序章 翠鬼編

第1話 接触

 ――あれから幾ばくかの時が流れ、季節は初夏。

 

 今年はやけに早く始まり、明けるまでも妙に早かった梅雨が終わり、天気は突き抜ける様な快晴だ。耳をすませば、急かされたように羽化を始めた蝉の鳴き声が、遠雷のように聞こえてくる。

 

 そして、茹だるような暑さだった。

 

 今日も今日とて特に目的は無く、少年――奥乃天示はいつもの様に街を散歩。

 もとい、徘徊をしていた。

 日差しがジリジリと照りつける。

「あっ……つぅ……」

 ただでさえ暑いと言うのに、思わず口から零れてしまった呪詛の様な自分の言葉に、更にげんなりしてしまう。

 

 しかし暑いのもその筈で、奥乃天示と言う少年は外出の際に、常にフード付きの黒パーカーを羽織り、ご丁寧にそのフードさえも深々と被っているのである。

 とても夏にする格好ではないし、傍から見ると不審者その物だった。

 加えて、そんな自分の風貌がという事は、天示自身も重々理解していた。

 

 背負っていたアウトドア用の大きなザックのサイドポケットから、先程コンビニで購入した瓶ラムネを取り出して、口元に運ぶ。

 しかし、帰ってくるのは『からん』と鳴るビー玉の音だけだった。

 小さな溜息を吐きながらビー玉を取り出し、空き瓶をサイドポケットに戻した。

 『もう一本買っておけば良かったなぁ』と思いながらも、わざわざ引き返すのも億劫であった天示は、そのまま片側2車線の広い道路に架けられた、歩道橋の階段を上がり始めた。

 

 階段を上がり切ると、天示が進む方向とは反対側から、楽しげに会話をしながらこちらへ歩いてくる、白い制服を着た女学生が数人、見えた。

(やば……)

 咄嗟に、パーカーのフードを更に深く被り直し、足早に女学生の横を通り過ぎようとする。

 一瞬引き返すべきだったかと考えるが、今となってはもう遅い。

 息を殺しながら、『何も起きませんように』と呟きつつ、こそこそと女学生の集団の脇を通り抜けた。

 

「ねー何アレ、気持ちわるー」


 丁度すれ違った時、訝しげな言葉が耳に届いた。勿論天示の事だろう。

 そのまま早足で歩き続け、さっきの女学生の会話が聞こえなくなった頃を見計らって足を止めると、ほっと胸を撫で下ろした。

(良かった。……何も起きなかった)

 この暑さで少し油断していたのかもしれない。ここは通学路ではなかった筈だけど、次からは注意しようと、天示は自分の脳内危険ルートマップに新たな『×』印を付けた。

 

 夏休みには少し早い6月中旬。

 時刻はまだ午前中で、今もまだ授業中の筈なのだが、街での異性との遭遇エンカウントの危険は常に存在する。道が広ければまだ良いが、この様な逃げ場のない通路などでバッタリ出くわす、なんて状況は可能な限り避けたい。


 ――何も知らない人達を、自分の事情に巻き込む訳にはいかないのだから。


 何となく、思考をさっきの女学生に戻す。

 天示は記憶の中から、あの白い制服がこの辺りでは有名な中高一貫高、【私立エスペラント女学院】の物であった事を思い出していた。

 背丈から考えて高等部だろう。もしそうであれば、天示とは同世代に当たる。

 

 通信制の中学校を卒業後、義務教育を終えると同時に家を出た天示だったが、普通の学校に通学する事が出来ていれば、彼女らと同じ様に、青春を満喫出来たのだろうか。

 16歳のの少年として、高校に通う事が出来たのだろうか。

 しかし、そんな甘い考えはすぐに捨てる。そんなものを自分の『体質』が許してくれる筈がないからだ。

 この『体質』は、もうすっかり受け入れていたつもりだったが、学校生活の事を思うと、いつも物悲しい気持ちになる。

(……今日は何も予定は無いし、ちょっと遊びに行こうかな) 

 少しだけ人恋しくなった天示は、数日前に知り合った知人の所へ行こうと決めた。

 

 ――その時だった。

 

「やっと、見つけた……」


 背後から聞こえた女性の声に、天示は思わず振り向く。

 一瞬さっきの女学生かと思い身構えたが、様相は異なっていた。

 

 自分よりも少し年上と思われる、女性だ。

 均整の取れた目鼻立ちと、軽いウェーブのかかった亜麻色のミディアムショートの髪。紺色のスーツを着ているが、不思議とその出て立ちが見せるものよりも、妙に若い印象を感じた。

 

 女性は、瑠璃色の瞳に警戒の色を宿したまま、こちらを鋭く睨んでいる。

 うっかり目を合わせてしまった事に気づいた天示が、慌てて顔から目線を少し下げると、ある物が視界に飛び込んだ。

 

 、である。


 女性が構える拳銃、その銃口がこちらを向いていたのだ。

 

 街のど真ん中。

 歩道橋の上。

 拳銃。

 

 自分の『体質』とは長い付き合いなので、良く理解しているつもりだが、街でいきなり銃口を突きつけられたは初めてだった。

 すぐに母親の仕事の関係者を疑う。

 だが仮にそうだとして、こんな場所で、白昼堂々仕掛けて来るだろうか?

