第28話 迷い路

 3月11日午後2時46分。私は仕事で訪れていた世田谷の豪徳寺駅周辺で、今までに経験したことのない大きな地震に遭遇した。その後も何度か大きな余震が街を揺さぶる――東日本大震災は、まだ私の目にはその一部しか見えていなかった。都内の交通機関は麻痺し、携帯電話も繋がらず、会社や家族と連絡が取れない。移動する手段を求めて隣の駅まで歩く。その途中で一人の老人と出会い行動を共にすることになった。経堂駅に着くと運良く渋谷駅に向かう路線バスに乗ることが出来た。老人も一緒に渋谷に行くはずだったのだがバスに乗り込む際に老人とはぐれてしまった。しかたがない。そう思っていたのだが……いよいよ渋谷駅に着くというときに、はぐれてしまったと思っていた老人が一緒のバスに乗っていることに気づいた。バスを降り、再び老人と行動を共にすることになった。


「トイレは大丈夫ですか? まだ先は長いでしょうから、ここで用をたして行きましょう」

 老人はうなづくきはしなかったが、私の申し入れを承知したという目をしたので老人を渋谷駅前の公衆トイレへ案内した。渋谷の街は思っていたほど混乱はない。お互いに知りえた情報を交換し、どうやったら目的地に着くことが出来るのかを模索している人がほとんどで、大震災という未曾有の災害が起きていることの恐れよりも、まずは家に帰ることが大事といった感じだった。携帯電話は通じない。それでも何かの間違えで通じることもあるようで、「何度もリダイヤルしたらやっと繋がった」と、通りすがりのOLが話していた。実際、渋谷に来たものの、ここで手詰まりという人は他にやることがない。都内の鉄道はすべてストップしており、JRはすでに今日中の復旧はないという案内を出していた。地下鉄が一部復旧するようだという情報をところどころで耳にする。電話が通じた人は車で迎えに来るようにと依頼をしているようだが、それこそ混乱を招くだけだ。すでに道路は身動きが出来ない状態になりつつある。


「おじいちゃん、ここからどうする? 私は両親が品川に住んでいるので、実家に世話になろうと思ってるんです。渋谷から品川までなら歩いてでも行けますから」

 品川と老人の行きたい方角がまったく違うなら違うで、この際、老人に付き合うのもいいと思っていた。どのみちまともな時間には帰れやしない。家のことは心配だたが、荒川を越えて江戸川区に入るのはいろいろと不確定要素がある。橋、通行規制、液状化現象。今のところ江戸川区周辺に大きな被害が出ているというニュースはない。千葉沖で火災が発生しているらしいがその影響があるとは思えない。有害物質が発生しているという話もあるが、流石に西葛西までは届かないだろう。しかし――


「心配かい?」

「えっ?」

「心配はいらんよ。何も心配はいらんよ」


 老人は、私に心配はないと微笑みながら言った。いや、もしかしたら微笑んではいないかもしれない。老人の顔のシワが微笑んでいるように見えるのかもしれない。だが、奥まった目のくぼみは、どことなく不気味さも感じる。じっと見ていると、その中に吸い込まれそうな馬鹿げた錯覚に陥りそうになる。


「おじいちゃんのご家族も心配しているでしょう?連絡をとる方法があれば……あっ、公衆電話なら通じるはずです。電話番号わかりますか?」


 老人は寂しそうに首を振る。さっきの笑顔とはまったく違う、寂しそうな表情も、もしかしたら老人のシワがそう見せているだけなのかもしれない。年寄には年寄でそれなりに事情があるのだろう。私はそれ以上、老人の家族のことに触れることは、やめることにした。とはいえ、行き先を聴かないわけにもいかない。


「大森へ……」

 老人は目をふせたまま静かに言った。

「ワシは大森へ行きたいんじゃ。大森はどうやったらいけるのか……」

「大森ならJRで品川から二つ先の駅です。品川から歩くと結構ありますが、品川までいければ何とかなるでしょう。じゃぁ一緒に品川まで行きましょうか?」


 老人は静かに首を立てに振った。歩きながら、ゆっくりゆっく何度も。


 公衆トイレの前は一段と混雑していた。用をたそうと並んでいる人、タバコを吸う人、それに情報を交換する人でごった返していた。

「もし、トイレの必要がなかったら、ここで待っていて下さい。私はトイレをすませたら、すぐにここに戻りますから」

 老人は黙って動こうとしない。私はかまわず人ごみの中を掻き分け、トイレに並ぶ列を見分け最後尾に並ぶ。私の前に並ぶ二人組みのサラリーマン――年齢は明らかに自分よりも上で、多分、社会的地位も上なのだろう――が話をしてる。どうやら渋谷から出ているバスのことを話しているようだ。私はさり気なく二人の会話に割り込んだ。


