第3話 三姉妹

 紅巴が運転する車の助手席に乗り、揺られ続ける事20分。

 流石警察官と言うべきか、絵に書いたような安全運転。ゆっくり流れる風景に、少しだけ眠気を感じてしまうのは、安全とは対極と言えるの母の運転に慣れてしまっている影響だろうか。

 他愛もない話から始まり、紅巴は自身の父と母の事を話してくれた。


「私の両親もね、天示君のご家族と一緒で、〈黒の天蓋〉の時に亡くなったんだ」

 その声に、陰りは見えない。

「お巡りさんの家は、災真退治の家系な――」

「紅巴で」

 運転中なので視線は正面に向けたまま、天示の言葉を遮る紅巴。

「一緒に暮らすとなると苗字でも不便だからね。紅巴でいいよ、天示君」

「はぁ、えぇと、……紅巴、さん」

 異性。

 まして、家族以外の年上の女性を名前で呼ぶなんて事がこれまで無かった天示は、いささか緊張してしまう。

 そんな様子を察してか、紅巴が話を継いだ。

「私の家……綾神家は優秀な退魔師の家系でね。代々、悪霊や災真と戦ったり、それらに関する事の相談役も担っていたの。……でも」

 紅巴が握るハンドルの手に、少しだけ力が入る。

「私には、退魔術を扱う才能がほとんど無かったの。だから、まだ小さい頃から家督は妹の火凪が継ぐ事になってた。……私が今の仕事に就こうって決めたのも、その影響かな? ……でも、そんな時に〈黒の天蓋〉あの事件が起きてしまった」

 

 〈黒の天蓋〉。

 

 今、目を閉じても、天示はあの時の事を鮮明に思い出せる。

 巨大な天空魔法陣。

 泥に飲まれる人々。

 優しかった、あの炎の温もり。

  

『生きてね』と遺し、微笑みながら闇に消えた、姉の最期の姿。


 戒めの様に。呪縛の様に。

 あの時の光景が、言葉が、天示の記憶から消える事はない。自身の細胞の一つ一つに刻み込んでいる、大切な約束の記憶だ。

「もう一人の妹の灯朱は、その時に大怪我をしちゃってね。一命は取り止めたんだけど、呪い……って言うのかな。後遺症が残っちゃって……」

 そう言った紅巴の横顔には、確かな悔しさの色が伺えた。その悲壮な面持ちに、天示の胸が強く締め付けられる。

「私も火凪も必死で治療法を探してるんだけど、今もまだ見つかってないの。……だからね天示君、もし良かったら灯朱の――」


 ぐきゅぅぅぅるるぅぅう~~~~。


 車内に突如轟いた異音。紅巴の言葉が止まり、天示が俯く。

 沈黙の空間で、車のエンジンの静かな駆動音だけが流れる。

 異音の発生源、天示の腹部を一瞬、紅巴が見やった。

「……お腹、空いちゃった?」

「……すみません」

 話の腰の折り方にしては最低に部類されるかもしれない。話の内容が内容だっただけに、天示は申し訳ない気持ちで一杯になる。

 そう言えば、今日は朝からラムネ一本しか口にしていなかった事を、今更ながらに思い出した。

「もう少しで着くから、少しだけ我慢出来るかな? 家だったら何かあったと思うから」

 そう言って笑った紅巴の言葉に答えたのは、『ぐぴ』と言う天示の腹の音だった。



「はい、とうちゃーく!」


 閑静な高級住宅街の一角。

 自宅敷地内の駐車スペースに止められた車から、天示と紅巴が降り立つ。

 『ここだよ』と告げられた天示が見たのは、周囲の家々よりも一際大きな、西洋風の邸宅だった。

 外壁は白、屋根は濃いグレーのシンプルな色合いで、ぐるりと囲む塀の中には小さな庭もある。2階建てではあるが、豪邸と言っても差し支えないだろう。

 何となく和風の家をイメージしていた天示だったが、想像以上の立派な佇まいに、素直に感嘆した。

 

 天示が呆けたように家を見上げていると、紅巴の携帯電話が着信を告げた。

 すぐに取り出し、誰かと会話を始める紅巴だったが、少し天示に目配せをすると、通話をしたまま車の運転席へと戻った。

 恐らく、自分には聞かれたくない話なのだろう。

 そう考えた天示は車から離れると、フードを深々と被り、玄関の方へと歩いた。


 塀沿いに歩きながら、考える。

(この大きな家に、姉妹3人だけで住んでるんだよな)

 これだけ広い家ならば、自分が寝泊りするスペースの心配はないかもしれない。

 基本的に『住めば都』精神の天示にとっては、畳1畳程度の広さと、雨露を凌げる屋根があれば充分なのである。

 実家を出てからは橋の下、公園のベンチ、果ては山中の穴ぐら等で寝起きする事もザラだった。

 それもこれも全て、母の仕事の手伝いの賜物。真夜中に閃光手榴弾フラッシュバンやら誰やらの悲鳴に叩き起される心配がないだけで、少年にとっては天国のようなものである。

 

