8 森の終わり

亮は久々に森を歩く気分だった。

実際には一日歩かなかっただけだが。その一日が、森を歩くだけの単調な時間と違って、密度のある一日だったからだろう。


疲労も溜まっていたし、スケルトンにやられた傷も痛むが。充実した気力が、それを補った。

しかも、今進む道は、以前までと違って希望に満ちていた。歩きながら地図を取り出し、目指す街にテシュラと書き込む。あと九日。正直長いが、この森に終わりが見えたのは大きい。


地図を見直し、地図のもっとも東に書かれた山を見て苦笑する。

デュポアール山。目印として目指していた山。その麓までこの森は続いていて、街や街道などない。精霊に出会わなければ、死んでいたところだ。


歩きながら昼食を取ろうと、グンナロにもらった頭陀袋を開ける。中には、黒パンと干し肉、燻製、乾燥豆、チーズが入っていた。


黒パンは水が無いと食えたものじゃないので、川まで我慢するとして。干し肉とチーズを切り分けて、食べた。

この先、九日分としては心許ない量だが。保存食だというのはありがたい。きちんと配分を考えれば飢える事はないだろう。


順調かつ単調に進み。予定通り、三日目には川にたどり着いて。前回と同じく、その日、一日を魚捕りをして過ごす。

全部を干物にしながら、ついでに洗濯と水浴びもした。


久々にさっぱりして、夕暮れの空を見ていると、あることを思いついた。

泉の方向を背にして、三十度右を向く。これが北。

夕日は亮の左に沈んでいて。この世界でも太陽が西に沈むのだと分かった。


これで、最低限の方角が分かるようになった。

月があの様子だから、太陽も怪しいと思っていたが。考えすぎだったようだ。


遺跡を出て五日目。泉の結界に入った。

実際は以前感じた、霧を抜ける感じという奴だが。今回はごく自然に、結界に入ったなと思った。感覚が以前より強くなったのは、ひょっとしたら精霊結晶を持っているからかもしれない。