「すいません。そのバスは、どこまで行くんですか?」

「田町行きのバスが動いているらしいよ。乗り場は駅の反対側だよ」

「あ、バスターミナルですね。わかります。ありがとうございます」

「まぁ、もっとも何時間かかるか、わかりゃしないけどな」

「え、まぁ、歩いたほうが早いとも思うのですが、なにぶん連れがいるもので」

「そうかい?まぁ、あちこち歩き廻ったところで、どこも人で一杯さ。動かないのがいいのかもしれんが」

「そうなんです。じっとここで待つのもどうかと……人がどんどん増えてますからね」

「あなたがたもそのバスに?」

「いや、今その話をしていたところでね。田町に出たところで、どうにもならないって話をね」


 トイレで用をすませ老人を探す。老人は言われたとおりにそこにじっと立って待っていたようだ。

「トイレ本当に大丈夫ですか? 田町までいくバスがあるそうです。とりあえずそれに乗ってみましょうか? 町田まで行く間に状況も少し変わるかもしれないし」

 こうして私は、再び老人と一緒にバスに乗ることにした。



 バスを待つまでの間、何度か家に電話をしようと試みたが、まったく通じる気配がなかった。メールを書く。


件名:帰れない

本文:渋谷まで来たけど、交通機関が麻痺してる。今日は品川の実家に行くから、家のことよろしく。何かあったらメールか、実家に連絡してくれ


 はたしてこのメールを妻が今日中に読むかどうかはわからない。通常携帯電話のメールは、サーバーにメールが届いたことを携帯に知らせる仕組みになっている。だが今日のような非常時は、『新規メールを受信』という操作をしないと、サーバーからメールは自動的に配信されない可能性が高い。理屈がわかっている人間にはピントくる話だろうが、そこを妻や実家の母に求めるのは無理だろう。テレビやラジオでは、おそらく混乱と混雑を防止するため、そういう情報も流さないだろう。


 バッテリーの残量を気にしながら、時々ツイッターを使って情報をチェックする。知り合いが品川方面から渋谷方面へ徒歩で帰宅しようとしている様子や会社に泊まろうとしたらビルから追い出されたという話など、随時情報が入ってくる。こういうときにデジタルデバイスをある程度使いこなせる仲間がいるのは心強い。総合的に判断して、今の状況でバスで品川方面への移動は、かなり時間がかかるだろう。しかし、老人を歩かせるわけにも行かない。行動がこういう形で制限されるのはあらかじめ想定していたことだが、やはりどこか釈然としないものがある。


 老人は、静かにそこに佇み、私のそばから離れようとしない。『この老人をひとりきりにしてはおけない』という感情が私の中に芽生え始めているのを感じるが、素直にそれを認める気にはなれないでいた。不用意に馴れ合いになるのがいやだった。


 都営バスのターミナルは普段は見られないような人だかりになっていた。先行のバスが出たばかりなのだろうか。田町駅行きのバスの列は運よく20人ほどの列でまだ座れる可能性があった。まぁ、こんな状況でも『誰も老人に席に譲らない』ということはないだろうと私は思った。


 日本人のそういうところは、まだ、信じられる。


 バスを待っている間、老人と会話を交わすことはほとんどなかった。後ろや前に並んでいる人とは、こんな場合に即した会話をした。それよりも何よりも私には寒さがこたえた。老人は決して着込んでいるという感じではないようだが、私よりは暖かそうな服装であった。


「寒くはないですか?」とたずねてもニコニコしながら首を振るだけだった。そういう自分こそ、コートを事務所においてきたことを後悔していた。


 帰りが夜になるなんて、誰が想像できるものか!


