第5話 傷
【side:綾神灯朱】
市立、御塚第2中学校2階の廊下を、わたしは歩いていた。
昨晩は少し興奮して眠れなかったからか、今朝は少し寝坊をしてしまった。
学校には間に合ったけど、実は今もまだ少しだけ眠い。
でも、ずる休みの次の日に遅刻なんてしたら、きっとクー姉ちゃんに怒られてしまう。
だけど、朝は良い事もあった。
目を覚ましたわたしがリビングに入ると、奥乃さんが朝食のフレンチトーストを作ってくれていたのだ。
食事をすると胸が痛むので、あまり沢山は食べられなかったけど、とっても美味しかった。
奥乃さんが来てからまだ二日しか経ってないけど、本当に幸せ。出来たらこのままずっと、家に居てくれれば良いのに。
昨日のお店でのお喋りも、本当に楽しかった。……あんなに笑ったのはいつぶりだろう?
最初に見た時は怖い人かもと思ったミネコさんも、優しい人だった。
奥乃さんと同じように、わたしを見てくれた。
学校をずる休みしてしまった事だけが、ずっとわたしの胸をちくちくと突っ突いていたけれど、一日だけなら、きっと大丈夫だよね?
……許して、くれるよね?
廊下を歩いた先。わたしは自分の教室のドアの前で立ち止まる。
そして、一度だけ深呼吸してから、少し重いドアを開いた。
「おはよう、ございます」
わたしの言葉にクラスの友達が一斉にこちらを向いた、沢山の視線がわたしを射抜く。
返事は無い。ある筈もない。
でもこれはいつもの事。毎朝の、学校でのわたしの始まり。
教室の外は賑やかでも、ここは違う。壁を一枚挟んだだけで、まるで別世界になってしまったみたい。
でも、ここがわたしの場所だった。
わたしは少しだけ早歩きになって、自分の席へと向かった。
しかし、わたしの席は、ある筈の場所には無かった。
多分、聞いても誰も教えてくれないだろう。
そう考えて、一人で探す事にした。
探し物は、案外すぐにみつかった。
掃き出しの外。ベランダの隅の方に、机と椅子は放り出されていた。
『グラウンドに投げ捨てられていたらどうしよう』と思ったけど、この場所にあってくれて良かったと、胸を撫で下ろす。
近寄って調べてみても、机と椅子が壊されてる様子はなく、安心した。
あるのは沢山の靴で踏み付けた後と、ガムとか唾だけだ。
これなら掃除をするだけで済む、と思った私は、雑巾を取る為に教室に戻ろうとした。
その時、廊下側の扉が開かれ、担任の古里先生が入ってきた。
「出席取るぞー。……っと、なんだ、今日は綾神は居るのか」
凄くどうでも良さそうに言った先生が、教卓の方に歩みを進める。そしてすぐに、ベランダにあるわたしの机を視界に捉えた。
「……ん? 何だそれ。おい、誰がやったんだ?」
誰も何も言わない。
関心を示さない。
「んー……? 誰も返事をしないなぁ……あっ!」
先生が、わたしを指差す。
「じゃあ、お前がやったのか?」
直後、教室の中の誰かがぷっと噴き出した。それが合図と言わんばかりに、クラス全体が大きな笑いに包まれる。
その反応を見た先生も大笑いを始めた。皆本当に楽しそう。
つい、わたしまで笑いそうになってしまう。
ひとしきり皆と笑った先生が、わたしに向かって言った。
「で、どうなんだ? お前がやったのか?」
わたしは応える。
「
「全く……ここは学校だぞお前、備品を壊したら弁償だからな、判ってるのか?」
「
「ならグズグズしてないで、さっさと掃除して教室に戻れ」
「
そうして先生は、朝のホームルームを始めた。
反論しても意味がない事は、経験済みだった。
先生がこうすると、皆の授業態度が良くなる事も知っていた。
わたしが我慢をすると、皆が幸せになる事を知っていた。
今日も、一日が始まる。
【side end】
◆
御塚警察署、対災真相談課のオフィス。
自宅で灯朱を学校へと送り出した紅巴は、天示を連れてこの場所に訪れていた。
