第14話 炎と水の精霊

 荒涼とした大地を歩く一人の少女。彼女はまっすぐと前を見据え、空と大地の間にそびえ立つ大きな山のすそ野に広がる緑の大地を目指した。彼女は喉の渇きを感じず、空腹も感じず、疲労さえ感じなかったが、何一つ満たされず、また何一つ不満はなかった。


 赤茶けた大地はやがて歩くのに邪魔にならない程度の背の低い草が生える黄色い大地となった。日が傾くとそれは黄金色に輝き、赤く燃え、そして静寂の闇が訪れた。空を見上げるとところどころ星が激しく瞬いているが、雲に覆われ月の灯りも弱弱しい。少女は夜の静けさに冷たさを感じ、おぼろげな月に不安を感じた。


 何かにすがりたいという気持ちが、胸の中で膨らみ始めたとき、すうっと赤とオレンジ色の光が少女の頬を照らした。少女はその温かさとやさしい光に誘われて、ゆっくりと近づいて行った。誰かいるのだろうかという期待もあったが、炎のそばに近寄りたいという欲求のほうがはるかに強かった。


「おい、女、そこで何をしている」

 あたりは暗く、炎の照らす範囲に人の姿は見えなかった。

「寒くて、暗くて、とても不安だったわ。でも、あなたがいるおかげで、暖かくて、明るくて、そして安心よ」

 その炎は枯れて朽ちた倒木を燃やしながら、時々人の顔のような姿を見せて話しかけてきた。

「女、お前は俺様が怖くはないのか」

「怖い? どうして? どうしてわたしはあなたを怖がらなければならないの」

「俺様はすべてを焼き尽くす。怒った俺様はすべてを焼き払う」

「でも、今は怒っていないでしょう?」

「そう。今は怒っていない。怒る理由がない。なぜならすべて灰にしてしまったからな。そして風がすべてを吹き飛ばした。ここには何も残っていない」

「さみしい?」

「寂しくはない。燃やすものがないだけだ。ただそれだけだ」

 心なしか、炎の勢いが弱まる。


「何もかも焼き尽くしてしまったら、もう燃やすものがなくなって、そしたら、あなたはどうなるの?」

 炎の精霊はゆらゆらと揺れながら答えた。

「簡単なことだ。燃やすものを探しに行く。そこでまた焼き尽くしたら、また別のところへ行く」

「でも、それだと、いずれ全部焼き尽くしちゃうのではなくて?」

「どうだろうか? そうとも言えるし、そうじゃないとも言える。未来はわからないが、これまではそうだった。どんなに焼き尽くしても、また、燃やすものが現れる」

「未来……」

 少女はその言葉をしばらく心の中に問いかけた。


「女、お前は燃やしたいものはあるか?」

 炎の精霊は、少しだけ少女に近づいた。

「燃やしたいものはないわね。でも温めたいものはあるわ」

「温める?」

「そう、火を使えたなら温かい料理を作るわね」

「料理を作ってどうする?」

「料理を作ったら食べるわ」

「食べてどうする」

「食べたら……、そうね。私だけ食べてももったいないから、誰かに分けてあげるわ」

「誰にだ? 女」

「誰にかしら」


 少女は問い続けた。そしてその答えを素直に炎の精霊に話した。炎の精霊は大きな声で笑い、そしてこう続けた。

「ならば、女よ。探すがいい。この先に森がある。森の中には湖があり、水の精霊がいる。そいつにその話を聞かせてやることだな」

 少女はしばらく炎を見つめていたが、やがて精霊の言葉に従って、森の中へと入っていった。

「ちょっと待て、女」

 森に入った少女を炎の精霊が呼び止める。

「夜の森は暗い。これを持って行け」

 炎の精霊は近くの木の枝をもぎ取り、少女に手渡した。

「この炎は消えることがない。ただし水に触れたら消えてしまうからな」

「ありがとう」

「礼には及ばない。まったく必要ない」

 炎の精霊は姿を消した。


 夜の森は少女を闇の中に飲み込もうとしたが、少女の持つたいまつは、湖までの道を示し、迷うことなくたどり着くことができた。おぼろげな月が湖面に反射し、幻想的な風景がそこに広がる。月明かりに照らし出された自分の姿が湖面に映る。

「これが、わたし……」

 少女はもっとよく見ようと湖面に顔を近づけた。


 パシャン!


 水の跳ねる音。湖面が揺れてそこに映っていた少女の姿が崩れていく。水底から何かが浮き上がり、目の前に現れた。

「人魚……、違うわね。あなたが水の精霊なの?」

 返事がない。


 パシャン! パシャン!


