第21話 一杯の水

「ここに一杯の水がある」

 テーブルの上に透明のグラスに注がれた一杯の水が置いてある。コップはお世辞にもきれいとはいえないが、水は透き通り濁りはない。


「これが最後の一杯というわけか」

 黒岩は生唾を飲み込みながら四角い会議テーブルを遠くから眺めていた。酷く乾燥した空気がより一層、喉の渇きを助長する。

「そういうことだ。これをどうするか、みんなで決めようということだったが、それに関して、何か意見はないか。何も建設的な意見でなくてもいい。ここに至って理屈をどうこう言っても仕方がないことだ」

 安田隊長は、集まった他の6人の顔を一人一人見まわした。


 3人ずつ向かい合わせで座ることができるグレイの会議テーブルが部屋の真ん中に一つ。背もたれのあるローラー付のイスは全部で8つある。テーブルの周りに6人。隊長はテーブルの奥に腰掛け、その右側に若い2人が、左側に年配の男と丸顔の目の細い男が座っている。黒岩はテーブルから離れ、イスを反対向きにして背もたれを抱きかかえるようにして隊長の正面の位置に座っている。


 誰も口を開こうとしない。安田隊長は沈黙が答えであると判断した。


「よろしい。第一案はこれを7等分し、全員の渇きをわずかでも満たす。公平ではあるが、その後はただ死を待つだけだ。第二案は代表者を決め、その者に水をすべて与える。与えられた者は外を探索し水を持ち帰るという案だ。これも確率的になんら保障されるものではない。ここまで、いいか」


 ここで加藤が口を開く。

「形式ばったことは、いいでしょう。みんな覚悟はできています。多数決で第一案か第二案かを決め、第二案であれば誰がその役割を担うのか、挙手で決めればいいことです」

 加藤は黒岩のさらに後ろの壁に寄りかかり両腕を前に組んだまま誰にも視線を合わさなかった。


「そうだな。では、最初に第一案か第二案かを決めよう。第一案がいいと思う者、挙手を願う」

 田中、鈴木がゆっくりと手を上げた。二人はこの中では最年少者だ。第二案に対して黒岩、加藤、中村、斎藤が手を上げた、そして最後に安田隊長が手を上げた。

「決まりだな」

 黒岩は上げた手を頭の上で組み、他のメンバーの顔を眺めた。


「田中と鈴木には申し訳ないが、異論はないな」

 最年長の斎藤が、二人が並んで座っている席に歩み寄り肩を叩く。田中と鈴木は静かにうなずいたが、これで自分は水を飲むことはできないのだと思うと、テーブルの上のコップを視界に入れたくはなかった。


「では、次に誰が外に水を探しに行くかということだが、このまますぐに挙手で決めるか?」

 安田隊長の言葉にすぐに加藤が反応した。

「田中と鈴木以外は、すでに候補者を決めているんじゃないですか。二人がよければこのまま進めて問題ないでしょう」

「異議なし」

 黒岩が答える。

「どうだろう? 田中、鈴木」

 安田隊長が2人に確認を取った。


「僕に外で水を探すなんてことはできませんし、誰が適任なのかを判断することもできません。できれば棄権させていただきたいのですが」

 田中は下を向いたまま声を震わせながら答えた。

「僕も、田中と同じ気持ちです。棄権させてください」

 鈴木は肩を落としている田中と対照的に笑顔を見せたが、その表情には確実に疲れが見えていた。


「どうだろう。私は彼らの棄権を認めてもいいと思うが」

「異議なし」

 安田隊長の問いかけに黒岩が答える。中村はうなずき、加藤はOKとつぶやいた。

「二人にはつらい思いをさせて申し訳ない」

 斎藤は二人を気遣って見せた。

「私も候補者からは辞退させていただく。理由は簡単だ。この老体では水を探すなど到底できんからな。ただ、挙手はさせてもらう。それはよろしいな」


 斎藤は早くに妻を病気で亡くし、子供もいなかった。天涯孤独という言葉をよく口にしていたが、人望は厚く、隊長の安田よりもメンバーの個人的な相談を受けていた。安田は几帳面で公明正大な男であるが、その分とっつきにくい部分もあった。安田は髪の毛を短く刈り上げ、無精ひげをはやすようなこともなかったが、斎藤は髪を伸ばして後ろで結び、立派な顎鬚を蓄えていた。髪の毛はロマンス・グレーで銀縁の眼鏡がよく似合っていた。人懐っこい笑顔が印象的だ。


