第10話 守り手
天示の初手は、徒歩だった。
リイヴァテインを下げ、悠然とした足取りで、まるで散歩でもするような動きでルキフェルの元へと歩き出す。
対するルキフェルは先程のやり取りで面食らい、半ば忘我となっていた。が、歩み寄る少年に対抗する為、すぐさま思考を戦闘へと切り替え、攻撃態勢に入る。
――
任意の空間を爆縮させ、一気に膨張させる事で相手を引き裂く、ルキフェルの
超重力弾の発動直後、天示の右肩付近の空間がうねり出し、空間爆縮の兆候を見せた。――だが、天示はその場所をちらりと見やると、膨張寸前の空間を左手の指で摘み、そのまま握り潰した。
信じられない光景に目を見張ったルキフェルが、即座に新たな超重力弾を撃ち込もうとする。
しかし、何も起こらない。
(!? 馬鹿な……っ! 何故超重力弾が発動しない!)
何度念じても、超重力弾はおろか、空間の乱れすら発生しない。
ルキフェルの表情が、にわかに焦りの色に染まった時、悠々と歩いていた天示が、左手を前へと向けた。
「えーっと」
言いながら、中指の爪を親指の腹に当てた。所謂デコピンの所作である。
そして――
「こうかな?」
中指を、弾いた。
直後、耳をつんざくような轟音と同時に、ルキフェルの左半身が消し飛んだ。
「ーーーーーーーーーーーッ!!」
消失した断面から真っ黒な瘴気を吹き出し、ルキフェルが地面に崩れ落ちる。顔の半分まで失ってるせいか、悲鳴すら上げる事が出来ず、ただただ藻掻いている。
しかし、徐々に溢れ出た瘴気で体を形成すると、数秒の内には、損壊していた全身が全て元通りになっていた。
苦悶の表情で身を起こし、天示を鋭く睨み付ける。
「貴様……! 今……何をしたッ!!」
天示はあっけらかんと応える。
「奪ったんだよ」
「奪っ、た……?」
愕然とするルキフェルに天示が言葉を継ぐ。
「アナムライザーって、素体に関連した特別な力を宿して生まれるんだ。〈オーク〉の場合はそれが〈
「……その力で、超重力弾を盗み取ったと言うのか……ッ!!」
「と言っても、お前の力の供給源である〈黒の天蓋〉が消えたら、
指をピシピシと弾きながら軽々しく言うが、先程天示が放った超重力弾は、威力も質量も、ルキフェルのものとは比較にならない程に強力なものだった。
即座に地上戦は不利と判断したルキフェルが、翼を羽ばたかせて飛翔した。そうして上空100m程の高さに静止すると、自身の翼の中から、先程回収した退魔刀・心火を取り出し、身を翻して、眼下に居る天示への強襲を図った。
――が、
「その刀、火凪さんのじゃないか。人の物取っちゃダメだろ」
突如として真上から聞こえた声に、舌打ちをしたルキフェルが振り向く。
そこには、翠色の粒子を足場にした天示が悠然と立ち、その様を見下ろしていた。
「忌々しい小僧だ。……正直使いたくはなかったが、それなら、こちらも全力を出させて貰おうか」
「うん。いいよ」
天示の返答には耳を貸さず、ルキフェルは静かに詠唱を始めた。
その直後、大気が鳴動を始め、頭上の〈黒の天蓋〉から無数の瘴気の帯が降り立つ。それらはルキフェルを包んでゆくと、やがて新たな繭となった。
程なく、パキパキと音を立てながら繭が割れ、その中から漆黒の亜人が姿を見せた。
ヒトの形を象っているだけの、純然たる暗黒。
シルエットこそ翼の生えた人間だが、それはもう生物の理から隔絶した、謂わば災いの象徴と呼ぶべき存在であった。
くぐもった声が、天示の脳に直接響く。
『覚悟しろよ小僧、今より貴様が挑むのは〈黒の天蓋〉そのものだ』