 色々な考えが頭を過ぎり、乱立する思考を処理していると、女性が胸元のポケットから手帳を取り出し、口を開いた。

「警察です。貴方に災真干渉者の疑いがあります。私に同行して下さい」

「けい、さつ……?」

 オウム返ししながら、言われた言葉を咀嚼するも、事態の把握にワンテンポ遅れてしまった。

 警察は本来自分が最優先で警戒するべき対象だったのに、その可能性がすっぽりと抜け落ちていた。

 警察はマズい。一度捕まってしまうと自分の一人暮らしに色々手回しをしてくれてる、母と祖父にも迷惑が掛かるかもしれない。

 暑さにうだる脳をフル回転させ、慌てて弁明を試みる。

「えっと、あの……俺、悪い事とかしてなくて。た……多分人違いとかだと思うんです……けど」

「貴方に拒否権はありません。こちらに従わない場合、実力を持って対処します」 

 なんかもう全然だめだった。

 念の為、こんな時を想定した手段は用意しているけれど、目立ちすぎるから出来れば使いたくはない。穏便にお別れ出来れば良いだけなのだ。

 しかし、天示の想いも虚しく、女性は少年から目線は外さず、銃口をこちらに向けたまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 一歩。また一歩。

 そうして、天示のすぐ目の前にまで近づいた時、女性の右手が天示が被っているフードに伸びた。

 意を決した天示は、大きく息を吸い込み、丹田に力を篭めた。

 ――そして、


「あああぁーーーー!! 半裸の妖怪がブレイクダンスしてるーーーーっ!!」


 女性の背後を指差し、大声で叫んだ。

 随分古典的なハッタリだが、その効果は母と祖父のお墨付きである。声量はデカければデカい程良い、とは母の言葉だった。

 天示の大声に女性が驚き、注意がほんの一瞬だけ逸れたのを見逃さず、天示は歩道橋の欄干に手を掛けると、そのままひょいっと下へ飛び降りた。

「――――!!」

 女性が何かを叫んでいたが、その内容は天示の耳には届かなかった。

 職務を全うしようとしていただけのお巡りさんに対し、少しだけ申し訳ない気持ちになるが、こちらとしては捕まる訳にはいかない。

 歩道橋から中央分離帯へと降りたった天示は、そのまま道路を横切ると、脱兎の如く逃走を図るのであった。



 とは、特殊な方法、儀式を用いてこの世界に創造された、異形生物の総称である。

 所謂、幽霊や精霊との明確な違いは、いずれの災真も創造の際に受肉を果たし、その全てがという事だ。

 そして、災真を創造し、使役する者を災真契約者。何らかの形で災真の影響を受けている人間を、災真干渉者と呼んだ。

 近年、この災真を使った犯罪、『災真事件』が世界中で横行していた。

 創造された災真に自身の意思はなく。自身を生み出した災真契約者の命令に従い、その者の意のままに操る事が出来るのである。

 必要な環境と条件さえ整えば無尽蔵に造れる上、造ったという証拠も隠しやすく、必要に応じて姿を隠す事まで可能な災真は、としてはうってつけだったのだ。

 

 そんな人類の驚異となっている災真に対抗する為に作られた、警察機関特別部署の一つ、対災真相談課の新人警察官、綾神紅巴あやかみくれは巡査は、街の廃ビル群の裏路地を全力疾走していた。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

 もう少しで災真干渉者を確保出来る所だったのに、あんなにつまらない子供だましに引っかかり、取り逃がしてしまった。

(……って言うか半裸の妖怪って何!? 半分服を脱いでたら何だって言うの!?)