「老い先の短い身だ。非常事態には非常事態のやり方がある。人道的かどうかなんていうのはこの際抜きにして、一人でも多く生き残れる選択をしていかなきゃならん」

「斎藤さんはまだまだお若いではありませんか」

 安田は隊長としてではなく、よき先輩に対して敬意を表した。

「50になったときにパーティーを開いてもらった。あの時酔った勢いでお前さんに『上司がいつまでも結婚しないから部下が遠慮して結婚できないんだ!』なんて言っちまったが、これで生き残れたら、ちゃんと実行しろよ。年寄りの言うことは聞くもんだぜ」


 斎藤が眼鏡をはずし、汚れをシャツで拭きはじめたのを見て安田隊長が口を開いた。


「では、5人で挙手をする。候補は4人。黒岩、加藤、中村、そして私だが、私が選ばれた場合、あとの指揮は斎藤さんにお願いしようと思う。みんな異論はないと思うが」

 斎藤が眼鏡をかけ直し、小さく2回うなずく。

「異議なし……といいたいところだけど、その場合はまた隊長代理をみんなで選ぶというのはどうです。いえ、斎藤さんが適任であるかどうかではなく、あくまで決め方の問題です。ここまで、合議でやってきたんですから、同じやり方のほうが後腐れないでしょう」

 黒岩は中村の丸顔の細い目の微妙な表情から、斎藤を隊長代理にすることに異論があることを察し、そのような意見を具申した。中村は口数が少ないが、すぐに顔に出る。他のメンバーはわからないかもしれないが黒岩にはそれがわかった。


 黒岩と中村はここのメンバーになる前からの知り合いだ。大学で同じゼミだった二人は、会社こそ別々のところに就職したが、業界は狭い。何度かの転職ののちに同じ部署に働くようになった。闊達で行動的な黒岩に比べると中村の印象は地味である。口数も少なく、冗談で人を笑わせるようなことはなかったが、人一倍責任感が強く、その分、他人に対しても妥協を許さない傾向が強い。


「そうだな。黒岩の意見には一理ある」

 安田は斎藤に視線を送り、斎藤は「わかった、わかった」というポーズをとった。


「他になければ、このまま採決に移りたいのだが?」

 ここで加藤が手を挙げた。

「なんだ? 加藤」

 加藤は上げた手を再び胸の前に組み、壁に寄りかかったまま話し始めた。


「候補者4人に対して、投票する人間が5人。たとえば全員が一人に投票という結果なら、誰も文句は言わんでしょう。しかし、票が割れ、2、1、1、1なんてことになれば、ちょっとどうでしょうね。4人の候補者を二つに分けて、これをAグループ、Bグループとして、両グループに対して5人が投票するという形なら、票が割れても3対2。AとBで選ばれた二人を同じ方法で選べば、より公平に投票ができるんじゃないですかね」


「なるほど。悪くないな」

 斎藤は加藤の意見に賛同した。

「そこまでする必要あるかねぇ」

 黒岩は態度を保留した。

「公平性という意味では、確かに聴くべき点がある」

 安田隊長は賛成に傾いていた。

「ぼ、僕は、賛成です」

 中村が口を開く。黒岩は少しばかり意外な気がした。もともと合議で決めようと提案したのは中村で、そこに修正案を加えられることを快くは思わないだろうと思ったからである。