 渋谷駅に到着して30分が経過する。駅の周りは人で溢れ返っていた。


「本当にバスはくるんですかね」

 私たちのすぐ後ろに並んだ買い物帰りといった感じの中年の女性が話しかけてきた。

「そうですね。経堂駅から渋谷までバスで来たんですが、ものすごく渋滞してましたからね。たぶん普段の何倍もかかったと思います。どこの道路も渋滞しているでしょう」

 不意に一人の老婆が駅のほうからこちらに近づいてきた。列の周りをうろうろしながら、一瞬列の間に入り込む。険悪な空気が漂う。当たり前だ。しかし、そういうことも仕方がないようにも思える。自分が座席に座って、目の前にあの老婆がいたら、やはり席は譲るだろう。しかし、それはバスに乗ってからのルールである。今はバスに乗るためのルールだ。『お年寄を列の最前列へ案内しましょう』というのは、あまり日常的なフレイズではない。


「列の最後尾はあっちだよ」ひとりの中年男性が低く静かで、威圧感のある声でいう。老婆は列の後ろへは並ばすに、そのまま駅の方へと消えていった。誰にとっても後味の悪さが残る。自分の席を譲るならともかく、自分の並んでいる列の前に並ばせるわけには行かない。心があっても術がない。


 そこにようやくバスが来る。

「おじいちゃん、僕から離れないでね」

 私には覚悟があった。経堂から渋谷までのバスとは違い、このバスの車内では、きっと嫌な思いを何度かするだろう。今からでも列を離れて、歩いて品川方面に向かったほうがいいと思えた。しかし、この老人のことがある。


 いいさ、今日は会社を出たときから、覚悟は出来ていたんだ。いいことなんかひとつもあるとは期待していなかったさ。それが少しばかり、長引くだけのことさ。それに――


 それでもこの老人を無事に目的地まで送り届けることが出来たのなら、なにかを成し遂げたという達成感、或いはもう少し崇高な何かを得られるかもしれない。


 今日は、それで いいじゃないか……


 バスの扉が開き、運転手が前で何かを叫んでいる。どうやら『遅れて申し訳ありません』ということと『道路が混雑しているため、田町までどのくらい時間がかかるかわかりません』という趣旨のことを繰り返し言っているようだった。


 嫌な感じだ。やはり、止めたほうがいいのか。


 しかし、バスに並ぶ列は進み、あっという間にバスの入り口まで来てしまった。もう引き返すことは出来ない。それに少なくとも寒さはしのげるじゃないか。そう自分を納得させ、老人を先に行かせて、バスに乗り込んだ。バスの中は乗り込んだ人が、まるで工場のベルトコンベアのように次々と座席に座っていく。ともかく人がたくさん乗るのだから、奥まで行かなくてはならない。どうにかぎりぎり、老人をバスの出口近くの座席に座らせることが出来たが、私はバスの最後尾に立つことになった。すぐに老人は人の死角に入り見えなくなってしまった。バスの外にはおよそバスに乗り込めないだろう人の列が見える。恨めしそうというよりは残念そうに見える人が多い。次のバスはいったい、いつになったら来るのだろうか。或いは来ないことだってあるかもしれない。


 多くの人を積み残して、田町行きのバスは渋谷を出発した。しかし、渋谷駅が見えなくなるまでに、何分もかかることになる。この先はもっと渋滞していることが予想される。いったい何時間かかるのか。そしてこのバスに乗り込んだ人たちは、いったいどれだけの忍耐力をもってこのバスに乗り込んだのか。多くの人の憂鬱を乗せて、バスは渋谷駅を後にした。



 バスが走り出し、携帯のバテリーを確認する。残り少ない。こんなときに限って予備のバッテリーを持っていない。ノートパソコンもバッテリーが上がってしまっている。こういう状況で情報が途絶えることは一番怖い。どうせ誰かから電話がかかってくることなどないだろう。なるべく携帯の電池を使わないようにしようと思う。それでも、やはり、周りの様子が気になる。バスの窓から見える景色は代わり映えしない。夕闇の中、長い車の列はテールランプの赤い光が怒っているように見える。バスのエンジン音で外の音は聞こえないが、それでも時々大きなクラクションの音が聞こえてくる。


 東京の街はイラついている。


 経堂駅から渋谷駅に向かうときに使ったバスの車内は、ほとんど会話がなかった。みんな情報が少なく、それを口にすることにまだ遠慮があった。「驚いた」「不安だ」「心配だ」「連絡がつかない」およそそのことくらいしか話すことが見つからなかった。しかし、渋谷を出発した田町行きのバスの中は少し違っていた。断片的だった情報は、自分が独自に得たものと他人から得聞いたもの、そして運よく誰かと連絡が取れた人は、そこからもたらされた情報を互いに交換し合うことで、この震災の細かいディティールが徐々にはっきりと見えてきていた。しかも渋谷駅の混乱を目の当たりにしたことで、情報との温度差を自分中、あるいは行動を共にする他の人とすり合わせて、より具体的なイメージとしての震災を捕らえている。


 人はそこから、どう行動するのか?