 頭の中で毒づきながらも、そんなものに引っかかってしまった自分を不甲斐なく思いながら、走る。

 紅巴は自身の警察手帳を取り出し、目を向けた。

 災真捜索の支援ツールとして、簡易レーダーにもなる特別製の電子手帳。これであれば、災真が姿を隠していても、対象の位置を特定する事が出来る。

 ――しかし、

「そんな……どうして……!?」

 さっきまで示していた災真干渉者を指す、黄色のマーカーが消えている。

 つまり、少年を完全に見失ったという事だ。

 すぐに足を止め、乱れた呼吸を整える。

 あの少年は災真でも契約者でもなく、干渉者に過ぎない。マーカーの反応も極めて微弱だった。

 これは予想だが、あの少年は今街を騒がせているとは無関係かもしれない。

 だけど、関わっていると言う可能性がゼロじゃないのなら。

(……逃すわけには、いかない)

 一つでも多くの災真の驚異から市民を守る。それこそが今の自分の絶対の使命だ。

 手帳を胸ポケットにしまい直し、精神を落ち着かせて瞼を閉じた。

 思い浮かべるは水の波紋。

 程上手くは使えないけど、この位の術式ならば、自分にだって出来ると思った。

 ――と、言い聞かせた。


【……無明月下、地脈に流るる泉に願い賜う。荒霊縛る枷となれ】


 意識を集中し、口訣を唱え、印を結ぶ。

 気を練ると自分の知覚領域が徐々に広がって行き、周囲の状況が頭の中に飛び込んでくる。

 本来この術は災真を『知覚』、『捕縛』する為のものであるが、紅巴の力では対称の居場所を探る『知覚』だけで精一杯であった。

(……でも、今はこれで十分。捕まえる為の力なら持っている)

 紅巴は確かめるように、腰元の対災真捕縛用特殊拳銃レトリビュートに触れた。

 術式を解除し、すぐに駆け出そうとする。

 ――だが、

「ん……くっ」

 慣れない力を久しぶりに使った反動か、足元がふらつき、壁に手を付く。

 不甲斐ない自分に嫌気が差すが、震える膝を無理やり奮い立たせると、紅巴はへと走り出した。  



 裏路地を抜けた先は、大きな空間が広がる行き止まりになっていた。

 周囲は巨大な廃ビルに囲まれており、一種の密室空間のような圧迫感を覚える。

 街の喧騒も届かないその場所で、紅巴は周囲を見渡す。

 しかし、何の気配も感じない。

(そんな、確かにここから感じたのに……)

 だが、そこには人間が隠れられる様な遮蔽物はなく、辺りは寂々たる静けさに包まれていた。

 紅巴はもう一度さっき使った術式を試みたが、今度は術そのものが発動しなかった。

 途方に暮れ、思わずへたり込んでしまう。

(また……失敗、した)

 どうして自分は退魔術を上手く扱えないのか。妹が持つ力の、その半分でも持っていれば、こんなに悔しい思いはしなくて済むのに。

 不意に目頭が熱くなった。

 だけど、こんな所でいつまでも座ってる訳にはいかない。自分がこうしてる間にも、災真による被害で苦しんでいる人がいるのだ。

 気を取り直した紅巴は立ち上がり、こうなったら周囲の廃ビルを虱潰しに探してやろうと、気合を込めて自分の両頬を張った。

 ――直後だった、


alert informationアラートインフォメーション 災真反応値の接近を確認。驚異レベル1を発令、速やかに警戒態勢に移行して下さい】 


 突然、レーダーの電子音声が火急の報を告げた。

「――ッ!!」

 紅巴はすぐさま緊張の糸を張り、退真銃レトリビュートを構えながら周囲を伺った。

(やっぱり居るんだ、この場所に……!)

 驚きと同時に、自分の術が失敗していなかった事への多少の喜びもあったが、今は現状の把握が先である。

 右手で銃のグリップを握り、左手で手帳を取り出し、少年の位置を確認する為に目を向けた。

 だがマーカーは何も指しておらず、レーダーは空虚そのものだった。

(えっ……ど、どうして? 何故座標だけが表示されないの……?) 

 機械の故障だろうかと、混乱する紅巴が思考を鈍らせている間にも、


【alert information 災真反応値の更なる接近と増大を確認。驚異レベルを2に移行します。直ちに戦闘態勢に移行して下さい】


 心臓が跳ね上がる。

 少年が近づいている。なのに姿だけが見えない。レーダーも相変わらず沈黙してるのに、手帳の電子音声だけがしきりに危険を告げてくる。

 紅巴は更に思考を走らせた。

 

 何故追跡中の少年はレーダーから消えたのか?

 一度逃げたにも関わらず、再び自分から現れ、近づいてくるのは何故か?

 そもそもあの少年の反応は微弱で。警戒レベルすら――

 

 その時、直感した。

 今自分に接近しているのは、あの少年ではない別のだ。

 尚も推測を続ける紅巴。だが、そんな彼女の思考をあざ笑うかのように、


emergencyエマージェンシー informationインフォメーション 災真反応値の更なる増大を確認。驚異レベルを3に移行し、対象をと認定。現行武装での対処は困難な為、速やかな撤退を推奨します】


 驚異レベル3。対象の災真認定。

 それは対真銃レトリビュート一丁如きで戦えるものではない。もはや自分が対処出来る範囲を超えている。

 何故ここまで強力な災真が今まで放置されていたのか。誰にも見つからずに。

 

(……誰からも、発見されずに?)