「では、組み合わせだが、Aのグループは私と加藤、Bのグループは黒岩と中村でいいか」

「とっとと決めちゃいましょう。じゃないと水が蒸発してなくなっちゃいますよ」

 別に黒岩はちゃかすつもりではなかったが、『水が蒸発』するという言葉に田中が反応した。

「黒岩さん、やめてください。そういう言い方。僕たちの身にもなってくださいよ」

 鈴木が慌ててフォローする。

「き、気にしないでください。僕や田中は大丈夫ですから」

「大丈夫なものかよ! 人の生き死にが掛かっているんだぞ! こんな時に冗談を言うなんて、信じられない」


 田中は席を立ちあがり、震えていた。

「あー、悪かった。悪かったよ。悪気はなかったんだ。謝るよ」

 黒岩はゆっくりと田中に近づき、右手を差し出した。

「なっ、田中、すまなかった」

 田中は黒岩が差し出した手をじっと見つめていたが、ゆっくりと右手を上げて、黒岩と握手を交わした。

「なんつーかさ。冗談でも言ってねぇと、やってられねぇって言うかさぁ、わかるだろう?」

「すいません。つい感情的になってしまって」


 田中はイスに座り、顔を上げて周りを見渡した。

「やっぱり、僕も、そのぉ……、参加してもいいですか」

 鈴木は驚いて席を立ちあがった。

「何をいっているんだよ。今更!」

 鈴木を黒岩が制する。

「いいんじゃねーのか。やっぱ、自分の運命は自分で決めたいって思うのが普通だぜ。俺は田中が加わっても構わないぜ」


 鈴木は田中に詰め寄る。

「何勝手なこと言ってんだよ。お前が下りるって言うから、俺もそれに従ったのに」

「仕方ないじゃないか。やっぱり自分のことは自分で決めたい。そう思っちゃったんだから」


 加藤が口を開く。

「まぁ、それはいいとしても、それならやはり鈴木も投票に加わらないとまずいな。このやり方は奇数でやらないと意味がない」


「なるほど。確かにそうだな」

 みんな一同に安田隊長のほうを見た。

「6人では票が割れてしまう。鈴木を入れて、全員でやるか、田中の意見を却下するかだが……」


「僕は嫌ですよ」

 鈴木はかたくなに態度を崩さなかった。

「無責任な投票をするくらいなら、責任ある棄権をします」


 そんなに意地を張るなと言いかけて黒岩は自重をした。おそらく鈴木は引っ込みがつかなくなっただけである。以前にも似たようなことがあったような気がしたが、具体的なことは何も思い出せなかった。鈴木は田中のことを思い図って行動する傾向があるが、結果、田中の優柔不断に振り回されることになる。よくも同じことを繰り返すものだと黒岩は思った。


「実際にやってみないと票が割れるかどうかなんてわからんぞ。満場一致で決まるということもあるだろう」

 斎藤は楽観的な意見を具申することが多い。隊長の安田が慎重な性格で、全体のバランスを考えてのことであったが、票が割れる可能性について、正直あまり心配はしていなかった。隊長以上の適任者はいないこと皆わかっているだろうと考えていたからだ。


 しかし、思わぬところから横やりが入った。

「それって、あれですか、ぼ、僕は選ばれないってことですか」

「中村、別にそういうことじゃない、私はただ――」

「まぁ、それはそれでさぁ、大事なのは形式的なことで、みんなの納得性が得られるかってことが問題なわけでしょう」

 斎藤の話を加藤が遮る。

「誰もが隊長が適任だと思いながらも、それを口にしないのは、隊長がここを離れたときに、残ったメンバーがうまくやっていけるかって、それが気がかりなわけよね。実際の話」


 加藤の言葉にみんな押し黙ってしまった。


 静寂が神経を逆なでる。それまで会話の中で忘れていた喉の渇きや、何日もシャワーを浴びていない皮膚の不快感がぞわぞわと身体を巡り、必然、みんなの視線はテーブルの上に置いてある一杯の水に集まった。


「すまない。私の指揮が至らないばかりに、このような事態を招いてしまって」

「誰も隊長を責めたりしていませんよ。こんな状況、誰も予測なんてできませんから」

 黒岩が安田隊長を弁護する。

「それはどうかな。物は考えようだ。些細な変化が遠くにある物に大きな影響を及ぼすこともあるって、どっかの学者が言っていたな。たしかカオス理論とかなんとかって……なぁ、田中」

 加藤に声を掛けられ、田中は肩をびくっとさせたがすぐに答えた。

「ええ。確かにカオス理論ですけど、あれは逆に絶対的な予測は不可能って話ですから」


「予測不可能ね」

 加藤は何か引っかかるものを感じたが、優先すべきことを進めることにした。

「カオス理論はともかく、これからどうするかだ。過去に起きちまったことは今更どうにもならないわけだし、このまま投票を続けるのか、それとももう一度振り出しに戻るのか。まぁ、考える時間はたっぷりある……とは言えないが、慌ててどうなるわけでもないだろう」

