第4話 消滅

「ただいまー! 良い子にしてたかなー?」

 少し芝居がかった様子の紅巴が、自宅の玄関ドアを開ける。

 その右手には鞄と、左手には食品の詰まった、大きなエコバッグが下げられていた。

 紅巴が足元に視線を落とすと、妹の灯朱の靴、そして今日から一緒に生活をする天示の靴も置いてあり、二人共、在宅中である事が確認出来た。

 天示が自分の言いつけを守ってくれた事に安堵しつつも、もう一人の妹、火凪の靴がそこに無かった事に、紅巴は一抹の寂しさを覚えた。

 

 火凪が災真を忌み嫌っている事は以前から良く知っていたが、それがここまで根強い物だとは、紅巴は思っていなかった。

 

 綾神火凪と言う少女は、幼い頃から心配りが過ぎる少女であった。

 退魔の資質が大きすぎる影響か、感受性までもが極端に強く、すぐに他人の痛みを、自分の痛みに変換してしまう子供だったのだ。

 そんな火凪を、家族はしっかりと受け止め、また、火凪の心を良く理解していた。

 火凪は、特に母に良く懐いていた。

 溺愛症の父と違い、優しさの中にも厳しさを持った母であったが、火凪は母の事が大好きだった。

 13歳まで同じベッドで寝ていたのだから、それはもう余程の事だろう。

 同じ年に起きた〈黒の天蓋あの事件〉が起きなければ、もしかしたら今でも一緒のベッドで朝を迎えていたのかもしれない。

 

 穏やかな日々を、過ごせていた筈なのだ。

 

 紅巴はエコバッグを玄関カーペットの脇に置いて、一息吐く。

 そんな時、リビングの方から、楽しそうな話し声が聞こえた。

 その声に紅巴は驚き、履いていた革靴を少々乱暴に脱ぎ捨てると、駆け込むような勢いでリビングのドアを開け放った。

 そこには、


「あ、お帰りなさい紅巴さん」

「おかえり、クー姉、ちゃん」

 

 天示と灯朱の二人が、ソファーに仲良く並んで座っていたのだ。

 紅巴がその光景に言葉を失う。

 先程自分が外出をした時とは、空気の様相が全く異なっていた。

「た、だいま」

 少々掠れた声で、言う。

 二人は紅巴から目線を外すと再び向き合い、談笑を始めるのだった。

 一体、どんな魔法を使ったのか。

 〈黒の天蓋〉以降、完全に心を閉ざしてしまっていた筈の灯朱。そんな彼女と少年が、ここまで短時間で親密になれた事が信じられなかった。

 先程『おかえり』と言った、灯朱の笑顔を思い返す。

 紅巴が灯朱の笑顔を見たのは、いつぶりの事だろう。少なくとも〈黒の天蓋〉以降は記憶に無い。

 天示と会話を続ける灯朱は、時に驚き、時に感心し、時に首を傾げ。

 

 そして時に、年相応の少女が見せる、花のような笑顔を、天示に向けていた。


「……っ」

 その姿に、紅巴の胸が締め付けられた。

 『天示を引き取る事で、いつかこうなってくれれば』と言う願い、その願い通りのの結果が、こんなにも早く訪れるとは、思ってもみなかったのだ。

 眼前の光景に少々目頭が熱くなった紅巴が、ソファーの裏側から二人の背後に近づいた。

 そうして、

「ねぇ何の話? 私にも聞かせてよっ!」

 楽しげに、後ろから二人の肩へ手を回すのであった。

 その瞬間に紅巴は気がつく。

 そして、気がついた時にはもう遅かった。

 

 紅巴の鉄拳が天示の側頭部に豪快に叩き込まれたのだ。

 

 上方から斜め下へと真っ直ぐ撃ち込まれた、とても良いパンチだった。

 天示は抉るような拳の勢いそのままに、テーブルに顔面を強打したのち、そのままソファーとテーブルの隙間へと崩れ落ちると、ピクリとも動かなくなった。

 楽しかった空間が、一瞬にして静寂に支配される。

 灯朱は口元に両手を当て、呼吸も忘れたかのような驚愕の表情で、横たわる天示を見ている。

 正拳の射手である紅巴は、殴り飛ばしたままのポーズで石化していた。表情こそ「私にも聞かせてよっ!」の時のままであるが、徐々にその色が蒼白になる。

 だが、そんな静寂を破るかのように。

  

 起き上り人形の如く、天示が突如ムクリと立ち上がったのだ。

 

