2 水霊の鏡面泉
夜、焚き火の前でずいぶん前に空になった、紅茶のペットボトルを弄ぶ。遂に水が底を尽きていた。
萎びたカブを生でかじりながら、食料を確認すると。カブが一つ、スナック菓子一袋、板チョコレート半分、スルメゲソ二本。一通り目を通し、溜息と共に鞄を閉じる。
地面に式を書きながら、今まで歩いた距離を計算すると。おそらく100キロメートル程度だと考え。車がいかに速いかを思い知り。同時にこれだけの距離を歩いて、食料や水源が見つからないのが不思議だった。
出発前には、果実の一つぐらいは見つかるであろうと高を括るっていたが。花は咲いていても、実を付けた木は一本も無みつからず。あの雨の日からは、動物の姿も見ていない。更には水も尽きたとあっては、あんなにも邪魔だった雨を今は切望してやまなかった。
五日目は、一切の水分を取らず歩いた。それどころか、食事さえ取っていない。水が欲しくなるから、食べたくなかった。
夜になって焚き火の前でカブを食べ、黙って眠りにつく。あれほど恐ろしかった獣の気配など、もうどうでも良く。ただ、背後に迫る死神の足音から耳を塞ぐように、膝を抱えて丸くなって眠った。
翌朝は日が昇る前に、まるで待ちきれないかのように歩き出し。喉はカラカラで、唇はひび割れ、肌も荒れていた。反面、瞳はギラギラと輝き、進む道行きを凝視している。もはや、目標の山など関係なく、ただ歩を進め続けていた。
不意に辺りに霧がたちこめ、亮の乾ききった身体が水の気配にざわめく。
深い霧の中、進む先に煌めきが見え、期待を込めて近付くと。背の高い草をかき分けた先に現れたそれは。10メートル程の奇妙な泉だった。
泉は真円で、四方に1メートル程の石台が建っており。その石台から水が流れ出していた。
水は、まるで何も無いかの様に澄み渡り。石台から流れ込む水から生まれる、微かな波紋が光を反射しなければ。水があるとは気が付かない程。
水際は大地が垂直削れ、澄み切った水であっても底が見えない程に深く。それでいて水面と地表は高さが変わらない。
まるで、なみなみ水を注いだコップを、土に埋めた様だ。
周囲には所々で、芦に似た背の高い草が生え、草葉を形成していたが。不思議と生き物の気配はなく。ピンと張り詰めた様な空気が流れていた。
亮は荷物を捨てると、よろめきながらも駆け寄り。水際に跪いて、水面に手を伸ばす。
── お待ちなさい ──
不意に声が聞こえ、亮の動きが止まった。
本来であれば、乾ききっていて水に餓えた亮が、声を掛けられただけで動きを止める事は無かっただろうが。その声は、亮の心に沸き上がり。一瞬、自分の思いと錯覚した。
唖然とする亮の前で、水面を波紋が一点に集まるとゆっくりと盛り上がり、徐々にその姿を変えていく。それは人の形をとっていき、美しい女性を形作った。
唖然とする亮を、感情のこもらない瞳で見つめ。水の女は、またしても心に語りかけてくる。
── 人の子よ、この聖域に何故足を踏み入れた ──
その詰問といった雰囲気に、亮は咄嗟に姿勢を正す。
「すみません、聖域とかそういうのは分かんなくて。どうか水を分けてもらえませんか?」
喉が乾ききって、掠れた声で必死に訴える。女の表情は変わらず、まるで氷像に話しかけているようだ。
女は何か考えているのか、しばしの沈黙が両者の間に流れた。
突然現れたファンタジーそのものといった存在を相手にしている亮は、緊張で堅くなる。飲み込む唾も無く、ただ両手を握って正座した膝に乗せ、女の顔を見つめ続ける。
口を開けないので、亮にとっては突然に女の声が届いた。
── なるほど、円環を離れし存在ですか。ならば加護を持たぬ者が、結界を抜けたのも肯けます ──
異邦人であることを認識していた亮には、言っている意味が何となく分かった。女の言葉を、異世界人である亮には結界が効かなかったと認識する。
── 人の子に我が身を与える事はありません ──
これは先程の願いに関する回答であろうと思われ、亮は大いに落胆した。力ずくでというのも、この畏怖すべき存在の前には不可能であろう。
── しかし、渇きは苦痛の極み。我らが願いを叶えるというのであれば、見返りに汝の渇きを癒しましょう ──
「貴女の願いですか?」
食い入るような眼差しを受け、女はゆっくりと石台を指さした。
亮が近付いてみると、石台の上には溝が掘られ。その中に雪の結晶の様な六角形の青い石が置かれており。その溝からとめどなく水が湧き出し、溝を伝って泉に流れ込んでいる。
次に女は、別の石台を指さす。その石台からは水が出ておらず、そこには先程の石が無かった。
そのことを確認し、亮が女に向き返ると。またも声が届く。