「不完全なだろ? 来いよ、全身タイツマン」
刹那の間を置き、両者は夜の空を切り裂き、激突した。
◆
――次元が、違う。
今、火凪達の頭上で行われている空中戦は、彼女の知る常識の外側。理解し得る世界の範疇から、完全に逸脱した戦いだった。
まず、速すぎる。
退魔師としての戦いの中で養われた火凪の双眸を以てしても、天示が足場に使っている粒子の残光を、僅かに視界に収めるのが限界なのだ。
交錯の瞬間を捉えたと思えば、全く異なる位置から剣戟音が聞こえる。
その音を辿れば、明後日の方向の空で翠光が輝く。
流線的な動きで高速飛行するルキフェルに対し、稲妻のような直角軌道でそれを追撃する天示。いずれも物理法則など無視した軌道。
まさに人知を超えた戦闘であった。
火凪の腕の中で同じ物を見ている灯朱だが、激突の瞬きを見る事すら叶わないのか、生まれたての子猫のように、脳が受け取った情報に対して、首を動かす事しか出来ない。
そして速さの次に、圧倒的なまでの、自分との力量差だ。
火凪はこれまで、頭の中の何処かで災真は自分に狩られる側だと思っていた。
しかし、眼前の光景を見た今、それが絶望的なまでの驕りだったのだと気が付いてしまった。
勝てる勝てないの話ではない。挑むこと自体が無謀なのだ。
もし自分であれば、この戦いに飛び込もうするだけで何回、何十回、何百回命を落とす事になるのだろうか。考えるだけで気が遠くなるし、正直、そのビジョンが全く浮かばない。
同時に、強い恐怖を覚える。
この超越者の内のどちらかが。
否。
もし、奥乃天示と言う災真が自分達に牙を剥いた時、どう対処すれば良いのかと。
――その時、夜天の戦局が傾いた。
◆
「ほっ!」
軽い掛け声と同時に、空中で身を旋転させた天示が廻し蹴りを打つ。さっきまでの戦闘の何倍もの速度で放たれたそれは、ルキフェルが蹴りが来ると認識するよりも先に、その脳天へと命中した。
躊躇せずそれを、オーバーヘッドキックの要領で真下へと蹴り抜く。
『ごぉアッ!?』
知覚の外側から直撃を食らったルキフェルは、錐揉み状態で地表に急降下し、瞬く間に校庭へと落ちていった。
一拍遅れて、大地すら割りかねない墜落音が轟く。
一連の余波で、もうもうと砂埃が舞うグラウンドに、天示が降り立つ。
腰に手を当てながら頭上を見上げ、〈黒の天蓋〉の変化を視認した。
「〈黒の天蓋〉も大分小さくなったなぁ。……なぁ、後何発お前を殴ればあれ消えるかな?」
ちょいちょいと、リイヴァテインで上を差しながら、ルキフェルに問うた。
全身から黒い瘴気を噴き上げ、わなわなと震えながらルキフェルが立ち上がる。
顔面を覆っていた瘴気の一部が剥げ落ち、左目だけが顕になっている。
『……手加減……していたのか』
「消化仕合だって言ったろ? こっちもまだこの力に慣れてないし、何よりお前を秒殺したら、後で空のアレ消すのめんどくさそうだし」
天示がリイヴァテインを横薙ぎに一閃させ、肩に担いだ。
「まぁでも、そろそろ終わらせてやるよ」
『……図に乗るな小僧っ!!』
ルキフェルが再度、飛翔の為に翼をはためかせた。――その時、自分の背中の翼が、片方無い事に気が付いた。
『! な、に……!?』
「これだろ? 探し物」
そう言って天示が投げて寄越したのは、紛う事無く、ルキフェルの片翼であった。
いつの間に刈り取られていたのか。
くるくると宙を舞うそれを、ルキフェルが反射的に受け取ろうと、両手を伸ばしかける。だが、その手が触れる直前に天示が放った超重力弾で、翼は粉々に砕け散ってしまった。