 その姿に仰天した紅巴が盛大に尻餅をつく。

 灯朱がハンカチを取り出しながら、震える声で、天示に言葉をかけた。

「お……奥乃さ、だ……だいじょ……」

 そこまでを聞いた天示が、気恥かしそうに頬を掻いた。

「平気平気、驚かせてごめんね。これがさっき話した〈感覚操作の式〉って奴なんだ。……紅巴さんもすみません、立てますか?」

 天示は、心配そうな面持ちで、後ろの紅巴に向き直った。

 呆然としていた紅巴だったが、天示の謝罪の言葉を聞くやいなや、跳ねるように立ち上がる。

「わっ……私なんかより、天示君こそ怪我は!? 何度も何度も私ってば……! 本当にごめんなさい!!」

 頭を下げる紅巴に、天示が苦笑を見せる。

「肩に手を置いた時に、俺の髪の毛が触れちゃっただけですから、気にしないで下さい」

 そう言って、照れくさそうに頬を掻いた。

 

 実際は、天示にとって些細な事だった。

 例えるなら、満員電車で隣の人間と肩が触れる、その程度に過ぎないのだ。

 殴られる事には慣れっこだし、それだけで済むなら御の字。

 でも、何より辛いのは――


 そんなにも悲しそうな、今にも泣き出してしまいそうな瞳を、自分に向けられる事だった。


 不意に、天示は頬に柔らかい物が触れる感触を感じた。見ると、灯朱が先程の桜色のハンカチを頬に当てている。

 天示が、そんな灯朱に笑いかけた。

「平気だよ灯朱ちゃん。全然怪我なんてしてないから」

「ちがい、ます」

 灯朱はぎこちなく言うと、更に言葉を加えた。



 灯朱が何を思って『苦しい』と言ったのかは分からなかったが、何故かその言葉は、不思議な位に、天示の心の真ん中に、すとんと収まった。

 灯朱の想いを噛み締めるように、一度だけ瞳を閉じる。

 そして――

「腹減った! 御飯にしませんか?」

 気まずい空気を払拭する為に、大輪のような笑顔を紅巴に向けた。

 紅巴は言葉に詰まるも、すぐに少年の真意を受け取り、表情を和らげる。

「……そう、だね、夕飯にしようか。天示君、キッチンにあった物は全部食べちゃった? 卵と長ネギと、ソーセージとか冷凍ご飯とか」

「あれ全部頭に入ってたんですか!?」

 まさか炊飯器に隠れていた魚肉ソーセージまで把握していたとは。

 天示は驚きの色を隠せない。

 その反応を少々履き違えた紅巴が、応える。

「ううん、大丈夫。材料は買い込んであるから心配しないでね。すぐに支度――」

 その時、紅巴は自分が着ているスーツの裾に重さを感じた。そちらに目を向けると、自分のスーツの裾を掴んでいる灯朱と目があった。

 紅巴の目を見た灯朱が、控えめに訴える。

「クー姉ちゃん。わたし、奥乃さんのご飯が、食べたい、です」

「え……?」

 それは妹からの突然のお願いだった。

 日頃、頼み事はおろか、自己主張のひとつも見せなかった灯朱の、突然のお願いに、紅巴は少々戸惑う。

 その様子を見ていた天示が、口を挟んだ。

「実はさっき少し振舞ったんです。そしたら何だか気に入ってくれたみたいで、俺も嬉しかったです」 

 そう言って、照れくさそうにはにかむ。

 これから一緒に暮らすとは言え、今日訪れた少年に、家族の夕飯を作らせるのは、少々心苦しい物があった。

 しかし、大切な妹のわがままを叶えてあげたいと思うのも事実。

 紅巴は少々逡巡した後、

「……お願いしても良いかな? 天示君」

 と、申し訳なさそうに破顔するのだった。



 天示がキッチンに入ってから30分弱。

 一度着替えに自室に戻った紅巴だったが、今は灯朱と二人、対面キッチンの前に設置されたテーブルに腰掛け、料理の完成を待っていた。

 手伝おうかと声も掛けたのだが、天示はそれを遠慮したのだ。

 程なくして、天示がカレーライスが盛り付けられたお皿を持ってくる。

「出来ましたよー! ……よっ、と」

 そう言って目の前に置かれた料理をじっと見る紅巴。

「あの……作ってる途中から気になってたんだけど……カレールウなんて、ウチにあったっけ?」

 先程、スーパーで購入したと言う記憶もなければ、買い置きがあった覚えもない。

 天示が笑いながら応えた。

「後片付けをしていた時に、戸棚の奥でカレーパウダーの缶を見つけたんです。幸い薄力粉もあったし、紅巴さんの買い物の中にバターとトマトもあったので、有り合わせで作ってみました」

