第16話 風の噂
赤い頭巾を被った少女の噂話を耳にした。
噂
この世界には、僕しかいないかもしれないのに、僕だけかもしれないのに、誰かの噂話が聞こえてくるのは、うれしくもあり、不思議でもあり、違和感はあるものの、悪い感情を抱くはずもなく、ただ、あの風の精霊が運んできた噂となれば、いぶかしく思うこともいたしかたない。
「俺はやめとけっていったのさ。森の中をやたらとうろうろしていたら、厄介事に巻き込まれちまうぜってな」
風の精霊は上機嫌なように見えて、何かにイラついているようにも見えた。
「それで、その紅い頭巾を被った少女には何か適切なアドバイスをしてあげたのかい?」
だから僕はわざと関心がないふりをして、風の精霊の口を軽くさせようとした。
「まさか!」
風の精霊は僕の周りをぐるぐると回りながら答えた。
「何でオレ様が人間を助けなきゃならん。きっともう、狼の腹の中だぜ」
あたりを囲む山脈のなかでひときわ目立つ天を貫くような高い岩の柱を目指して歩く間、風の精霊はしばしば僕の様子を見に来る。いや、それは重い過ごしかもしれない。僕はただ、風の通り道を歩いているだけで、風の精霊の行動範囲の中をうろうろしているだけなのかもしれない。
いったん森から抜け、草原に出た僕は、川沿いに山頂目指して歩いていた。
「赤い頭巾に、狼か……」
僕は立ち止まり、そうつぶやくと、風の精霊は一瞬、苦々しい表情を浮かべたが、一度開いた口は言いたいことを言い終えるまで閉じることはなかった。
「このあたりの森には性質の悪い連中がいるのさ。気まぐれな猫と意地悪な狐は、ピノキオをだまして木に吊るし上げたんだぜ。その二匹より厄介なのは・・・」
風の精霊はここでもったいぶり、僕の様子を伺った。できる限りじらして、僕がこらえられなくなるぎりぎりまでまってやろうという、意地悪な表情をしていたが、僕にはその答えにおよその見当がついていたので、果たしてどうしたものかと考えあぐねた。
「なんだよ。その心当たりがありそうな顔は」
風の精霊は不機嫌そうに言い放ち、大きくため息をついた。
「ああ、つまんねぇ」
僕はそれでも、まだまだ風の精霊から聞きたいことがあったので、下手な演技をせずに正直に話した。
「その大きな目と大きな鼻とおきな耳、そして何よりも恐ろしい大きな口の持ち主は、今どこで何をしてるんだい?」
風の精霊は横目でしばらく僕を観察していた。
「さぁて、どうだったかなぁ。知っているような、知らないような」
「もしかして、君も狼がこわいのかな?」
風の精霊は勢いよく僕の周りをぐるぐるとまわりながらまくし立てた。
「なんでオレ様があんなケダモノをこわがらなきゃならん! やつに関わるとろくなことにならないから、近寄らないだけで、ついでに言えば、あいつの臭いは血なまぐさいから嫌いなだけさ。大体アイツは……」
風の精霊は何かを言いかけて、ぎりぎりのところで堪えた。堪えて考え、そして話し始めた。
「オレはしょっちゅうアイツに出会う。奴は何もない平坦な道、風の通り抜けのいい道を選ぶ。奴が言うには、険しい道を注意深く歩く奴よりも、安全で楽な道を好んで選ぶような輩のほうが扱いやすいとか言っていたな。そういうところでうろうろしていると、厄介ごとに巻き込まれるぞ。何せ奴そのものが、災厄のようなものだからな」
言いたいことを言い終えると風の精霊は黙りこくって何かを考えている様子だった。
「じゃあ、僕は急いで探さなくても狼には出会えそうってことかな」
「だが、赤い頭巾の女には、会えないかもなぁ」
風の精霊は何か思いついたのか、考え付いたのか、挨拶もせずに姿を消してしまった。
この世界はいい加減にでたらめだと気付かされる。人類が滅びたこの世界は、それでも人類を、人を必要とし、なおかつ拒絶している。そして今、僕はこの世界に生きている。僕は木々の間から見える遠くの山脈を眺めた。僕が望む限り、あの先にはきっと別の世界が存在するのだろう。
だから僕は、目指すことをやめず、そして赤い頭巾の少女を探すこともやめずにいることにした。この世界は望めば必ず答えが返ってくる。それが望むべき答えか、望まざる答えだとしても。それが希望であっても、どうしようもない現実であったとしても。
答えはこの世界の中にある。
この世界のこと。精霊のこと、ピノキオのこと、そして僕自身のこと。地面から手ごろな石を拾って手にとって見る。質感、肌触り、重さ。当たり前に現実的な存在感が確かにある。僕はその石を川に向かって投げ込んだ。
流れの緩やかなその川に投げ込まれた石は、小さな水しぶきを上げて川底に落ちていく。当たり前の現象、当たり前の結果。だが、その中にあって、僕だけが特異な存在であることは間違えがなかった。僕は一般的な現実世界の法則の中に身を置いていない。精霊やピノキオがそうであるように、僕自身も物質的な世界とは、異なる存在である。
『人のようなもの』
僕は人であるが、生物としての『人』としては、欠如している部分がある。僕には記憶がない。そして社会がない。それは人として生きる上で、不完全であるといえる。そして『だからこそ』なのかはわからないが、僕には知識がある。記憶がないのに知識がある。そしてコミュニケーションをとる言語があり、今のところ誰とでも会話が成立する。社会がないのに、僕は僕の言葉で物事を伝えることができる。
そしてなによりも決定的なこと。
生理学的な欲求を必要としない特殊の身体と精神を有していること。
おそらく僕は不死の存在だ。いや、生きているということを証明できない存在といったほうが正かもしれない。何よりも恐ろしいのは、そこのことに疑問を持ちながら平気でいられる僕の精神構造である。必要以上に恐れない。いや、恐怖に対して無頓着なのだ。これはすなわち、生きていること、生き抜こうとする機能がすっかり壊れてしまっているということなのである。
だから、僕は思うのである。
たとえ、赤い頭巾の少女が狼に食べられたのだとしても彼女を救い出すことができるにちがいない。なぜなら、この世界で死ぬことは、生きることより難しいと。おそらく彼女も僕と同じように空腹を知らず、渇きを知らず、疲れや眠くて仕方がなくなるようなことはないのだろう。傷つけられれば痛いし、火に粉をかぶれば火傷を負う。しかしそれは、そう感じるだけで、感覚世界の話である。僕は肉体を有しているのに、その現実感は不気味なくらいに希薄だ。希薄だが、それは薄いというだけで、ないわけではない。
感じ、考えるのに必要な『機能と能力』を与えられ、そして何者かに試されている。そうだ。この感覚。常に何かに見つめられているという感覚。これはおそらく知識ではなく記憶に分類されるべきものなのだろう。おそらく今僕が置かれている状況に何らかの関係を持っているのだろう。だが、今は急ぐ必要はない。いずれそれを知るときが訪れる。思い知らされるときが訪れる。だから僕は故意に彼女に関わらないでいようと考えた。いずれ厄介ごとは向こうのほうからやってくるだろう。
僕は空を見上げ、その向こう側で僕を見つめる存在に対して何かを訴えようとして、言葉を飲み込んだ。その存在は僕の訴えなど、まるで聞き入れてくれるようなものではないのだったと思い出したからなのだが、しかし、その存在が何なのかは思い出すことができなかった。
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