第2話 災真の子 

 ――御塚みつか警察署、第6会議室。

 

 今、街を騒がせている連続神隠し事件。その対策と解決の為に、捜査本部の上層部の面々が集まり、会議をしている。だが誰もが表情は固く、口も重い。

 それもその筈であり、事件発生から何の解決の糸口も見いだせないまま、とうとう8人目の被害者が出てしまったのだ。それもよりによって子供である。


「……んで、今回も手がかりはまーったく無し、と」


 最初に口を開いたのは、対災真特別防衛隊隊長、日原憲剛ひばらけんごだった。

 対災真特別防衛隊。略称、特防隊のトップである日原は、対災真兵器の扱いの専任者でもあり、自身が現場に直接赴いて災真を討伐する事も多かった。年は40代半ばだが体格にもまだまだ恵まれており、名実共に、災真との戦いにおける警察機関の主力と言っても過言ではない。

 故に、彼の意見に『NO』と言える人間は少なく、御塚警察署内でも2、3人程度のものである。

「相談課は何やってるんですかねぇ。しっかり情報整理して出してくれないと、こっちでも対処なんか出来ませんよ?」

 腕を組みながらそう言い、日原がちらりと目線を向けたのは、対災真相談課課長、常森亮二つねもりりょうじだ。

 話を振られた常森は、おずおずと答えた。

「い、いやぁ~……こっちとしても全力で取り組んでるんですけどね。なんせ、居なくなった状況が全員バラバラなもんで。……もしかしたら災真関係無いんじゃないかなぁー……なんて」

「そりゃあ3人目の時に否定されたでしょうが!!」

 常森の話に割って入り、日原が激昂した。

 3人目の被害者は若い女性だった。目撃者曰く『被害者が突然黒い影に包まれたかと思った次の瞬間、忽然と消えてしまった』との事だ。

 日原は常森を更に睨みつけ、恫喝する。

「アンタがヘラヘラしてるからねぇ! こっちまで市民から不信を買うんですよ! やる気がないってんなら、いっそ相談課なんて潰しちまって――」


「ねぇ日原さん」


 凛とした声で、怒りに喚き立てる日原を制したのは、御塚警察署の署長蘇芳霧香すおうきりかだった。

 壮年の女性である蘇芳だが、この警察署の最高責任者であり、常に堂々とした佇まいと威厳、なのに何処か親しみやすい雰囲気も感じさせる不思議な魅力を持った人物だった。

 そして、御塚署内で日原に口を挟める数少ない2、3人の内の一人である。

「大きい声はやめましょうか。皆びっくりしてしまうから」

「しかし……ですねぇ……」

 言葉に窮した日原だったが、蘇芳はそれに被せる様に。

「相談課は私が作りました。各々が、自身の能力を最大限活用して事件を解決する為にね」  

「いや、でもこいつらは――」

「責任を押し付ける為に作ったのでは無いのです。皆、仲良くしないといけませんよ?」

「……ぐ、むぅ」

「ね?」

 そう言って優しく笑う蘇芳に日原は言葉を返せず、座っていた椅子に深く腰掛けなおす。腕を組みながら常森を一瞥した後、そっぽを向いて黙りこんでしまった。

「ふふ。……ええと、常森さんから他に報告する事はありますか?」

 話の経過を見ていた常森は、不意に自分の名前を呼ばれて慌てて立ち上がった。

「は、はい! あ、いえ……特にこれと言って……」

「あら、そうなの?」

 常盛の情けない物言いに、日原がふん、と鼻息を付いた。

 そのまま着席しようとした常森だったが、その視界に書類の束が飛び込んだ。

「あぁ、と……強いて言えば、この報告書……でしょうか」

 常森が書類の束を手に取った。

 これと同じ物も、既にこの場の全員に行き渡っている。

 蘇芳はその書類を手に取ると、にっこりと微笑んだ。

「先程拝見しましたよ。レーダーが感知しない災真と……災真と会話が出来る少年、ですね」

 蘇芳の言葉に、場の空気がシンと静まり返った。

 日原が舌打ちをして「馬鹿馬鹿しい」と毒づくと、その言葉を聞いた場の何人かが噴き出す声が聞こえた。

 蘇芳はそちらは意に介さず、興味深そうに書類を捲る。

「私は大変夢のある話だと思いますよ。ふふ、是非会ってみたいわぁ」

 無邪気に微笑む蘇芳だったが、これを皮肉と受け取ったのか、常森が慌てて言葉を返した。

「す、すみません! これを書いた者が『必ず今回の事件解決の鍵になりますから』と強く言っておりまして……。私もその、藁にも縋る思いだったので……」

 すっかり意気消沈した常森は、どんどん声のトーンが下がって行く。そんな様子を見守っていた蘇芳が、常森に優しく語りかけた。

「萎縮しなくても大丈夫よ常森さん。私もこれを読んでびっくりしたの」

「は、はぁ……」

「それでね、どうしてもお話したいわぁって思ったの」

「はぁ……」


「だからね、呼んじゃったの」


「はぁ……。……は?」

 蘇芳の予想だにしない言葉に常森を含む全員が呆気にとられたのとほぼ同時に、第6会議室のドアが小さくノックされた。



「……失礼します」

 水を打ったように静まり返る会議室に、急遽呼び出された紅巴が入室する。

 本来自分のような低い立場で加わる場ではない為、入室前は若干の緊張はあったが、中の様子は自分が想像していた物とは少々異なっていた。

 唯一顔馴染みである、直属の上司の常森が一人だけ立っており、何やら幽霊でも見る様な目でこちらを見ている。

 そんな上司から視線を外すと、紅巴の正面、重厚な会議テーブルに腰掛けている、蘇芳霧香と目が合った。

「初めまして綾神さん、蘇芳霧香です。妹さんにはいつもお世話になってます」

「……対災真相談課の綾神紅巴と申します」

「緊張しなくていいのよ。今日は貴女とお話がしたくてお呼びしただけだから。座って?」

「……はい」

 促された席、霧香の正面である下座に着席する。

「貴女が書いた報告書、全て読みました。まずはその、貴女が見つけたと言うと出会った時の、詳しい状況を教えて下さい」

 