『貴、様……ッ』
「空はもういい。ここでやろう」
そう言った天示の眼光にぞわりとした悪寒を感じたルキフェルは、悟る。
このままでは勝てないと。
そして、最後の手段に出る決意を固めた。
『……待ったのだ……』
「ん?」
『
そこまでを聞いた天示が、ぽりぽりと頬を掻いた。
「……あぁ、その3年前に邪魔した奴って、俺の姉ちゃんだわ」
『あの時の小娘、やはり貴様の仲間か……っ』
それが天示の姉の個体名称だった。
『まぁいい……。どうせもう貴様と会う事も無いのだからな』
ルキフェルは瘴気で翼を復元すると、嘲笑うような声音でぼそりと呟いた。
『残念だが、あの場所を離れた時点で貴様の負けだ、小僧』
瞬間、何かを察知した天示が即座に跳躍し、ルキフェルに切り掛かった。
だが、リイヴァテインの斬閃が触れる直前に、その姿は闇に呑まれるように消えてしまった。
――
天示は無言のまま首を動かし、真っ直ぐに屋上の方を見据えた。
◆
突如として、屋上にルキフェルが降り立った。
その禍々しい姿は、まるで漆黒の凶鳥を思わせる。
何の前触れもなく、突然目の前に現れたルキフェルを見た瞬間、灯朱が短い悲鳴を上げた。
火凪はそんな灯朱を庇いながら、ルキフェルに鍔を突きつけ、来るべき攻撃に備える。
『姫よ、もう一度
火凪は灯朱を抱く手に力を強め、ルキフェルに一喝した。
「やらせない……! もう妹には、私の家族には指一本触れさせない……ッ!」
『黙れ供物、悠長にしてる時間はないのだ。貴様は新たな〈黒の天蓋〉の、最初の贄となれ』
直後、
(…………来る!)
地面を滑りながら疾駆する
1秒にも満たない時間で最高速に達し、空気の壁すら貫通させる速度で迫り来る。
一瞬が無限にも感じる時間の中、火凪は直感した。
――殺される。
口訣も間に合わない。
姉妹を抱えて回避する時間もない。
恐らく防御も意味をなさない。
運命を受け入れた火凪は、心火の鍔を、そっと灯朱の背中に当てた。
(お父さん……お母さん、お願い。せめてこの子を、守って……っ)
強く、強く願った。
それが妹の為に自分が出来る、最後の役割なのだと思った。
灯朱もまた、姉の胸に顔を埋め、火凪が着ている学生服の襟を強く掴む。
そして、誰ともなく祈った。
(……助けて、下さい……っ)
だが、少女達の願いを聞き入れる者はここには居ない。
目前まで迫った絶望に対抗する手段もない。
ここにあるのは、絶対的な死の運命のみでしかない。
時間の流れる感覚が元に戻り、灯朱に覆い被さっている火凪の背中に、心火の凶刃が容赦なく振り下ろされた。
――その時であった。
きつく握り締められていた灯朱の手を、暖かい何かが触れた。
それはまるで、恐る恐る撫でているかのような、とても弱々しい感触だった。
意識を向けていないと、全く気がつかない程の、ほんの一瞬の手触り。
灯朱が恐怖に怯えないように。
灯朱が怖がって、泣いてしまわないように。
灯朱を心から心配し、慈しむように。
ただただ柔らかく、優しく、少女の手の甲を、誰かが撫でた。
不意に、灯朱は聞き覚えの無い男性の声を聞いた。
『大丈夫だよ。ぼくが、守るから』
「……えっ?」
驚いた灯朱が顔を上げようとした瞬間、
――キンッ、
音が、聞こえた。
それに反応した姉妹が、二人一緒に顔を上げると、そこにはもう
やや狼狽しながら、火凪が周囲を探ろうとした時、自身の愛刀・心火が、すぐ目の前のコンクリートに甲高い音を立てて突き刺さった。