 その瞬間、答えに行き着いた。

 今この街で起きている、連続神隠し事件。レーダーが捉えられない災真が犯人ならば、全ての辻褄が合う。

 紅巴が応援を呼ぶ為に、電子手帳を操作しようとした時だった。


【emergency information 災真反応値の更なる増大を確認。驚異レベルを4に移行します。本部とのリンクを開始し――】

  

 バチッという放電音がした直後、僅かな明滅の後、手帳が沈黙した。

 慌てて仕事用の携帯電話を取り出すも、手帳と同じく、電源が切れてしまっていた。

(……やられた) 

 通信手段が断たれた。

 こうなっては、もうこの場で紅巴に出来る事はない。

(……逃げるべきだ)

 そもそも紅巴の管轄は災真事件の相談のみの筈で、こんな所で銃撃戦を繰り広げる人間ではないのだ。

(……急いで引き返そう、どうにかして車両まで戻れば応援を呼べる)

 この災真と戦うには対真銃レトリビュート以上の強力な武器が必要だ。本部に連絡すれば、的確な人選と対策を行ってくれる筈。

(……そう、きっとも納得……)


 その時、ある女性の悲壮な顔が脳裏を過ぎり、熱くなっていた頭が冷えた。

 下ろしかけていた退真銃レトリビュートを再び持ち上げ、構える。

 

 今朝、自分が所属する災真相談課に訪れた女性。『娘が帰ってこない。探して欲しい』と訴えていた。

 紅巴の仕事は、災真関連の疑いがある案件の相談が主だった。現場で事件解決に動くのは、対災真特別防衛隊の管轄だ。相談課である自分はただのパイプ役で、市民の相談の真贋を見極め、時に相談の時点でお引き取り願い、捜査に必要な書類をまとめるだけの仕事だった。

 対真銃レトリビュートも最低限の護身具に過ぎない。

 決して、命の危険と背中合わせの仕事ではない。そんなものは対災真特別防衛隊だとか、妹の役目だ。


「……にげる……」

 誰にも聞こえない声で呟く。

 

 戦ってはいけない。

 死んではいけない。

 逃げなくてはいけない。

 

 ――でも、だけど。


 今この災真を見失えば、代わりに誰かが危険な目に遭う。

 次にが発見されるまで、同じ危険が続く。

 だったら、例え首輪追跡術だけでも張るべきだ。

 警察では気づかなくても、同じ退魔術を扱う妹ならきっと気付いてくれる。

 この災真を見つけてくれる。

 そう思うと、不思議と気持ちが落ち着いた。

「…………無明、月下」 

 それは詠唱などではなく、単に心を落ち着かせるおまじない程度のものだった。しかし、最後の勇気を振り絞るには十分な効果があった。

 覚悟は決まった。紅巴は銃のグリップに篭める力を入れ直す。

 その時、沈黙した筈の手帳からノイズ混じりの音声が聞こえた。


【……merge……y in……ma……on 災真反応……最接近……直ちに……】


 咄嗟に手帳を取り出した紅巴は、すぐさまレーダーを確認すると 突如現れた災真を示す赤いマーカーが、自分の背後を指していた。

「――ッ!!」

 弾かれた様に体ごと振り向いた紅巴は、勢いはそのままに対真銃レトリビュートのトリガーを絞ろうとした。しかしを見た瞬間、体が縫い付けられた様に硬直してしまった。

 

 ――見上げるほど巨大な、骸骨武者が立っていた。

 

 身の丈5mはあろうかと言う巨体が、紅巴を見下ろしている。

 体表の全ては白骨化しており、赤黒く、禍々しい瘴気を帯びている。

 甲冑は無く、ボロボロになった布切れだけを身に纏い、腰元には巨大な日本刀が、朽ちかけた鞘に収まっていた。

 

 紅巴は目を見開き、呼吸をする事も忘れ、骸骨武者を見上げる。

 意図せず対真銃レトリビュートを下ろしてしまい、膝からは力が抜け、風が吹こうものなら、もうそれだけで崩れ落ちてしまいそうだった。骸骨武者から視線が外せず、直接心臓を握られているような錯覚を覚える。

 噴き出す汗まで、凍りついてしまいそうな程の危機感。

「あ……ぁ……」

 一瞬にして恐怖の渦に囚われる。眼前の災真が醸し出す殺気だけで気を失いそうになった。

 

 ――骸骨武者の手が、腰に差された日本刀の鞘を握った。


(私……殺される? 何も出来ないまま、この災真に……?)


 ――骸骨武者が放つドス黒い瘴気の渦が、強い怒りの感情を帯び始める。


(だめ……せめて、あの子に伝えなきゃ。こいつの情報を、伝えなきゃ……)


 ――骸骨武者が持つ日本刀の鯉口が、親指で押し開かれた。


(来る……!!)