 水しぶきが上がる。湖面に波紋が広がる。同時に威圧感のようなものが少女に降りかかる。

「あの……、わたし」

「こっちをじろじろ見ないでよ」

「ご、ごめんなさい」

「話しかけないで。私、あなたのことがきらいよ」

 少女は仕方がないので視線を足元に落とし、水の精霊を見ないようにした。

「もう! 黙っていないで、なんかしゃべりなさいよ! 用事があってきたんでしょう!」

 水の精霊はひどく不機嫌だった。

「わたし、あなたとお話ししたくて――」

「嫌よ!」

「ご、ごめんなさい。わたし何かあなたを怒らせるようなこと、したかしら」

「別に。何も」

「じゃぁ、どうして――」

「うざい」

 少女は顔をあげ、水の精霊に向かって誠意をこめて謝った。

「ごめんなさい。でも、わたし、どうしたら許してもらえるのかしら」

「こっちを見るんじゃないよ!」


 水の精霊は尾ヒレで激しく水面を叩いた。水しぶきが上がり、それが少女に降りかかる。少女は水しぶきからたいまつを守るために身を屈めて炎を守った。そのせいで少女の服は焼け焦げ、胸元に小さな火傷を負った。

「熱いっ!」


「忌々しい! そんな炎、消してやるわ!」

 水の精霊は湖に飛び込み、それっきり姿を見せなくなった。

 少女は湖の水を手ですくい、火傷した胸にかけた。

「痛いっ……」

 痛みに耐え、二回、三回と水をかけるとようやく痛みが和らいだ。


 湖面は再び静寂を取戻し、静かな時間が流れた。

「ここで、火を使ったら、彼女にもっと嫌われちゃうかしら」

 少女は湖畔から少し離れたところでたき火を始めた。やがて少女は眠りにつく。するとたき火の中から火の精霊の分身が現れ、湖畔に向かって声をかけた。

「水の精霊よ!」

 ほどなくして水の精霊が姿を現す。

 月明かりに照らし出されたその姿は、恐ろしいほどに美しかった。


「焼いているのか」

「何の冗談のつもり。それとも嫌味? 本当に嫌なやつね」

「こんな小娘に焼いているのか」

「しつこいわね。なんで私が!」

 水の精霊はぷいと横を向き、口をとがらせた。炎の精霊はそれをまったく無視して語りかけた。


「あの者はどうした?」

「知らないわよ。あんたこそ、あんな男にちょっかい出して、どういうつもりよ」

「気に入らないから懲らしめたまでだ」

 あっけない回答にあきれたという顔をしながら、水の精霊は水面に映る自分の姿を見ながら赤い髪を手櫛で整えた。


「あんな人間でも同情するわ。あんたみたいな野暮に目をつけられたんじゃ、この世界で生きていけないものね」

「わかっていると思うが、あの男とこの娘は……」

 水の精霊はじっと炎の精霊を睨みつけながら言葉を遮った。

「わかっているわよ。言われなくたって、ちゃんと案内するわよ」

「時は動き出した」

 炎の精霊は遠く湖の向こう側にそびえる山を見ながらつぶやいた。


「そうね。あっちでは季節が巡り始めたそうよ」

「見届けるのが、我らの役割」

「そうよ。でも、あんた、少し入れ込みすぎじゃなくて? その小娘に」

「温かい料理を」

「はぁ?」

「温かい料理を作るそうだ」


 水の精霊はクスクスと笑い、炎の精霊の化身はメラメラと燃え、消え去った。


「料理を作るですって……、とんだ傑作ね。せいぜい自分が食べられないように気を付けることね」

 朝、少女が目を覚ますと驚いたことに焼け焦げた服も、火傷もきれいに元通りになっていた。

「あなたが無事にたどり着けるかどうか。見届けることにしたわ。でも、勘違いしないでよね。見守るわけじゃないんだから」

 水の精霊は少女に竹で編んだ小さな籠を渡した。籠の中には水の入った瓶が一本入っていた。

「その瓶に入った水はどれだけ使ってもなくなることはないし、火傷や切り傷程度なら一晩で治すことができるわ。」

 水の精霊は決して少女のことを見ようとはしなかった。

「でも、大地に浸した水の分は差し引かれるわ。もし瓶の中身をすべて地面にこぼしちゃったらそれでおしまい。二度と瓶の水は戻らないわ」

 ゆっくりと低い声で忠告をした後、水の精霊は水面の中に姿を消した。少女は水面に向かって礼を言うと、もう一度姿を現した。

「礼には及ばないわ。まったく必要なくてよ。さぁ、お行きなさいな。あの山を目指して進めば、そのうち誰かと出会うでしょう。せいぜい気を付けることね。必ずしも好意的な者だけが、あなたに近づいてくるわけじゃなくてよ」

 水の精霊は最後まで少女と目を合わせようとしなかった。少女が森の奥に消えていくのを見届けると、再び湖の奥深くへと消えていった。

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