 既に家主以上に台所を熟知している天示に、紅巴は少し感心してしまった。

 

 かくして、『いただきます』の掛け声と共に、3人が食事を始める。

 そして、天示のカレーを口に運んだ時に、紅巴は、妹がを欲しがった理由に気がついた。

「これ……お父さんのカレーにそっくり……」

「えっ、そうなんですか?」

 聞き返した天示に、紅巴が頷く。

 両親がまだ存命だった頃、家族5人で食べた、あの味そのものだった。

 紅巴は少し物思いに耽ると、隣でゆっくりと食事を続ける灯朱の髪を優しく梳いた。

 灯朱が少々くすぐったそうに片目を閉じる。

「あ、そうだ。紅巴さん、灯朱ちゃんも俺に触れる事が出来るんですよ」

「……そう、なんだ」 

 

 実は、火凪が暴力衝動を無効化出来た時に、紅巴はその可能性は考えていた。火凪程ではなかったが、以前は灯朱も優秀な資質を秘めていたのだ。

 だが、〈黒の天蓋〉の爪跡、火凪が言う所のを身に受けてから、体力の低下と共に、その資質は徐々に失われていった。

 

 そして〈刻印〉は今もなお、灯朱の心と命を蝕み続けている。

 

 しばらく3人が食事を続けていると、突如として、玄関が開かれる音が、3人の耳に届いた。

 やがてリビングのドアが開かれると、そこから火凪が姿を見せ、半身で中の様子を伺う。

 火凪の姿を見た灯朱が、真っ先に声をかけた。

「おかえり、なさい、カナ姉ちゃん」

 灯朱がこの場に居る事は想定外だったのだろうか、火凪が若干の動揺を見せる。

 しかし、すぐに取り繕うと。

「……ただいま、トア。今日は体調が良さそうだね」 

 そう言って、灯朱に微笑みかけた。

 そんな二人のやり取りに、紅巴が加わる。

「お帰りカナ。夕飯食べるでしょ? さ、こっちにおいで」 

 だが、そう手招きした紅巴への受け答えは、辛辣そのものだった

「……導具を取りに帰っただけだから。……夕飯、そこの化け物が作ったんでしょ。いらない」

 吐き捨てた火凪の表情には、灯朱に向けていた優しさは微塵も残っていなかった。

 火凪が更に言葉を続ける。

「随分と上手く懐柔したみたいだけど、私は化け物と馴れ合う気はないから」

「カナ……あんた……」

「仕事で2、3日戻れないと思う。……じゃあトア、行ってくるね」

 それだけを言い残して、リビングのドアは締められた。

 取り付く島もない、とはまさにこの事だった。

 その一部始終を見届けた天示が、口元に指を当てながら、ううむと唸り始める。

 そんな仕草に一瞬『気を悪くした』と感じた紅巴だったが、肝心の天示の方はと言うと。

「やっぱ〈オーク〉がダメなのかな? 天使とかドラゴンみたいなカッコイイ奴だったら良かったのかなぁ……いやでも」

 等と、ぶつぶつと筋違いの自己問答を始めるのだった。

 その様子に紅巴はほんの少しだけ、表情に安堵の色を浮かべた。

「……カナにも食べて欲しかったな……。このカレー」

 懐かしさを噛み締めながらカレーを口に運ぶ紅巴に、天示が応えた。

「これ、祖父ちゃんに教えて貰ったんです」

 

 祖父は、天示の料理の師匠である。

 母は料理はからっきしな上、普段は仕事で外に出ている事が多かった為、まだ幼かった天示の胃袋を満たすのは、主に祖父の役目だった。

 実家の店を切り盛りしながら様々な料理を天示に教え、また天示の方も、店の手伝いをしながら、着実に祖父の教えを身に付けて行ったのだ。

 