 死を覚悟した紅巴が、僅かに残った勇気を振り絞り、再び持ち上げた対真銃レトリビュートを骸骨武者の額に照準を合わせ、引き金に力を篭めようとした瞬間。


「スッ……タァァーーーーーーーーーーーーーーーップゥ!!」


 上空から高らかな叫び声が聞こえたかと思うと、何やら黒い人影が紅巴と骸骨武者の間に降りたった。

 一瞬の静寂。呆気にとられる紅巴。骸骨武者は直前の姿勢のまま微動だにしない。

 人影は着地の体制で腰を落としたまま、二人を遮るように両手を広げ、その間に割って入っている。

 

 紅巴はその人物の出で立ちに見覚えがあった。


「君、は……さっきの」

 それは、先程まで自分が追跡していた、あの少年だった。

 少年――奥乃天示はすぐに立ち上がり、紅巴の方を向くやいなや、直立の姿勢から豪快に頭を下げた。

 綺麗な90度。

「本っ当にごめんなさい!! 悪気はないんです!! 悪い骨じゃないんです!!」

「……は、はぃ?」

「この骨の人……あ、ホネスケ先輩って言うんですけど、ずっとこの街に住んでるんです。で……でも、悪い事とかは全然してなくて、ちょっと散歩が好きってだけで、俺の友達で、えぇとその……」

 まくし立てるように、骸骨武者ことホネスケ先輩とやらを不器用にフォローする天示だったが、紅巴の耳にはあまりその内容が入ってこない。

 と言うよりも、今の状況が飲み込めず、言葉が出ない。

「あの、そもそもホネスケ先輩はじゃなくて、普通にここの骨なんで……出来たらこのまま見逃して欲しいなーなんて……って! いつまでも物騒なモン握ってないで、先輩も謝ってくれよ!!」