 紅巴は蘇芳に今日起きた事の一部始終を話した。

 勿論、天示との約束であるホネスケの部分は濁して、だ。

 

 概ね報告書に書いてある通りなのだが、その説明が終わるよりも早く、日原が食いついてきた。

「そら故障だ。実体化マテリアライズした災真がレーダーからポンポン出たり消えたりして堪るかよ」

 その言い分は尤もであったし、紅巴も真っ先にそこは疑った、しかし。

「私も最初はそう思いました。ですが、特防隊の整備班の方に確認しても、動作は全て正常との事でした」

 紅巴にそう言い切られた日原は、舌打ちをして、明後日の方向を睨んだ。

 黙って聞いていた常森が話に入る。

「えぇ、と……。そ、その話が事実ならば、大きな手がかりです。整備班と相談してレーダーの探知機能の強化と、綾神刑事が災真を見つけたという地点を中心に、捜索範囲の拡大をすべき……かと」

 捜索範囲の拡大は、必然的にホネスケ発見の危険性も高まるが、こればかりは仕方がない。ここを避けながらの事件解決は不可能だろうと、紅巴は思った。

 話を聞いていた蘇芳が満足げに頷く。

「私もそう思います。各班協力の元、事件解決に総力を挙げてくださいね。……ところで」

 霧香がきょろきょろと周囲を伺う。

「綾神さんの報告書にあった、災真と会話出来るという少年はどちらに? 一緒にいらっしゃいって、伝わってなかったかしら?」

「……か、彼でしたら今、相談課の応接室で」

「あら、応接室で?」

「……眠っています」

「まあ、そうなの?」

 咄嗟に『私が投げ飛ばしたせいで失神してます』と正直に言えなかった紅巴は、つい言葉を濁してしまった。一応、応接室で眠っていると言う部分だけは嘘ではない。

「彼の目が覚めたら教えて? 私も会ってお話したいの」

 にこやかな表情を崩さない霧香であった。

 ところが、

「それは……申し訳ありません。……出来ません」

 紅巴が絞り出した拒否の言葉を聞くやいなや、会議室がどよめき始めた。

 霧香が残念そうな声を上げる。

「あらあら……どうして?」

「彼は、反応は極めて微弱ですが、災真干渉者です。そんな人間と署長を直接お会いさせる訳には――」


「おい、大概にしろよお前」


 話に割って入ったのは日原だった。

 自分の席のテーブルに拳を叩きつけながら怒鳴る。

「くだらねぇ与太話の報告書出したと思ったら、訳の解らん人間を連れ込んだ上、そいつに会わせろと言ったら『出来ません』だぁ?」

「おっしゃる通りです。ですが――」

「ですがじゃねぇだろうがぁ! 部外者ならさっさと追い返せ! 災真干渉者ならとっとと処理しろ!」

 日原の言い分は正しかった。普通に考えれば紅巴の行動の方が異常なのである。

 何も言い返せず、紅巴は口を噤んでしまった。

「この報告書にしてもそうだ。外でツーマンセルにもならず、一人でプラプラ出歩いてたら災真と遭遇しましたって。バカかお前は。送り出す方も送り出す方だなぁオイ」

 日原は紅巴をまくし立てた後、呆然と立ったままの常森を再度睨みつけた。常森は怯えた様子で視線を落とす。

 

 災真事件の捜査の際、基本的にはツーマンセル以上が推奨されている。勿論相談課も例外では無いのだが、所属する人員が極端に少なく、役割上、危険も少ないとされている相談課では、単独での捜査もある程度は黙認されていた。

 しかしこれは災真を発見しても、交戦は控える、と言う暗黙の了解があっての事だ。

 つまり、特別な事情や緊急時以外では、相談課の人員は災真と交戦する事態が、起こり得ないのである。

 

 日原はフン、と鼻息を付くと、紅巴の報告書をパシパシと叩き出した。

「あー、そんで? 『捜査の際に、災真と会話が出来るとか言うガキと出会って、その時レーダーに映らない災真に襲われたけど、ガキが自分に危険を教えてくれたおかげで助かりました。災真は消えました』ってか。……誰が信じるんだこんなモン」 

 そう言うと、日原は適当に掴んでいた書類を紅巴に投げつけた。

 それは天示との約束の為、ホネスケの部分だけを伏せた報告内容。

 紅巴の精一杯の脚色だった。

「……気に障ったのでしたら申し訳ありません。ですが全て真実です」

 紅巴は毅然とした態度で日原を見る。しかし、それがまた面白くなかったのだろう、日原は身を乗り出し、嘲笑混じりに語りだした。

「てめぇまさか、その干渉者のガキに情が移ったから庇ってるんじゃねぇだろうな?」 

「そんな事はありません、私は彼を協力者として――」


「てめぇの家でも化け物を一匹、飼ってるもんなぁ?」


「……っ!」 

 逆鱗、だった。

 紅巴が唯一、他人に触れられたくない部分。

 

 怒りに震える紅巴は目眩を覚えるも、それを必死で堪えようとした。――しかし。


「お? 怒ったのか? 署内では有名な話だろうが。てめぇの家で化け物を飼ってるってのはよ」


 日原はなおも続ける。

 奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばり、両手を強く握りしめる。力を篭め過ぎて生爪が剥がれそうになるが、気にも止めなかった。感情を抑える事だけが関の山だ。

 激情にひたすら耐える紅巴だったが、そんな彼女を嘲笑いながら日原は罵倒を続けた。


「ナントカ継承候補者、綾神火凪あやかみかなぎの親族だって言うんで、飼ってる化け物の処理を免除して貰ってるんだろ? 良い身分だなぁオイ」


 もう現界だった。

 次に、次に何かを口走ったら。

 次に自分の家族の悪口を言ったら。


(私は、絶対に――)