 玄関前の門まで着いた天示が、両手に抱えていたザックを降ろした所で、ふと、背後に誰かの視線を感じた。

 一瞬、通話を終えた紅巴かなと思い、振り返ったが、正体は異なっていた。

 

 自分と同じ位の年頃と思われる少女が、立っている。

 

 凛とした目鼻立ちで、髪は艶やかな漆黒の色合い。背中まであろうかと言う長さのそれを、首元で一本に纏めている。色白の肌は淡雪のようで、取り巻く夏の熱気ですら、今だけは涼しげな風を感じさせた。

 細身の体は白を基調とした学生服を身に纏っており、スラリと伸びた脚は、黒のストッキングに包まれていた。少女の持つ線の細さを一層際立たせている。

 その魅力ぶりは、少女の存在する空間そのものが、 燦爛さんらんたる崇高な美術品であるかのように思えた。

 

 そんな美少女の碧い瞳が、真っ直ぐに天示を見つめている。

 天示は少女から目が離せなかった。目の前の少女が放つ、どこか魔力めいた可憐さに惹かれ、この時ばかりは自身の体質の事さえ、頭から消えていた。

 一瞬、時すらも止まったかのような錯覚を覚えた。

 

 少女は無表情のまま、天示から10m程離れた位置で動かない。 

 はたと我に返った天示が、自分は不審者ではないと訴える為、口を開いた。しかし言葉が出ない。そもそも、慌てた頭では何を言うかも細かく考えられなかったので、咄嗟に喋ったとしても、果たしてそれが意味を持つものであったかと言うのも怪しかった。

 ややあって、少女の瞼がゆっくりと、閉じた。

「……まさか――」

 ほどなく、薄桃色の唇から、淡い声色が紡がれる。


 ――失笑と共に。

 

「自分から、のこのこやってくるなんて……ね」


 刹那、場の空気がした。

 穏やかだった世界が突如、少女が放つ殺気に塗りつぶされたのだ。

 そこでやっと天示は、少女が右手に何かを握っている事に気がついた。

 白い布に包まれた、1m程の長さのである。

 それを見た瞬間、首筋にバチリと電気を感じた天示が、一気に警戒のレベルを高め、少女から距離を取る為に真後ろへの跳躍を試みた。

 しかし、天示の足が動くよりも早く、

 

 ――少女の手のひらが、天示の胸に当てられていた。


「なっ……」

 間の抜けた驚愕の声の直後。少女がつまらなさそうに、ぽつりと呟いた。

【――

 瞬間、胸元で爆弾でも爆ぜたかの如く、天示が豪快に吹っ飛ばされた。

 大型トラックにでも撥ねられたかの様な勢いで、2回、3回と道路をバウンドした天示は、そのまま遥か後方に立っていた電柱に背中から激突し、地面へと落ちる。

「ごっ……はッ……!」

 仰向けに横たわりながら、口元から血を吐き、呻く。

 視界が霞む。

 見えている空が遠くなって、少しでも気を抜けば、意識まで途切れそうだった。

 もしかしたら風穴でも空いてしまったのではないかと、自分の胸に手を当ててみるが、幸いにもパーカーの中身の感触は帰ってきてくれた。

(何、だよ……今の……っ)  

 突然訪れた危機。

 『すぐに逃げろ』と、『そいつはヤバイ』と、脳がガンガンと警鐘を鳴らすが、体に力が入らない。

 

 かつ、かつ、と、小さな足音が耳に届いた。


「呆れた。まだ息があるんだ」

 害虫でも見るかのように、少女が天示を見下ろしている。

 逃げる為にどれ程身を動かそうとしても、体は全く言う事を聞いてくれなかった。

 少女は仰向けに横たわる天示の上に跨り、マウントポジションの体制を取ると、左手で天示の首をギリギリと絞めつける。

 苦しさを感じるが、同時に微かな花の香りが鼻腔に触れた。

「……苦しい? 大丈夫。すぐに終わらせてあげるから」 

 つまらなそうに呟いた少女の右手には、いつしか絢爛なこしらえの日本刀が握られていた。

 恐らく、これが白い布に包まれていた物の正体であろう。

 少女は日本刀を逆手に持ちなおし、それを無感情に振り上げると、


「さよなら、化け物」


 囁いた少女が、翳した日本刀を真っ直ぐに振り下ろし、その切っ先を天示の眉間に到達させる――直前、

「フンっぬっ!!」

 天示が目一杯力を振り絞り、両手で刀身を挟み込んで、刃の動きを止めた。

 所謂、真剣白刃取りである。

 ――が、

「ぐっ……くぅっ……え、熱!? っつッ!? 熱熱熱っ!! 嘘何コレちょっと!! ぁっつぅーーー!!」

 挟み込んだ天示の両手から、突如激しい蒸気が吹き上がった。それと同時に、両手を激痛が走る。

 必死で痛みを堪えるが、少女は更に力を入れ続け、刀の切っ先は、天示の両手の隙間を滑りながら、徐々に眉間へと迫った。

 天示はそれを必死の形相で押し止めようとする。

(ヤバイ……ヤバイヤバイヤバイ……ッ!!)