 自らのおかれた立場と、はるか数百キロ先で起きている大惨事。想像を超える自然の驚異と想定を超える被害の拡大。家族がいる者は家族の安否、家のあるものは被害の算段、独り身の者は、自己の安否を誰に知らせるべきか、どうやって知らせることができるかを模索する。


 誰もがみんな 非日常な中で リアルな現実を抱えている。


「ぜんぜん進まないね」

「さっきから100メートルも進んでないんじゃない」

「どうしよう。これじゃいつになるかわからないね」


 OL風の3人組が私のすぐそばで話をしている。


「そうとう被害が広がってるみたいよ」

「津波で町そのものがなくなっちゃったって!」

「日本列島が津波警報で真っ赤だよ」


 ワンセグでテレビを見ながら若いサラリーマンが話をしている。そうだ、そういう話が聞きたい。こっちはできるだけ携帯の電池を節約したいんだ。もっと情報を――具体的な情報を


「あれ、地下鉄動き出したみたいよ」

「うそ!私のほうにはまだ、見通しが立たないって……」

「どの情報が正しいのかぜんぜんわかんないね」

「デマとかも、かなり流れてるらしいわよ」

「へぇ、そうなの?でも、どうやって見分けるのよ」

「千葉のほうの工場の火災、有毒ガスが出てるとかいう情報が流れたけど、デマだって言ってる」

「えー、でも、工場とかヤバクない? 有毒ガスとか普通に出そうだけど」

「だよねー」


 女子大生だろうか? さっきのOLとは明らかに違う話し方だ。いや、ちがうな。誰と話をしているかで、話の表面が変わるだけだ。あのOLは仕事上の付き合いであって、それほどプライベートでの付き合いがあるわけではないのだろう。


 私たちが乗る路線バスは、地上を移動する手段としてまるで役に立たないかのように歩行者や自転車に次々と抜かされていった。それでもどうにか最初の停留所につく。しかし、バスは止まらない。この状況でバスを降りる人もいなければ、新たに人を乗せるスペースもない。並木橋、渋谷車庫前を通過する。バス停にも待っている人はいない。東二丁目、東三丁目を通過し、恵比寿駅前とアナウンスがあったとき、不意にブザーが鳴る。


「だれだよ。空気読めよ」

 OLのグループから声が上がる。

「こんなところで降りるとか、意味ねーじゃん。最初から乗るなよ」

 女子大生のグループもはき捨てる。


 いや?これは英断だろう。こんな調子でバスに乗っていたら、かえってストレスになる。できるくらいなら私も降りたいくらいだ。あの老人がいなければ……私は老人の姿を探したが、体を思うような方向にむけることができずにいた。渋谷からなら山手線で一駅、5分もあればいける場所に、なにが悲しくて1時間もかけてバスで行かなければならない。まったく馬鹿げている。いつまでこんなことを続けるのか?


 私は携帯を取り出し、twitterで情報を確認する。恵比寿で降りて、日比谷線が動いていれば、別ルートで帰れないだろうか? しかし、すぐにその提案は却下された。渋谷に戻る以外で、ほかに方法はない。あの人だかりの駅から地下鉄が動いたとして、自分だけならまだしも老人を連れまわすことは不可能だろう。


「あ、わたし、ここでおりるね。なんか彼氏からメールが来て、車で迎えに来てくれるって言うから」

「あ、そうなんだ。よかったねー」

 なんとも乾いた会話である。OLの一人は、恵比寿で降りて彼氏の車が迎えに来るのを待つというのだ。そんなことだから 道路が渋滞する。そう思ったのは、きっと私だけではないだろう。そう思う自分、そうわかってしまう自分がとても小賢しくてイヤだと思った。