少し遅れて、遥か上空からルキフェルの絶叫が耳に届く。
『何、だそれはァッ……! 何故……ッ! 何故貴様がここに居るッ!?』
その存在に気が付いた火凪が上空に目を向けると、首だけの姿になったルキフェルが、空に漂っていた。
直後に気付く。
自分達が今、何かの下に居るのだと言う事を。
弾かれたように振り返った火凪は、その正体を見上げた。
――骸の巨人。
それは昨夜、他ならぬ火凪自身が滅ぼした、骸骨武者の災真だった。
立ち膝の状態で座し、居合抜きの構えを取ったまま、不動の状態を維持している。
だが、禍々しくも凄まじい怒気を纏っており、火凪が仕留めた時とは比べ物にならない、桁違いの殺気をありありと放っている。
見ているだけで全身の血液が凍りそうになる程の威圧感に、火凪は一瞬、呼吸をする事も忘れてしまった。
『ッガァァァアァアアアアッ!!』
雄叫びと同時に、ルキフェルの全身が瘴気で再生された。
間髪入れず急降下し、一瞬の間に灯朱へと手を伸ばす。
だが、
――キンッ
抜刀音にして、斬撃音にして、納刀音。
一音が聞こえた次の瞬間には、全身を切り裂かれたルキフェルが、再び空へ弾き飛ばされていた。
無い口で何かを喚きながら自己再生するルキフェルだが、もう完全に修復する瘴気が残ってないのか、翼を欠いた状態で屋上へと落下した。
呻きながら、身を起こす。
『バガなぁっ……! 一介の災真如きが何故……、何故これ程の力を……ッ!?』
「それが、ホネスケ先輩の
いつの間にそこに居たのか。天示は屋上のフェンスの上に立ちながら、事の次第を見ていた。
そして、言葉を加える。
「先輩は生前、自分の妹と、姪っ子を守る事が出来ずに命を落とした。その時の怨念で災真となって、現代まであの路地裏に居たんだ」
冷淡に、続ける。
「だから先輩は、自分の目の前で子供が傷つく事を絶対に許さないし、傷付ける者を決して許さない。……その想いだけは、誰であろうと砕く事は出来ない」
言うなればそれは、子供を守る事だけに特化した災真である。
天示が目を細めて、ルキフェルに告げた。
「……お前は、先輩の刀が届く範囲では、子供に触れる事すら出来ないよ」
激情に猛り狂ったルキフェルの絶叫が響き渡る。
『その巨人は昨夜、そこの継承候補が滅ぼした筈だ!! それが何故!! 何故ここに居る!?』
天示は一瞬言葉に詰まったが、表情は変えずに応えた。
「アナムライザーには各個体固有の力の他に、共通で持ってる力の2種類があるんだ。それが、無詠唱、無儀式による災真の創造と消去でさ。これが対災真戦用兵器って呼ばれる所以なんだ。……つまり――」
ひと呼吸置き、天示は骸の巨人を見据えた。
「……そこの先輩は、俺が創った偽物だよ」
天示の話を聞き終えたルシフェルは、もう自分には万に一つも勝機がないと判断し、踵を返してこの場からの撤退を試みた。
しかし、
『ぐムぅッ!?』
一瞬で距離を詰めてきた天示に、顔面を掴まれ、その足が止まった。
『……ッ!! ……ッッ!!』
「〈黒の天蓋〉も使い切ったみたいだし、これで終わりだ。ルキフェル」
必死で足掻くルキフェルに、最後に一言だけ告げる。
「じゃあな。……向こうで本物の先輩に、たっぷり説教されて来い」
そして、リイヴァテインでルキフェルの胸を一息で刺し貫いた。
数秒の間を置いて、ルキフェルの体が足元から崩壊を始めた。黒い粒子を噴き上げながら、空に還るように蒸発していく。
やがて崩壊が首元まで到達した時、怨嗟のように呟いた。
『――貴様は、その過ぎたる力を以て……この時代で何を成すのだ……』