 やがて、刀の切っ先が眉間に触れた時。


「やめなさいっ!! カナっ!!」 


 女性の叫び声が響き渡った。

 天示が反射的に声のした方を伺うと、自分に跨がる少女の背後に、息を荒げた紅巴が立っているのが見えた。

 後光すら差して見えた救いの女神の介入に、一瞬『助かった』と気が緩んだ。

 

 瞬間、切っ先がちょっぴり眉間に刺さり、血が出る。


「あぃったぁーーーー!! ってっつ!! 痛熱い!! 痛熱ーーい!!」

 恥も見聞もなく叫ぶ。だって本当に痛くて熱いのだから。

「! カナっ!! 早く離れて!!」

 そう言って駆け寄ろうとした紅巴に、眼前の少女が吐き捨てるように言った。

「どういうつもり? コレ、災真なんだけど」

 その声は酷く冷たく、然も当然の事のように、疑問を口にしていた。

 天示は日本刀を食い止める事に全力を注ぐ。次に気を抜いたら、それがきっと最期になる。

「……連絡したでしょ! その人は捜査の協力者で、今日から家で預かるって――」

「知らない。聞いてない」

 紅巴の説得に、短い言葉だけで返す少女。

 『カナ』と呼ばれた事から察するに、恐らくこの少女が、綾神家次女、第七継承候補、綾神火凪なのだろうか。

 天示がそんな予想をしていると、日本刀の切っ先が『コツン』と頭蓋骨に触れた。

「……~ッ!!」 

 もう何も考えない。この両手に全ての力を篭めよう。

 じゃないとマジで死ぬ。死んでしまうやつだコレ。

 等と、天示が一人奮闘を続ける合間にも、姉妹のやりとりは続いていた。

「とにかく天示君……その人から離れて。例えアンタでも、彼にこれ以上危害を加えるのは許さないから」

 紅巴は鋭く、眼前の少女――火凪の背中を睨みつける。

 だが火凪は天示の方を向いたまま、一切表情を変えない。

「化け物を家に入れるなんて……気でも触れたの? 姉さん」 

 ここで初めて火凪は表情を崩し、失笑を見せた。

 だが紅巴は、そんな火凪に一切の躊躇を見せず、高らかと告げた。

「至って健康。お願いだから、まずは話だけでも聞いて。……灯朱トアの為にも」

 

 ――『トアの為にも』

 

 その言葉を聞いた火凪の顔色が変わる。姉が放った想定外の切り出しに、明らかな動揺の色が伺えた。

「……トアの為って、どう言う意味?」

「まずは離れて。話はそれから」

 そう言われた火凪は少し思案したが、ややあって、ゆっくりと日本刀を持ち上げると、自分の腰元に静かに降ろした。 

 それを見た紅巴が、安堵の溜息をつく。

 

 が、ここである事に気がついた。


「……あれ? ねぇカナ……な、何とも無いの?」

「はぁ? 何が」

 姉の態度の変化に、不機嫌そうに応える火凪。

 気が急いた紅巴が、慌てながら言葉を加えた。

「その人に触っても……何とも、無いの?」

 紅巴が言うのは被接触型暴力衝動の事だ。

 考えてみれば、これが健在であるなら、火凪が紅巴の説得に応じてのである。

 つまり、火凪は説得に応じず、今この段階で天示は頭蓋を貫かれて、絶命していなければおかしいのだ。

 だが、

「? ……〈感覚操作の式〉の事? そんな物が私に通じる訳ないでしょ。姉さんにだって耐性はある筈だけど」

 然も当然の事のように、火凪が言ったのだ。

 紅巴は舌を巻いた。

 あの時、自分が初めて天示に触れた時に感じた憎悪、悪意、殺意。

 目の前の妹は、それ等を全て無効化していると言うのだ。

 天示の体質の事は、直接火凪に相談するまでは解らないと思っていたが、これなら、すぐにでもなんとかなるかもしれない。

 

 ――奥乃天示を、救えるかもしれない。

 

 紅巴の胸に、大きな期待が広がった。

「って。……そんなのどうでも良いから。早くトアの為って話を聞かへひぇっ」

 不意に、火凪の言葉が止まる。

 異変に気づいた紅巴が、ゆっくり体を横に動かし、火凪の肩ごしに状況を伺った。

 するとそこには。

 何やら惚けるような表情で、両目を爛々と輝かせた天示と、その天示に両頬を摘まれた火凪の姿があった。

 天示が興奮気味に喋りだす。

「あ、あのっ! 本当に何ともないんですか!? こんな事しても、全然平気なんですか!?」

 火凪の反応は無い。

「あの俺! 平気なのって家族だけだと思ってて! この先もずっとそうだって思ってたんですけど! さっき少しだけ大丈夫な紅巴さんに会えて! 凄く嬉しくて!」

 火凪の反応は無い。

「でもでも、同世代の女の子は初めてで! 俺、凄く嬉しいです!! あぁ……本当に、今日は最高の日かもしれないです!」

 火凪の目から徐々にハイライトが消える。

「あのっ! もし良かったら友達になってくれると嬉しいんですけど! ああでも、こういう時にはどうお願いすればいいのかな……。ああもう、こんな事ならもっと祖父ちゃんに聞いておけば――」