 ――と、

「あ、祖父ちゃんと言えば」

 はたと思い出したように天示が言った。

「紅巴さん、明日少し外出しても良いですか? 祖父ちゃんの所に用事があるんで」

「……お祖父さんの所? 構わないけれど、この近くなの?」 

 はて、この辺に墓地は無かった筈だがと、紅巴が疑問符を浮かべる。

「御塚駅の方です。さっき電話したら『明日は一日店に居る』って言ってたんで、用事方々、顔を出しておこうかなって」

「へー、そうなん……だ……?」

 途端に、紅巴の顔色が変わった。

 目を剥き、両手でテーブルを叩きながら、天示に食ってかかる。

「てっててっ……天示君!? お祖父様はご存命なの!?」

「? はい、生きてますよ。母さんも」

 フィクスは〈黒の天蓋〉で命を落としていたが、事件当日、祖父も母も被災地とは離れた自宅に居たので、被害は免れていた。 

「なっ……亡くなられてるんじゃないの!? 私がご家族の事を聞いた時に、『居ません』って!! 2回目に聞いた時も首も横に振ってたじゃない!」

「え? あぁ、あれは『今ここには居ません』って……」

「そんなの……見たら……分かるってば……」

 ガックリと項垂れる紅巴。

 出会った時からその気配を感じ取ってはいたが、やはりこの少年は天然だ。 

 それも恐らく、そこそこ重度の天然物だ。

 

 しかし、気がかりな点がある。

 

 それは天示が相談課の応接室で気絶していた時、紅巴と桐谷の二人で、天示の過去を洗っていた時の事だ。

 奥乃天示には、〈黒の天蓋〉以降の経歴が全くと言っていい程に無かったのだ。

 その時は、天示が〈黒の天蓋〉による孤児だという前提で調べていたので、そこまで深く掘り下げて考えてはいなかったのだが、もし家族が存命しているのであれば、それは全く別の話になる。

 これは明確に、天示の〈黒の天蓋〉以降の3年間が、という事の裏付けに繋がるのだ。 

 

 考えをまとめた紅巴が、天示の方を見た。

「……分かった、天示君。でもそれなら私もご挨拶に伺いたいから、一緒に行ってもいいかな?」 

「はい、全然問題ないです」 

 正直『ダメです』と言われても付いて行くつもりだったが、天示は快く了承した。

 その会話を横で聞いていた灯朱が、話に入ってきた。

「奥乃さん、クー姉ちゃん。わたしも、行って、いいですか?」

 それは灯朱の、本日二度目の申し出わがままだった。

「トア……。でもあんた、明日は学校が――」

「明日だけ……だから。おねがい……」

 心苦しそうな面持ちで、灯朱は真っ直ぐに食い下がる。

 〈刻印〉を受けてから、まるで人形の様になってしまっていた灯朱が、これ程に自分の意思を示してくるなんて。

 そんな妹の姿に心を打たれた紅巴は、ふぅ、と静か息を吐き出すと。


「……明日だけ、だからね?」

 

 そう言って仕方なさそうに苦笑し、妹を甘やかすのだった。



 ――御塚市は、国内でも指折りの大都市である。

 

 市の中心に存在する御塚駅を境に、四方に4つの地区が広がっている。

 御塚警察署。学校や病院。綾神家がある高級住宅地。そしてその先からは海が望める、御塚市の心臓部とも言える、南区。

 

 小さな山間部があり、比較的緑の色合いが残された町並みで、大きな商店やショッピングモールが点在する、北区。

 

 オフィス街や巨大マンションが建ち並び、街の経済を担っている側面と、今はもう復興も完了しているが〈黒の天蓋〉の中心被災地と言う二つの側面を合わせ持つ、西区。

 ちなみにここ西区は紅巴が天示、ホネスケ先輩と出会った場所でもあった。

 

 そして、飲食店、映画館、ゲームセンター等の遊技場が集中する、市で一番の歓楽地としても知られている、東区。

 常に人通りの多いこの東区だが、少し奥まった場所に入ると、途端に怪しげなネオンの光る店やら、客引きのお兄さんがハンターの様に目を光らせる、明るいイメージの御塚市の裏側とも言える様相が広がっていた。

 