 賢くて 何が悪い。


 それにしても道路はまったく機能していない。警察はいったいなにをしているのか? 交通整理ができているとは思えないし、そうえいば、ここまでパトカーの音や緊急車両の音も聞いていないし、だいたい、警官を見ていない。警察も動けないでいるのか、あるいはもっと別の場所に人員をさかなければならないくらい、切羽詰った状況なのか? 窓の外の景色はずっと止まったままだ。私には二つの悪い考えが浮かんでいたが、あえてそれ以上考えないようにしていた。一つはある事実。もう一つはある妄想である。




「ねぇ、さっきから全然動いてなくない?」

「そうだよね。10分やそこらじゃないよね」


 20分だ。いや、もう少し前かもしれない。バスは、まったく動いていない。だが、あえて私はその事実を無視していた。前の座席のほうも少し騒がしくなっている。断片的にしか聞こえてこないが、どうやらこの先の交差点で問題が起きているようだが、ここからでは状況がよくわからない。


 身体を少し動かしてみる。視界を確保することは出来なかったが、前方の様子を覗き見ることはどうにかできた。正面に歩道橋が見える。どうやらそこは明治通りと駒沢通りの交わる交差点のようだ。どういう理由で右折できないのか。この位置から見ることはできないが『何がおきているのか』は、およそ想像はつく。信号が変わっても交差点に車が取り残され、乗用車ならまだしもバスのような大きな車両では曲がりきれないのだろう。誰かが交差点に立って交通整理をしなければ、このまま前には進むことはできない。


 そう、右折車線に入ってから1メートルも進んでいない。いよいよ、バスの中は殺伐としてきた。


「なにやってんの、このバスの運転手。全然進んでないよ」

「だめだよ、あれじゃ、一生曲がれない」

「誰かなんとかしろよ」

 最初は囁くような小さな声だったが、次第に『誰にも聞こえないように』というよりも『聞こえまいと遠慮をしている事がわかる程度』にかわり、やがて、周りの人に聞こえる声の大きさへと変化していった。そしてついに、我慢できなくなった一人の男が大声を上げた。


「運転手さん!このままじゃ、いつまでたっても着きやしないよ! どうにかしてよ! 前に行って、交通整理するか、無理やり突っ込むように言わなきゃ どうにもならないよ! 無線とか携帯で会社に連絡取れないの!」

 言いたいことを言う。周りの空気が一瞬張り詰める。そして次に何が起きるかを注意深く見守っている。なんという重たい空気。なんという圧迫感。


 やや、しばらくして、運転手が応える。

「そんなこと言っても、どうにもできませんよ。どこにも連絡なんか取れやしないし……この交差点さえ越えれば、もう少し道路は流れていると思うんですよ。もう少しお待ちください」

 先ほど声を上げた男がすぐさま反応する。

「じゃあ、このまま待ってるわけ? 絶対動きやしないんだから、こんなんじゃ! どうにかしてよ! みんな我慢してるんだよ! 前のバスのところまで行って、なんとかしてよ! お願いしますよ!」

 運転手も語気を荒げる。

「そんなことはわかってますよ。でも、歩いてなんか行けやしませんよ。ちょっと、待っててください。なんとかしまっすから!」


 ウインカーの音……バスが少し左に動く。どうやら車線を変更しようというらしい。それすらも骨の折れる作業である。しかし、このまま待ち続けるよりかははるかにいい。何度か信号が変わるうちにバスはひとつ左の車線――たぶん直進の車線だろう――に移動した。それにより、目の前の交差点で何が起きているのかがバスの乗客にわかるようになった。これでは、大きなバスでなくても気が小さいドライバーなら右折することなどできやしない。


 アワヨクバワレサキニ

 

 そんな言葉が頭に浮かんでくる。多分最初はここまで混乱していなかったのだろう。何台かが交差点に取り残され、それをよけるように他の車が流れを作る。その流れに乗らないと自然前に進めなくなる。それは無秩序な混乱ではなく新たなルールの構築である。その流れに乗れないものは取り残され、除外される。非常時というのは、それまでの常識が通じないだけで、秩序が完全に崩壊するわけではない。しかし、それが完全な崩壊へと発展する可能性を誰が否定でいようか。


 郷に入れば郷に従え


 非常時には非常時の対応が必要である。ついにバスは交差点で立ち往生しているバスの横につけた。運転手がサイドブレイキを引き、前方のドアを開ける。とたんに街の騒音がバスの中に流れ込んでくる。緊張しているのはバスの中だけではなかった。この交差点の周辺は無作為な殺気で満ちていた。

「誰も、降りないでくださいね。外にはでないで」

 運転手は語気を多少強めた口調で言いながら運転席を離れると、急いでバスを降りた。運転手の帽子がフロントガラスの向こうに見える。どうやら隣のバスの運転席の横に回り、サイドの窓から、話をしているらしい。怒鳴り声のような声が時々聞こえるが、それは怒鳴らないと音が聞こえないためなのか、それとも腹の中に何か思うところがあるのかはわからない。たぶん、両方だろう。


 プシュー!