「継承候補者だの退魔師だの大層に呼ばれているが、実際は死んだ両親と一緒でただの外法師だろ? そもそもあの〈黒の天蓋〉が起きた原因だって、お前等綾神家が――」


 感情の波が、紅巴の限界を越えた。

 座っていた椅子を倒しながら、烈火の如き勢いで立ち上がると、激情のままに日原を睨みつけ、口を開いた。

「お――」


「日原さん」


 だが、先に言葉を発したのは蘇芳だった。先程まで面白可笑しく嘲笑っていた日原の顔から表情が消える。

「今日の会議はおしまいにしましょうか。ごめんなさいね綾神さん。私のわがままのせいで」

「い、いえ……」

 そう言って申し訳なさそうに微笑んだ蘇芳の表情を見た紅巴は、先程まで感情の激流に呑まれていた自分とは打って変わり、一瞬で毒気を抜かれた気持ちになった。

 まだ沸沸とした怒りは残っているものの、これなら十分抑える事が出来る。

「蘇芳署長、俺は――」

「控えなさい日原さん、今日の会議はおしまい」

 蘇芳に談判しようとした日原だが、ぴしゃりと制止された。

 日原はわざとらしく舌打ちをすると、ドカドカと大きな音を立てながら会議室を後にした。会議に参加していた署員が、ぞろぞろとその後に続く。

 それに続き、同様に退室しようとした常森と紅巴だったが、

「あ、悪いのだけれど、二人はちょっと残ってくれるかしら」

 そう言われ、二人は蘇芳に引き止められた。



「本当にごめんなさいね? 綾神さん」

 申し訳なさそうに頭を下げる蘇芳に、紅巴がたじろぐ。

 今、会議室に残ってるのは蘇芳、常森、紅巴の3人だけだ。着席の際に蘇芳が二人に手招きをしたので、座席は先程よりも距離が近い。

「そんな、気になさらないで下さい。道理の通らない事を言ってるのは私の方ですし……」

 それは真実だ。

 先程の日原の話も、彼の言ってる事が概ね正しい。

 そして、罵倒の内容にも嘘はない。

「日原さんはね、決して悪い人じゃないの。ただとぉーっても口が悪いだけでね。だから許してあげてね」

 淡々と、優しい声音で言う蘇芳に、ようやく紅巴の顔に笑みが戻った。

「はい、大丈夫です」

 紅巴の返事を聞いた蘇芳は、安心した様にふふ。と微笑うと、紅巴の報告書を改めて手に取った。

「ねえ、綾神さん。他に、彼の事で気になる部分は無かったかしら?」

「……気になる部分、ですか」

 すぐにと思った。

 この事は、後で常森にだけ打ち明けようかと思っていたのだが。

 腹を括った紅巴は、天示に関する最後の情報。の話を始めた。



「彼の体に直接触ると、暴力衝動に襲われる……と?」

 紅巴の話を一通り聴き終えた蘇芳は、独り言のように呟いた。

 その様子を神妙な面持ちで常森と紅巴が伺っている。

 

 あの時。

 天示の頬に付いた汚れを取る為に、初めて彼の皮膚に触れた瞬間、紅巴は一瞬にして強烈な嫌悪感に呑まれた。

 我慢出来る、出来ないのレベルの話ではなく、余りにも瞬間的な嫌忌の念だった。

 ――否、あれは憎悪、殺意と言っても差し支えないとさえ思う。

 気を失った天示を車両まで運ぶのも一苦労だった。絶対に皮膚には触れない様に服を掴み、ずるずると引き摺りながら運んだのだ。

 先程、『蘇芳と天示を会わせられない』と言ったのもこれが理由だった。


 物思いに更ける紅巴だったが――

「綾神さん」

「は、はぃっ!」

 不意に話しかけられ、我に返る。

 虚をつかれたとは言え、少し失礼だったかもしれない。

「他には無かったかしら。その少年……奥乃君について気になる事」

「え、他に……ですか?」

 妙に関心を持ってくれるなぁと思いながらも、蘇芳が何を聞き出したいのかが分からない。紅巴は必死で記憶を探るが、どれだけ記憶を掘り起こしても、残りは報告書に書いた事が全てだった。

 ホネキチ先輩の部分だけは脚色しているが、それはでは無い。

 

 奥乃天示には身寄りがない。

 奥乃天示は災真と話が出来る。

 奥乃天示に触れると襲われる、暴力衝動。


(他になんて、何も無い…………あっ)

 ふと些細な、本当に差し障りのない事を思い出した。

 紅巴の表情の変化を見た蘇芳が、問う。

「何かありましたか? 何でしょう? 是非教えて下さい」

「あ、すみません、とても些細な事なんですけど……。彼を運んでる途中で、何か……うわ言みたいに、妙な単語を言ってたのを思い出しまして」

 黙って二人のやり取りを伺っていた常森が、如何にも『寝言かよ』と言いたげな渋い表情を見せる。紅巴も言った後で『しまった』と思った。

 しかし蘇芳は、

「何何? 何かしら?」

 いかにも興味津々と言った具合に、身を乗り出して食いついて来たのである。

 言うべきか迷った紅巴だったが、子供の様な楽しげな瞳を向ける蘇芳に、その単語を告げた。


「えっと、確か……? がどうとか……」


「……っ」

 瞬間、蘇芳の表情がにわかに変わった。

 今日、紅巴と会ってからずっと笑顔を絶やさなかった彼女の顔に、日原を制した時でさえ笑みを崩さなかった彼女の笑みに、微かな影が落ちたのだ。

 何か失礼な事を言ったのだと受け取った紅巴は、謝罪の為の口を開こうとするが、

「……綾神さん。奥乃天示君は確かにと言ったのかしら? 聞き間違いとかでは無く?」

 先に喋ったのは蘇芳だった。

 その表情は紅巴が今日出会った時のもの。良く知る笑顔に戻っていた。

 今しがたのあの表情の変化は一体なんだったのだろうか、と一拍考える紅巴だったが、逡巡より先に聞かれた事に答えた。

「はい、何度か呟いていたので、単語自体に間違いはありません。その……言葉の意味は解らないのですけど」

 「申し訳ありません」と続けた紅巴に、「いいのよ、気にしないで」と蘇芳が返した。


「……」

「……」

 