周囲に他の警察官の姿は見えず、今は天示と紅巴の二人だけだ。
目的は、件の交通事故の事である。
「天示君、……どうかな?」
自分のデスクのPCを立ち上げた紅巴が、黒いミニバンの事故現場写真を、天示に見せる。
椅子に座ってそれを見た天示が、指を顎に当てながら、首を傾けた。
「災真が関わってる事は間違いないです。……ほら、ここ。ここに力の残滓みたいな物が映ってるでしょ? これをやった奴、きっと凄く怒ってたんでしょうね」
天示が『ここ』と指差した先には何も写ってはいない。少なくとも紅巴には、少年の言う残滓なる物は見えなかった。
天示の反応に少し迷ったものの、紅巴は覚悟を決めると、天示に告げた。
「……この事故を引き起こした災真は、何かの武器みたいな物を持ってるんじゃないかって話になってるの。……例えば――」
ひと呼吸置き、天示の目を見る。
「大きな刀、とか」
その言葉を聞いた天示だったが、特に動揺の姿は見せなかった。考える時の癖なのだろうか、指は顎へと置いたままである。
程なく、その意を汲み取った天示が顎から指を離すと、隣に立つ紅巴の方に、顔を向けた。
「正直、ホネスケ先輩がやったとは思えません。この後で直接、先輩と話をしに行っても良いですか?」
「……仮にホネスケさんがやったとして、『自分がやった』って言うかな……?」
「やったかどうかは、会えばすぐに分かります。……匂い、って言うのかな。気配みたいな感じなんですけど。俺にはそれが分かるんです」
「……そう」
紅巴の不安は、天示が嘘を付く可能性だった。
あの骸骨武者を天示が庇い、自分に嘘を教えるのではと危惧していた。
しかし、そんな表情から紅巴の葛藤を察した天示が、言葉をかける。
「大丈夫です、騙したりはしません。先輩が犯人なら、きちんとその罰は受けさせますし、俺もその責任は果たします」
言って、微笑む。
「だって、嘘は付かないって、紅巴さんと約束しましたから」
その笑顔に紅巴は安堵した。同時に、少年の心の強さを再認識した。
そして、奥乃天示と言う少年を信じる事を、改めて心に決める。
それが、
直後、相談課のオフィスのドアが開かれ、天示と紅巴は、同時にそちらに振り向いた。
そこに立っていたのは、対災真特別防衛隊隊長、日原憲剛だった。
「何か災真クセェと思ったら化け物がいるじゃねぇか」
日原は口元を歪ませながら、天示らのいる方へと足を進める。その顔にはガーゼやら絆創膏がいくつも貼られていた。
恐らく、一昨日の応接室の転倒と、その後の取り扱いが原因だろう。
「日原警部、おはようございます」
紅巴が挨拶をするが、日原はそれを無視して素通りし、天示の前に立つ。
「よぉ化け物。もう一匹の方とは仲良くやってるのか?」
口角を釣り上げながら、嫌らしく嘲笑する日原。その言葉を聞いた紅巴の目に、怒りの色が浮かび、その手が強く握り締められる。
しかし、天示はしれっと応えた。
「おはようございます警部さん。もう一匹って何ですか?」
「しらばっくれてんじゃねぇ。そこの警官の妹だろうが。確かトアカとか言ったか?」
日原が首だけを動かし、紅巴を見やった。
紅巴はそれには目を合わせず、感情を必死で抑えていた。
だがそんな空気を余所に、天示は腕を組むと、残念そうに口を尖らせた。
「警部さん。間違えてますよ、それ」
「……あ?」
日原のこめかみに、青筋が浮かぶ。
その言葉に驚いた紅巴が顔を上げ、天示を見る。
「紅巴さんの家に居る災真干渉者は俺だけです。灯朱ちゃんは化け物じゃなくて、普通の人間の女の子ですよ」
然も当たり前の事のように言いながら、『やれやれ』と言わんばかりにかぶりを振った。
その態度に激情を顕にした日原だったが、ぐっと堪えると、怒りに震える声で天示に反論する。
「……知らねぇだろうから教えてやるよ。綾神の両親は〈黒の天蓋〉を引き起こした張本人だ」
