第6話 砕ける心
ぼんやりと、天井を見ていた。
綾神家一階のリビング。そこの廊下を挟んだ反対側にある7畳程の和室が、紅巴に『自室に』と宛てがわれた、天示の部屋だった。
その部屋で布団も敷かず、仰向けに寝転ぶ天示。ひんやりと冷たい畳が、心と頭を冷ましてくれるのを感じていた。
思考を少し、遡らせる。
数刻前、紅巴と二人でホネスケの住処へと訪れ、
紅巴には言ってないが、天示には会話能力の応用で、災真の残留思念を感じ取る力がある。
だがそれは、全ての状況を事細かに知る物ではなく、終わりを迎えた災真の、最期のひと時を知る事に過ぎない。
あの時天示が見たのは――
見知らぬ男性を貫いた、ホネスケの無骨な刀。
首を刈られ、崩れ落ちるホネスケ。
そして、ホネスケを滅ぼした、退魔師の顔だった。
紅巴は天示を綾神家まで送り届けると、「調べたい事がある」と言って、一人、御塚署へと戻っていった。
そのすぐ後に、灯朱が学校から戻ってきたが、天示には目もくれず、真っ直ぐ自室へと向かって行ってしまった。
今この家に居るのは、天示と灯朱の二人だけである。
何の気なしに置時計を見ると、時刻は夜の19時を回った所だった。
「……もうこんな時間なのか。晩飯……どうするかな」
うわ言のように、呟いた時だった。
自身の通信端末の着信音が鳴り響いた。
連絡の相手がすぐに母だと分かった天示は、すぐに身を起こすと、足元に置いてあったザックを手繰り寄せ、その中から端末を取り出した。
「久しぶり。もう話せるの? マリナ」
『……ぁー……ゎ……』
だが返事がひどく遠くて、言葉が聞き取れない。
「? マリナー? 生きてるのか?」
『……あー……あー? ……おおー! 悪い悪い! 生きてる生きてる!』
電波状況が改善したのか、元気そうな母の声を聞いて、天示の顔が少し緩んだ。
「まぁ、マリナなら殺しても死なないか。今回は随分忙しかったっぽいね」
『あはは! ホンット失礼なーお前。たった今、護衛対象を送り届けた所でさ。いやースッゲーこき使われたわ! あっはは!』
楽しそうにケラケラ笑う母。大体いつもこんな感じなので、天示も特に気に止めない。
『……んで? 約束してた定時の生存報告?』
「そうそう。それと近況報告」
『ほほ~う?』
ニンマリと言った所だろうか。端末越しでも母の表情が判ってしまう。
「期待してるトコ悪いけど、大した話じゃないからさ、聞き流していいよ」
『なんだよ、超つまんね』
声のトーンが一気に下がる。裏表のない母らしい反応だと思った。
「俺、ちょっと居候する事になったから」
『ほーん。誰ん
「うん、女の人の家」
『ほーん………………はぇ?』
日頃から会話をしていても表情がコロコロと変わる母。さしずめ今は鳩が豆鉄砲食らった顔、だろうか。
「そんな訳だからよろしく。次にこっちに帰る事があったらまた連絡――」
そこまで言った所で、和室の入口の引き戸が控えめに、とんとんとノックされた。
「あ、マリナごめん。ちょっと切る」
『……へ? ぇあ、ちょっ!! ちょっと待て天示!! お前ソレ詳しく聞か――』
まだ話の途中ではあったが、容赦なく通話終了ボタンを押す。
端末の電源を落としてザックに仕舞う。座り直して姿勢を整え、来訪者に「どうぞ」と告げた。
数秒の間を置き、ゆっくりと扉が開かれ、そこから純白の少女、灯朱が顔を出す。
しかしその表情はどこか虚ろで、天示と目も合わせない。
――ほんの少し、良くない予感がした。
「灯朱ちゃん? ……どうしたの?」
心配した天示が声をかけるが、返事はない。
灯朱の様子に困惑した天示が、『夕飯はどうしようか』と話題を振ろうとした時、灯朱の小さな口が開かれた。
そして、震える声で、
「奥乃さん、わたしを」
「うん?」
「わたしを、災真に、してください」
そう、天示に訴えた。
◆
事情が飲み込めない。
言葉の意味が分からない。
だが、今確実に天示に分かるのは、眼前の少女が『何かに追い詰められている』と言う事だけだった。
今の灯朱は、天示と初めて会った時のものではなく、
天示の料理を『おいしい』と食べた時のものでもなく、
天示の実家で、一緒に笑った時のものでもなく、
そして、今朝送り出した時のものでもなかった。
まるで何かに取り憑かれているかのように、機械にでもなってしまったかのように、和室の入口に呆然と立ち尽くしている。
その姿に『ただ事ではない』と察した天示が、灯朱に優しく笑いかけた。
「そんな所に立ってないで、こっちで話をしよう。……さ、おいで」
灯朱は手招きをする天示の前へゆらりと歩み寄ると、さながら糸の切れたマリオネットの如く、すとんと腰を落として、座った。
その顔はずっと俯いたままで、放っておいたら額が畳についてしまうのはないかとさえ思えた。