えーひゃん姉さん」 


 大興奮でまくし立てる天示の声以上に、火凪の言葉は紅巴の耳に突き刺さった。

 加えて、この後に起こるであろうを想像すると、胃が痛くなる。

「な……何? カナちゃん……」

やっはほいふふーふあやっぱこいつ潰すわ

 不思議と言葉の意味は通じたのだが、気づいた紅巴の制止よりも早く、火凪の両手がポンっと天示の胸に置かれる。

 そして、

「本当に俺、嬉しいんです! あっ自己紹介しなきゃ! 俺、奥乃天示って言って……おっ?」


【――ひん

 

 天示の体は、地中1、5mの深さまでめり込む事になるのであった。

 


 こち、こち、と言う、壁時計が時を刻む音だけが聞こえる。

 綾神家のリビングのソファーに浅く腰掛けた、真剣な表情の紅巴と、苦虫を噛み潰したような顔で脚を組む火凪。

 そして、そんな火凪をキラキラと輝いた目で見ている天示がいた。

 

 先程の玄関前での一方的な死闘の果て、正直一瞬死んだかと思われた天示だったが、数十秒の気絶の後にムクリと起き上がると、尚も火凪に自己紹介をしようと迫った。

 紅巴は取り敢えず、道路に空いた穴に簡易の蓋をし、三角コーンで即席の立入禁止区域をこしらえた。そうしてすぐに災真被害関連の修繕業者に連絡を入れ、天示と火凪に自宅に入るように促したのだった。

 

 かくして、今に至る。


「じゃあ、早速聞かせてよ姉さん。トアの為って話」  

 最初に切り出したのは火凪だった。

 催促された紅巴が、火凪の方に向き直る。

「彼……奥乃天示君には、今の人類私達には無い力があるの」

「力ぁ?」

 火凪が訝しげに聞き返す。

「そう……。天示君は、意志を持たない存在である筈の災真と会話が出来る、災真と意思の疎通が出来るの」

 黙ったまま、火凪は続く紅巴の言葉を待った。

「そして、災真と人間のハーフでもある」

 それを聞いた火凪の眉が、ピクリと動いた。

「天示君ならきっと、トアを救ってくれる。災真と人間の狭間で苦しんでいる灯朱あの子の心を支えてくれる。だから私は――」


「――冗談でしょ?」

 

 ピシャリと、紅巴の話が断ち切られた。

 話の内容に怒りの感情すら見せた火凪が、声のトーンを落とす。

「トアの〈〉を消すって話じゃなくて、高々そんな事の為に、そこの化け物を家で飼うって言い出すつもり?」

「……カナ、天示君に謝って」

「そもそも、さ」

 火凪は紅巴の言葉には耳を貸さず、自身の話を続ける。

「姉さんは、そこの化け物がなのか知ってるの?」

「えっ……?」

 そう言われた紅巴が天示の方に向き直ると、キョトンとした表情の少年と目が合った。

 何の災真かなんて、知らない。聞いてない。

 『何の災真か』ではなく、『どんな少年か』を見ていた紅巴は、そんな事に考えは至らなかった。

 火凪は静かに息を吐き、すぅ、と再び空気を吸うと、諭すように告げた。


「そいつはね……〈〉だよ」


「……オー、ク?」

「そう、ファンタジー系の本とか映画で見た事あるでしょ? 人を襲うだけが脳の豚人間。災真としてのランクも下の下、姉さんの退真銃レトリビュートでも一発で滅ぼせる雑魚中の雑魚」