その言葉だけを遺し、ルキフェル――アランは消滅した。
次いで、上空に座していた〈黒の天蓋〉も、糸を解くように、天へと溶けてゆく。
重苦しい軛から解放された空は、この街ではほとんど見る事が出来ないであろう満天の星空であった。
天示は、今はもう何処にもいないアランに向けて、言葉を返す。
「それがまだ見つかってなくてさ。……でもまぁ、取り敢えず――」
火凪達が居る方に振り向き、寂しそうに微笑んだ。
「――今日の所は、晩飯でも作ろうかな」
そう言って、少女達がいる方へと歩いて行った。
◆
火凪は無言のまま、ホネスケを見上げていた。
自分が滅ぼした災真の模倣体に命を助けて貰った事は、彼女にとても複雑な想いを抱かせていた。
いくら感謝しても足りない筈なのに、それを手放しで認める事が出来なかった。
そもそも、何故あれ程の戦闘力を持ちながら、昨夜、自分なんかにあっさり滅ぼされたのか。
(……ううん、違う)
この災真は、子供を守る事のみを自身の存在理由としていた。
例え己が滅びの淵にあっても、子供を傷つける事はしない。
いや、絶対に出来ないのだ。
火凪は、屋上の端に横たわる、男の遺体を一瞥した。
この災真の行動理念を考えれば、あの男が殺された理由も容易に想像が付く。
火凪はゆっくりと立ち上がると、ホネスケの目を見据えた。
既にホネスケの手は刀から離れており、がらんどうの双眸を正面に向けたまま微動だにしない。
何となく、ホネスケに何かを言わねばと思った時、後ろから天示が近づいて来た。
火凪と同じように、ホネスケを見上げている。
「本物の先輩から、火凪さんへの伝言を預かってます」
「え?」
「『ありがとう。君のおかげで、ようやくぼくは眠る事が出来る』」
「……どうして、お礼なんか」
「理由はどうあれ、先輩は人を殺めました。多分、俺と知り合う以前から、近い理由で何人も切り殺してると思います。だから、いつか誰かが、人の手で自分の事を裁いてくれるのを、待ってたんです。……俺はその事に気が付きませんでした」
「それが、私?」
「はい。……でも先輩は最期の瞬間まで、火凪さんの事を気に掛けてました。『ぼくのせいで、怖いものを見せてしまった』って。『あの子は泣いてないだろうか』って」
「……そう、なんだ」
「だから先輩に頼まれてたんです。火凪さんに重責を押し付けてしまったせめてもの償いに、『何か良くない事が起きた時は、ぼくを使って、あの姉妹を守って欲しい』って」
天示の話を聞き終えた火凪はふらふらと歩き、ホネスケの膝にそっと触れた。
冷たい無機質な触感に、彼はもう居ないのだと言う実感が伴って、ちくりと胸が痛んだ。
「……だったら、私はごめんなさいは言わない」
火凪は大きく息を吸い込み、毅然とした声音で、言った。
「ありがとうございます。貴方のおかげで私も妹も、姉さんも助かりました。このご恩は、絶対に忘れません」
「あ、あのっ」
唐突に、隣に居た灯朱が声を上げる。
「わたしも、ありがとうございました! 助けて貰った時、本当に嬉しかったです!」
少々稚拙ではあるが、それは歯に衣を着せぬ、灯朱の真っ直ぐな想いであった。
その時、姉妹の言葉に反応したホネスケが、二人の居る方に顔を向け、カタカタと顎を動かし始めた。
【チニ……ウエ……ヲ……カエリ、チ……ニ】
しかし、吐き出したのは相変わらずの重苦しい呪詛であった。火凪が少々苦笑いを浮かべる。
だが、灯朱は呪詛を聞き終えると、僅かに驚いた後、破顔しながら応えた。