天示は出来るだけ優しい声色で、灯朱に声をかけた。
「どうしたの? 何かつらい事……あった?」
しかし、灯朱は応えない。
「……灯朱ちゃんは人間だよ? わざわざ災真になる必要なんてないよ」
灯朱は尚も応えない。
「……それに、もし灯朱ちゃんが災真になったら、俺は凄く悲しいかな」
天示が決まりが悪そうに微笑んだ時、灯朱が声を上げた。
「だったら……わたしは、どうすれば、いいんですか?」
灯朱の質問に応えようとした天示だったが、灯朱は矢継ぎ早にまくし立てる。
「わたしは……何処に行けば、良いんですか?」
「わたしは、どうして……ここに、居るんですか?」
「何処が……わたしの、居ていい所、なんですか……!?」
徐々に声量が上がって行き、擦れてゆく。最後はまるで慟哭のようだった。
身動き一つしていなかった灯朱が、ゆっくりと顔を起こした。
少女は、微苦笑を浮かべていた。
「どうして、わたしは……わたしなんですか?」
支離滅裂な言葉の羅列。
だがそれは、紛れもなく灯朱の心の
それを受け取った天示が、灯朱の頭をそっと撫でた。
「ここに居たらいい。ここには、紅巴さんも火凪さんも居るだろ? 何も心配なんて――」
「ちがいます、奥乃さん」
灯朱にぴしゃりと話を遮られて、天示の言葉が止まる。
「わたしに人間が残っていたら、ダメ、なんです。わたしは、全部が災真にならないと、皆が幸せに、なれないんです」
灯朱の苦笑が、泣き笑いのものへと変わる。
「だから、お願いです、奥乃さん、わたしを、災真の仲間に、してください」
どうしたものかと困窮する天示だったが、不意に、和室の扉が大きな音を立てて開かれた。
その音に反応して顔を上げた天示が見たのは、幽鬼のような顔で立っている火凪の姿だった。
あたかも氷の如き眼光で、天示を真っ直ぐに射抜く。
「……出て行け、化け物。今すぐ」
拒否権は無いと言わんばかりの、強い語気。
その迫力に息を飲んだ天示だったが、どうにか怯まずに言葉だけは返せた。
「あの、火凪さん。……ごめんなさい、今はちょっと待って――」
「応じないならこの場で切り伏せる。……十秒だけ待つ」
「い……いやいや! 待ってってそう言う意味じゃなくて!!」
にべもない宣告。
そしてそれが冗談ではない事は、火凪の目が悠々と物語っていた。
「九」
「……ってカウント早!! もう始まってるの!?」
慌てふためき抗議する天示だったが、火凪は歯牙にもかけない。
だが、この状態の灯朱を置いて逃げる気にもならず、天示は必死で打開策を考えあぐねていた。
そうこうしてる間にもカウントはしっかりと続き、
「八」
「ちょ、ちょっと待っ……」
両手を前に出し、おろおろと取り乱す天示。しかし、その流れを止めたのは――
「カナ姉ちゃん」
灯朱の介入であった。
突然の割り込みに火凪のカウントが止まる。天示が脱力し、『助かった』と、肩で安堵の息を吐いた。
だが――
「わたしも、殺すの?」
直後の灯朱の言葉に、場の空気が一変する。
火凪は愕然とした表情で瞠目し、天示も思いがけない言葉に戦慄を覚えた。
「ト……トア……?」
手を差し出し、妹に呼びかける火凪。
そこには先程までの攻撃的なものは無く、怯えの様相すら伺わせた。
「わたしも、化け物だから、殺す?」
「違……っ! トアは人間でしょ!? そこの化け物とは――」
「ごめんね、カナ姉ちゃん」
火凪の言葉が耳に入ってるのかも怪しく、灯朱はゆったりとした仕草で首を動かすと、姉の目を見て――静かに、哂った。
「わたしに、人間が残ってたら、殺せないね?」
それはきっと、自笑だった。
血相を変えた火凪は一歩だけ和室に踏み入ると、声を荒げた。
「どうしちゃったのトア!? 『刻印は私が治す』って約束したじゃない! 『わかった』って! 『待ってる』って言ってくれたよね!?」
狂乱めいた声で必死に呼びかける火凪だったが、その姿を見ても灯朱は表情も変えない。
「〈刻印〉はもう、治らないん、だよ。……ね、見て?」
灯朱はおもむろに立ち上がり上着を脱ぐと、履いていたタイツをするすると下ろし始めた。
すぐ目の前に居た天示は咄嗟に視線を外そうとしたが、それより先に、見てしまった。
――無数の傷跡。
縫合やテーピングで患部こそ塞がってはいるものの、晒された腕と脚には、いくつもの生々しい残痕が残っていた。
痣、切り傷、擦り傷、打撲傷、骨折痕。
事情を知らない人が見れば、一瞬そう言う模様の何かを履いているのかと見紛うだろう。
恐らく天示も、母の仕事の手伝いと言う経験が無かったら、思わず目を背けていたかもしれなかった。
眼前の少女の凄惨な姿に、天示は息が詰まり、言葉が出なかった。