天示の眉が微かに動いた。
目を剥いた紅巴が慌てた様相で割って入る。
「! 日原警部その事は!!」
「なぁ、綾神よ。捜査協力者様に隠し事は卑怯だと思わねぇか?」
卑しげな笑いを浮かべる日原に、紅巴は口篭り、反論する事が出来ない。
日原が言っている事は、正しい。
事実、〈黒の天蓋〉の引き金は、他ならぬ紅巴の両親だった。
全ては偽りのない、真実だ。
紅巴の悔しそうな顔を見た日原は、満足そうに、天示に向き直った。
「とまぁ、その時の影響でトアカって娘の体には〈黒の天蓋〉の呪いが残った。言っちまえば不治の病って奴だな。ハハハ! 罰だ罰」
腹を抱えながらゲラゲラと嗤う日原。
紅巴は自分の腕を掴み、何も言わない。俯く顔に表情も伺えない。
――と、
「灯朱ちゃんが〈黒の天蓋〉の呪いを受けてるから、化け物なんですか?」
不思議そうな顔で、天示が日原に問うた。
「……あ? 当たり前だろうが。会ってないのかお前。怪我をすると傷が治らねぇだとかで、いつも暑苦しい格好してるらしいじゃねーか。聞けば髪も伸びねぇらしいぞ、ハハハ!」
相談課のオフィスに、日原の嘲笑が響く。
「うーん、それなら」
天示が思い至ったかのように、僅かに苦笑すると。
「俺も警部さんも紅巴さんも。この街の人間、全員が化け物ですね」
そう、静かに告げた。
嘲笑を引っ込めた日原が、聞き返す。
「……なんだと?」
「だって、そうでしょ? この街の人達は全員〈黒の天蓋〉の被災関係者です。誰もが思い思いの爪痕を抱えて生きてます。あるのは、その差だけですよ」
余りにも自然にそう言った天示に対し、日原から表情が消えた。
紅巴も顔を上げて、惚けたように天示を見る。その表情には既に、怒りの色はなかった。
ここで「あ」と、何かを思い出した天示が、小走りで紅巴の元に駆け寄ると、その袖を掴んだ。
「ごめんなさい警部さん。俺、紅巴さんと友達の所に行くんで、これで失礼しますね!」
「あっ! ちょ、ちょっと天示君!?」
慌てふためく紅巴をグイグイ引っ張りながら、天示と紅巴は相談課のオフィスを後にした。
一人残され、呆然と立ち尽くす日原だったが、やがてぽつりと。
「……クソガキが」
と呟いた。
◆
【side:綾神灯朱】
昼休み。
わたしは校舎を抜け、学校で用務員さんが保護している白い犬、ペロ子の所に来ていた。
学校で人と話す事があまり無いわたしの、唯一の話友達と言っていい。
ペロ子はわたしを見つけた時から、ブンブンと尻尾を振っていた。
すぐにわたしは駆け寄り、ペロ子の前に屈む。
「こんにちはペロ子、いい子に、してた?」
挨拶をすると、ペロ子は一層大きく尻尾を振り始めた。ハッハッと息を荒げ、前足を出して催促を始める。
「待っててね、いま、あげるから」
わたしは、こっそり学校に持って来ていた犬用チーズを、制服のポケットから取り出した。
本当はいけない事なんだけど、喜ぶペロ子が見たくて、どうしてもあげてしまう。
わたしが手のひらに乗せたチーズを差し出すと、ペロ子がすぐに飛びつき、夢中で食べ始める。
「ふふ、くすぐったい。……いっぱい、食べるから、体がおまんじゅうみたいだよ? ペロ子」
普段、用務員さんにご飯は貰っている筈だけど、ペロ子はいつだって食欲旺盛だ。
元々呼び名の無かったこの子に『ペロ子』と名前を付けたのはわたしだった。理由は勿論、よく食べるから。
そしてわたし以外に、この子を名前で呼ぶ人は、この学校には居なかった。
生徒も。先生も。……用務員さんも。
呼ぶ時は『あの犬』とか『白い犬』。
前に用務員さんに犬の名前を聞いた時に「好きに呼べ」と言っていたので、『ペロ子』にしてしまったけど、おかしくなかったかな?
今更そんな事を考えたわたしは、じっとペロ子の目を見る。
ねえ、ペロ子。
……ペロ子は、ペロ子で、よかった?