 そんな東区歓楽街の入口に、天示と灯朱。

 そして、とても不安そうな顔で手土産の入った袋を下げた紅巴の3人が立っていた。


 昨日のやりとりから一夜明け、天示の案内の元、この場所に訪れた紅巴だったが、その表情は硬い。

「……この場所で間違いないんだよね……? 天示君」

 訝しげな顔を天示に向けた紅巴だが、天示はあっけらかんと返す。

「はい、間違いないです。もう見えてますよ……ほら、あそこ」

 天示が指差した先は、ショッキングピンクカラーの外壁の、二階建ての建物だった。正面の脇に、地下へと降りる階段が見える。

 だが、それよりまず紅巴の目を引いたのは、建物に掲げられた極彩色の看板だった。

 その看板に書かれている文【パッション・ミネコ♥】

 しっかり『♥』まで目を通した紅巴の頬に、一筋の汗が流れる。

 そんな紅巴の心中は意に介さず、一歩前へと進んだ天示が、屈託ない顔をこちらへと向け、手招きした。

「行きましょう、待ってると思うんで」

「あっ、ちょっと……!」

 声をかけようとした紅巴だったが、それよりも早く天示が建物へと駆け出し、地下に続く階段の方へと消えていった。

 硬直する紅巴に対し、『早く行こう?』と言いたげに、灯朱が姉の手を取る。

「何屋さんなの……? ここ」

 紅巴が吐き出したその疑問は、夏の陽光に溶けて霧散した。


 建物脇の階段を降り、店の入口を開けた紅巴と灯朱を迎えたのは、野太い男性の声だった。

「あぁんらぁ~~! いらっしゃ~~い!」

 想定外の歓迎に、紅巴が思わず後ずさりしそうになる。

 

 二人を出迎えてくれた声の主は、身長2mはあろうかと言う程の、スキンヘッドの大男だった。

 まず目に飛び込んだのは、男性が身に付けているピンクのフリルが付いた黒いエプロン。

 そのエプロンに隠れているが、僅かに見える黒のタンクトップ。ゆとりのある松葉色のボトムスに、白のスニーカーを履いている。

 ガッシリとした体格は、一見紅巴がプロレスラーもかくやと思った程だ。

 日原憲剛も大柄な方であるが、眼前の男性の絞り込まれた肉の鎧の総量は、彼とは比較にならないだろう。

 

 そんな男性が、えらく渋みの効いた良い声で、丸太のような手を差し出してきた。

「初めまして、天示の祖のミネコです。よろしくね♥」

「よ……よろしくお願いします。綾神紅巴と申し、ます」 

 男性が放つ威圧感に圧倒されながらも、差し出された手を取り、握手を交わす。

「うふふ。それでこちらが……あらっ! んまぁーー! 可~愛いーーーッ!!」

 男性は歓喜の雄叫びを上げると、紅巴の隣に立っていた灯朱の正面に屈み、目線の高さを合わせた。

 それから、キャッチャーミット紛いの手を灯朱に差し出す。

 灯朱は小さな手で握手に応じると、

「綾神灯朱、です。はじめ、まして」 

 と、怯える様子もなく、丁寧な挨拶を交わしたのであった。

 微笑ましいやり取りではあるのだが、男性が座り込んでも、灯朱とは結構な体格差があった。

 この光景を絵画に見立てて名を付けるなら、『エプロンを付けた巨大岩石と握手する少女』だろう。

 握手を済ませると、猫のように目を細めていた男性が、悠然と立ち上がった。

 そして、

「立ち話もなんだし、さぁ、どうぞどうぞこちらへ♥」

 そう言って、二人を店の奥へと案内するのだった。


 今日は定休日なのだろうか、店の中には客の姿は疎か、男性――ミネコ以外の店員の姿も見えなかった。紅巴の耳に入るのは3人の足音と、店のスピーカーから流れるクラシックの音色だけだ。

 案内されながら、紅巴はキョロキョロと視線を動かす。

 こういった装いの店に入った事はないが、何となく『クラブとはこう言う物なのだろうか?』と紅巴は思った。

 そんな店内の一番奥。10人は座れようかと思われる程の広いソファー席に、天示が一人座り、待っていた。

 紅巴は持っていた手土産をミネコに手渡してから、天示の向かい側の席に着いた。

 