「カナ姉ちゃん、見て? これ、ずっと治らないの。痛いのにね? このままなの。髪もね? 最近はどんどん抜けちゃうの」
淡々と言い続ける灯朱に、火凪が絶句し、微かに目を伏せた。
そして――
「だからね、もういいの」
灯朱はそう言うと、そのままの姿で歩き出し、和室の入口で立ち尽くす火凪の横を通り抜けた。
「……っトア! 待って!」
火凪はすぐに振り返り、手を伸ばして灯朱を引き止めようとした。
しかし――
「……もう……嫌、なの」
今にも泣きそうな。
あるいはもう、泣き始めてしまっているかの様な妹の声色に、火凪が伸ばした手は空を切った。
灯朱はその直後に駆け出すと、靴も履かないまま玄関を出て行った。
一拍遅れて立ち上がった天示が、灯朱の後を追って駆け出す。廊下に出る際に火凪と肩がぶつかったが、気にも留めなかった。
玄関の扉を開け放ってすぐに周囲を見渡す、しかし灯朱の姿は既に見当たらない。
天示はすぐに、行き先も決めぬまま、夜の街へと駆け出していった。
◆
【side:綾神灯朱】
家を出てから、どれほど走っただろう。
ふと、痛みを感じたわたしが下を見ると、両手と膝から、血が出ている事に気がついた。
普段、体を動かす事に慣れていないから、きっと走ってる途中で転んでしまったのかもしれない。……夢中で走ったから、良く覚えてないけれど。
足を止め、息を整えようとした。でも何故か上手く出来なくて、けほけほと咳き込んでしまう。
……ここは、どこだろう。
辺りを見渡しても、わたしの記憶にある場所じゃなかった。あるのは街灯と、道路と、知らない家が並んでるだけで、人の姿もない。
その風景に、急に寂しさを感じたわたしは、カナ姉ちゃんの事を思い出した。
本当はあんな事、言うつもりなんて無かったのに。
頭の中が一杯になっていたわたしは、カナ姉ちゃんを傷付けてしまった。悲しそうなカナ姉ちゃんの顔を思い出して、胸がじくじくと痛み出す。
近くにあった壁に背中を預けて、そのままとずるずると地べたに座り込む。地面のの硬さが少しだけ痛かった。
そのまま体を丸めたわたしは、ぎゅっと膝を抱えた。
ねぇ、お父さん、お母さん。
どうしてわたしを、一緒に連れて行ってくれなかったの?
どうしてわたしは、今のわたしになってしまったの?
教えて。
教えてよ……。
だれか……。
「ここから……出して……」
――痛い。
「え……?」
痛い、痛い、痛い。
「ぁ……あれ? なん、で?」
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い!
「うっ……ぐっぅっ……かは……っ!」
突然全身に走った激痛に、わたしは何も考えられなくなった。
痛みのあまり横倒しに転がり、道路で丸まったまま、どうにかそれに耐えようとした。
でも、脳を直接焼くような痛みはどんどん大きくなり、すぐにわたしが耐えられる限界を越えた。
無我夢中で這いずろうとしたけれど、何かに足が取られてうまく進めない。
足元を見ると、その原因はわたしの血だった。
体中にあった傷跡が開き、全身から血が吹き出している。
口を開くとごぽごぽと血が溢れ、悲鳴も上げられない。
痛みで気絶しそうになっても、それ以上の痛みが許してくれない。
とうとう呼吸すらままならなくなったわたしは、最期の力を振り絞り、必死で手を伸ばした。
しかし、その手に応えてくれるものはなく、
ようやく、意識も遠のき始めた。
ああ、そうか。
やっと、終われるんだ。
これで、皆が幸せになれる。
なんだ、もっと早くこうしていれば良かった。
全てを受け入れたわたしは、ゆっくりと目を閉じようとした。
その時、知らない男の人の声が聞こえた。
「おめでとうございます。姫君」
だれ……?
「ようやく悲願の種子が花開いた事、誠に感激の極みにございます」
だれですか……?
「宴の準備は整っております。すぐにでも……おや? まだ足りてないようですな?」
なにを、もってるんですか……?
「ああ、良かった! ならばこれを持ってきたのは正解でしたな! 終焉の狼煙となれば、この手土産も本望でしょう!」
それは……なんですか?
「実は少々邪魔が入りましてな。本命を持っては来れなかったのですが……何卒ご容赦下さい」
わたしの目の前に、何かが落ちた。
しろい物だ。
しろと、くろい、あか。
わたしは、これをよくしってる。
わたしは、このこをよくしっている。
でもどうして、こんなところにいるの?
わたしは、てをのばしてさわるけど、
かえってくるのは、かたさと、つめたさだけで――
ペロ子……?
「さぁ始めましょう姫よ。〈黒の天蓋〉の再誕です」
【side end】
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