第12話 Spring has passed

 目の前にそびえる山は、圧倒的な存在感を示していたが、圧迫感のようなものはなかった。木々が生い茂る山々が連なり、それらを従えるように大きな山がどっしりと構えている。中腹から上は山肌をさらし、ところどころ雪が残っているように見える。山頂はしばしば雲がかかり見えなくなる。頂上は小さな丸いこぶと天を貫くような岩の柱に分かれている。


 立派な、そう、まさに立派な山である。


 とても山頂に上れるとは思えないが、とにかくあの山を目指していけば、あの山脈の向こう側を望める場所にたどり着けるだろう。いささか楽観的ではあるが、不安を抱くより、希望と呼べないまでも、当面の目的ができたことで、歩みも力強く、そして速くなっていった。


 自分はいったい何者なのか。


 道中、ピノキオのことがしばしば気になった。ピノキオがいるということは、この世界のどこかにおじいさんは、そう。彼を作ったおじいさんはいるのだろうか?

 精霊たちは戯れに声をかけてくるが、僕のほかに人間が存在しているかとか、この先になにがあるのかと言った話はひとつも触れなかった。もしかしたら、尋ねれば答えてくれるのかもしれないとも思ったが、結局それを確かめようと思えば、こうして世界を渡り歩かなければならないのだから、聞いたからといって、そこに近道はないのだという納得感から、彼らとの会話は他愛もない、或いは取り留めのない話に終始した。


 人になりたいピノキオは、人とも精霊とも違っているように思えた。


 だが、この世界ではどうだろう。人になりたいピノキオは、果たしてどんな人になろうというのだろうか。そんなことを考えながら歩いているうちに、いつの間にか周りの景色が変わってきていたことに、不覚にもしばらく気づかなかった。


 幹の太い木はあまり見えなくなり、細く、背の低い樹木が多くなる。日差しが直接体にあたり、ぽかぽかと暖かい。少し汗ばむほどだ。やがて目の前に美しい草原が広がった。


 色とりどりの花が咲き、若々し香りがやさしい風に乗って通り抜けていく。


「とても世界が滅びたなんて思えないような景色だな」

 僕は少しばかり大きな声でつぶやいた。できたらこの気持ちを誰かと共有したい。素敵なものを素敵だと無邪気に笑って話せる誰かが恋しくなった。でも、人類は滅びたのだ。ここには僕しかいない。


「勝手ね。人間の言いそうなことね」

 その声は風に吹かれて、遠くから運ばれてきたのか、あるいは近くにいるけど、とても小さな存在なのか。ともかくかすかな気配だった。


「素敵なことを素敵だって言っちゃいけないのかい?」

「素敵なことを素敵だっていいながら、あなたたちはそれを壊してきたのよ。それを勝手と言わずになんて言えばいいのかしら」

 声はするが姿は見えない。


「素敵なことだけじゃ、お腹はいっぱいにならない。素敵なことだけじゃ、人の命を救えない」

「でも、あなたたちは飢え、そして誰も救えなかった」

「それを愚かだと思うかい?」

「それは罪よ。だからあなたたち人類は罰を受けたのではなくて?」


 それはとてもかすかな気配。小さな声だけれど、はっきりと聞き取れる。耳に心地よく、心に痛い。

「ここは素敵なところだね。君もそう思わないかい?」

「ここは素敵なところだったわ。あなたが来るまでは」

「僕はここにずっとはいない。だけど、もう少しばかりここにいてもいいかい?」

「あなたはここにはずっといられない。もう少ししたら、ここは変わってしまうから」


 それは悲しげであり、儚げであり、それでいて新鮮で命にあふれていた。

「僕が来たから、ここは変わってしまうのかい?」

「あなたは時を運んできた。人は時を動かす。季節を動かす」

「人にそんな力はないさ。人はただ、時の流れを眺めるだけださ」

「そう。人は時を見る。時の流れを刻む」

「僕はただ、ここにいて、見ていたいだけなんだ。この美しい景色を」

「この美しい景色はあなたに見られてしまった。時は流れる。もう後戻りはできない」


 声の主の気配は少しずつ希薄になっていった。色とりどりの景色は、燃えるような光に包まれ、力強い生命力を讃えるような青々とした色彩に変わっていった。

「時は流れ、季節は移りゆく。春は夏に、夏は秋に、秋は冬に変わっていく」

「君は春の日差し、春の香り、春の息吹」

「もう行かなければ。夏がそこまで来ているわ」


「季節は廻り、時は流れる」

「永劫は人のものに非ず。生きることを軽んじ、死を遠ざけし人のあさましきこと甚だしく、この大きな環を乱すことを非とせず、知らず、顧みず。何を持ってこれを救うを理とするや。誰か救えるものか」

 気が付けば春は僕の後ろに立っていた。僕は振り向くこともできず、春が残した言葉にメロディをつけて歌にする。


「さぁ、お行きなさい。もうすぐ夏が来るわ」

「夏には会わなくていいのかい?」

「夏に会えば秋に会わなければならない。秋は冬を連れてくる」

「冬の次は?」

「春がまた来るのでしょうね」

「君にまた会える」

「それはもう、私であって、私でないもの。それがわからないから、人類は滅びたのではなくて?」


 春の声はどんどん小さくなっていく。

「次に春が来たとき、あなたも今のあなたではいられないのよ」

「人は変わる。変わることができる」

「人は変わるわ。変わってしまうの」

「変われるさ」

「変えてしまうのよ」

「また、会えるかな」


 もう春の声は聞こえない。

 僕は歩き出す。

 夏が来る前にここを出よう。


 僕は歩き出す。

 川のせせらぎが聞こえてくる。

 やがて目の前に静かに流れる川が姿を現す。

 それほど深くはないようだった。清らかで川底が透き通って見えている。

 僕は川沿いにしばらく歩き、野宿をするのに適当な場所を見つけて休むことにした。

 過ぎ去っていった春の香りがほのかに残っているこの場所で。



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