 会話が一区切りつくと、蘇芳は何かを考える仕草を始め、そのまま黙り込んでしまった。

 やはり寝言の内容を伝えたのは間違いだったのだろうかと思った紅巴が、ちらりと常森に目を向けると、常森は蒼白な顔で『この世の終わり』みたいな表情を浮かべていた。今の彼の視界に何が見えているのかは想像も付かない。

 そんな折、蘇芳がぽん、と両手を叩いた。

「うん、決めました」

 紅巴は佇まいを直すと、続く蘇芳の言葉を待った。

「綾神さん、署長命令です。奥乃天示君を、貴女のお家で預かって下さい」

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥はぇ?」 

 ピシっとしたままの面持ちの紅巴の口から、壊れたトランペットの様な声が出た。

 しかし、蘇芳はそんな紅巴の反応は意にも介さず。

「全ての事情を踏まえた上での判断です。身寄りがないと言う彼の身の保護。災真と話が出来ると言う力による捜査の協力要請。被接触型暴力衝動の治療、及び改善。……うーん、貴女への命令と言うよりと言った方が適切かしら?」

 つらつらっと並べ続ける蘇芳だったが、思わず紅巴が割って入る。

「ちょっと待って下さい! いきなり言われても綾神家私の家では……!」 

「私はこれが最善の判断だと思うわ。貴女にとっても、カナちゃんにとっても。……一番下の妹さんにとっても、ね」

 

 『』と言うのは、紅巴のすぐ下の妹に当たる、次女、火凪の事だろう。

 

 代々続く退魔の家系、綾神式退魔術の正統後継者だった次女、綾神火凪は蘇芳とも面識が深かった。対災真戦に於ける火凪の実力は、相談課は疎か、特防隊等とも比較にならない程に強い。

 加えて、火凪は日本に10人だけ存在する、国が定めた特別な退魔師としての資格、の一人であり、単独での災真との交戦権も独自の判断で自由に認められている。警察で対応出来ない災真の討伐を依頼する事も頻繁だった。

 日原がやけに火凪を含む継承候補者を煙たがるのは、そう言った側面も踏まえての事だろう。

 

 そして一番下の妹、綾神灯朱あやかみとあか

 

 3年前の大災害、〈黒の天蓋〉の呪い――〈刻印〉によるやまいをその身に受けてしまった少女。紅巴にとっても、火凪にとっても、守るべき大切な妹であり、掛け替えのない家族だ。


「綾神家で保護してくれるなら、彼の待遇の内容は全て貴女に一任します。相談課はそのバックアップを。何か困った時は、手を貸してあげて下さいね」

 そう言って蘇芳は常森を見ると。常森は即座に立ち上がり、敬礼をした。

「はっ! 承知いたしました!!」

 蘇芳が再び紅巴を見やる。常森も姿勢はそのままに、ちらちらと何度も視線を紅巴に向けた。

 

 数秒の間、何かを考えていた紅巴だったが、蘇芳に目線を返し、切り出した。

「……奥乃天示君の保護を、綾神家が拒否したら、どうなりますか?」

 ひゅい、と常盛の息が引く音が聞こえた。

 蘇芳が即答する。

「その場合、彼は私が引き取ります。但し、多くの不安要素を持つ彼を私の名の下で自由にはさせられないので、災真干渉者として施設に預ける事になりますね。勿論、貴女の言う捜査協力にも加えさせません」

 それは逆を言えば、綾神家で保護すれば、天示にはある程度の自由は与えるという事を意味する。

 蘇芳と紅巴が無言のまま見つめ合う。

 

 どれほどの時間が経ったろうか。にこやかな表情を浮かべ、先に沈黙の破ったのは、紅巴の方だった。

「署長。奥乃天示君保護の件、綾神家長女の名の元、謹んでお引き受け致します」

 そう言って恭しく頭を下げた紅巴に、蘇芳も満足げに応えた。

「まぁ……! ありがとう。何か必要な物があればいつでも私に言って下さいね?」

 そのやり取りを見た常森が、安堵の表情を浮かべ、脱力した。 

 

 正直な所、蘇芳が提示した条件は、紅巴にとって願ったり叶ったりの物だった。

 天示の存在が灯朱に良い影響を与えるかもしれないと思っていたのは紅巴も同じであったし、火凪に相談して、天示の『体質』をどうにかしてあげられたら、とも考えていたのだ。

 気になった事といえば、この状況がと言う点だった。

 しかし、目の前で常森と談笑を始めた蘇芳から、その真意を引き出すのは不可能だろうと、すぐに思い至った。

(……だったら、与えられた条件の中で最善の結果を出すだけ……)

 そう自分に言い聞かせ、紅巴は静かに決意を固めた。

 

 やがて、常森と談笑していた蘇芳が、紅巴の方に向き直った。

「では綾神さん、色々と準備もあるでしょうし、今日はもう非番にして下さい。今後の細かいスケジュールの調整は常森さんとお願いね?」

「はい、承知いたしました」

 紅巴は敬礼と共に蘇芳に答えた。



 ――少し硬い感触がするソファーで眠っていた天示が、目を覚ました。

 

 覚醒と同時に慌てて跳ね起きると、額に置かれていたのであろう濡れタオルが目の前に落ちた。即座に目を皿のようにして周囲を見渡し、状況の確認をする。

 

 事務所、だろうか。

 10畳程の空間の中心に大きなガラステーブル、そのテーブルの3方を囲うようにこげ茶色のソファーがの字に配置されている。窓にはシェードが掛けられており、天示は軽い息苦しさを覚えた。

 ふと、テーブルに置かれていた書置きに気がつき、目を通す。


『テンジ君へ、ここは御塚警察署の応接室です。私は会議に出席しなくてはならないので、少し席を外してます。戻るまでここで待っていて下さい。くれぐれもこの部屋を出ないように!