 言いながら、天示が骸骨武者ほねすけせんぱいの脚にガンガンとローキックをし始める。体格差がある為に踝に蹴りが当たっている。人間だったらかなり痛いかもしれない。

 少年の蹴りに反応してか、骸骨武者ほねすけせんぱいの口が開いた。


【チ……ニ……】


 酷く重く、何重にも重なって聞こえる音。それはもはや言葉というより、地鳴りと言った方が近いかもしれない。聞いてるだけで胸が苦しくなる響きだった。


【チニ……ウ、エ…………カエ、リ……チ】


 何やら凄く物騒な単語が聞こえて、紅巴の頬が引き攣る。

「……ごめん、やっぱ黙ってていいや先輩」

 がっくりと肩を落とし、今度は骸骨武者ほねすけせんぱいを制止する天示であった。



「私は綾神紅巴って言います。少し、話を聞かせて貰っても良いかな?」

 改めて手帳を取り出して見せた紅巴の言葉に、天示は頷くしかなかった。

 ホネスケ先輩の存在も知られてしまったからには、もう逃げられない。かと言って、あの対面を黙って見過ごす訳にもいかなかった。

「どうしてあの時、私から逃げたの?」

 投げかけられた言葉に、天示が意識を向ける。

「……警察に捕まりたくなくて、……なのですので……」

 異性との会話に慣れてないせいで、天示の言葉は所々怪しかった。

「君は、まだ学生だよね? 学校は?」

「……通ってないです」

「保護者の方は?」

「……居ないです」

「年齢と住所は……?」

「……年は16です。……住所は……特に無いです」

 絶句する紅巴。

 〈黒の天蓋〉以降、今だに時折、こう言った事情の身寄りのない子供が見つかる事はあるが、実際に紅巴自身が発見したのは始めてだ。

「そう。……だったら、私は君を保護しないといけません。同行してくれるかな?」

「……………………ぃ」

 蚊が泣くような声で天示が返事をする。

 『だがお断りします』と言えたらどんなに楽だろう。

 そんな天示の想いを知ってか知らずか、紅巴は少しだけ目を細めると、腕を組み、少しだけ声色を変えた。

「でもその前に、いくつか聞かせてね? ……むしろこっちが本題だから」

 その迫力に天示が息を飲み、縮こまる。

「君は今、この街で起きてる神隠し事件は知ってる?」 

「神隠し……? 7人行方不明になってるって、あれですか?」

 さっきコンビニで流れていた放送が、そんな事を言ってたのを思い出した。

 そう、と続く紅巴。

「この事件には、間違いなく災真が関わっている」

 紅巴がちらりと、天示の背後に佇むホネスケの顔を一瞥する。

「でも君は、この大きな災真は、事件とは無関係だと言っている。……その証明は出来る?」

「……いえ、出来ません」

 魔女の証明ではないが、天示がホネスケ先輩の潔白を証明するのは無理がある。

 紅巴は天示の返答を予想していたのか、表情も変えないまま頷き、続けた。

「今現在警察では、発見した災真契約者、干渉者は即連行、保護が基本になってるの。勿論君も例外じゃない。……けど」

 紅巴はそこで少し言葉を止め、一瞬何かを考えるように視線を外すと、組んでいた腕を解き、フードに隠れた天示の顔を正面から見据えた。


「君は、災真と会話が出来るの……?」


「? ……はい」

 言葉の意味をそのまま受け取るか一瞬迷うも、天示は『Yes』と答える。

 少年からすれば、雨の日に傘をさす程度の当たり前の事だった。

「……そう。さっき君は『この骸骨は誰かの災真じゃない』って言ってたけど、というのは、どう言う意味?」 

「……えっと、誰かの災真って、人間にですよね? じゃなくて。だからホネスケ先輩は違います。フリーの骨です」

 

 ――紅巴の背筋に戦慄が走った。

 

 この少年が言っている事が正しいとすれば、災真には人間によって創造された、従来の前提通りのと、古来より存在する、謂わばなる物が居る事になる。

 その違いが何を意味するかはまだ不明瞭だが、これは警察も、恐らく災真対策に携わる機関のいずれも知らない情報だ。

 しかも、この少年はその災真と会話が出来るという。先程の骸骨とのやり取りを見る限り、咄嗟に出た嘘とも思えない。

 もし『災真と会話出来る事』が真実ならば、災真から直接情報を聞き出したり、災真を消滅させる以外の方法で、災真事件を解決する糸口になるのではないだろうか。

 

 紅巴は緊張と、微かな期待を含んだ瞳で、天示に問う。

「君は……全ての災真と話が出来るの? 例外は無いの?」 

「そういうのと会った事はないです。中にはわからず屋や変なのも居ましたけど、人間と一緒で色んなのが居ますから……。あ、嫌々こっちに居るってのとも会った事あります」 

 

 人間と災真が会話を出来る、等と言う話はこれまで聞いた事がない。

 災真を創造した契約者でさえ、災真に意のままに命令し、動かす事は出来ても、会話をしていた等と言う前例はないのだ。

 何せ、と、ずっと言われていたのだから。

 例え災真が声の様なものを出しても、それは何かの反射で飛び出た物に過ぎない。

 契約者の指示に従ってのみ動き、時折、壊れたラジオのように音を出すと言うだけの事だ。

 

 天示の話を聞いていた紅巴は、何かを思い立つと、再び問いかける。

「君の話が本当なら、今から言う私の質問を、あの骸骨に伝えてくれる?」

「はい、分かりました」

 少し咳払いをして、紅巴が天示に告げた。


「……さっきは何故、私を殺そうとしたのか教えて」


「分かりました。えぇ……と」

 そう言いながら天示は、骸骨武者を見上げ、言葉を継いだ。

「えー、『さっきは何故私を殺そうと――』」

「ちょっ!? ちょっと待って! 待って待って待って!!」

 慌てた様子の紅巴が、天示の言葉を遮る。

「え? 何ですか?」

「そのまんまなの!? 言い直すだけなの!?」

「はい、ホネスケ先輩は耳も悪いし、俺が言い直さないと多分聞き取れないです」

「あ……そう、なんだ……」

 耳と言われても、どう見てもただの穴でしかないが。

 腑に落ちなかったし、イメージしてたものと大分違うが、それでも『会話してる』と言うのであれば、黙って見届けてみる事にする。

【チニ……ウエ……――】

 問われた骸骨は相変わらず物騒極まりない事を口走ってるが、敢えて聞かなかった事にした。

(……大丈夫かなぁ、色々と)

 少しだけ不安を感じ始める紅巴を他所に、天示がふんふんと、骸骨と言葉(?)を交わす。

 そうしてすぐに、紅巴の方に向き直った。

「『危なかった』って言ってます」

「……危なかった?」

 確かに危なかったと思う、何せ殺されかけたのだ。

 他でもない、この骨に。

 今でもあの時の殺気を思い返すだけで体が震え、膝が折れそうになる。

「……どう言う事かな? 君が割って入らなかったら、私はこの骸こ……ホネスケ先輩さんに殺されていたって事?」

「あ、いえ、ホネスケ先輩じゃなくて」

 天示は紅巴の肩ごしに後ろを指差すと、


に、って事だと思います」


「……ぇ」 

 それは。

 それが意味する事は。

「俺も気づいたのは今さっきなんですけど、ホネスケ先輩には始めから見えてたらしいです」

 、何者かがここに居た。

 紅巴はごくりと生唾を飲み込んだ。

「お巡りさん、初めは俺の後を追って来てたけど、途中から全然違う方向に走るから……こっちはホネスケ先輩の住処もあったから、気になって……」

 全く気が付かなかった。あの時、目の前の少年を見失ったばかりか、自分への大きな危険を見落としていたという事だ。

 追跡されていたのは自分の方だった?

