第11話 ピノキオ
水の精霊と出会った湖の周りをしばらく歩いてみる。湖の向こうに大きな山があり、頂上付近は雲で霞んでよく見えない。湖を囲う森はどこまで続いているのかまるでわからなかった。
あの山に登ればこの世界がどうなっているのか一望に見渡すことができるかもしれない。闇雲に森の中を進むよりはいいだろうと、歩みを進める。
この湖はあの山から流れ出た水でできているのかもしれない。だとすれば、どこかに沢があるはずだ。湖の周りを歩いて山に向かえば川を見つけられるだろう。
湖を左手に見ながら、森の中を進んでいく。太陽が頭上に登り、西に傾きかけた頃まで歩いてみたが、なかなか目的のものを見つけることができないでいた。それでも気がめいるようなことはなかった。
小鳥たちのさえずり、虫の鳴く声。
木漏れ日は暖かく、そよぐ風はひんやりとして気持ちいい。
湖面はまるで大きな鏡のように周りの景色を映し出す。
「なんて美しいんだ」
目に映るものすべてが清らかで、美しく見える。
「君は、何しにここに来たのかな?」
木陰から声がする。姿は見えない。
「ねぇ、こんなところに何の用なのさ」
最初、女性の声かと思ったが、どうやら子供のようだった。
「僕は、ただ、この奥に行ってみたいだけさ」
声のする方に向かって、静かに語りかける。
「ただ、行ってみたいだけ? 本当にそうなのかい?」
「ああ、そうだよ」
少しの間、沈黙が続く。
「でも、さっきから何かを探して歩いているでしょう?」
どうやらしばらくこちらの様子を伺っていたらしい。
「あの山からこの湖に流れている川を探しているんだけど。君はこのあたりには詳しいのかな?」
「質問は僕がしてるんだよ。君の番じゃない」
少し怒ったような口調で返事が返ってきた。そしてまた沈黙。ごめんねと謝ろうとした瞬間、木陰から声がした。
「ふーん。川なんか探してどうするのさ」
少し大きな木の陰から小さな男の子が顔を出した。
「川沿いにあの山を登ろうと思ってるんだ」
「登ってどうするのさ?」
「高いところから見てみたいんだ。この世界がどうなっているかを」
小さな男の子は、表情ひとつ変えずに次々と質問をしてくる。
「君はひとり?」
「ああ、僕はひとりだよ。ここにひとりできた」
「君の名前は?」
「僕は、僕の名前を知らない。だから僕は自分が何者なのかを知りたい。自分を知るためには、この世界のことを知る必要があるんだ」
カタカタ、カタカタと音がする。小さな木片がぶつかり合うような音だ。
「そうなのかい? 君はそんな理由でこの先に行きたいんだ」
「ああ、そうだよ。だから知っていたら教えて欲しいんだ。この先に川があるかどうか」
男の子は目をパチクリ、パチクリさせる。そのたびにカタカタ、カチカチと音がする。どうやら木でできた人形と僕は話しをしているようだ。作り物の顔がじっと僕を見つめている。
「君は本当に自分の名前も知らないの? 僕だって自分の名前くらい知っているのに」
「君の名前はなんっていうんだい?」
男の子は木の陰にいったん姿を消し、カタカタ、カチカチと音を立てた後、また顔を出した。
「知りたい? ねぇ、君は僕のこと知りたい?」
「ああ、僕は君のことが知りたい。そんなところに隠れていないで、こっちにおいでよ」
再び男の子は警戒心を強め姿を隠す。
「だめだよ。僕はここにいる。君もそこにいて、こっちに来ちゃだめだよ。僕もそっちにいかないから」
男の子は木の陰から今度は手を出して近づかないように訴えた。その動きはぎこちなく、可愛らしかった。
「わかったよ。僕はここを動かない。君もそこからでなくてもいいから、君のことを教えてくれるかな? 君の名前は?」
男の子は激しく手を動かして喜んだ。くるくると、くるくると手首を回して喜んだ。
「僕ね。僕はね。ピ・ノ・キ・オっていうんだ。ピノキオ!」
その名前には聞き覚えがあった。僕はいくつかの物語を頭の中に思い浮かべた。
「そうか。君がピノキオか」
「ねぇ、ねぇ、君は僕のこと知ってたぁ? 僕のどんなことを知っているの?」
ピノキオは足をカタカタと鳴らしながら僕にそう尋ねた。小さく丸いつま先が顔をのぞかせた。
「君は確か、人間が作った木の人形だよね」
「そう、僕を作ったのは人間さ。でも命を与えてくれたのは人間じゃない」
「君に命を与えたのは誰だっけ?」
「知りたい? でも教えない」