 追伸、投げ飛ばしてしまってごめんなさい。 綾神紅巴』


 なるほど。と天示は独りごちた。

 先程、あの路地裏で投げ飛ばされた自分は、どうやらそのまま気を失ってしまったようだ。

 状況を理解した天示は、申し訳ない気持ちになった。

 

 あの時。

 紅巴がフードを剥ぎ取り、自分と目を合わせた時、彼女は拒絶反応を示さなかった。

 それを見てつい、紅巴は自分の母や姉と同じ、なのだと思い込んでしまっていたのだ。

 自分が気を失った後、紅巴がどんな気持ちになったのかを想うと、胸が痛んだ。

 ふと、今は何時なのだろうと思いつき、天示が周囲に時計は無いかと探し始めた頃、ドアの方からトントンという控えめなノックの音と、

「入りますよー?」

 と言う、紅巴の遠慮深げな声が聞こえた。



「本っ当にごめんなさいっ!」

 応接室に入った紅巴が、開口一番頭を下げた。

 一瞬何の話かと思った天示だったが、すぐに投げ飛ばされた時の事だと気がつく。

「あ、いえ。全然平気ですから気にしないで下さい。俺の方こそ、もっと早く自分の体の事を言えば良かったのに、うっかりしてて……すみません」

「そんな……。あの後すぐに病院に連れて行こうかとも考えたんだけど、その……大騒ぎになるかなって思って」

 本当に申し訳なさそうな顔を浮かべる紅巴が、そのまま言葉を続ける。

「私が見た限り怪我もなさそうだったから、取り敢えずここで休ませようと思ったんだけど。……何処か痛むなら今からでも――」

「いえ、問題ないです。昔から体は頑丈だし、少し寝たからさっきより元気になった位ですよ」

 天示は柔かに笑い、力こぶを作って見せた。

 その姿を見た紅巴は、少しだけ安堵の顔を浮かべると、すぐに表情を引き締めなおしたのち、天示が座るソファーの向かい側に座り、切り出した。


「あの……単刀直入に聞くね? 君は、人間なのかな? それとも別の何かなの?」


 歩道橋から飛び降りても何ともない身体能力。

 投げられても怪我一つ負わない体。

 被接触型の暴力衝動。

 災真と会話が出来るという特徴。

 不可思議な点を並べるとキリが無い程だった。紅巴は続く天示の言葉を待つ。

 ――と、

「えと、姉ちゃんが言うには半分だけ人間で、もう半分は災真って言ってました」

「……っ!」

 ある意味、今日の少年の話で一番驚いたかもしれない。少年は自らをだと言ったのだ。

 動揺を抑えながら、紅巴が問う。

「お姉さんが、居るの……?」

「居たって言うか。……〈黒の天蓋〉の時に死んじゃったから」

 直後に「あ……ごめんなさい」と返した紅巴に対し、天示が「いえ、いいんです」とだけ返した。


 一瞬、会話が途切れる。

 少しだけ場の空気が重くなったが、それを無理やり取り払うように、紅巴が切り出した。

「簡単でいいから君の……。天示君の生い立ちを聞かせて貰えるかな?」

 そう聞かれた天示は、少し逡巡しながらも、やがてぽつり、ぽつりと語りだした。



 ――奥乃天示は拾い子だった。

 

 生後間もなく棄てられていた所を、今の母と、祖父に拾われた。

 そんな境遇であったが、天示は何の不満も感じなかった。優しい祖父は心の底から尊敬しているし、少し変わり者だが、自分を愛してくれる母の事が大好きだった。

 そのまますくすくと成長していた天示だったが、小学校5年生の時に、まだ幼かった少年の世界が、壊れてしまった。

 

 異性による憎悪衝動、暴力衝動の発現である。

 

 当初は天示にも理由が解らなかった。昨日まで一緒に遊んでくれていた友達が、優しかった担任の先生までもが、一斉に天示を忌み嫌い始め、時に暴力を振るうようになったのだ。

 そのまま逃げるように学校を辞め、いくつかの小学校にも転入したが、結果は同じだった。

 学校に通うのを嫌がるようになった天示は、家の仕事を手伝いながら、通信制義務教育のカリキュラムを受けるようになった。当時はいつか、この状況も改善されると信じていた。

 

 ――信じたかった。

 

 しかし、症状はどんどん悪化し、いつしか異性と目が合うだけで暴力を振るわれるようになった。

 徐々に女性恐怖症に陥る天示だったが、そんな折、少年は運命と言っていい巡り合いを果たす。

 

 それが、フィクスとの出会いだった。

 