 斎藤が加藤に便乗し、もう一度冷静に話ができる雰囲気を作った。ここで安田隊長が口を開く。


「思ったのだが、誰か一人に危険な任務を任せるのではなく水を二等分し、二人で別々に水を探しに出るという方法はどうだろうか。水一杯での行動限界はおよそ24時間だと推定される。もちろん気候や地形による運動量などによって消費量は前後するし、個人差もある。たとえば一方向にしか探索できない場合、最初の一歩を間違えれば、そこでおしまいだ。しかし水を二等分し、AとB別の方角を探索すれば、行動限界は半分になるが、その分リスクも半分に減る。外で何が起きるかわからないという点も考慮すると、検討してみる価値はあると思うのだがどうか?」


「半分に分けるか……」

 黒岩はテーブルの上の一杯の水を眺めながら安田隊長の案について考えた。

「悪くはないと思うが、実際12時間で水を探せるかどうか、つまり片道6時間の範囲ということだからなぁ」

 斎藤は後ろに結わいた髪の毛を結び直しながら考えた。

「ここから6時間であれば、ぎりぎり有視界の範囲を超える程度。それもそれでリスクが高い気もする」

 黒岩は口ではそう言ったものの、正直どちらがよりよい選択であるのかわからないでいた。


「7人が5人になる」

 加藤は相変わらず壁に寄りかかったままだ。

「確かに。残った人数が偶数になるよりは、奇数のままがいいかもしれないな」

 加藤はこれから先、厳しい選択を迫られた場合、リーダー的な存在を失うことも問題だが、意見が真っ二つに分かれることの方が危険だと考えていた。


「問題を整理しよう。7等分はもうないとして、一人を選ぶのか、二人を選ぶのか。そして5人で採決するのか、6人か、それとも全員かということだと思うが、まず何から解決する?」

 斎藤が安田隊長に決議を促した。


「そうだな。改めて最初からやり直すということでいいのではないか。それなら鈴木も田中も納得がいくのだと思うが、どうだろうか?」

 田中はうなずき、鈴木は即答を避けた。

「ちょっと待っていただけますか。少し田中と話をさせてください」

「構わんが。ここでするか? それとも別室でしてくるか?」

 安田隊長は親指で背後のドアを指差したが、鈴木は両手を振ってその申し出を断った。

「ここで結構です。皆さんにも聞いていてほしいので」

「ああ。いいだろう」


 鈴木は椅子を田中の正面に持っていき、背もたれを前にして椅子にまたがり、背もたれに顎を載せて田中に話し始めた。

「俺たちはまだここに赴任してきて日が浅い。とても一人前の仕事ができているとはいえない人間が、重要な採決の一票を投じることになるんだぞ。お前、本当にそんなことができるのか。その無責任な一票によって、どういうことになっても後悔しないって、言い切れるのか」

「後悔はするかもしれない。だけど俺は後悔もできないような選択肢は選びたくないんだ。もしかしたらこれが、人生最後の選択肢になるのかもしれないのだから」

「田中……」

 鈴木は田中の決心が固いことを確認したかったし、みんなの前で話すことで言質を取れたことで決心がついた。


「わかった。そういうことなら俺も参加する」

「これで決まりだな」

 黒岩は鈴木と田中の肩に手をかけ、2人の顔を覗き込み安田隊長に採決を始めるように促した。

「安田隊長、始めましょう」


「では全員で3つの案について採決をとる。水を7等分することに賛成の者、手を上げてくれ」

 今度は誰一人手を上げなかった。

「では第2案、誰か一人に行かせるべきか、第3案、2人に行かせるべきかについて採決を取る。一人で行かせるべきだと思う者挙手を」


 斉藤、安田、田中が手を上げた。加藤は奇数を残すべきとの考えを貫き、黒岩、中村、鈴木もその考えに同調した形になった。

「よし。4対3で2人を行かせ、5人を残すことに決定した。では次に誰が行くかだが、私と、加藤、黒岩、中村の四人ということで異論はないか」

 誰も異を唱えるものはいなかった。

「では、この4人のから二人を選ぶことになる。先ほどのグループ分けの提案は一人を決める場合には有効だったが、二人を選ぶとなると、別の方法にすべきだろう。単純に4人の中から挙手が多かった者2名を選ぶか」


