翠灮のセヴン

灯真リウ

prologue

第0話 泥の夜

 ――街の空に突如現れたを見た瞬間、今夜ここで俺は死ぬのだと思った。


 見上げた視界が純黒に染まっていく。

 さっきまで聞こえていた街の喧騒が耳を離れ、消えていく。

 忽然と現れ、藍色だった夜空を真っ黒に塗り潰したが、何か大きな魔法陣のような物だと気づいた瞬間、空から大きな塊が降って来るのが見えた。

 無意識に、降下してくるを目で追う。

 やがてドシャリ、と言う鈍い音と共に地面に落ちたは、黒い泥の塊であった。

 

 落ちた泥が、蠢いている。


 まるで意志を持っているかの様に。

 或いは落下の痛みに律動するかの様に。

 或いは地上に降り立った喜びに、身を震わせるかの様に。

 

 或いはを、咀嚼しているかの様に。

 

 そう言えば、あそこには誰かが立っていなかっただろうか。

 俺と同じ様に、空を見上げていなかっただろうか。

 おぞましい想像をしている筈なのに、何の感情も湧かない。

 恐怖を感じる余裕すらなく、淡々と動向を見つめる。

 誰も悲鳴を上げる事なく、俺と同じ様に、黙ってその光景を見ている。

 

 再度、空から泥が降ってくる。

 今度はその一部始終を、ゆっくりと目で追う。

「ぁ――」

 ようやく俺の口から微かな声が出た。と同時に、それは起こった。

 50m程前方に立っていたおじさんが、泥に喰われたのだ。

 

 次々と泥が落ちて来て、あらゆるものが呑まれていく。

 逃げなきゃいけない筈なのに、体が動かない。それ以前に、逃げようとする意思そのものが働かない。

 一つ、また一つと降り続ける泥。言葉もなく、まるで全てを受け入れているかのように呑まれ続ける人々、車、街。

 ふと、空に浮かぶ魔法陣の一角が俺の方を見ている気がした。

 体の芯が一瞬で凍り付く。

 と宣告された気がした。

 

 直後、俺をめがけ、空から泥が落ちてくる。

 世界から色が消え、時間の流れがひどくゆっくりに感じる。

 眼前に迫る泥を見ながら、ぼんやりと思う。 

 こんな事になるなら、の話をもっとちゃんと聞いてあげれば良かった。

 『お前なんか家族じゃない』なんて、言わなければ良かった。

 自分が人間ではないと認めたくなかったばかりに、汚い言葉を吐いてしまった。

 酷く、傷つけてしまった。

 あの時、俺がぶつけた言葉に涙を零したの顔を思い返しながら、目を閉じた。

 

 程なく泥が地に落ち、俺の体を飲み込――


『うちの弟になぁーーにしとるかぁーーー!! コラァーーーーーーーーーーッ!!』 


 突如、クッソ馬鹿でかい怒鳴り声に思わず目を見開いた刹那。眼前の視界がからへと燃え上がり、俺の周囲にあった黒い泥の全ては、一粒の欠片も残らず、劫火に灼かれ、消滅していた。

 そのほんの一瞬の出来事に俺は息を呑む。 

 さっきまで泥に蹂躙されていた世界は、鮮やかな炎によって灼き払われていた。

 赤い炎が俺の全身を包み始める。

 だが、その炎には人の肉を焼く熱はなく、氷の様に冷えきっていた心を優しく解きほぐしてくれる、穏やかな温もりだけがあった。

 同時に、生きる為の気力を俺に与えてくれる。

 途端に脳がクリアになり、考える力も取り戻した。

 炎から生まれた赤い粒子が広範囲に伸びていき、泥に蝕まれていた街に降り注ぐ。

 すると、泥の影響で枯れ果てていた街路樹が活力を取り戻し、捕食を免れた人々も徐々に立ち上がり始め、各々が何かを叫びながら、一斉に動き出した。

 この場から逃げる為に駆け出す人。

 誰かを助ける為に声を上げる人。

 誰もが、生きる為に走り出した。

「これ、は……」

 

 ――生命いのちの炎。 

 

 間違いない、の力だ。

 でも、こんなに大きな力を持ってるなんて、知らなかった。せいぜい剃り傷を治せる程度だと思っていたし、本人からもそのようにしか聞いてなかった。

 何より、あいつがあんなにも大きな声で叫んだのは、今まで聞いた事がなかった。

 、という安心感からだろうか。一気に体が軽くなった俺は周囲を伺うと、すぐに声の主あいつを探した。

 

 てっきりすぐ傍にいる物だと思って探していた声の主は、意外にも遥か前方の空に滞空していた。

 

 年の頃は15歳程の、やや赤みがかった、長い黒髪の少女。

 真紅の燐光を纏いながら、劫火の翼を広げ、紅玉ルビーみたいな色の瞳で、上空に浮かぶ、巨大魔法陣を見上げ、睨みつけている。


「あんな遠い所から叫んでたのか……?」

 どんな声帯してるんだと問い詰めたかったが、ゆうに300m以上は離れてるであろうここからでは、きっと俺の声は届かない。

 俺が駆け寄ろうと一歩踏み出したその時、空中に待機していた少女は一際朱紅あかく輝くと、翼を大きく翻し、一条の閃光となって魔法陣の中心部へと飛んでいった。

 その姿を、なんとなく『炎の剣みたいだ』なんて思いつつ、赤い光の帯が示す先、魔法陣の中心部へと羽ばたくあいつを追って、俺も駆け出した。


 『酷い事言ってごめん』って、謝りたかった。

 『でも声でけーよ。恥ずかしいだろ』って、照れ隠しに文句を言いたかった。

 『でも、助けてくれてありがとう』って。

 『ちょっとだけカッコよかった』って。

 

 『』って言ったら、どんな顔をするのか、見てみたかった。

 

 そんな事を考えながら、俺は走り続けた。

 あいつの力の影響だろうか、黒い泥はもう落ちては来なかった。

 実はまだ、ほんの少し怖かったけど、早く会って話をしたいと言う一心で振り払い、脇目もふらずに走った。 


 この時の俺はで、後々、自分の生涯に続く後悔を抱える事になるだなんて、知らなかったんだ。 


 後にこの事件は、大型災真さいま事件〈黒の天蓋〉と呼ばれる事になる。

 恐らく数字に加わってはいないけれど、死者、行方不明者含め131人の犠牲者の中に、あいつも含まれている。

 

 奥乃天示おくのてんじ、13歳の冬の日の出来事だった。

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