 自身の姉を名乗るフィクスに天示は、色々な事を教えて貰った。

 自分がとある実験で創られた、人間と災真のハーフである事。

 異性に関する自分の体質は、自分を創り出した者が付与した物である事。

 フィクス以外にも天示の兄弟が居たが、それらを生み出した者も含めて、フィクス以外は、既に全員死んでいると言う事。

 当然、天示はこの事実を受け入れられなかった。半分と言えど自分が災真であるなんて事も、この体質が人為的に与えられたなんて事も。

 自分の本当の家族が災真化け物だと言う事も。

 拒絶の心と、本当の家族の存在の狭間に揺れる天示だったが、そんな折、〈黒の天蓋〉へと巻き込まれるのだった。



 どれほどの時間、話しただろうか。時計の無いこの応接室では、時間の経過をやけに長く感じてしまう。


 ――もし。

 もしあの時、自分がフィクスを追いかけなければ。

 あの時自分も一目散に逃げていれば、姉は死なずに済んだのかもしれない。

 あの馴れ馴れしい態度で、今でも自分の傍に居てくれたかもしれない。

 だがもう遅い。フィクスはもう居ないのだ。


 少年の独話を聞いていた紅巴は、質問を投げかける。

「天示君を育ててくれた、お祖父様と、お母様は?」

 紅巴の言葉に、天示は黙ったまま首を横に振った。

「そう……。ごめんなさい」

 紅巴が俯いてしまった。

 そんな姿を見た天示が、慌てて話を変えた。

「で、でもお巡りさんは凄いです!」

「えっ?」

 きょとんとした顔を見せる紅巴に、天示が更に加える。

「姉ちゃんが言ってたんです。俺の体質は普通の人間では抗えないって。お巡りさんは、俺と目を合わせても、何ともないんですよね?」

「……思いっきり投げ飛ばしたけどね……」

 ふいと目線を泳がし、紅巴は自虐的な顔を浮かべた。

「い、いや! 目を合わせられるだけでも凄いです! 姉ちゃんが、俺の体質の効果が無いのは小さな子供とかお年寄りとか、後は災真だけって言ってました」

 災真に効果が無いと言うのは、性別の境界が曖昧だからだろうか。小さな子供とお年寄りは大丈夫と言う部分も引っかかるが。

「あ、それとオカマも大丈夫って言ってました」

「そ……そうなんだ」

 これは除外することにした。

 ここではたと気がついた紅巴が、天示に疑問を投げかけた。

「天示君を育てて下さったお母様は? 何とも無かったの?」

「はい。マリ――っと、母さんは凄い変わり者だから、俺の体質も関係ないのかもしれないです。普段考えてる事も子供に近いし」

「そう……。うん、解った」  

 紅巴はそう言うと、姿勢を正し、天示に告げた。

「聞きたかった事は大体聞けたかな。……それで、天示君の今後の処遇なんだけど」

 天示が緊張の面持ちで、紅巴の言葉を待つ。

 何故かぞわりと鳥肌が立ち、何やら嫌な予感がした。

 施設送りとか、懲役とか言われたらどうしようと身構える。

 紅巴が一つ、コホンと可愛い咳払いをした。


「今日から私の家にお泊りです。仲良くしましょうね♪」


 目の前の女性が、何やらとんでもない事を口走った。

 固まる天示。嫌な予感の的中。その衝撃の内容に魂が抜ける。

「あ、私の家って言っても、住んでるのは私と、二人の妹だけだからね。気なんか全然使わなくていいから、自分の家だと思ってオッケーだよ♪」

 咄嗟に『俺がオッケー♪ じゃねぇよ!!』と叫びそうになるが、相手は目上の女性。喉元まででかかった文句を一旦飲み込み、穏便のベールに梱包し、吐き出す。

「あの、俺の体質の話しましたよね? 女の人と生活とか絶対無理だし……しかも3人て……」

「うん、その体質をね、治してあげられるかもしれないんだ」

 紅巴の口から想定外の話が飛び出し、天示が二の口を噤んだ。

「私の妹、綾神火凪って言うんだけど、すっごい退魔師でね? もしかしたら天示君の体質の治療法も知ってるんじゃないかなーって」

「それ、は……」

 それは魅力的、と言うより、天示にとっては夢のような話だ。

 

 天示は過去に、自分の体質の原因を知ろうと、母に連れられ何度も病院に行った。

 しかし、いずれも結果は異常無し。生理的なものに過ぎないと言われてきたのだ。

 フィクスから自分の体質の原因を聞いてからは病院にも行ってない。自分の中で、治る筈がない物なのだと決め込んでいた。

 死ぬまで、体質これと付き合っていくのだと思っていた。

 そんな自分の無間地獄に、たった今、天啓の様に希望の糸が降りてきたのだ。


 天示は目を煌めかせて、その糸に飛びついた。

「な……治るんですかこれ!? 俺、普通に外を歩けるんですか!? 学校行っていいんですか!?」

「ち、近……近い近い! 近いってば!!」

 まつ毛の本数まで数えられそうな距離まで近づいた天示の顔を、紅巴が両手を広げて窘めた。決して嫌ではなかったのだが、触れたら暴力衝動が出てしまう。

 気づいた天示が狼狽し、慌てて距離を取り、萎縮した。

「す、すみませ……」

「ううん、大丈夫。ちょっとびっくりしただけだから。本当に治せるかどうかは火凪に聞かないと解らないけど……ね、はは」

 苦笑を浮かべた紅巴が、紅潮した自分の顔をパタパタと手で仰ぐ。

「その代わりと言ってはなんだけど、天示君には私の家で生活して貰いながら、災真と会話出来る力を使って、私の捜査に協力をして欲しいの」

「捜査って、神隠し事件のですか?」

「そう、お願い出来るかな?」

 そんな事でいいならと、天示が快く了承を告げると、紅巴は両手をポンと叩き、「良かったぁ」と、心底嬉しそうな安堵の表情を見せた。

 

