第19話 灰色の狼

「お嬢さんは、たいそう花がすきなんですね」

 灰色の獣毛が日差しに照らされ、銀色に光って見える。狼とはこんなにも美しいものだったかと、少女は目を疑った。

「ありがとう。お花は大好きよ。だって美しいもの」

 金髪の少女は、狼から赤い頭巾を受け取り、頭に被った。


「お嬢さんは、赤がとても似合う。しかし、もったいない。せっかくそんなに美しい髪の毛をお持ちなのに、どうして隠そうとするのか、私には理解できかねますな」

 灰色の狼は、丁寧な口調で少女を褒めながら批難した。


「あら、お上手なのね。狼さんもとても素敵よ。とても獣だとは思えないほどに」

 赤い頭巾の少女は美しい声で、狼を称えながら卑下した。


「しかもあなたはとても聡明な方だ。そんなあなたがどうしてこのような場所で地を這いながらもがき苦しんでいたのか。私はとうとうたまりかねて、こうして醜い姿をさらしてまで、お助けしようと思った次第です。どうか、お許しください」

 灰色の狼は、へりくだりながら許しを請うも、赤い頭巾の少女のみだらな姿をじっと見ていたと告白した。


「いろいろとお話したいこともあるのですけれど、私は急いでこの場所を離れなければならないのです。狼さんにはこれ以上、ご迷惑をおかけするわけにも行きませんので、これにて失礼させていただきますが、どうか気を悪くしないで下さいまし」

 赤い頭巾の少女は丁重に断りながら、早く目の前から消えてくれと懇願した。


 どちらも一歩も引かず、一歩も歩み寄らず。


「花は確かに美しい。そしてあなたも美しい。私も花は大好きです。なぜなら美しいからです」

 狼の目が一段と大きく開き、赤い頭巾の少女の体中を舐め回すように見つめた。それはあからさまで、浅ましかった。


「私は美しいものが好き。美しい花、美しい小鳥のさえずり」

 赤い頭巾の少女がそういうと、どんな音も聞き逃さないように、狼の耳は一段と大きくなった。狼の耳には少女の呼吸する音、だんだん早くなる鼓動、体中の血管に赤い血がめぐる音を聞いていた。


「それで、あなたは美しい花を摘み取ったのですね。その白く、細い指先を使って……」

 灰色の狼は大きな手で、近くに咲いていた赤い花を摘み取り、少女に差し出した。それは当て付けがましく、厚かましかった。


「それはもう、私には必要ないの。なぜなら私はもう、自分の分は自分で摘み取ったから」

 灰色の狼が差し出した花に一匹の蝶々がひらひらと飛んできて、蜜を吸いだした。狼は蝶々をもう片方の手で摘み、そしてそれを大きな口の中に放り込んだ。赤い舌がいやらしく口の周りを嘗め回す。


「そして美しいものは、とても、とても、美味しいのですよ。どうです。あなたも一度食べてみればわかりますよ。あなたが見ていた、あの蜘蛛のように」

 いよいよ灰色の狼は我慢ができなくなっていた。口からはだらしがなくよだれをたらし、目は炎のように血走っていた。

「それはちがうわ。狼さん。蝶々が美味しいのは、美しい花の蜜を吸ったからよ。甘い蜜を吸ったから、生きるためになすべきことをしたから美味しいのよ」


 しかし、狼の大きな耳には少女の声は届かない。少女の心臓の脈打つ音しか、聞いていなかった。それでも少女は必死に狼に訴えかけた。

「だから、私を美味しく食べるには、私が美味しいものを食べなければならないの。わかる?」

 灰色の狼は大きな鼻で、少女の旨みを探っていた。ところがどうしたことか、少女からは血肉が醸し出す、臭いが感じられない。それはまるで水や岩や空気のように無機質だった。


「こいつは驚いた。いったいどうしたらこんなことになるものか。是非とも知りたいものだ」

 灰色の狼は、少女の抱きかかえ、頭のてっぺんから足の先まで臭いをかいで見た。それでも納得がいかず、今度は少女の顔や腕や足を舐め始めた。赤い頭巾の少女は身包みを剥がされ、恥辱に耐えた。


「なんてことだ。いや、恐ろしい。こんな恐ろしいことがあるものか。いったい全体、どうなっていやがる!」

 狼は殺意をむき出しにして金髪の少女を睨み付けた。そして考え込んだ。

「なるほど、そうか。そういうことか。お嬢さん。つまりまだ、早いということか。ならば待つしかあるまい。私のこの大きな目は、どんな遠くからでもお前を見ている。この大きな耳はどんなに離れていても、お前の鼓動を聞き逃したりしない。そしてこの大きな鼻は、私がお前につけた臭いをかぎ分ける。姿を隠そうが、音を立てずにじっとしていようが、臭いを消すことはかなわない。食べごろになったときに、またお目にかかりましょう。美しき人よ」


 狼は大きな口を思いっきり開けて少女を威嚇すると森の中へ姿を消してしまった。金髪の少女は服を着て身なりを整えると、来た道を戻り始めた。無我夢中で森の中を走り、湖のほとりまで来ると、服を着たまま湖の中に飛び込んだ。金髪の少女は狼につけられた臭いを洗い流してたいまつの火を使って体と服を乾かし始めた。

「無駄だ。無駄だ。美しい人よ」


 するとどこからともなく狼が現れて、裸の少女に飛び掛った。

「無駄だ。無駄だ。美しい人よ」

 灰色の狼は、少女に馬乗りになり、体中を舐め回した。

「臭いが消えたらこうしてまた臭いをつけるだけのこと。どうやったってお嬢さんは私から逃れることなどできない。それにこれはお嬢さんのためでもあるんだよ。こうして私の臭いをつけておけば、他の獣たちは臭いを恐れてお嬢さんに近づこうとはしない。これからはそんなたいまつなんかに頼らなくても、安心して森の中を歩けるさ」


 灰色の狼は、少女に臭いがしっかりとついたことを確認すると少女から離れた。 少女は裸のままたいまつを手に取って灰色の狼に向けたが、狼はまるで火を怖がらなかった。

「さぁ、早く探し出すのだ。美しい人よ。お前の蜜を探し出し、それを口にする瞬間を、私はずっと待っている」


 灰色の狼は少女の周りを二回りほどして、森の中に姿を消した。少女は服を乾かしながら、恨めしそうに透明に澄んだ湖の湖面に映る自分の姿を眺めていた。獣臭い自分の身体を洗い流したいという衝動に耐えながら、少女は灰色の狼の言葉を思い出していた。

「蜜を探し出す……、それを私が口にする」


 蝶々は花の蜜を吸い、蜘蛛はその蝶々を捕まえて食べる。その蜘蛛もまた、鳥や小さな獣に食べられるのだろう。そしてこの森の中ではそうした連鎖の頂点にいるのがあの灰色の狼なのかもしれない。

「でも、私は何も食べない。私は、その輪の中に、存在しない存在。外れてしまった存在」


 水も火も何も語らない。大地も風も何も語らない。


 金髪の少女は、孤独の中にいる自分を発見した。


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