせることは儂にも出来ん」
この期に及んで彼に迷いなどなかった。
「……いい。体ならくれてやる。フィレス、姉さんを……救え」
少女は笑みを浮かべた。
「よいぞ、貴様の同意をもって血の盟約は満了を迎えた!」
フィレスは片腕を横へ大きく振りかざす。すると図書館で彼が最初に遭遇したあの魔導書が宙に出現した。本には無数の鎖が巻きつき隙間からは禍々しいオーラが溢れ出ている。
「
そう唱えると巻きついた鎖が弾け本が開く。開いたページの文字が光りを放つ。フィレスはその光った文面に右手をかざし、
「闇の原書、第9巻、99章、9999節、
「そのまま押さえておれ。現代の病など儂の前ではどれも等しく無力。治すのではない、因果律を歪め事象の根源そのものを絶つ」
姉の横へ腰を下ろし、フィレスの右手が姉の頭部に触れようとしたその瞬間、
「!?」
反射的にイツキは目を細め顔を逸らした。
バチバチっと小さな黒い稲妻が弾ける。磁石の同じ極が反発するかのように少女の手を拒んだ。それは少女にとって想定の範囲内、ではなかった。フィレスの表情からイツキにもそれが見て取れる。
「……フィレス?」
「病、と言ったな……抜かしおる。これは呪い、歴然たる魔術ではないか」
「だ、だったらどうした。お前は最強の魔術師なんだろ、それを超える魔術で打ち消したりできんだろ!?」
「無理じゃ。今確保できる魔力では足りん」
「月を吹き飛ばしたくせに何言ってんだ!? 俺の体が欲しいんだろ!?」
「あれは魔力を肩代わりするのに図書館にあった膨大な過去の英知を消化した。今からそれに代わる触媒を用意している有余はない。元来、この世界には儂が満足に魔術を扱うだけの魔力は最初から存在せん」と言いながら立ち上がった少女は左手を前へ伸ばす。
「
「何をする気だ」
「契約は延長じゃ。娘をベッドに寝かせろ」
彼は言うとおりにし下がった。そうする他に当てがなかったからだ。無風のはずの室内に風が吹く。
「第13章、8894節、それは人の願い、人の欲、人の業、許されぬ知恵の罪。時は
フィレスの詠唱と共に開かれたページの文面が光りを放ち、成人一人を覆う程度の魔方陣が姉の上に出現し、視界を失うほどの蒸気にも似た霧状の煙が部屋を満たした。まもなくしてその白い煙は徐々に晴れつつある。イツキの視界に見え始める黄色い後姿。フィレスが召喚した本は既に消えている。
イツキは数歩前に進み、息を呑んだ。
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