心の中で語りかけてもペロ子は答えず、チーズを食べ続ける。
ふふ……本当に良く食べるなぁ。
ここでわたしは、今、自分が手に持っているのが最後のチーズである事を思い出した。
「あ……。ペロ子、それが、最後だよ。味わって、食べ――」
しかし、わたしが言い終わる前に、ペロ子はチーズを平らげてしまった。
もうチーズの乗ってないわたしの手を、ペロ子は舐め続ける。
そんなペロ子の姿に、わたしはくすくすと笑った。
「食いしん坊、だなぁ……。明日も、あげるから、今日は……。……ペロ子……?」
ペロ子は、わたしの手を舐め続ける。
「もう、無いよ、ペロ子」
ペロ子は、何も無いわたしの手を舐め続ける。
「もう、無いってば」
ペロ子は、舐め続ける。
「もう……残って……ないん、だよ」
不意に、わたしの視界が滲んだ。
「あ……れ……?」
悲しくなんてないのに、苦しくなんてないのに。
今はペロ子もいるのに、何故だろう。
――涙が零れた。
ねぇペロ子、あのね。
わたしね。本当は、学校なんて――
その時、昼休み終了のチャイムが聞こえた。
涙を拭ったわたしは、後ろ髪を引かれながらも、ペロ子に手を振り、校舎へと戻った。
そして教室に戻った時、わたしの机と椅子は、そこには無かった。
【side end】
◆
「ホネスケ先輩って、目的がないと動き回らないんです。地縛霊……みたいなもんかな?」
天示が前を歩きながら、後ろを続く紅巴に語りかける。
御塚署を出た二人は、天示先導の元、骸骨武者ことホネスケ先輩に会う為、御塚市西区の路地裏を会話しながら歩いていた。
天示が言うには、『いつもは大体あの場所に居る』、との事だった。
『あの場所』とはつまり、紅巴がレーダーに映らない災真に襲われかけた場所を意味する。
「……と言う事は、天示君を介さなくても、そこに行けば、私一人でも会えるの?」
紅巴の素朴な疑問だったが、天示は首を捻る。
「うーん、難しいかもしれません。ホネスケ先輩って凄い恥ずかしがり屋で、臆病だから」
「そ、そうなんだ……」
正直、あの外見からは想像も出来なかった。
「あ、でも子供――」
何かを言いかけて、天示が足を止める。すぐ後ろを歩いていた紅巴は、その背中にぶつかりそうになった。
「おっとと……? どうしたの天示君?」
紅巴の問いかけに天示は応えない。
だがその直後、天示は突如として猛然と前方に走り出した。
一気に遠ざかる背中を見ながら紅巴が叫ぶ。
「えっ!? ちょっ……どうしたの! 天示君!!」
しかし天示が紅巴の声に振り向く事はなく、被っていたフードを翻らせながら、時に体が接触する空箱やらガラクタを引き倒しながら疾走を続けた。
程なく、天示は路地裏の道の先へと消えていった。
その突然の行動に、一瞬呆然としていた紅巴であったが。すぐに気を持ち直すと、すぐにその背中の追跡を始めるのだった。
追いつくのに、それ程時間は掛からなかった。
件の場所に到着し、息を切らせた紅巴が、両膝に手を置きながら呼吸を整える。
そうして眼前に立つ背中に文句を言おうと口を開いた時、それが視界に入った。
廃ビルの中段、地上から3m程の高さに深々と残った、巨大な刀傷。
事態が飲み込めない紅巴が愕然としていると、正面に居た天示が屈み、地面に手を付いた。
そして何かに集中する様に瞳を閉じた後、そのまま背後の紅巴に声をかけた。
「……ホネスケ先輩が誰かに滅ぼされました」
「え……?」
それはどういう事かと、紅巴は思考する。
天示は瞳を閉じたまま、話を加えた。
「この場所で戦いがあったみたいです。相手がどうなったかは分からないけど、先輩はそいつに滅ぼされました」
その話を聞いた紅巴は、即座に携帯電話を取り出し、桐谷に電話を掛けた。
コール音を待つ間もなく、すぐに桐谷がその電話に出る。
『おぉービックリしたぁ! 丁度僕も電話しようと思って――』
「災真事件! 情報聞いてない!?」
食ってかかる紅巴にただならぬ物を感じたのか、桐谷はすぐに声を改めた。
『事件……と言うより討伐情報ですね。討伐時刻は昨夜の20時頃、大型の災真らしいです。場所は――』
桐谷が言った地点は、この場所と一致した。
「……らしいってのはどういう事?」
『ウチ経由じゃなくて、依頼人が直接退魔師に頼んだ形なんですよ。秘匿義務だとかで、討伐した退魔師の情報までは探れませんでしたけど』
「他には情報はないの? ……何でも良いから教えて」
『んー、後分かってるのは……。討伐に巻き込まれた被害者は居ないって事だけですかね? 退魔師の方も無事との事です』
被害者が居ないと言うのは、紅巴にとっては唯一の嬉しい情報だった。
「分かった……。ありがとう」
静かにお礼を告げ、通話を切る。
桐谷の情報は、恐らく捜査本部もまだ知らない事だろう。だが情報共有が済み次第、すぐにでも連続神隠し事件との関連性が調べられる筈だ。