ピノキオは目をパチクリさせながらこちらの様子を覗きこんでいた。開いた口は笑っているようにも見えるし、驚いた様子にも見えたが、たぶん、そのどちらでもないのだと思った。
「じゃぁ、今度は僕が質問する番だよ。いいかい、正直に答えてよ」
「わかった。今度は僕が質問される番だ。僕は君の質問に正直に答えよう」
「約束だよ」
「ああ、約束だ」
ピノキオは頭を激しく左右に振った。ひどく興奮しているように見えたが、或いは一生懸命に何かを考えているのかもしれない。ただ、どちらにしても、見ていて気持ちのいいものではなかった。
「君は僕が怖い?」
それはとても簡単な質問だった。だから僕はその質問にできるだけ早く、そして正直に答えようと思ったが、ピノキオがそれを拒んだ。
「ちょ、ちょっと待って、この質問はダメだよ。こんな質問はよくないんだ」
ピノキオは一瞬魂が抜かれたように動かなくなった。その様子は正直、少し怖かった。
「ねぇ、僕は君にどんな質問をすればいいと思う?」
その質問は僕を戸惑わせた。いかにピノキオを傷つけず、困らせず、落胆させず、尚且つ僕がちゃんと答えられる質問でなければならない気がした。そんなことは、誰も言っていないのに、僕にはそうしなければいけないような気がしてならなかった。それで僕は正直に答えた。
「ピノキオ、君の質問はとても難しい質問さ。僕に答えられるかどうか、さっぱりわからないのだけれど、それでも君がその質問を僕にするのであれば、僕はさらにこの森の奥に行って、君が僕にどんな質問をすればいいのかを探して来なければならないと思うんだ」
ピノキオは頭をくるくると回した。左に4回、右に3回。
「なんてこったいっ!」
そう言ってからもう1回右に頭を回した。
「じゃぁ、僕はここを通すしかないようだね。なるほど、噂通りに君は賢いね」
ピノキオは両手を頭の後ろに組んで僕を覗きこんだ。木でできた上半身をさらけ出した。
「でも、人間がみんな、君のように賢いとは限らない」
ピノキオは僕の顔色を窺うように語りかけてきた。
「人間は自分たちの愚かさについてもっと知るべきだと、おじいさんは言っていたよ」
「うん。そうだね。そうかもしれないね。おじいさんは今、どうしているの?」
「わからない。だから僕は、僕のおじいさんをさがしているんだけど、君は見なかったかい? 僕のおじいさん」
僕は首を振り、手を振り、ここに来るまでに出会った風の精霊、火の精霊、水の精霊のことを話した。
「もしこの先、君のおじいさんい出会うことがあったら、ピノキオ。君のことを伝えておくよ」
ピノキオは身体全体で喜びを表し、ついに木陰から姿を現した。ピノキオの両足は焼け焦げていた。
「僕も君と同じさ。火の精霊にひどい目に会わされた。おじいさんなら、この足をきっと直してくれると思うんだ」
「わかった。君が困っているとおじいさんには伝えるよ」
ピノキオに川のある場所を尋ねると、このまま、湖を伝って山を目指せば、途中で広い草原に出よ。そこに川が流れていると教えてくれた。
「僕はそろそろ行くよ。ピノキオ」
「君はそろそろ行った方がいいよ」
「そこに行けば、また誰かに会えたりするのかな?」
「ああ、たぶんそこに行けば……」
ピノキオは慌てて自分の口をふさいだ。
ピノキオはカタカタと鳴ってしまう体を恨めしく眺めてから、木の陰に隠れてしまった。僕はその木を避けるようにして森の奥に進んだ。後ろでまた、カタカタと音がしたが、僕は振り返らずに、先を急いだ。
ピノキオは木の陰からしばらく様子を伺っていた。どうやら自分の役割は果たせたと、胸をなでおろし、湖畔を眺めるのにちょうどいい倒木に腰を掛けた。
「あなた、そんなに人間になりたいの?」
目の前の水面に赤い髪の毛をした水の精霊が顔を出していた。
「別に、人間になりたいから、こんなことしているわけじゃないよ」
ピノキオの鼻が少し伸びた。
「アハハ、あなたって本当に可愛いわね」
ピノキオは頭をくるくる回して精一杯の抗議をした。
「火の精霊に助けてもらわなかったら、僕はずっと木に吊るされたままだったんだ」
ピノキオは自分の両足を上にあげて、焼けた跡を見せた。
「確かにあなたは火の精霊に助けられたわね。でも大きな樫の木に吊るされている人の言葉をしゃべる木の人形がいることを教えたのは、この私よ」
水の精霊は赤い髪の毛を水面に漂わせながら愉しげに泳いでいる。