「じゃあ早速家に案内しようと思うんだけど、天示君の荷物はそれだけかな?」

 紅巴は天示が座るソファーの端に置かれたザックを指差した。天示がずっと背負っていたものである。

「えと、はい。これで全部です」

「うん、わかった。火凪もそろそろ帰ってくる頃だから、すぐに――」


 その時、ノックも無く、応接室のドアが大きな音を立てて開け放たれた。


「おーぅ、邪魔すんぞー」

 そう言いながら、ノックも無しに中に入ってきたのは日原憲剛だった。

 日原は穴ぐらを物色する熊のように室内を伺うと、ソファーに腰掛ける天示を見つけ、獲物を見つけたと言わんばかりにニヤリと笑う。

「日原警部……。『使用中の際は入室禁止』の筈ですが――」

 そこまで言った紅巴の目に、開けっ放しになった応接室のドアの向こうで、両手を合わせて頭を下げる後輩の姿が見えた。

 恐らく『すみません、止められませんでした』だろう。

 日原は紅巴には目を向けず、言葉だけで返す。

「署長がこのガキにも捜査を協力して貰うって言い出すからよぉ。俺も挨拶に来ただけだ。お前は黙ってろ」

「ですが――」

「黙ってろっつったろ!」

 一喝される。

 決して怖い訳ではないのだが、短気な日原の機嫌を損ねると、ロクな事にならないのは常々知っていた。

 最悪の事態が起きた場合は体を張るつもりで、紅巴は経緯を見守る事にした。

 日原が立ったまま、高圧的な物言いで天示に迫った。

「おめぇ、災真干渉者なんだってなぁ」

 天示はほんの一瞬紅巴を見やると、日原の方に向き直る。

「はい、そうです。奥乃天示と言います」

 その様は、紅巴が今日知った、どの少年の姿とも異なっていた。とても堂々とした物言いに素直に感心し、紅巴は少々面食らった。

「災真と話せるんだってな?」

「はい、話せます」

「ほう、やってみろ」

「良いですよ。では災真を連れてきて下さい」

「……テメェが探してこい」

「すみません、お断わりします。これから別の用事があるので」   

 短いやり取りだが、どちらが主導権を持ってるかは明白だった。日原の顔に怒りの色が差す。

「テメェ、自分の立場が分かってるのか?」

「一般市民です」

「干渉者だろうがァ! テメェはよぉ!!」

「ですが民間人です」

「テ……メ……ッ!!」

 そこまでを聞いた紅巴が、天示の身の危険を察知し、割って入ろうとする。

「日原警部すみません! 現時点で彼はあくまで民間の協力者なので、あまり手荒な事は――」

「黙ってろって言っただろうがァッ!!」

 激高した日原が絶叫と同時に、乱暴に豪腕を振り回す。

 その腕の軌道は確実に紅巴の顔面を捉えており、踏み込んだ勢いのついた紅巴に、それを回避するのは不可能だった。

 紅巴は来るべき衝撃に備えて、瞼を強く閉じる事しか出来なかった。


「……っ」

 しかし、

「……」

 どれほど待っても、

「……?」 

 日原の豪腕が飛んでくる事は無かった。

 

 紅巴が恐る恐る目を開けると、そこには完全に脱力し、床に横たわる日原。

 そして、

「あーあー。興奮するから転ぶんですよもー」

 屈んだ姿勢で、そんな日原を見下ろしている天示が居た。

「え……あ……だ、大丈夫ですか日原警部!」

 そう言いながら紅巴も屈み、声をかけるが、日原は完全に気絶していた。

「一人で転んだだけだから、すぐ起きますよ」

 言いながら、天示は立ち上がった。

 紅巴は屈んだまま、心配そうな顔で天示と日原を交互に見ている。

 そうこうしていると、

「あのー先輩、後は僕やっとくんで。自分の事やって大丈夫っすよ」

 二人のやりとりに入ったのは、応接室の前で紅巴に頭を下げていた後輩、桐谷陽介きりたにようすけだった。

 桐谷が加える。

「まぁやっとくっつっても医務室に運ぶだけですし。先輩はする事あるんしょ?」 

「でも……」

 いまだに心配そうな紅巴だったが、桐谷はズカズカと入ってくると。

「先輩も力持ちだけど、こういうのは男の自分にさせて下さいよ。僕、常森部長に用事もあるし……っとぉ!」

 気合と共に日原を肩に担いだ桐谷は、そのまま応接室を出て行ってしまった。

 部屋の外から度々何かがぶつかる大きな音と、「すいませーん」「あ、まーたやっちったー」等と言う、桐谷のわざとらしい声が聞こえたが、徐々に遠ざかっていった。

 

 少しの間、思案していた紅巴だったが、やがて天示の方を向くと、

「ええと……行こっか?」

 と、少しバツが悪そうに笑いかけた。



 御塚署の第6会議室、御塚市連続神隠し事件の対策会議を終えたこの部屋に、蘇芳霧香と常森亮二の二人が残っていた。

 蘇芳が物思いに耽るように、会議室の大窓から眼下の街を見下ろしている。

「署長」

 そう呼ばれた蘇芳が、声の主、常森に向き直った。

「何でしょう? 常森さん」

「先程の、綾神巡査と例の少年の件なのですが……」

 少しびくびくした態度の常森だったが、すぐに言葉を継いだ。

「綾神家でなくとも良かったのではないでしょうか? あの家には今、継承候補だけでなく、〈黒の天蓋〉事件の、も居ります。預けるなら他の継承候補の元でも良かったのでは……?」

 伏せ見がちだが、数少ない部下の環境を思っての事か、常森はしっかりと蘇芳に問うた。

 蘇芳が微笑を浮かべながら、言葉を返す。

「女の勘、と言ったら笑ってくれますか?」

「は、はぁ……」

 常森は表情を崩そうとするが、不器用な苦笑いを返す事しか出来なかった。

 それを見た蘇芳が、ころころと笑う。

「ふふ、冗談ですよ。そう緊張しないで、常森さん」

「冗談、でありますか」

 どこか腑に落ちなかったが、常森は愛想笑いで返した。しかしそんな彼の耳に、

「ええ……半分はね」

 と囁いた蘇芳の言葉は聞こえていなかった。


「常盛さんは、〈蚕禾禁書さんかきんしょ〉と言うものをご存知かしら?」

 常森はその単語に聞き覚えがあった。

「先代の第一継承候補、炙折蚕禾せきおりさんかが書き残した預言書、ですね。抽象的過ぎて解読が困難と聞いてます」

「そうそう。でも私は大好きよ? なぞなぞの本みたいで楽しいじゃない」

 

 ――初代第一継承候補、炙折蚕禾。

 並外れた対災真戦闘力を誇った少年であったが。〈黒の天蓋〉以降、忽然と姿を消してしまっていた。予知能力に似た力を持っていた彼が遺した預言書、それが〈蚕禾禁書〉である。

 

 ちなみに禁書となっているのは、書かれている内容が抽象的過ぎて、解読出来ない部分が余りにも多過ぎる事と、それによって、記された内容の解釈次第では、予言の誤解を招く事が極めて多かった事に由来する。

 平たく言ってしまうと。

 予言した事件の全貌が解ってから、解読出来なかった人間が『ああ、あの予言そう言う意味だったのね』と膝を叩く。

 そんな不親切な預言書だった。

 彼の書を一番最初に〈蚕禾書〉と呼び始めたのは、果たして誰だっただろうか。

 

 閑話休題。

 

 常森は腕を組むと、少し不満そうに口を尖らせた。

「しかしあの預言書、毎度毎度もう少し分かりやすく書いてくれれば良かったと思いませんか? 〈黒の天蓋〉の事も、もっと具体的に書いてくれれば……」

 〈蚕禾禁書〉には〈黒の天蓋〉が起きる事も書かれていた。しかし、それがわかったのは事件の収束後。

 つまり、炙折蚕禾が失踪した後の事だった。

 蘇芳が微かに目を伏せる。

蚕禾あの子には、預言書を書いている時の記憶がないのです。それが彼の予知能力の限界。……でも彼は、役に立たぬと言われた預言書でも、決して書く事を止めず、最後まで書き続けました」