六日目の朝。あたりを濃い霧が立ちこめ始める。

何かに急き立てられる感覚がむくむくと沸き上がり、気がつけば走り出していた。

「待て」と自ら声に出して。意識して止まると。深呼吸をして心を落ち着ける。


久々に足を踏み入れた聖域は、朝露が輝いて見える。まるでそれは、帰ってきた半身を森自体が歓迎しているようだった。


「ただいま戻りました」


泉の水が盛り上がり、精霊が姿を現す。


── おお、人の子よ。よくぞ我が身の欠片を持ち帰ってくれました──


精霊の声は、歓喜に満ちて。泉の表面に、踊るように波紋が揺れる。

亮は精霊結晶を取り出すと、枯れた台石に向かう。溝の底にそっと置くと、石は青く明滅して。見る見るうちに水が溢れ出した。


── おお、おお。力が戻る ──


流れ出た水を見つめながら、悶えるように言った。


── これで我が力のほとんどが戻りました。この喜び、この感謝が汝にはわからぬであろう ──


ほとんどというのが気になったが。よく見れば台石が以前見たものと違う事に気がつく。


「失われた精霊結晶がまだあるんですか?」


── 如何にも、すでに我が半身は、その力を失って久しい。されどそれは、汝の与らん事。汝は見事契約を果たしてくれた ──


そう言うと、身を乗り出し。両手を亮の顔に添えて、その額に口づけした。


「な、何です!?」


亮は真っ赤になり。慌てて身を離そうとして、その場にへたり込んだ。

その時、右手の章印が激しく疼き。頭の中に、知るはずのない様々な言葉が溢れ出す。

知るはずのないそれらを、亮は呪文であると、当たり前のように認識できて。その感覚は。忘れていた思いでを、ひょんな事から思い出したようだった。


── 水の理の一部を授けました。章印は日が落ちるまでそのままにします。操れるよう精進なさい ──


「ありがとう御座います! でも良いんですか?」


── 汝はそれだけの事をしてくれた。この喜びに報いるに十分な対価を我は知らぬ ──


それほど嬉しいのかと、亮は納得して。返すことも出来ないのだし。この贈り物を有り難くいただく事にする。

泉から離れて、深く一礼。


「ありがとう御座いました」


── 人の子よ、もう会うことも無いでしょう ──


そう言うと精霊は崩れ去り。同時に周囲の輝きも収まって、なんだかもの悲しくなった。亮はもう一度礼をすると、微かな水音を聞きながら。静かにその場を離れた。


霧を抜けるまで歩くと。いつもの山が左手に来るように方向を変える。

章印はまだあるが、泉の方向を感じる事は出来なくなっていて。あまり正確な方向はわからないが、これで南に進んでいるはずだ。


歩きながら、教えてもらった呪文を反芻する。

空になったペットボトルを取り出して、意識を集中。間違いの無いよう、一言一句慎重に呪文を唱え。空中に印を切る。


詠唱の終わりと共に、パチンと指を鳴らす。すぐさま、ペットボトルの中に、見る見るうちに水が溜まり始めた。

まるで見えない蛇口から水を注いでいるようで、亮は思わず感嘆の声をあげる。

まさか自分が魔法を使う日が来るとは。これは、感動ものだった。


同時に全身に強い疲労感を覚えたが、しばらく立ち止まっていたらすぐに治まって。これで水に困る事はないと喜ぶ。

サラが、水の章印持ちが魔法を使えたら水に困らないと言っていたのは、こういう事かと納得した。


その日の夜。久々に喉の渇きを感じた。精霊の加護がなくなったらしい。


豊富な水もある事だし、夕食はスープにしようと決め。焚き火の前で、だいぶ軽くなった頭陀袋を開ける。

すると中に今まで気づかなかった革袋が二つ入っている事に気がついた。


一つを取り出してみると、見た目に反してかなり重く。その中には数枚の金貨と小金貨、その数倍の銀貨と小銀貨が詰まっている。

もう一つの袋は軽かったが。こちらはいくつもの宝石が入っていた。


「分け前……ね」


粋な事をやってくれると、小さく笑い。気の良い冒険者達を思い出す。ほんの数日前だが、今の亮には酷く懐かしく感じた。


鍋を出し、中に乾燥豆と、ほぐした干物を入れると。静かに姿勢を正して、≪水作成≫の呪文を詠唱し始める。鍋に向かって指を鳴らすと、魔法が発動し、鍋に水が注がれ始めた。


その途端、先ほどの数十倍の脱力感が全身を襲い。激しい目眩に、なすすべなくその場に倒れ込む。急速に暗転していく視界の中、右手の甲に何も書かれていないのが見え。ぷっつりと意識が途切れた。


意識を取り戻したのは翌朝だった。こめかみに刺すような痛みを感じながら身を起こすと、あらためて何もなくなった手の甲を見つめる。

精霊の庇護の証。魔法の消耗が急激に増えたのは、それを失ったからだと感じた。


精霊が日暮れまでに精進しろといったのはそのせいだろう。もちろんそう言ったのだから、練習しだいで何とかなるのであろうが。

その度に気絶するのでは、たまったものではない。これは、簡単な魔法で慣らしていくしかないようだ。


幸い、昨日の鍋は無事で。そのまま火にかけて朝食にした。


スープに浸けて程良くふやけた黒パンを食べながら。地図を開きこの先の状況を確認する。予定ではあと三日で川に出て。その川を下流に向かって一日いけば、テシュラに着くはずだ。


食料も三日は保つだろうし、川に着けば魚も穫れる。水は問題だが。慎重にやれば、気絶しない程度の量を魔法で作れるかもしれない。


もう少しだと喜び、地図をしまうと。あと四日も歩くのに、もう少しと思ってしまう自分の感覚の変化に驚いた。慣れとは恐ろしいものだ。


それから二日あるいて、予想外の事が起きた。川にたどり着いたのだ。


確実に南に歩いていた訳ではないが。大きく蛇行する川のもっとも近い地点を目指していたのだ。

方向を間違え、早くついたとは考えにくいし。それなりの川幅もあり、書かれていなかった別の川とも思えない。


自分が書き違えたか、元からそうだったか。地図が少し間違っていたらしい。ひょっとしたら川の流れが変ったのかもしれない。

そもそも、測量技術も未熟であろう世界で。地図に完全な正確さを求める方が無理というもの。

どちらにせよ、街にたどり着ければ、別段困る事でもなし。亮は気にせず水は南に向かっていた事もあって。気にせず下流に向かって歩き出した。


だが予想外なのはそれだけではなく、しばらく歩くと。川に丸太を数本渡しただけの、簡素な橋が架かっているのを見つけた。

川を渡った先には、茂みを切り開かれ。踏み固められた細い道が森の中へと続いている。


突如現れた人の気配に。亮はたまらず走り出すと。橋を渡り、道を進んでいった。

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