 折りたたみ式のドアはエアで動いている。ドアが閉められたことで、一瞬バスの中は静かになったように感じるが、ディーゼルエンジンが静かであるはずがない。運転手は、サイドブレイキを下ろし、アクセルを踏む。バスが前へ進んだ。


「おー」

 乗客の中から声が上がる。それは感嘆というよりかは、トイレで長いこと踏ん張った後のため息のようだった。遅れて右折車線にいるバスも動き出す。私を乗せたバスは、交差点に強引に割り込み、道路をふさぐ。その間に右側にいたバスは少しずつ前に進みどうにか右折をする態勢になる。そこにかぶせるように、こちらのバスが突っ込む。信号が変わっても強引に割り込み、ついに開かずの扉をこじ開けた。


「おー」

 再び乗客の中から声が漏れる。それは安堵の声。決して運転手に対する敬意を表すものではなかった。が、私は敬意を払った。この状況でマニュアルどおりの行動をとることはないのだ。非常時の時には非常時の判断と行動が必要であり、公共性の高い職につくものには、その判断も、行動も鈍りがちだ。運転手は良く判断し、よく行動したと思う。そして運転手が宣言したとおり、交差点をすぎてからは、少しずつでも前に進むようになった。やがてバスは恵比寿の駅のロータリーに入っていった。


「こんなところで降りてどうするんだ」

「乗せることないだろう。いっぱいなんだから」

 口に出して言う者、目で訴える者、目も耳もふさぎ、無関心を装う者、無関心の者。身動きが取れない分、頭の中を動かすことしかやることがない。感覚も無駄に研ぎ澄まされ、見なくてもいいもの、聴かなくてもいいものが聞こえてくる。こんなときは音楽でも聴いていたほうが気がまぎれるが、携帯電話の電池の残量が気になってそれもできない。


 ともかく、いい。


 この息苦しい状況から一人でも二人でも人が降りつというのなら、それは歓迎すべきことだろう。そしておそらく、恵比寿で人を乗せることはないだろう。しかし、そうはならなかった。降りた人数は思いのほか多く。その分何人か乗せないわけには行かなかった。絶望的な状況ではないが、希望を一欠けらずつ、砕いていくような作業である。人がどこまで冷静沈着でありえるか、追い込まれていく状況の中で、誰かに手を差し伸べることを忘れられずにいられるか。そんなことを試すためのアトラクションの乗り物に、がっちりとシートベルトと安全バーで押さえつけられているような、そんなスリリングで非生産的な気分になっていた。


 面白いじゃないか。どこまでいけるか試そうというのか?


 私はバスの中で、覚悟を決めた。定員オーバーのジェットコースターは、恵比寿駅を出発した。恵比寿駅の停留所が見えなくなるまでに、それから30分を要した。私は考えずにいられなかった。


 もう一つの妄想を……



 時間の経過とともに、バスは確実に目的地に近づいている。しかし、そのことで得られる安心よりも、疲労や不安、或いは理不尽な状況に対する不満によって削られる『乗客の忍耐』の量の方が少しばかり多かった。それはほんのわずかな差分だが、蓄積は累積となり、累積は自らの認識と行動との間に少しずつ差異を生んでゆく。


 雰囲気に流されてはダメだ――と、わかっているつもりでも気持ちは真逆の方向を向き、疲労した身体が人の心を低い方向へといざなう。それに抗う術を本来、誰もが持っているはずである。しかし、問題はその認識があるかどうか。自分が「危険な立場に追いやられている」と気づくかどうか、わかるかどうかだ。


 私が考えたくなかった一つの妄想――それは、危機に遭遇した集団が、互いに協力し合うという精神状態から、自分、或いは自分に近い人を守るために、いがみ合い、反発し、一つの過失が怨恨を生み、それが疑心となり、嫌悪となり、過去からのマイナスに鎖をつけて、大きな狂気へと進んでゆくさまである。