「……わかりました、約束します。だから心配しないで、ゆっくり休んで下さい」
その言葉に安心したかのように、ホネスケは光の粒子となって消えていった。
消滅の直前、ホネスケの無貌の奥底に僅かな光が灯った事に気が付いたのは、灯朱だけであった。
◆
紅巴が目を覚ましたのは、それから間も無くの事であった。
重い瞼を開けると、そこには心配そうに自分を覗き込む、二人の妹の姿があった。
慌てて跳ね起きて、声を荒げる。
「! カナ! あんた怪我は……って、ト、トア……? ぇ、え? その、体……」
驚くのも無理はない。火凪も灯朱も着ている服こそボロボロだが、怪我一つ負っていないのだ。
ましてや灯朱に至っては、〈刻印〉も傷跡も全てが消え去り、別人のように健康的な姿になっている。
絶句している紅巴に、少々興奮気味の灯朱が抱きついた。
「クー姉ちゃん聞いてっ! 〈刻印〉ね、奥乃さんが治してくれたの! それでね、髪もね、こんなに伸びたの!」
嬉しそうに自分の髪に触れ、声を弾ませる灯朱に耳を傾けながら、紅巴は自分の頬を掴む。
今、目の前で起きてる信じがたいこの光景は、夢なのではないのだろうかと思ってしまったのだ。
しかし、全力で抓った頬は、涙目になるほど普通に痛かった。
「
「クー姉ちゃん、大丈夫? ……あの、それと、さっきは本当に……ごめんなさ――わぷっ!」
灯朱が言い終える前に、強く抱き返す。
温かい。
夢じゃない。
夢じゃ、ない。
灯朱の〈刻印〉は、本当に完治したのだ。
「良かっ、た……よかった、よぉ……」
顔をくしゃくしゃにした紅巴が、灯朱に縋り付いて咽び泣く。
力持ちの紅巴の全力包容に、若干苦しそうな表情を見せる灯朱であったが、姉の背中を摩りながら、泣き止むのを待った。
一時の間そうしていたが、やがて紅巴が顔を離し、灯朱に問うた。
「ねぇトア、さっき「奥乃さんが治してくれた」って言ってたけど……。天示君はここに居るの?」
「うん、居るよ? ほら、すぐそこに」
そこに、と灯朱が促した先には、確かに天示が立っていた。
だが何故か非常に居心地が悪そうにしている。と言うより、目が泳ぎっぱなしなのである。
そんな天示の様子は何処吹く風で、感極まった紅巴が天示の元へと駆け寄った。
「生き、てた……! 生きてて、くれたぁ……! 天示君っ!」
全身全霊のハグ。
からの全力全開の回し蹴りが天示の首筋に命中した。
一連の動きはさながら流水の如く、一切の無駄を感じさせない敵を仕留める為の技術であった。
交通事故実験のダミー人形VS暴走自動車のワンシーンみたいに豪快に吹っ飛んだ天示は、そのまま頭から鉄製の屋上扉に激突し、地面に崩れ落ちた。
しばらく沈黙の時間が流れ、3姉妹の顔が同時に蒼白へと変わってゆき――
ややあって、時間は動き出す。
「あぁーーーーーっ!! わた……私またやっちゃ……!! て、天示君! 生きてるよね!? 天示君ーー!!」
「……今、一瞬首折れたように見えたんだけど……」
「お……奥乃さんが、奥乃さんが……鐘つきみたいにバゴーンって……バゴーンって……!」
――そんなめいめいの姦しい様子を、夜空に浮かぶ星だけが見ていた。
◆
「……とまぁ、そんな感じです」
復活の後、事件のあらましをざっくりと紅巴に説明した天示。
にわかには信じがたい話ではあるのだが、紅巴は全て理解し、受け入れた。
「そう、分かった。……本当にありがとう、天示君」
「いえ……あ、ルキフェル消滅させちゃったのって、マズかったですか?」
紅巴は首を横に振る。