 ミネコは紅巴と灯朱の目の前に飲み物の入ったグラスを置き、天示の隣へと腰掛ける。

「テンちゃんが『これで』って言ってたんだけど、アイスコーヒーとアップルジュースで良かったかしら?」

「ありがとうございます、頂きます」 

 そう言った紅巴がストローを差し、コーヒーを一口飲むと、その味にどこか懐かしいものを感じた。

 それを見届けたミネコが、テーブルの上で両手を組む。

「うふ。話は全てテンちゃんから聞いてます。孫の事、よろしくお願いしますね♥」

 にっこりと、言う。

 放任主義と言うより、天示に全幅の信頼を置いている事が、その目からは伺えた。

 『テンちゃんから聞いた』と言うからには、こちらの事情は全て伝わっていると考えていいだろう。

 紅巴がコーヒーの入ったグラスを置く。

「ご協力感謝します。大切なお孫さんを預からせて頂く事に、感謝の言葉もありません。……ですが」

 確かめるように、言葉を継ぐ。

「本当によろしいのですか? こんなにも大切な事を、その……こちらで勝手に決めてしまって……」

 今更という感じもあるが、心苦しそうな紅巴に対し、ミネコは全てを察しているかのように応えた。

「アタシもこの子の母親も、全てこの子の判断に任せているから心配しないで? それに、びっくりしたでしょ? この子の今日までの3年間が無い事に」

「なっ……」

 紅巴が目を見開いて驚く。

 この男性は、奥乃天示の〈黒の天蓋〉以降の3の理由を知っているのだ。

「あれはね、アタシの細工なの。テンちゃんが独り立ちするって時に、『何か起きた時に、極力迷惑は掛けたくない』って頼まれてね。知り合いにちょっと偉い人が居て、その人と一緒にちょこちょこ~ってね」 

 特に悪びれもせず言ったミネコに対し、紅巴はすぐに理解した。

 ミネコの孫に対する深い信頼。

 そして、目の前の男性が、この国の情報基幹に精通した影響力を持った人物であると言う事を。

 警察官である自分にわざわざ直接話した事から考えても、糾弾は無意味だろう。

 半災真という天示の境遇から考えても、今ここでそれをするのは得策ではないと考えた。

 同時に、奥乃ミネコと言う人物の、計り知れない部分を感じ取っていた。

 少し息が詰まった紅巴が、話題を変えようと質問をする。

「……えっと、あの、こちらはどう言ったお店なんでしょう……?」

「オカマバーよ♥」

 『もしかして』とは思っていたが、紅巴が想像していた通りの答えを、嬉しそうに返すミネコ。その隣に座る天示に目線を向けると、天示は天示で、正面に座っている灯朱と楽しげに話をしている。

 と、

「う~ん。紅巴ちゃんはパピーちゃん似なのね」  

 癖、なのだろうか。手をしきりに動かし、時に組み替えながら、ミネコがそんな事を言い出した。

「はぁ……。ぱぴー、さん? ……ですか?」

 聞き覚えの無い人物の名前に、紅巴が首を傾げながら、目の前のグラスを手に取り、ストローを口に付ける。

 その姿を見たミネコが、クスクスと笑いながら言った。


「紅巴ちゃん達のパパの事よ♥ 彼ってば、ここのお店の常連さんだったの♥」


 飲みかけたコーヒーを思い切り噴きそうになった。

 すんでの所で踏みとどまったが、溜飲し損なった一部が器官に入り、咳き込む。

「けほっ! けほっ! ぐっ……く……ふッ! お、おとっ! おとっ……!!」

 『お父さん』と言いかけるが言葉にならない。父の知られざる秘密を知った娘は、目を白黒とさせて苦しむ。

 その姿を見た灯朱が無言でペーパーナプキンを差し出し、受け取った紅巴が口元を拭いた。

「あ、オカマバーって言っても変な事は全然無いのよ? ここのお客さんは友達同士の集まりみたいなものでね、女性客も良く遊びに来てくれるの♥」

「そっ……そうなん、ですか」

 少し調子を取り戻した紅巴が、目尻に涙を浮かべながら相槌を打つ。

「ええそう。紅巴ちゃんのマミーちゃん……お母様も、時々一緒に来ていたわね♥」

「え……? お母さんも?」

 懐古の情景に耽るように、ミネコはゆっくりと瞳を閉じた。

「ご両親の事は本当に残念だったわ……。テンちゃんもね、パピーちゃんにはよく遊んで貰っていたのよ」

 そう言って、目を細めながら隣を向くミネコ。

 目が合った天示が口を開く。

「……もしかして、サッカーおじさんの事?」

 その問いかけに、ミネコは黙って頷いた。

 

 『サッカーおじさん』とは、天示が呼んでいた呼び名である。

 よく店に来ては酒も飲まずに飯を食い、厨房に居る天示を見かけると『サッカーするか!』と、頻繁に外に誘って来た事が由来だった。

 店では口を開くとすぐに家族の自慢話を始める人だったが、天示とサッカーをしている時だけは『息子が生まれたらこうするのが夢だった』と楽しそうに話をしていた。

 店の料理が特に気に入っていたようで、事あるごとに、ミネコにレシピを聞いていた姿を、天示はよく覚えている。

 

(そうか、サッカーおじさんが、紅巴さん達のお父さんだったんだ)