── 我が身の欠片は人の子に奪われました。それを持ってくるのであれば、一時的に我らが加護を与えましょう ──
「それは何処にあるんですか?」
── 我が身の在りし場所は、加護と共にそなたにも感じられよう ──
「いつまでに持ってくればいいんですか?」
── 出来うる限り早く ──
「出来なければ?」
── 火を消すのみです ──
思わず息をのむ。
場所は分かるが、何処かは分からない所にある石を。出来る限り早く持ってくる。
最後の火を消すというのは、失敗すれば死ぬという事と捉える。
背に腹は代えられないが、石の在処が問題だ。誰かの所有物だったならば、手に入れるのは難しいかもしれない。もしも海深くに沈んでいたりしたなら、一生かかっても手に入りはしないだろう。
亮は悩みながら、その場に座り込む。もちろん、水への渇望は治まってなどいない。しかし、下手をすれば、死ぬことが確定してしまうのだ。
「手に入れるのが無理な場合もありますよね?」緊張に声が上ずる。
こちらから譲歩を求めるという事に、かなりの勇気が必要だった。
── 人の手には余る事態であるか ──
刹那の沈黙。
── わかった。そのような時には、諦めよう ──
一瞬、女が微笑んだように見えた。
「ありがとうございます!!」
亮は跳ねるように立ち上がり、最敬礼。
「全力を尽くします!!」
── ならば加護を授けます、手を ──
そう言って女が両手を皿のように差し出す。亮も慌てて同じように手を差し出すと、女の指先から水が滴り落ち始め。亮の手の中に、冷たく澄んだ水が溜まった。
── 飲みなさい ──
怖ず怖ずと飲み干す。
乾ききった喉に、冷たい水が落ちていくのが解る。それは亮の身体中を駆け巡り、亮は自身の体に水が満ちていくような感覚を覚えた。
たった一口の水で、脱水症状の全てが改善されたようだ。
体を駆け巡った冷気は最後に右手に集まり、手の甲に複雑な図形を浮かび上がらせる。図形は淡く青い光を何度か発すると、深い青色で落ち着いた。
「これは?」
すっかり声の戻った亮が訪ねる。
── 庇護者の紋章、加護の証にして制約の枷。章印 ──
亮は章印をしばらくの間まじまじと見つめる。加護といっても、別段変わった点は感じられなかった。
── 我が身を取り込み。そなたは使命の間、渇きを感じる事は無い。契約の元、急ぎ使命を果たせ ──
いったい何処に行けば良いのかと、聞こうと思った時。奇妙な事だが、女が先程言っていたように目的の方向が解る事に気づいた。
ならば、約束の通り。出来うる限り早くしなければならない。荷物を拾うと、女の方を見る。
「あの石は何という名前ですか? それと、貴女はいったい?」
── 我らは人より精霊と呼ばれる存在。我らの欠片を、人の子等は精霊結晶と呼んでいる ──
そう言うと、女の姿は崩れさる。
── 行きなさい人の子よ。使命が果たせざる時も、その証として、この地に戻って来なさい ──
それを最後に。泉はまた、微かな波紋を浮かべるだけの静寂が戻った。
亮は霧の中を確固たる自信をもって歩き始めた。
霧が晴れ、ただの薄暗い森に戻っても、精霊結晶と精霊の泉の方向を示す事が出来る。それは、何とも奇妙な感覚だった。
自分の部屋で、一番近い自販機の方向を指さすような感覚で。違和感が無い事に、違和感を感じる。
森を歩き始めてしばらく経つと、空腹を感じ。忘れていた足の痛みも戻って来た。水分補給の心配が無くなっただけで、今現在も生命の危機である事に変わりは無い。
食料が少ないし、目的地もまだ遠いように感じる。
今思えば、精霊結晶までの道中で食料が得られなければ、無補給で往復する事になる。勿論それをやれば、死ぬ事は確実。
出来うる限り早くと言うことは、死なないように回り道をしてもいいと言うことで。まずは食料の確保が先決といえる。
鞄からスナック菓子を取り出して、歩きながら食べる。最近薄味な物を食い続けていた舌には、なかなかに塩辛く。水が無かった先程まで食べる気など起きなかったが。
食べても喉は乾くそぶりも見せず、感動した。
大気中の水分でも吸収しているのであろうか? 何にせよ、精霊の力は偉大である。
そう言えば、他人と話したのは久し振りだったと気が付き。言葉が通じたのに今更驚く。
文字が読めないのだから、話も通じないだろうと考えていた。そもそも会話だったかと尋ねられれば、答えに詰まる状況ではあったのだが。
スナック菓子を半分まで食べて、残りは夜まで残しておく。
足もそろそろ限界だったが。せめて夜まではと、歯を食いしばって歩いた。
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