 もし、いま、小さないざこざが起きるとする。それが二人のグループと3人のグループで、その中の一人がどうにも言葉が汚いヤツだとする。その男が吐き捨てた何気ない――そう、その男にとっては、日常茶飯事、どうということのない一言だが「アホ」という言葉に周りにいる人間が反応をする。「馬鹿馬鹿しい」ならよかったのだが「アホらしい」と言ったが為の、些細な感情のブレである。その非友好的な視線に敏感な一人、それはどちらのグループでもいいのだが、その雰囲気にのまれて過剰な反応をする。見かねた誰かがそれを察して中を取り持とうとするも、実はその男が、実は数刻前に小さな小言を言っていたことを誰かが覚えていて、そのことを指摘する。


 彼はプライドの高い男だ。


 それぞれが、ぎりぎりの忍耐でこらえているが、きっかけさえあれば、いつでも爆発しそうな状況が出来上がる。


「やめてよ! お願い! バスを止めて! 早くここから出して! 私、家に帰りたいの! ただ、それだけなのに、どうしてこんな目にあわないといけないの!」

 一人の女がヒスを起こす。彼女は悪くない。なぜならそれは、病気なのだから。しかし、その一言が引き金になり、少しでも心の中の摩擦を減らそうと、何人かが大声を出す。

「ふざけるな! 我慢しているのはお前らだけじゃないんだぞ! 大声をだすんじゃね! 」

「そんな言い方をしなくてもいいでしょう! 彼女 怯えてるじゃない!」

「うるせぇな! ぎゃんぎゃん、ぎゃんぎゃん、騒ぐんじゃねーよ! 殺されたいのか!」


 あまりのドスの利いた声に、思わず誰かがたじろぎ、体がよろけ、隣の女の足を踏みつけてしまう。

「い、痛い。やめてよもう!」

「何しやがるんだ!」

 連れの男が、その男の胸倉を掴む。しかし思うように動けない。男は自分が動けるだけのスペースを確保しようと、強引に周りを押しのけようとする。

「いい加減しにしろ! もめごとなら外でやってくれ!」


 あちらこちらで小競り合いがはじまる。

「お客様、どうか落ち着いてください。車内で乱暴はやめてください」

 運転手がマイクで呼びかけるが、まったく効果がない。車内が混沌とし始める。私は老人の姿を探す。おかしい、前の席にいるはずなのに……

「すいません、ちょっと、前に行かせてもらっていいですか?」

 私は老人が見える位置まで移動しようとするが、思うように前に進めない。それどころか、激しい敵対心を周りから向けられる。

「面倒は困る。おとなしくしていてくれ」

 一人の男が私を睨みながら、低く唸る。

「違うんだ。連れがいる。前の席に座っているはずなんだが、姿が……」

「いいから、お前はそこから動くな。動けばただじゃ置かないぞ」

「な、なんだと、貴様、何様のつもり――」

「あんた、いい加減になさいよ。こんな状況で前になんか行けるわけないでしょう!」

 近くにいたOLが、まるでセクハラをしたさえない男を見下げるような目で、私を見る。

「どうして私が、そんな口の聞き方をされないといけないのかね。だいたい、お前たちのような――」


 私はその後何を言おうとしていたのか、わからない。思い出せない。たぶん、卑劣なことを言ったのだと思う。しかし、次の瞬間、私の妄想は、現実の枠を飛び越えて、自走式の狂気へと向かっていった。


 ドドドーっ!


 突然、突風が吹き荒れ、バスが大きく揺れる。突風? いや、ちがう。それはまるで砂煙のよな細かい粒子の粒がある砂嵐のようだった。しかし、砂であれば、窓ガラスに小石が当たるような音がしそうなものであるが、そういう音は聞こえてこない。まるで細かい灰を被ったような、そんな感じだった。


「な、なんだ?何が起きている?」

「おい、大丈夫かよ、これ」

「おい、おい、なんかやばくないか」

「外が全然見えなくなったぞ。おい、誰か! なにか見えるヤツいるか!」

「だめだ、何か細かい粉みたいなのが窓ガラスにくっ付いていて何も見えない」

「粉?どっかの馬鹿がセメントでも撒き散らしたか」

「なぁ、これって9.11みたいじゃないか。あの貿易センタービルが倒壊したときの粉塵」

「おい、って、ことはこの近くで同じような事がおきたっていうのか?」

「まさか? そんなこと……」

「おい、誰かネットつながるやついないか? これだけの事が起きてたら、何か情報出ているだろう?」


「ワイパーを――」

 そう誰かが行ったときんは、バスの運転手はワイパーを動かしていたが、全くといっていいほど無力だった。ワイパーが動くたびに灰色の粉がフロントガラスにまとわりつく、何本もの筋ができるが、そこから覗けるのは、わずか数センチ先の煙上に舞い上がった粉塵である。