 そう言った蘇芳は、少しだけ寂しそうな表情を浮かべると、どこか懐かしいものを思い出すように息を吐いた。

 ――と、

「でね、常森さん」 

 突然ケロっとした顔で、常森を見る蘇芳。

 少し虚をつかれた常森が、続く言葉を待った。

「〈蚕禾禁書〉に記された最後の予言。ご存知かしら?」

 そんな物は常森の記憶にはなかった。それ以前に、〈蚕禾禁書〉の記載自体にそれ程興味もない。

 彼にとっての〈蚕禾禁書〉とは、起きる筈の事件をわざと濁して書いた悪書でしかないのだ。

「いえ、存じません」

 そう応えた常森に、蘇芳は少しだけ残念そうな顔を見せると。自身の生徒に授業を教えるような口取りで、朗らかに語りだした。

「ふふ。……それはね」


 

 万天より星が降り立つ。


 七番目の子供は大樹の剣を獲り、世界を分かつ。


 は暴食の王成り。其は不在の神成り。


 傀儡の娘を以て封ぜよ。


 の力が夜に満ちる時、翠光は虚空に溶ける



「さっっっぱり解からんですね……。『星が降り立つ』って、隕石でも落ちるんでしょうか?」

 最後まで聞き終えた常森だったが、その表情は訝しげそのものだった。

 そんな様子を見た蘇芳は、謎解きでも楽しむかのように、顔をほころばせる。

「最初の一文ね、私は奥乃君の事だと思うの」

「例の災真と話せる少年、ですか?」

 蘇芳は「そうそう」と続くと、自分なりの推理を語り始めた。

「2番目の文は、きっとカナちゃんの事ね」

「七番目の子供……。第七継承候補の事だと?」

「ええ。そして3番目の文はこれから起こりうる驚異の事で、4番目の文が灯朱さんの事」

 常森は首をひねりながら、黙って聞いている。

「そして最後の文が、大きな事件の解決を意味してるのよ。……ねっ! なんだか謎解きみたいで面白いでしょう!」

 唐突なファンタジーを聞かされて若干辟易する常森。ちっとも面白くはなかったのだが、楽しげに語る上司のテンションに、話を合わせた。

「……署長はその、奥乃君と、綾神巡査の二人の妹が出会う事で、予言を通じた、何か良い結果を生むと判断したのですね?」

「ええそう、間違いないわっ」  

 その自信は一体何処から来るのか。常森は以前から蘇芳を不思議な空気を纏った女性だとは思っていたが、改めてその認識を強めた。

 ここで常森がはたと思い出し、蘇芳に疑問を投げかける。

「ところで署長、その少年が寝言で言っていたというとは何の事でしょう? これも予言の文と関係してるのでしょうか?」

 常森としては本当に些細な思いつきで、話の種にと聞いた事であったが、それを聞いた蘇芳はすぅ、と目を細めた。

 その反応に、常森がゴクリと、生唾を飲む。


「……アナムライザーは、今この国で極秘に進められている、対災真決戦兵器製造計画の内の一つです」


「なっ……!」

 思わぬ話が飛び出し、常森は一瞬立ち上がりそうになる。

 蘇芳はそんな常森を他所に、話を続ける。

「計画とは言ってもまだ初期段階でね。私の知る限りでは、先日ようやく試作一番器の試行トライアルが行われたとの事です。今はまだ機密扱いですが、近々公にも発表される見通しよ」

「……そんな物を、何故彼が寝言で。やはり偶然では――」

「彼の事情と照らし合わせると、そう決め付けるのは早計でしょうね」

 蘇芳は常森の言葉を遮り、自身の話を続ける。

「とは言え、所詮寝言に過ぎないのも事実。一応、後で信頼の置ける筋に連絡は取ってみるけれど」 

「その……万一の危険は……ないのでしょうか?」

「その為の第七継承候補カナちゃんよ」 

 常森は、背筋が冷える感覚を覚える。蘇芳霧香と言う人物は、果たして何処までを考えているのだろうか。

 ほんの少し、今さっき聞いた予言の話を信じてしまいそうになる。

 不意に、蘇芳が声を潜め、内緒話でも始める様に常森に耳打ちした。

「あ、常森さん。この話は私と貴方だけのヒミツだからね。私が良いって言うまで誰にも言っちゃダメよ? 勿論綾神さんにも言ったらダメですからね?」

「は、はぁ……」

 本当に、考えの読めない人だと思った。



「あ、課長まだここに居たんスか」

 そう言って、第6会議室を出た常森を引き止めたのは、対災真相談課の数少ない部下、桐谷だった。

「課長に頼まれてた相談書の件、纏め終わりましたよ。『終わったらすぐに手渡ししろ』って言ってたのに、いつまで待っても戻らないから、来ちゃいましたよ」

「あ、あぁー、そうだったね。すまんすまん」 

 正直、頭からすっぽりと抜け落ちていた。

 荒っぽい部分もあるが、意外とマメな性格である部下桐谷の事を、常森は大層気に入っていた。

 無論桐谷だけでなく、少々無鉄砲だが真面目な紅巴の事も、常森はいつも気にかけていた。

「ハイ、じゃあこれ。ちゃんと渡しましたからね」

「ああ、ありがとう。君も少し……んっ?」 

 常森が桐谷から書類を受け取る際、桐谷の手元に何かが光るのが見えた。

「桐谷君、何か持っているのか?」

「え? あー、コレですか? 懐かしいでしょう。さっき応接室を片付けてた時に拾ったんですよ」

 そう言って桐谷が見せたのは、小さなビー玉だった。

(? 何故こんな物が応接室に? 相談に訪れた市民の忘れ物か?)

 少し首を傾げた常森だったが、思えばたかがビー玉一つである。特に思案する事もなく、自分の部署に戻る事を優先した。


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