あるいは、このまま次の神隠し事件が起きなければ、事件は未解決のまま保留となる可能性もある。
だが、きっとそうはならない。
レーダーに映らない災真。神隠し事件の真犯人はまだ見つかっていないのだ。
紅巴が携帯電話を仕舞い、天示の方へと向き直った。
「天示君? ……大丈夫?」
しばし座ったままの天示だったが、おもむろに目を開くと、やがてゆっくりと立ち上がった。
そして、誰にも聞こえない声で、
「お疲れ様……。……先輩」
天を仰ぎ、そう囁いた。
◆
黄昏に染まる街を、少女は歩いていた。
普段こんな場所に自分の意思で来る事は無かったのだが、今日は少しばかり用事があったのだ。
街の喧騒の中を歩き続けた少女が、目的地の前で足を止める。
センスの悪い、ピンクの建物。
中に入る事に少々抵抗はあったが、すぐに少女が覚悟を決めて、再び足を動かした。――その時、
「いら~っしゃい♥ 火凪ちゃん♥」
そうやって、後ろから声を掛けられた。
火凪が振り返ると、そこには大オカマのミネコが悠然と立っていた。
『付けられていたのだろうか』と身構えた火凪が、警戒の糸を張る。
その様子を見たミネコは、フランクフルトのような指を自分の口元に当て、ウフフと笑った。
「勘違いしちゃ嫌よ♥ 貴女を見つけたのはついさっきなの。ほら、お買い物の帰り♥」
そう言って持ち上げた手には、ピンクのエコバッグが下げられていた。
火凪がほんの少し、緊張を緩める。
「昨日からず~っと会いたかったのよ♥ ささ、入って入って♥」
そうやって促されるまま、火凪は【パッションミネコ♥】の地下入口への階段を下りていった。
店に案内された火凪は、ミネコに店内のカウンター席に座るよう言われた。それに応じ、椅子に腰掛ける。
店内を伺うも、他に客の姿はなく、ミネコ以外の店員の姿も見当たらなかった。
今日も定休日なのだろうか、と火凪は思った。
「ドリンクは何にする? 何でもあるわよ♥」
折角の申し出だったが、火凪は黙ったまま首を横に振る。
それを見たミネコは微笑むと、カウンター内でアイスコーヒーを作り始めた。
「……あの、お構いなく」
ミネコと会ってから、火凪が初めて言葉を紡いだ。
「あらヤダ。オカマならここに居るわよ♥」
ミネコ渾身のオカマギャグで返したが、火凪はクスリともしなかった。場の空気の重さが増し、スベったミネコが若干遠い目をする。
ややあって、火凪の目の前にアイスコーヒーが置かれた。しかし、火凪は口にしない。
しばし、沈黙が流れる。
中々話を切り出さない火凪に対し、先にミネコが話を振った。
「昨日ここで話した事、式神ちゃんを通して全部聞いてるんでしょ?」
「……」
式神は、先日、紅巴達がここに訪れた際に、火凪が諜報目的で忍ばせていた物だ。
使い捨ての紙媒介だったのだが、眼前の男はそれを探知したばかりか、術者の割り出しまでやってのけたと言う事だろう。
率直に、食えない男だと思った。
同時に、この男に小細工は通じないと判断した火凪は、早速本題に入る事にした。
「単刀直入にお願いします。お孫さん……奥乃天示君を、早急に引き取って下さい」
「あらあら、どうして?」
ミネコの聞き返しに、火凪は僅かに目を細めた。
そして、
「そうしないと、私が彼を殺めてしまうからです」
宣告する。
再び店内は沈黙に満たされ、ミネコはキョトンとした顔で火凪を見た。
わずかの間を置いたミネコだったが、微笑しながら言葉を返す。
「……テンちゃんの事、嫌い?」
その返答は火凪にとっては意外なものであり、全くの想定外だった。
「好きとか嫌いではなく、私が退魔師で、彼が災真だからです」
きっぱりと言った。しかし、
「うぅ~ん、ごめんね? それならちょっと承諾しかねるわねぇ~」
ミネコは申し訳なさそうに、そう言ったのだった。
「何故ですか? お孫さんが死んでも構わないと言う事ですか?」
「ん~、『テンちゃんがキライ!』って話だったらアタシも考えるんだけどね~」
『はぐらかされている』と受け取った火凪の目に、苛立ちが浮かぶ。
「それに多分ね? テンちゃんは全部分かった上で、火凪ちゃん達のおウチに居ると思うの。アタシはあの子の選択を信じるわ♥」
火凪は『話にならない』と思った。
「……今日は最後通告のつもりで来ました。応じて頂けないなら、相応の対処をするまでです」
そう言って火凪は席を立ち、店の扉に手をかけた所で、一度だけ振り返った。
「……私には、そのアイスコーヒーは飲む事は出来ません。……ごめんなさい」
目を伏せながら、心苦しそうにそう残し、店を後にした。
店に一人残ったミネコは、火凪が口を付けずに置いていったアイスコーヒーを手に取り、一口飲んだ後、
「なるほど、あの子はマミーちゃん似なのね♥」
と、可笑しそうに笑った。
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