「僕にはちゃんと名前がある。おじいさんがつけてくれたピノキオという名前が! 人形だなんて呼ばないでよ」
ピノキオは倒木から前に飛び出てすっと立ち上がり、顔を横に向けながら水の精霊に対して胸をはった。
「名前ね。で、あなたのおじいさんの名前はなっていったっけ?」
ピノキオは微動だにしない。そして何も答えない。
「あらぁ。まだ怒っているの? 別に私がけしかけたわけじゃないのよ。おじいさんが、あのお人よしのジュゼッペとかいう人間がサメに食べられたのは、あの男がお人よしの上に強欲だったからよ。あなた、単なる金儲けの道具だったんでしょう?」
「最初はそうだったかもしれない。でも最初から最後までそうとは限らないじゃないか!」
ピノキオは左に向いていた顔を右に向けた。決して水の精霊を見ようとはしなかった。
「だったら助けに行けばいいのではなくて? それがこんなところで狐と猫に騙されて木に吊し上げられるなんて、間抜けというよりは、何かしら、死んだほうがましって感じかしらね。まぁ、もっともそう簡単に死なせてはもらえないでしょうがね。あの人間をわざわざあの場所に案内させて、いったいどういう魂胆なのかしらね」
ピノキオは頭を下げて地面に向かって話し始めた。
「火の精霊の考えていることは、僕にはわからないさ。閉じられた世界とか、生まれ来る未来とか、僕にはさっぱりだよ。でもね……」
ピノキオは慌てて口を両手で閉じた。
「何よ。言って御覧なさいな。男の子でしょう?」
「僕は……、やっぱり人間になりたいんだよ!」
ピノキオはとうとう水の精霊に向かって大声を上げた。水の精霊はピノキオに向かって手招きをする。
「だったら、人間の子供はまず、遊ぶことが大事よ。それならいい場所をしっているわ。でも今はまだダメ。その時がきたら、教えてあげるから、あなたはもうしばらくこの辺りでコオロギにでも話し相手になってもらいなさいな」
水の精霊はクスクスと笑いながら湖の底へと消えていった。
ピノキオは酷く悲しくなり、再び倒木に腰かけた。
「酷いや。僕がコオロギにどんな酷いことをしたのか知っているくせに……」
ピノキオはコオロギを踏み殺したときのことを思い出していた。
「つまらないことでくよくよしても仕方あるまい?」
まるで水の精霊が姿を消すのを待っていたかのようなタイミングで火の精霊があらわれた。
「僕は、ちゃんとやったからね」
ピノキオは頭だけを後ろにまわして火の精霊を見た。
「人になりたいのなら、もっと人らしくしたらどうだ」
火の精霊を炎がゆらゆらと揺れている。
「人間じゃないんだから、人間らしくって言われても、上手になんかできないよ。それに……」
ピノキオは立ち上がって、体を後ろに向きなおした。
「僕の知っている人間らしさっていうのは、こんな世界にしてしまった人たちのことでしょう?」
火の精霊は大きな声で笑った。
「そうとも。そんな罰当たりな存在になりたいというのだから、物好きにもほどがあるとうものだ」
ピノキオは倒木に飛び乗り、火の精霊に焼かれた足を見せた。
「でも、これを直せるのはおじいさんしかいないし、おじいさんは僕を人間の子供にしたいって、そう思っているに違いないんだ」
「それというのも狐と猫にそそのかされて、こんな森で追いはぎに会ったお前さんが悪い」
「だって、僕は正直に答えただけなんだよ。おじいさんは僕に預けてくれたんだ。この世界を開くカギを」
「で、まんまと奪われたわけか。もっとも、狐にも猫にもそのカギは使えまい」
火の精霊は倒木の枝を折って飲み込んだ。ぱちぱちという音をさせ、少しばかり火の勢いが増した。
「あの人間が探していたのは、あれのことなのかな?」
「それはわからない。しかし、いずれ見つけるかもしれない。見つけられないのかもしれない」
「教えてあげてもよかったんじゃないかなぁ?」
「その必要はない。我らは見守るだけだ」
「これから僕はどうすればいいのさ」
「やがてまた一人、人間が来る」
「来たらどうするのさ」
「同じことをする」
火の精霊は適当な木の枝を数本平らげ、姿を消した。
ピノキオは言われたとおりのその場所でじっと待つことにした。
ときどき風の精霊が話しかけてきたが、ピノキオは何一つ答えなかった。
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