 否、或いは。

 

 ――人気の無いこの場所に、誘い出された。


「……ゎ、わかった……ありがとう。ホネスケ先輩さんにも、そう言っておいてくれるかな……」 

 紅巴の掠れた言葉に天示は「はい」と答えると、ホネスケ先輩と対話を始めた。

 その姿を脇目に見ながら、紅巴は思考を走らせる。

 

 この少年が言ってる事は、恐らく事実だ。

 最初の出会いで逃走した様子から考えれば、自分と言う障害は居なくなった方が都合が良い筈。なのに、わざわざ自分から姿を現し、突飛な嘘を付くメリットは薄い。ブラフにしても突拍子が無さすぎる。

 そしてもし、仮に彼の言葉の全てが真実であるとすれば、災真と会話が出来る少年の存在は、今後の災真事件解決の大きな力となる筈だ。

 

 そうこう考えていると、ホネスケ先輩との会話を終えた天示が、紅巴の方に向き直った。

「『どういたしまして』的な事を言ってます」

「そう、ありがとう」

「後『帰れ』って」

「そ、そう……」

 親切なのか辛辣なのか良く分からない骨だと思った。

「じゃあ、行きましょうか。もっと詳しい話も聞きたいし」

 そう言って促す紅巴だったが、天示の足は動かない。

「? ……どうしたの?」

 紅巴が問うと、天示は絞り出すように応えた。

「あの……付いて行きます。抵抗とかもしないし、言う事も聞きます。でも一つだけお願いがあるんです」

「お願い?」

 突然の切り出しに、紅巴が向き直る。

「はい、俺の事はもう良いんです。でもホネスケ先輩の事は……今日ここで見たって事は、誰にも言わないで下さい」

 天示の言葉に、紅巴が少し思案する。

 しかし、

「……ごめんね、それは出来ない。私には報告の義務があるし、彼が今後何らかの犯罪行為に関わらないと言う保証もないから――」

「保証なら俺がします。ホネスケ先輩が人を傷付けるなんて事、絶対にありません。優しい骨なんです! 凄く良い骨なんです!!」

 食いつく様に天示が言葉を返した。先程までの怯えた印象の少年とは打って変わって、そこには確かな強い意志が伺えた。

 必死にホネスケ先輩を庇う少年を見て、紅巴は言葉に詰まる。

「……私がどうしても無理、って言ったら?」

「俺は貴女に着いていかないし、貴女の言う事も絶対に聞きません。後、貴女がしようとする全ての事を、全力で邪魔します」

 真っ直ぐに紅巴の方を向いている少年。フードに隠れて表情は解らないが、力強い想いが伝わってきた。

 守りたいものがあるのだと確かに感じさせる、少年の覚悟そのものをぶつけられた気がする。


「………」

「………」

 しばらくの間、無言で向き合う二人だったが、

「………………」

「………………ふぅ」

 

 先に根負けして口を開いたのは、紅巴の方だった。

「分かった。でも、それなら私からもお願いしていい?」

「は、はい! ありがとうございます!!」

「三つ」

「はい! 何でも言っ……みっつぅ!?」

 割に合わなくね? と天示が文句を言う間もなく、左手を腰に当てた紅巴は、右手を突き出し、人差し指を立てた。

「一つ、ホネスケ先輩さんが今後、何らかの事件に関わっていると私が判断した場合、いつ如何なる時でも、私をホネスケ先輩さんに会わせて。絶対嘘はダメ」

「はい……それは約束します」

 気づけば先程までの気弱な印象の少年に逆戻りしていた。

 紅巴が中指を立てる。

「二つ、ホネスケ先輩さんが何らかの事件を犯した場合、私は今日起きた事の全てを打ち明け、対災真機関全ての力を以て、ホネスケ先輩さんをします」

「……分かりました」

 仮定の話だが、可能性はゼロではない。

 どんな人間だって道を外す事はあるのだ、災真とて例外ではない。

 何より、ここで『NO』と答えるのは卑怯だと思った。

 紅巴が3本目の指、親指を立てた。

「で、三つ目」

「……」

「……」

「……?」

 紅巴の言葉が止まってしまう。

 身構えていた天示は、やや拍子抜けした調子で「あの」と声をかけようとした。

 ――その時だった。

 『ふふり』と意地悪な笑みを浮かべた紅巴が、ぴょんぴょんと跳ねながら天示に近づくと、立てていた自分の指で、天示が被っていたフードの先をちょいと掴み、


「人と話す時は目を見を見て……話しましょーっ!」


 満面の笑みで。『話しましょーっ!』のタイミングに合わせて、天示が被っていたフードを剥ぎ取ってしまったのだ。 

 突然の出来事に思考が固まる天示。

 白日の下に晒される首から上。

 そんな少年の顔を『してやったり』と言わんばかりに覗き込んだ紅巴だったが、直後に驚きの声を上げたのは紅巴の側だった。

 