 〈オーク〉という存在は、紅巴の記憶の中にも在った。しかし、それが持つ粗悪なイメージと、今、自分に無垢な顔を向けている天示が、どうにも噛み合わない。

 僅かな動揺を見せる紅巴に、火凪が言葉を続ける。

「体が妙に頑丈なのも、傷の治りが早いのも、それが証拠。……逆に言っちゃえば、こいつに出来るのは、たったそれだけの事だよ」

 そう言った火凪は、少し伸びをした後、背もたれに体を預けた。

 紅巴は若干の動揺を押し殺しながら、天示に問うた。

「……天示君、今の話は本当なの? 貴方はその……〈オーク〉……なの?」

「はい、そうです。姉ちゃんもそう言ってました」

 事も無げの即答だった。

 天示は間髪入れずに続ける。

「でも、俺は人間を襲ったりなんてした事ないです。姉ちゃんに会うまでは、ずっと自分を人間だと思ってたし……」

「ふんっ。どうだか」

 口を挟んだのは火凪だった。忌々しげに天示を睨んでいる。

「とにかく私は、その化け物を家に入れるのは反対。今この場で滅ぼすべき」

 つまらなそうに、そう言い放つ。

 紅巴は自分の口元に指を当て、少しだけ何かを考える仕草を見せた後、火凪の意見に応えた。

「……カナ。天示君を預かる事は、綾神家が蘇芳霧香署長から受けた、正式な依頼としての決定事項。変更はないよ」

「えっ……? 綾神家が受けた依頼って、蘇芳さんがそう言ったの……!?」

 驚いた様子で背もたれから身を起こし、食い入るように紅巴を凝視する火凪。

 その問いに頷き、肯定した紅巴に対し、火凪は悔しさに表情を歪めた。

 そして奥歯を強く噛み締めたかと思うと、弾かれたように立ち上がり、黙ったままリビングのドアの方へ、ずかずかと歩いて行く。

「カナ!? アンタ何処に――」

「出てくる。……今はここに居たくない」

 紅巴が慌てて火凪を引き止める。

「待って! 天示君の体の〈感覚操作の式〉を、アンタの力で解除出来ない?」

「……式はそいつの体の根幹に存在してるから、ほぼ不可能。……それに」

 火凪は振り返ると、嘲笑うような笑みを見せた。


「仮に解除出来たとして、私がそれをやると思う?」


 そう言い残した火凪はリビングのドアを開け放ち、部屋を出て行った。すぐ後に聞こえた玄関の音からして、そのまま外に出てしまったのだろう。

 

 リビングを、重苦しい沈黙が支配する。

 紅巴はそんな空気を取り払うように、天示に語りかけた。

「あの……ごめんね天示君。本当は凄く良い子なんだけど……その」

 そこまでを言い、紅巴は口篭る。

 しかし、天示は、

「はい、俺には少し怖かったけど、とても優しくて、良い人だと思います」

 屈託のない顔で、そう言ったのだった。

「天示君……。怒ってないの? あの子、君に凄く酷い事……」

「妹さん……えっと、灯朱さん? の為に怒ってたんですよね? だから火凪さんは凄く思いやりがあって、心が優しい人なんだって。俺、すぐに分かりました」

 そう言って、天示は穏やかな笑みを見せた。

 その表情に偽りは無く、天示の深い優しさだけが、紅巴の胸にしんと染み入った。

「うん……。ありがとね、天示君」

 怒りもせず。憎みもせず。

 真っ直ぐに火凪の事を見てくれた少年。

 感極まった紅巴の手が無意識に差し出され、天示の頬に伸びて、触れた。

 ――触れてしまった。

 

 直後、天示の横っ面に平手打ちが飛んできた。

 

 パァン! と言う、軽快な乾いた音と同時に、「はぶぉッ!」と悲鳴を上げた天示がフローリングに転倒する。

 一瞬放心状態だった平手打ちの射手、紅巴の表情が、徐々に蒼白に染まった。

「……ごっ……ごっ……ごめんなさい天示君っ!! 私ったら本当に……! わざとじゃないの!! わざとじゃないんだけど……ああもう!!」

 天示はよろめきながら身を起こすと、悲壮な面持ちであたふたと謝罪の言葉を並べる紅巴を手で制す。

「い……いえ、らいじょうぶれす。悪いのは俺の体なんで、気にしないで下さい。全然、大丈夫ですから」

「でも……その、本当にごめんね? ……痛かったよね……?」 

 そう言って、なおも平謝りを続ける紅巴であった。 

 

 そんな珍騒動の折。

 

 火凪が飛び出した際に開け放たれ、半開きになっていたリビングのドアの隙間から、人の影が見えた。

 それに気がついた天示と紅巴が、ほぼ同時に、そちらの方を向く。

 

 そこには、小柄な少女が立っていた。

 体を半分だけ出して、おずおずとリビングの中の様子を伺っている。

 その少女は、夏だと言うのに紺色の冬服の学生服を羽織り、室内にも関わらず、ロップイヤーのような、可愛らしいニットのパイロットキャップを被っていた。

 膝下まである長めのスカートに、黒のロングタイツ。今が冬であれば、何処にでも居そうな普通の少女だろう。

 そう、

 

 

 

 天示が真っ先に感じたのは、少女の病的なまでのだった。次に、不揃いな短い髪と、肌の色。

 少女が持つ色は、その全てが純白だった。

 まず天示が思い立ったのは先天性白皮症、アルビニズムだった。しかし、記憶しているものとは何処かが違う。

 火凪の肌も透き通るような白さだったが、それともやはり違う。

 純粋な先天的色素欠乏と言うよりも、少女が持つは異質めいた空気を孕んでいた。

 動物的直感で言うなら、それはと呼ぶべきか。

 恐らく、紅巴では気づかない、災真が放つ独特の霊気の様なものを、天示は肌で感じ取っていた。


「だれ……ですか」


 少女の小さな口から、弱々しい鈴の様な声色が聞こえた。

 明らかに怯えている様子の少女に対し、即座に紅巴が対応する。

「あぁ、トア。こちらは奥乃天示君。私の仕事の都合で、少しの間、家で預かる事になったの。仲良くしてあげてね」

 そう言って促された天示が、挨拶の為に口を開こうとした。だがそれより早く、パタンとリビングのドアは締められてしまう。

 続いて聞こえた小さな足音は、そのまま2階の方へと消えていった。

 紅巴は天示の方に向き直ると、少しだけ目を伏せ、気まずそうに自分の髪を摘んだ。

 「えっ、と……。今の子が一番下の妹で、綾神灯朱ね。ちょっと人見知りしやすい子なんだけど、一度懐いたら平気……だと思う。……多分」

 だんだんと声のボリュームが落ち、最後の『多分』は蚊が泣くような声だった。

 しかし、次女、三女と立て続けにこうでは、流石に天示も気が引けて来た。自分としては何の問題もないのだが、本当にここに居て良いのだろうかと言う不安が過る。

 ましてやあの次女火凪が、自分の体質――〈感覚操作の式〉の治療に協力してくれるのかを想うと、少々気が重くなってしまった。

 

