第10話 水の精霊
森の中のひんやりとした空気は、炎の精霊に焼かれた背中を癒してくれる。
明け方近く、ようやく湖までたどり着いた。渇いたのどを冷たい水で潤す。
僕は生き返った。
生き返って、そして考える。死んでいった者のことを。
人類は滅んだ。あっけなく滅んだ。
なぜ滅んだのか。
それはきっと、愚かだったからに違いない。
でも、僕は生き残った。
取り残されたといってもいい。
なぜ、取り残されたかと言えば、僕が少しばかり賢かったからなのか?
そんなはずもない。
そんなはずもないのに、やはり人類は滅んでしまった。
そんなはずもないのに、こうして僕は生き残ってしまった。
生き残ったのは僕だけではないだろうと思いながらも、やはりこうして周りを見渡してみると、僕は独りぼっちだと知る。
地上は静寂に包まれた。
いや、本来の姿を取り戻したのかもしれない。
機械的な音や工業的な光は、すっかりなりを潜めている。
たとえば音といえば、鳥のさえずりが心地よい。
川のせせらぎ、風の通り過ぎていく音。
これが本来のこの星の姿なのかもしれない。
嗚呼、僕は一人きりだ。
こんなに美しい世界に、僕は取り残されてしまった。
たとえば光といえば、降り注ぐ太陽の日差し。
歯の上の朝露がキラキラと輝いている。
湖面に映る月の光が幻想的だ。
嗚呼、僕は一人きりだ。
こんなに美しい世界に、僕は取り残されてしまった。
「まだ、こんなところでうろうろしていたの? 坊や」
彼女が僕に話しかけてくる。
「そういう君も、まるで僕を待ち構えているようにここに居るんだね」
彼女と会うのは三度目だった。
夜と昼とそして朝と
朝日がキラキラと輝く森の中の湖のほとり。
「そんなに人が恋しいの?」
「そうでもないさ。僕は一人だけど、それは別に今に始まったことじゃないから」
「そうかしら? 人は一人では生きていけないのではなくて?」
「そうかもしれない。そうだったかもしれないけど、今はこうして一人なのだから仕方がない」
「せつないのね」
「そう、せつない。でも、せつないだけさ」
「つれないのね」
「僕一人なのだから、誰かにとって優しい人である必要もないから」
ふふふ、ふふふふふ……
彼女は笑った。
僕を笑ったのか、人類というどうしようもなく哀れな種族を笑ったのか、定かではない。
「あなた、どうして自分だけが取り残されたのか、思い当たるところはあるの?」
彼女は足ヒレで水面を「パシャン!」と一度叩いた。
静かな湖面に小さな水しぶきと共にさざなみが立つ。
彼女が腰かけている樹木が揺れ、葉が数枚湖面に舞い落ちる。
「それをずっと考えていたんだ。どうやら僕は取り残されたのではなく、『残させられた』のではないかと」
「へぇー、どういうこと?」
彼女は少しだけ身を乗り出す。水分を含んだ赤色の長い髪が肩から胸へ滑り落ちる。
「つまり、何かの理由があって、偶然やら奇跡が重なって残されたのではなくて、何らかの意思に従って、生き残されたのではないかと」
「何らかの意思ですって、面白いわね。もっと聞かせてちょうだい」
足ヒレが水面を揺らすたびに湖面に反射した日差しが、腰から下にある鱗あたり、品のないドレスのように見えたが、彼女にはそれすら愛らしく見えてしまう魅力があった。
「たとえば鳥や魚、虫たちに小さな動物たち、植物もそうなのだけれど、それらは昔から僕ら人類の目の前にあった」
「そうよ。そしてあなたたちは自分たちの都合で多くの種族を根絶やしにしたわ」
「それを愚行と言えばそうなのかもしれない。いや、たぶん、そうなんだ。だから僕らは罰を受けた」
「いいわよ。いいわね。人類は罪深き存在、その人類についに神の鉄槌がくだったってわけね」
パシャン! パシャン!
彼女はすっかりはしゃいでしまっている。水しぶきが僕の足元を濡らす。
「でも、絶滅してしまっては、罰を罰だと認識するものが居なくなってしまう。罰を受けた結果を見届ける者が必要だった」
「それであなたが選ばれたわけね。それはとんだ災難ね」
彼女はまったく同情などしていなかった。なんのためらいもなく僕を嘲笑った。それがかえって気持ちがよかった。
「取り残された僕はいろんなところを歩いて回った。見て回った。そしていろんな精霊と出会ったよ」
「風の精霊はいやなやつだったでしょう?」
「どうかな。僕にとっては火の精霊の方が怖かったよ」
「あいつ、怒ると手当たり次第に燃やしちゃうからね。でもね、あいつ、私には頭が上がらないのよ」
「どうやら、そうみたいだね。おかげで僕はその分も含めて、怖い目に合わされたよ」
僕はシャツを脱いで彼女に焼けただれた背中を見せた。
「あらあら、ひどいことするわねぇ。可愛そう」
シャツを下ろして向き直ると、彼女は髪の毛を後ろに払い姿勢を正した。あらわになった小さな乳房に水滴が滑り落ちる。
「仕方がないわね。こっちに来なさいな」
僕は彼女の前に歩み寄った。
「よーく見せて……、まぁ、本当にひどいわね」
彼女は僕の背中に冷たい息を吹きかけた。するとそれまでひりひりしていた背中の痛みがすっと消えた。
「他に火傷はない?」
「ありがとう。大丈夫だよ。知らない間に背負っていた荷物に火をつけられてね。本当にひどい目にあった」
「お礼なんて……、勘違いしないでよね。私は火の精霊が気に入らないだけよ。あなたを助けたかったわけじゃないんだから」
彼女は横を向いて口を尖らせていた。彼女の横顔を間近で見るのは初めてだったので、しばらく見蕩れてしまった。
「また、火の精霊にやられたらここにきなさいな。面白い話を聞かせてくれたら、傷を治してあげるわ」
お礼を言う間も与えず、彼女は水しぶきひとつ立てずに姿を消した。僕には彼女が鏡の中に吸い込まれるように見えた。
そう。彼らは、彼女たちは僕を傷つけても決して殺しはしない。
なぜなら人間という存在が居なくなって一番困るのは彼ら、彼女らなのだから。
人が想像しえし、幻のごとき存在は、人なしでは、語り部なしでは、存在しえない。
神が神であるために人の存在は欠かせない。
精霊が精霊であるためには、人の存在は欠かせない。
人類は滅んだ。
しかし人の作りし、幻想や妄想は人類と運命をともにすることを拒んだ。
人類は滅んだ。
しかしこの星に育まれた意思や思念は、人類と運命をともにすることを拒んだ。
僕は湖を後にした。
このままここにいては、水の精霊に溺れさせられるに違いなかった。
僕は泳ぎ方を知らない。
水の精霊に別れを告げ、僕はさらに森の奥深くへ入っていった。
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