「どうでしょう。この場合挙手よりも無記名投票のほうがよくないですか?」

 鈴木の意見に加藤が異を唱えた。

「いや、そんな必要はないだろう。まずは一人目を挙手で決め、そののちにもう一度二人目を全員で選ぶ。それでいいんじゃないか」

「ふむ。それで公平性が損なわれるということはないだろう」

 黒岩が加藤に同調したが、中村は微妙な表情を浮かべていた。


「誰が行くということも大事だけど、誰が残るということも大事じゃないかな。その意味では一度に二人を決めるのではなく、一人ずつ決めるという方法がいいと私も思うな」

 斎藤は胸のポケットから手帳を取り出して3ページ破りとり、それをさらに6等分に切り、18枚の切れ端を作った。

「挙手が嫌なら無記名で2回、投票すればいい」

 斎藤自身は記名でも無記名でもどちらでもよかったが、挙手をすることを快く思わない、或いは誰が自分に入れなかったかについて、知りたくない者がいるのであれば、それは十分に配慮すべきだと考えた。


「いいんじゃねぇか。俺はそれで構いませんが、一つだけ言わせてもらいます。俺は誰に入れたか入れていないかを聞かれたら正直に答えます。そういうことを隠す趣味はありませんので」

 黒岩は中村の表情がこわばっていることに気づいたがそれを無視した。


「では一人一枚ずつ書いて折りたたみ……」

 安田隊長はポケットからハンカチをだし、それをテーブルの上に広げた。

「そうだな、これの下に入れてくれ。斎藤さん、ペンも貸していただけますか」

 斎藤からペンを受け取りハンカチの横に置いた。


「では、始めよう。これですべてのプロセスは決定した。あとは結果に従うまでだ」

 重苦しい空気が7人全員にのしかかる。


「本当に、これで、よかったんでしょうか?」

 鈴木が情けない声をだす。


「こんなことやっていて、本当に……、ここから抜け出せるんでしょうか」

 鈴木は誰に語るでもなく、無機質な床を眺めながらつぶやいた。


「確かにそうかもしれん。しかし、何もしないという選択肢はすでに試した」

 安田隊長は低く、重い口調で答えた。


「我々に与えられたのはこの一杯の水だけなのだ」

 斎藤は眼鏡を外して、自分のシャツで磨き始めた。

「最初に試したのは全員で分け合う方法だったが、これを何度繰り返しても外には出れなかった。争い、奪い、生き残った者が水を手にした瞬間ゲームオーバー。隊長の権限で命令を実行しても結果は同じ。派閥を作り、多数派で分配しても駄目。そこで結果ではなくプロセスが問題なのではないだろうかという中村の仮説をもとに、今回は完全合議によって民主的な決定に全員が納得して従うという方法をとることになった。そうだろう?」


「どうですかね。今は一杯の水ですが、もしかしたら次はパンだったり、一着の防護服だったりって」

 黒岩の言葉に加藤が付け加える。

「ナイフってパターンもあるかもな」

 鈴木の顔から血の気が引く。


「すでにそれらは体験済みなのかもしれない。確実に記憶は改ざんされ、現実とは何かについて考えることもバカバカしいくらいだが、かと言って、結局何か答えを見つけない限りは、この部屋からは出られんのだろうし」

「何故です。どうしてそんなことがわかるんです」

 田中が声を荒らげ、斎藤に噛みつく。


「さぁな。しかし、みんなわかっているはずだ。今置かれている状況は確実に誰かに監視されている。そうだろう。安田隊長」

 斎藤は田中をあえて無視した。


「この星に来て、どれだけの時間が経過したのか正直わからない。本国ではおそらく事故によって行方不明ということになっているだろう。緊急時の生命維持装置が稼働できる限界値を超えるだけの時間が経過していることは……、我々の身体の変化がそれを証明している」

 安田隊長はポケットから一枚の写真を取り出した。そこには彼ら7人の姿が映っていた。

「1年や2年のレベルじゃないのは一目瞭然だ」

 斎藤の髪は今よりも黒みがかり、安田隊長の額の位置も写真よりだいぶ後退していた。


「どうですかね。それすらあてにならないように思えますが」

 加藤は壁にもたれていた体を起こし、安田隊長が出したテーブルの上の写真を遠目から覗き込む。

「知的生命体の関与は間違いない。我々は試されているのだ」


「ともかく、続けるしかないんじゃないでしょうか」

 黒岩は落ち着いた声で語り始めた。

「今回は7人ですけど、僕には8人だった時の記憶があるんです。8人目が誰であったのか。そしてどうなったのかはよく覚えてないんですが、そいつが言った言葉だけは鮮明に覚えています」