 その時、再び紅巴の携帯電話が着信を告げた。

 

 天示に小さく断り、すぐに電話に出た紅巴だったが、二言三言話をしたのち、その表情が一変し、驚愕に染まる。

 天示は、神隠し事件の進展があったのだろうか、と考えた。

 

 通話を終えた紅巴が、天示の方は見ずに、声をかけた。

「……天示君。私、ちょっと署に戻らないといけなくなったから」

「はい。あ……えっと、俺も行った方が良いですか?」

「ううん、大丈夫。君はここに居て。……むしろ、家からは極力出ないで欲しいかも」

 そう言われた天示がうっと口篭る。『極力出ないで』の部分は『絶対に出るな』と受け取った方がいいかもしれない。

 

 紅巴はそのままパタパタと身支度を終えると、玄関の扉を開けた。

 そしてそこで、何かに気づいたように小さく「あっ」と呟くと、そこまで見送りに来ていた天示の方に向き直り、

「ごめん、天示君。戻るまで少し時間が掛かるかもしれないから。冷蔵庫の中の物、好きに食べてて。キッチンも自由に使っていいからね」

 紅巴はそれだけを言い残して、小さく手を振りながら、自宅を後にした。


 玄関に一人残される天示。

 今、この家に居るのは自分と、灯朱だけの筈だ。

 先程の灯朱の様子から考えて、自分が変に家の中をうろうろ動き回るのは得策ではないだろう。

 きっと怖がらせてしまうだろうし、何より、今は腹が減っていた。

 しばし思案した天示だったが、結局は紅巴の言葉に甘えて、まずは腹ごしらえをしようと決めると、すぐにリビングへと戻り、そのまま続くダイニングキッチンへと入った。


「おぉー……」

 思わず声が出る。

 綾神家のキッチンはとにかく広かった。炊事場とリビングは対面式に隔たれており、大きな開口は空間的にも、視覚的にも心地良い開放感があった。

 キッチンの中も快適なスペースが保たれている。作業に手馴れてる人間ならば、4人は同時に動けるかもしれないとすら思えた。

 料理好きの姉妹なのだろう。片付けもキッチリと行き渡っており、どれも新品の様に整然と並んでいる。

 調味料も充分、種類だけなら、天示の実家の調理場にも匹敵するかもしれない。

 ガスオーブンに高火力コンロ。そして業務用と見紛う大きさの巨大な冷蔵庫を開け放つとそこには。

 なんもなかった。

「…………は?」

 なんもなかったのだ。

 上から順に探っていくが、食材が見当たらない。

 最後の希望、一番下の冷凍庫も開けるが、あるのは氷だけだった。

「料理好きの姉妹は何処に行った……」

 勝手な思い込みだったが、酷く気落ちしてしまった。

 空腹感が一層増す。

 しかし、どうしても諦め切れなかった天示は、キッチンの徹底的な捜索を始めるのだった。

  

 しばらくして、集まった食材の面々が、

 ・卵2個(冷蔵庫の野菜室の片隅で発見。賞味期限セーフ。奇跡)

 ・魚肉ソーセージ一本(炊飯器の裏にて捕獲。賞味期限セーフ。奇跡) 

 ・長葱一本(食器棚の下段、ダンボールの片隅で確保。正常。奇跡)

 ・御飯(ラップに包まれた状態で冷凍庫の奥地で発掘。最初氷かと思った。感謝)

 以上だった。

 探せばあるもんだなぁ、と天示は一人、うんうんと頷く。

 さて、何を作ろうか。

(……これなら無難にチャーハンかなぁ)

 幸い、この家は調味料だけはやけに豊富だし、手早く作るのであれば、無難な選択だろう。

 そうと決めた天示は手を洗いながら、一連の調理の流れをイメージした。

 

 天示にとって料理とは、実家の手伝いであり、数少ない趣味だ。

 そして料理人は、子供の頃の天示が思い描いた、将来の夢の姿でもあった。

 まだ小学校4年生だった頃、ひょんな事から天示が握った塩おにぎり。

 それを食べた友達が「美味しい」と言ってくれたのだ。

 たったそれだけの事に過ぎなかったが、幼い少年にとっては、その時の笑顔が、とても嬉しかった。自分が作った物を喜んでくれた事に大きな喜びを感じたのだ。

 

 だが、その時を最後に、その友達に天示の料理が振舞われる事は二度となかった。


(……ん?)

 ふと、天示は視界の隅に小さな小瓶を見つけた。

 手にとってラベルを見る。

(お? トラディツィオナーレ)

 それはちょっとお高いバルサミコ酢だった。あまり一般家庭に並んでる物ではないが、天示の実家の調理場には、何故かいつも欠かさず置かれており、馴染み深い一品でもある。

(……自由に使ってって言ってたし、ちょっとならいい……よな?) 