 褐色の肌に端正な顔立ち。今は驚きに染まっているが、優しげな瞳は深いダークグリーンの色合いで、何処いずこかの神聖な森の奥地にある聖域を思わせる。

 背はそれほど高くなく、体の線も細い。どこか中性的な印象を感じた。

 髪色は少し無造作な黒髪であったが、とても自然体で、穏やかな風貌の少年によく似合っていた。


「う、わぁ……綺麗な顔……。君、男の子……だよね? ハーフとか?」

「あ……ぁ……」

 感嘆の吐息と共に、紅巴は率直な感想を述べる。

 天示は気が動転しているのか、その問いに答えられない。

「本当に綺麗……。でもどうしてフードで顔を隠してたの? 逆に変だったよ?」

 かなり興奮しているのか、紅巴は天示をまくし立てる。

 しかし、天示の返答は意外なものだった。


「あの…………?」


「え? 何が?」

「俺の顔を見て、何ともないんですか?」

 紅巴には、少年の質問の意味が分からない。

「何ともないって……何が? びっくりしなかったかって事?」

「いや違……そうじゃなくて。その……イライラしたりとか、ブン殴りたくなったりとか……しないんですか?」

「……はい?」

 ますます訳が解らない。少年の中で、自分はどんな人間になっているのだろうか。

 少し怪訝に思った紅巴が、天示に詰め寄った。

「君ねぇ。人の顔を見ただけで怒ったりするのはとても失礼な事だし。暴力を振るうなんて以ての外でしょ? まだ今日会ったばかりなのに……私、どんな風に思われてるの?」

「ご、ごめ……なさ……」

 自分の顔のすぐ近くまで迫った紅巴に、天示がおどおどと謝罪した。

 その反応を見て『全くもう』と口を尖らせた紅巴だったが、すぐに破顔し、天示の顔を真っ直ぐに見つめ直す。

「言ってる事はよく解らないけど、手荒な事をするつもりはないから。安心してね」

 そう言って柔らかく、微笑んだ。

 こんな風に、天示が家族以外の異性に笑いかけて貰ったのは、いつ以来だろうか。

 感極まり、不意に涙が溢れる。

「へ……? あ、あれ!? どうしたの!? 私、何か悪い事言った!?」

 その様子を見た紅巴は、途端にしどろもどろし始め、「本当に怒った訳じゃないから!」だとか「大丈夫? どこか痛い?」だとかの心配の言葉を掛け続けてくれた。 

 

 ――そんな些細な優しさが、少年にとっては何よりも嬉しかった。

 

 自分の人生で、今後一生与えられる筈がないと思っていた物が、今日、こんな場所で与えて貰えるだなんて、思ってもなかったのだ。

 すっかり涙声になってしまった天示だったが、自分の事を気にかけてくれた紅巴に「ありがとうございます」とだけ、小さく返す。

 しかし、あたふたしている紅巴の耳に、その言葉は届かなかった。



 数分後、ようやく少し落ち着いた天示に紅巴が切り出す。

「……もう、平気?」

「はい、すみません。色々思い出しちゃって……」

 思い返すとかなりカッコ悪い姿だった。うっかり、と言うには余りにも恥ずかしい。 

 でも、そんな姿を紅巴は嘲笑する事もなく、真っ直ぐ向き合ってくれた。

 心配してくれた。

 

 ――

 

 それだけで、少年の心は満たされた気持ちになっていた。

「そうなんだ……。じゃあ、向こうに車が停めてあるから、一緒に行きましょうか」

「はい、分かりました」

 そう言って天示を促した紅巴だったが、顔は少年の方を向いたままで、足は動かさない。不思議に思った天示が、紅巴に声をかける。

「あの、何か」

「待って、動かないでね。……ほっぺた汚れてる」

 そう言うと、紅巴はハンカチを取り出し、ゆっくりと天示の頬に手を伸ばした。

 そうして、紅巴の指と、天示の頬が触れた。

 ――次の瞬間、

 

 腕を強く引っ張られる感触の直後、天示の視界の上下が


 天示はすぐにと気づいたが、それが確信に変わる頃には、自身の体は地面へと叩きつけられ、意識は闇に溶け始めていた。

 

 注意一瞬怪我一生。今日の自分は油断してばかりだ。

 紅巴が遠くで何かを叫んでいるようだが、今の天示にその内容は伝わらない。

 完全に脳のスイッチが切れる直前に天示の耳に滑り込んだのは、ホネスケ先輩の刀の鯉口が閉じる音だった。

 

 ――ちん。 

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