「ううん、問題ないよ。災真事件の場合はこう言うケースも良くあるから。後の処理は私に任せて。……ただ、被害者の遺体捜索が残ってるから、しばらく家には帰れないけどね」
悔しそうに顔を伏せた紅巴だったが、天示はおもむろに上を見た。
「あぁ、行方不明の8人は全員生きてるんで大丈夫ですよ。丁度降りてくる所です」
「え?」
天示に釣られて上を見た紅巴の視界に、九つの黒い球体が降りてくる様子が見えた。
球体は準々に屋上へ降りると、地面に接触した瞬間に破裂し、その中から神隠し事件の被害者が次々と現れた。
天示が手のひらに翠炎を灯しながら、話す。
「〈黒の天蓋〉の起動用の生贄は、死んでたら力を搾取出来ないんです。皆衰弱しきってるけど、生きてさえいれば、姉ちゃんの炎で助けられます」
そう言って、順番に翠炎を押し当て、治療を施す。
紅巴はつい今しがた話に聞いたばかりなのだが、実際に翠炎での治療を見ると、やはり動揺を隠せなかった。
それはもう超常現象を飛び越え、最早奇跡と呼ぶべき所業であった。
驚きと同時に、『この少年の力があれば、もっと多くの人を救う事が出来る』と、確信する。
そうして、天示が8人目の被害者の少女の治療を終えた時。
「ペロ子……」
今にも泣き出しそうな、灯朱の声が耳に届いた。
急ぎ、3人が駆け寄ると、最後の黒い球体から現れたであろう白い犬が、灯朱の腕の中で横たわっていた。
「奥乃さん。ペロ子は……助けられませんか?」
灯朱の切望に、天示の顔が苦痛に歪む。
「……ごめん灯朱ちゃん。姉ちゃんの炎でも、蘇生は……出来ないんだ」
「そう、ですか」
灯朱がペロ子の亡骸をきゅっと包む込む。
だがそのすぐ後、ペロ子に触れた天示が、何かに気が付いたようにハッと息を呑んだ。
「……紅巴さん、火凪さん。後の事お願いします。俺は灯朱ちゃんと、この子を連れて、ちょっと行く所があるんで」
「え……? ちょ、ちょっと! 何処に行くの天示君!!」
突然の物言いに面食らった紅巴だったが、天示は灯朱とペロ子を抱き抱える。
「すみません紅巴さん。急がないと間に合わないかもしれないので。……灯朱ちゃん、少し飛ぶから口をしっかり閉じて、その子を絶対離さないでね」
灯朱は言われた通りに口を引き締め、ペロ子を守るように、全身で抱え込んだ。
直後、紅巴と火凪の視界から天示達の姿が忽然と消える。
一瞬の間を置き、屋上のフェンスからカンッと言う踏み込みの音が届いた。
そして、二人が音の聞こえた方に目を向けた時には、既に東の空の彼方に、天示が足場用に使ったのであろう翠の粒子の残光が、ぽつぽつと映っただけであった。
「……行っちゃった」
唖然とした様相の紅巴に、火凪が尋ねる。
「姉さんは、あの
「どうって、色んな意味で凄い子だと思うよ? 彼が私達に協力してくれれば、人類にとって大きな希望になるって信じてる。……でも、どうしたの? いきなり」
「……ううん別に。よく分かった」
人を疑う事が苦手な、姉らしい言葉だと思った。
大きな希望は、見方を変えるだけで大きな脅威に変貌する。
天示の戦闘を目の当たりにした火凪は、それを痛烈に感じていた。
奥乃天示自身か、はたまたそれに匹敵する何かか。
いずれにせよ、有事の際に、それらと渡り合う為の手段を考えなければならない。
(私は、奥乃天示と言う存在と、その力の矛先を見極めなくちゃいけない)
そう、強く心に刻みこんだ。
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