 天示はチャーハンの隠し味に、少しだけ借りる事にした。実家でやったら祖父が悲鳴を上げるかもしれないが、今の空腹感と料理欲には勝てなかった。

 

 てきぱきと作業をこなし、パパっと仕上げる。バルサミコソースの甘い酸味が微かに鼻腔を抜け、食欲をそそる。

 手早く調理を済ませ、片付けも終えた天示が、お皿に盛り付けたチャーハンを手に取った時、不意にリビングの向こう側、僅かに開かれたドアの隙間から視線を感じた。

 少し体を倒してそちらを見ると、そこには今さっき出会った純白の少女、灯朱が立っていた。

 先程と同じく、体を半分だけ出して、こちらを伺っている。

 

 しばし、見つめ合う二人。

 

 話しかけてくる訳でもなく、かと言って逃げる訳でもなく。白い少女はじっとこちらを見たままだ。

 ほんの少し驚いているように見えるのは、気のせいだろうか。

 しかし、よくよく考えてみると、見知らぬ男子が自宅のキッチンでチャーハン作ってたら、大体の人は警戒するだろう。

 事態に困窮した天示は思わず、

「……ええと、食べる?」

 と、声をかけてしまった。

 直後に『失敗した』と気づいたが、後の祭である。

 よく考えるまでもなく、見知らぬ男子が自宅のキッチンでチャーハン作ってて、あまつさえそれを食えと勧めて来たら、大体の人は警察に通報するだろう。

 天示は必死で次の言い訳を考えた。

 

 だが、灯朱の反応は、天示の想像とは真逆だった。

 

 リビングのドアが音も無く開かれると、おずおずと、白い少女が入ってきたのだ。

 身嗜みはさっき見たものとほぼ一緒だが、耳当ての付いた帽子だけは被ってはいなかった。

 灯朱は天示の正面に立つと小さく、

「……いいん、ですか?」

 と、伏せ見がちに伺った。

 意外な展開に天示が萎縮する。

 まさかの食いしん坊キャラなのだろうかとも一瞬考えたが、それより何より、少女が自分の料理に関心を持ってくれた事が嬉しかった。

 そうして天示は少し興奮気味に、

「も……勿論だよ! 君に食べて貰おうと思って作ったんだ!」

 なんて大嘘をつくのだった。

 


 灯朱にソファーに座って貰い、天示がその目の前にチャーハンと、氷水の注がれたグラスを置いた。

 灯朱は丁寧に盛り付けられたチャーハンをじっと見たまま、目を離さない。

 天示が距離を置いて隣りに座ると、灯朱はそれが合図と言わんばかりに「いただきます」と手を合わせ、スプーンを手に取り、口に運んだ。

 天示は緊張の面持ちでそれを見守る。何せ人様に自分の料理を食べて貰う事自体、本当に久しぶりだったのだ。

 しかも、その食べて貰っていた時期も、自分はずっと厨房の中だった。

 それをこんなにも近くで、まして隣で食べている姿を見るなんて事自体、天示にとっては数年ぶりの事であった。 

 ゆっくりとスプーンを口に運び続ける灯朱だが、上手く食事が出来ないのか、食べながら時々、胸につっかえる様な仕草をする。

 と、心配になった天示が、グラスの水を渡そうと視線を外した時。

 