 天示は寂しさを噛み締めた。

 そんな天示の様子を見届けたミネコが、唐突に灯朱へと顔を向ける。

「灯朱ちゃんは、テンちゃんのお料理を食べたのよね? どう? 美味しかった?」

 その問い掛けに、持っていたグラスを置いた灯朱が、姿勢を整えた。

 そうしてすぐに、

「はい。すごく、おいしかった、です」

 と、満面の笑みで言葉を返すのだった。

「そう……。ふふ、良かった」 

 そう言って、満足そうに微笑んだミネコの瞳には、果たして何が見えていたのだろうか。

 ミネコは灯朱にそれ以上の事は聞かず、静かに、自分の目尻を拭った。


 談笑にもすっかり花が咲き、紅巴と灯朱のグラスが空になる頃。

「あらヤダ、もうこんな時間じゃない♥」 

 手元の時計を見たミネコが、いかにもオカマ然とした仕草で、時の経過を伝える。

 紅巴も自分の時計を確認すると、時刻はもう18時を回った所だった。

 それを見た紅巴が席を立ち、ミネコに挨拶をする。

「長々とすみません。そろそろお暇させて頂きます。本日はありがとうございました」

「いいのいいの、またいつでも遊びに来てね。テンちゃん? 紅巴ちゃん達に迷惑かけちゃダメよ?」

 言いながら、天示にごつい指を突きつける。

 天示はその指を軽く叩きながら、

「大丈夫だよ祖父ちゃん。心配すんなって」

「やんもぅっ。祖父ちゃんじゃなくて『グランマッ♥』って呼んでって、いつも言ってるのにぃ」

 ニッと笑う天示に対し、ミネコは巨体をくねらせた。

「あ、そうそうテンちゃん。にもちゃんと言っておくのよ。黙ってたら後が怖いから」

 ふと思い出したように、ミネコが言った。

「あいよ。実は何回か連絡してるんだけど、繋がらなくてさ。通話が出来る様になったら、俺から話すよ」

 そのやり取りに紅巴が口を挟む。

「あの、マリナさんとは?」

 その問いかけを、天示が受け取った。

「俺の母さんです。普段は外国で仕事をしているんですよ」

「へぇ、そうなんだ。凄いお母さんなんだね」

 紅巴が感心した様子で言葉を漏らしたが、それ以上の事は聞かなかった。


 最後に全員で挨拶を交わし、ミネコは店の外まで見送ってくれた。

 陽が沈みかけた街に3人が消えていき、その姿が完全に見えなくなると、ミネコは踵を返して、自分の店へと戻る。

 ――と、

 目の前をひらりと舞った紙くずを一枚、目にも止まらぬ速さで掴んだ。

 それを2回ほど裏返し、注視したミネコは小さく、

「あらら、何処の式神ちゃんかしら?」

 と呟いた。 



 ――その瞬間を見たのは、月影だけであった。

 

 周辺に生き物の気配はなく、そこはまるで、現実世界そのものが置き忘れてしまった、幻想空間であるかのような錯覚を覚える。

 同時に、どこかの神殿のような雰囲気すら感じさせた。

 そして、耳が痛くなる程の、無音。

 大きな廃ビルに囲まれた裏路地と言う、常に地形上風が届きにくい場所ではあるのだが、今宵は殊更、それを強く感じた。

 

 静寂の牢獄に、音が与えられる。

 

 ――ぽたり、

 ――ぽたり、

 ――ぽたり、

 

 音は波紋の様に広がり、行き場を求めて彷徨う。  

  

 ――ぴちゃり、

 ――ぴちゃり、

 ――ぴちゃり、


 音が音を吸い、共鳴を始める。

 もしかすると、この空間は、このまま世界から忘れ去られてしまうのではないだろうか。

 

 誰も見なければ。

 

 誰も知らなければ。

 

 ここで始まり。ここで終わり。無かった事として消えゆく。ただそれだけの事なのではないだろうか。

 

 ――ぴちゃり、

 ――ぴちゃり、

 ――ぴちゃり、


 その時、南から吹いた微かな風が音を攫い、少し遅れて、空の雲が割れた。

 やがて呼応するように月影のカーテンは分け放たれ、その顔を現した満月が、世界に色を与える。

 かくして、そこに映し出されたのは。

 

 骸骨の巨人。

 その巨人が握る、鉄塊と見紛う無骨な刀の柄。

 ――そして、

 