「人類はまだ、一つになれない」

 誰ともなくその言葉を口にした。


「いや、ちょっと待て!」

 加藤がテーブルの上の写真を手に取り、厳しい表情で見つめている。

「この写真、確かに撮影した記憶はあるが、ここに7人しか写っていないからといって、実際は8人いたかもしれないし、もっといたかもしれない。その逆もありうるんじゃないか」

「可能性は否定できないな」

 斉藤がメガネをかけなおし、加藤に向かって手を伸ばす。加藤は写真を斉藤に手渡した。


「それに、みんなそれぞれに齢を重ねた形跡があるのに、一人だけ写真とあまり変わらない人物もいるな」

 斉藤は写真を中村に渡した。

「ぼ、僕は昔からふけ顔で……」

 中村は露骨に不機嫌な顔をしたが、黒岩はその前の中村の表情を見逃していなかった。なぜか中村が笑っているように見えたのである。


「しかし、その写真の矛盾だけじゃないぜ。斉藤さん、あんたたちの言っていることもどうなのかな」

 田中の口調から斉藤に対する敬意は損なわれ、露骨な敵意があらわになる。

「どういうことだよ。それ? あんたたちっていうのは……」

 鈴木には何がなんだかわからない。


「安田隊長と斉藤さんの話さ。確か斉藤さんの誕生日の祝いをしたとか……、あれって還暦の祝いじゃありませんでしたっけ?」


 一同の視線が安田隊長に集まる。


「何もかもでたらめってことだよな。これって」

 加藤はいつもの場所に戻り、壁に寄りかかり腕を組んだ。


「加藤さん、あなただっておかしいですよ。採決を常に奇数でやることにこだわって、それでこんなややこしいことに……」

 鈴木が加藤をけん制するが加藤もすぐに応戦した。

「それを言うなら田中のほうがずっと怪しい。田中が途中で意見を変えなければ、今頃は誰が水を飲むのか決まっていたはずだぜ」


「表現は正確にするべきだ。誰が水を飲むのかではなく、誰が水を探しに行くのかだ」

 安田隊長の言葉を誰も聞き入れなかった。もはや冷静な者は一人もいない。お互いを罵り合う声が響く。


「もう一度言う。誰が水を探しに行くかだ」

 安田隊長は、自分に言い聞かせるようにその言葉を繰り返した。繰り返しながら席を立ち、テーブルの上のコップを手にした。みんな唖然としてその光景を眺めていた。


「よせ! 安田!」

 斉藤が安田隊長に向かって手を伸ばすがそれは間に合わなかった。安田隊長はコップを傾け、水はテーブルの上に流れ落ちる。コップの水がすべてなくなるまで約一秒の間、斉藤以外、誰一人動くことはできなかった。

「水が!」

 鈴木が叫ぶ。

「何してやがる」

 黒岩はテーブルから零れ落ちようとする水を両手で受け止めようとしたが、それすらも間に合わなかった。

「あああ!」

 田中は叫びながらテーブルの端に口をつけて少しでも水を飲もうとした。中村はその様子を見て笑っていた。

「ふざけるな!」

 加藤は壁際から助走をつけて思いっきりテーブルを蹴飛ばした。田中は間一髪テーブルから離れたが、安田隊長は蹴り飛ばされたテーブルと一緒に壁際まで弾き飛ばされた。


「わかったか! これが俺たち地球人だ!」

 加藤は天井に向かって大声で叫んだ。

「このクソったれの野蛮人が気に入らないというなら、とっとと殺(や)りやがれ!」


 天井は鏡張りになっており、そこには7人の地球人が写っていた。加藤が視線を元に戻したとき、テーブルの上には一杯の水が置かれていた。

「これが最後の一杯というわけか」


 加藤は壁に寄りかかり、両腕を組んで目を瞑り、黒岩の『最後の一杯』という言葉に何か引っかかるものを感じていた。



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