 少女の白い手の甲に、ポタリと、水滴が落ちるのが見えた。


 再び目線を戻した天示が見たのは、ぽろぽろと、涙を零しながら食事をする灯朱の姿だった。

 天示の顔から、一気に血の気が引いた。

 と思った。

「ごっ……ごめん! 味見はしたんだけど美味しくなかった!? あの、口に合わなかったらすぐに――」


「ちがい、ます」


 食事を続ける灯朱が、慌てる天示を静かに諭した。

「おいしい、です……。ほんとうに、おいしいん、です……」

 そう言いながら灯朱は、泣きながら、時に苦しそうに胸元を掴みながらも、着実に、一心不乱に食事を続けた。

 何度も何度も、「おいしい」と呟きながら、溢れる涙も拭かずに、ゆっくりと食べ続けた。

 そんな様子を見ていた天示も、いつしかボロボロと泣き始めていた。こちらは凄くカッコ悪い涙だった。

 自分の料理を目の前で「美味しい」と食べてくれたのは勿論だったが、時折つらそうに、つっかえながらも食事を続ける灯朱の姿に、心を打たれたのだ。

 泣きながらチャーハンを頬張る少女と、それをボロ泣きで見ている少年。

 傍から見ると極めて異質な光景だったが、不思議とその空間は、深い暖かさに包まれていた。


 食事が終わる頃になると、灯朱の涙もすっかり引いていたが、見守っていた天示の方は終始ボロボロであった。

 昔から天示は涙腺が脆かった。嬉しいとすぐに泣き、悲しくてもすぐに泣く、そんな少年だった。

 奥乃天示と言う少年は、自他共に認める泣き虫だったのだ。


「ごちそうさま、でした」

 灯朱がスプーンを置き、両手を合わせて、食事が終わった挨拶をする。

 そして天示の方を向くと。

「おいしかった、です」

 そう言って、幸せそうに笑った。

 天示は己の空腹なんて何処へやら、正面の灯朱に対し。

「ありがとう……ございました」

 なんて、涙声で見当違いのお礼を言うのだった。

 そんなカッコ悪い少年をじっと見つめていた灯朱が、おもむろに、自分のスカートのポケットから薄い桜色のハンカチを取り出す。

 そうして天示が座る場所へと身を寄せると、手に取ったそのハンカチで、涙に濡れる少年の顔を拭い始めた。

 反対の手で天示の顔を支えながら、黙々と涙の雫を拭う灯朱。

 その姿に、天示が目を見開く。


「君も、俺に触れる、の……?」


「……?」

 その言葉の意味は、灯朱には分からなかった。



「桐谷君! 居る!?」

 そう言いながら対災真相談部の部屋に駆け込んだのは、綾神紅巴巡査だった。

 だが、元々人口密度が極端に少ないこの部署では、わざわざこちらから呼びかけるまでもなく、

「居るっスよー、先輩」

 と、すぐに探し人が見つかるのが常であった。

 紅巴は桐矢の座るデスクに向かいながら、軽く周囲に目配せをする。

 どうやら今この部屋には自分と桐矢二人だけのようだ。

「すみません先輩。何度も電話しちゃって」

「ううん、いいの。災真関連の情報があったら、何でも構わないからすぐに連絡をくれって言ったのは私だから。……早速見せてくれる?」

 そう言いながら、紅巴は桐谷が座るデスクの隣に座った。桐谷がノートパソコンを操作し、事前に用意していたであろう画像を開く。

「これですよ。

 モニターに映し出された映像を、紅巴は食い入るように凝視した。


 雑貨屋の店先で、一台の黒のミニバンが大破している。一見、普通の交通事故にしか見えない。

 だが、すぐにそれが異常である事を示す、常識では考えられないモノも写っていた。

 ボンネットに巨大な風穴が空いているのだ。

 まるで、走行中にのように、深々と貫通している。

 紅巴の首筋に、悪寒が走った。

「今はまだ自損事故って事になってますが、すぐに災真事件に切り替わるでしょうね。搭乗者の数は3人で、いずれも20歳そこそこの若い男性です。……っと、すみません」

「続けて」

 恐らく紅巴の年齢である20歳の部分が気に掛かったのだろう、桐矢が咳払いをした。

「乗ってた3人の内、助手席と後部座席の人間は軽傷だったんですけど、ドライバーは肋骨2本と左足の骨を折る重傷です。まぁ命に別状は無いそうなんですけど、現在も病院のベッドの上、と」

「……そう。同乗達の証言は聞いてる?」

、らしいですよ?」

「電柱……?」

 映像を見る限り、電柱なんて物は写ってない。考えられるとすれば、それは――

 紅巴がモニターの画像を指差す。

「この風穴の場所に、車内から電柱に見えるようなかを、走行中に突き刺されたって事かな」 

「ですね、僕もそう考えてます」 

 電柱のように見える何か、で、紅巴がまず思ったのは、だった。

 今朝、紅巴が出会った骸骨武者。

 彼が腰から下げていた巨大な日本刀がそれであるとすれば、話の理屈は通るし、突然現れたと言う状況とも合致する。

 だが、紅巴はその結論に至る事に抵抗があった。


『ホネスケ先輩が人を傷つけるなんて事、絶対にありません!』


 そう言って、必死で自分に訴えていた少年の顔が脳裏に焼き付き、どうしてもその結論に至る邪魔をしていた。

 何より、他ならぬ紅巴自身も、心の中の何処かで、それを信じたくないと思っていた。


「――先輩、大丈夫っすかぁ?」


「ぇ? あ……あぁうん、ごめん、平気」

 どの位の時間を思案してたのか、後輩の自分を呼ぶ声が、やけに響いて聞こえた。

「えっと、他に目撃者は居ないの?」

「事故の瞬間を見た人間は居ませんね。ただ、同乗者の話で『事故の直後に現場から走り去る子供を見た』らしいんですけど、その子の行方は分かってないです」

「そう……」

 何でもいいから、話が聞ければ良かったのだがと、紅巴が肩を落とす。

「……桐谷君、この話はもう、対災真捜査官全員に伝わってるんだよね?」

「大体はそうでしょうね。遅くても明日の午前中には、署内全員の耳に詳細が入ってると思いますよ」

「分かった、ありがとね。私は明日も公休だから、新しい情報が入ったら連絡して」

 そう言われた桐矢は「ういっす」と答えると、またカチャカチャとノートパソコンのキーボードを叩き始めた。


 ――もし。

 もしあの骸骨武者が人間に牙を剥いたとしたら、あの少年はどうするのだろうか。

 見捨てるだろうか。

 ダメだったと、諦めてくれるだろうか。

 あの優しい少年の事だ、必死で助けようとするかもしれない。

 

 ――


 人と災真が天秤に架けられた時、彼はどちらを、守ろうするのだろうか。

 

 願わくば、自分の思い違いであって欲しい。 

 そう強く願いながら、紅巴は天を仰いだ。

 

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