 その刀で心の蔵を貫かれ、廃ビルの壁へと縫い付けられた、男性の姿だった。


 男性の見開かれた目はもう何も映しておらず、驚愕に開かれた口元からは、絶え間なく血が流れ続け、伝り落ちた先の地面に、おびただしい量の血だまりを作っていた。

 ほんの数秒前まで生きていたのだと、ここに居たのだと、声も無く訴えかけてくるような、鮮やかなだった。

 

 月明かりの斬刑場に、声が響く。


「やってくれたね」


 声の主は黒髪の少女だった。

 月影の舞台袖からゆっくりと歩く少女は、月光のベールのくぐり、その姿を現す。

 少女は骸の巨人と同じく、その身に合った大きさの日本刀を携えていた。

 

 ――第七継承候補、綾神火凪。

 

 火凪はその悲惨な現場に、心苦しそうに目を細めた。

「ごめんなさい。……もっと早く来てあげられれば良かったんだけど」

 独り言のようにそう呟き、事切れている男性に詫びた。

 その言葉に反応したのか、骸の巨人は火凪の方へとカチカチと首を回す。

【チニ……ウ……エ……カエ……リ……チ……】

「……黙れ」

 骸の巨人の呪詛を短い言葉で切って捨てた火凪が、日本刀を鞘から抜き放つと、その刀を真横に構え、鍔と柄を掴みながら、口訣を唱える。


黒白散華こくびゃくさんげ殲魔浄滅せんまじょうめつに我は詠う、仇成す魍魎に滅びを示せ。――霊刀の顕現、心火染雪こころびそめゆき


 口訣の完了と同時に、火凪は日本刀の鍔を、刀の鞘と同じ様に

 鍔が走った刹那、刀身が鈍色から純白へと染まり、突如として閃光を帯び始めた。

 その剣光は月よりも強く、夜の闇を即座に塗り替え、骸の巨人の放つ邪気さえも押し返した。

 退魔の煌めきを宿らせた刀を火凪が正眼に構えると、眼前の巨人は緩慢に体を動かし、壁に突き刺さったままだった自身の刀を、男性ごと引き抜く。

 そして、縛めから解放され、刀にぶら下がった状態の男性を、そのまま振り棄てたのだ。

 鈍い音を立てて、地面にうつ伏せで落下する男性。全身の骨が砕けているのか、横たわるその姿は、さながら歪な人形を思い起こさせた。

 その姿を見た火凪の目に、怒りの火が灯る。


「――滅びよ」


 瞬間。自らの足に力を込めた火凪が、爆発的なスピードで骸の巨人に突進した。

 即座に巨人が反応し、接近する火凪を掴もうと手を動かすが、とても捉えられる速度ではなかった。

 火凪は瞬く間に巨人の足元に到達すると、そのまま真上に跳躍。骨盤と肋骨を踏み台にして、一瞬の間に巨人の肩へと着地した。

 

 ――息をもつかせぬ決着、だった。

 

 火凪は巨人の頚椎を片手で掴み、その首を切り落とそうと、日本刀の刃を当てる。

 が、その直前で巨人に声を掛けた。

「……あんた等、会話が出来るんだって? 言い訳があるなら言ってみなよ」

 その時、火凪の脳裏に過ぎったのは、あの褐色の肌の少年の顔。

 少年の言葉を信じる気など更々無かった。故にこの質問も、ただの気まぐれに過ぎない。

 何の期待もせず、酷くつまらなそうな顔の火凪が、巨人の返答を待つ。

 しかし、骸の巨人が放った言葉は――


【カエ……リ……チ…………チ……ニ……エ……】


 と、脳に直接響いてくる呪詛を吐き続けるだけであった。

 火凪は、そんな巨人を一笑に伏せると、

「うるさいよ。……化け物」

 そう言って、骸の巨人ホネスケ先輩の首を切り落としたのだった。


 仕事を終えた火凪が、電話で災真討伐完了の報告を済ませ、被害にあった男性の元へと歩くと、膝を付いて手を合わせた。

「ごめんなさい……。綺麗にしてあげたいけど、現場に残った物は全て、触らない事が原則になってるんです」 

 悲痛な面持ちで、男性に謝罪した。

 

 その時、火凪の視界の隅に小さな何かが飛び込んだ。ほぼ無意識に顔を向けた火凪だったが、吸い寄せられるようにそこへと歩く。

 そうしてを拾い上げると、

「何で……こんな所に、姉さんのハンカチが落ちてるの……?」

 そう、呟いたのだった。  

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