「窓は絶対に開けないでください」

 運転手は、落ち着いた声でマイクを使って車内に案内し、エンジンを切った。この粉塵のようなものを吸い込んでは、動くものも動かなくなる。そう判断したのだろう。車内が静かになった。何が起きているのかを知ろうとして、みんな耳を済ませる。恐ろしいほど音がない。仮にかなり広範囲にこの粉塵のようなものが巻き散らかされているとして、もしそうだとするのなら、周りの音はかなり聞きづらくなるだろう。しかし、クラクションの音一つもしないというのは、どうだろうか?


「クラクションを鳴らしてみては?」

 運転手のそばにいる男が提案をした。こちらからは様子がわからない。若い男の声のようだが――


 プップーーーーッ。プーーーー。


 やはり音の返りが極端に悪い。クラクションはいつもの音の半分にも満たない大きさで、寂しく暗闇に吸い込まれていく。なんとも不気味な感じである。まるで目の前で空間が歪み、そこに音が吸い込まれてしまっているようだ。周りを注意深く目を凝らしてみるが、何の変化もない。なんの反応もない。


「いったいどうなってるんだ?」

「なによこれ、私たちどうなっちゃうの」

「落ち着けよ。下手に動かないほうがいい」

「だって、これ、絶対に変よ。教えて! 外では一体何が起きてるの?」

「おい、ネットで情報つかめた人、誰かいるか?」

「ダメだ、全然繋がらない。さっきまで電波来てたのに、圏外になってる」

「こっちもだ。もしかして、全部のキャリア、ダメなのか」


 私は、自分の携帯を確認してみた。不思議なことに自分の携帯は電波が三本立っている。しかし、私は考えた。もし、自分の携帯が使えるのであれば、他の誰かも使えるはずだ。ただでさえ、電池が少なくなっている。他に使えるやつがあるはずだと。しかし、誰一人、自分の端末が繋がると申し出るものはいなかった。いったい、なにが起きている。これは、どういうことなんだ。


 私は携帯を胸のポケットにしまい、しばらく事態の推移を見守ることにした。

「どうです? 繋がりませんか」

 目の前に席に座っている学生風の女性は同じ私とキャリアの携帯を持っていた。

「だめです。圏外です」

「そうですか……おかしいですね」

 私は一瞬、余計なことを言ったと思った。が、その心配はなかった。

「そうですよね。みんな繋がらないなんて……」

 危ない。私は思わず胸をなでおろした。今は、考えろ。ともかく考えろ。軽率な行動は命取りだ。こんなところで死ぬわけには行かない。自分だけでも――


 いや、そうは行かない。あの老人のことをすっかり忘れていた。あの老人を置き去りにするなどできない。このバスの乗客を全員見捨てても、あの老人だけは助けなければならない。


 私は――私は――


 自分がなぜ、そうまでしてあの老人に拘るのか。まったくわからなかった。しかし、そうしなければならないという強迫観念にも似た強い思いが私を突き動かしていた。私は、再び、老人を探し始めた。




 エレベータ――そう、知り合いが一人もいない状況で、客先の大きなビルのエレベータに乗ったときのような嫌な沈黙が続く。しかし、誰もボタンを押していない。押すことができない。だから外から誰かがボタンを押さなければ、永遠にこの状況は終わらないのだ。息苦しさと、荒唐無稽さと、そしてもう一つ。恐怖或いは狂気と隣り合わせの感覚。面白い事が起きればみな笑い始めるだろうし、恐ろしい事が起きれば、全員がパニック状態に陥る。そんな『危険な状態』に私たちは置かれていた。


 私はといえば、違う意味でパニックを起こしそうになっていた。老人の姿がどこにも見当たらないのである。


「す、すいません。ちょっと、いいですか? その席のあたりに、連れのおじいさんが――お年寄りがいるはずなんですが……」

 私は、思い切って――でも、小さな声――なるべく多くの人間に聞かれないように、OLのグループに声をかけた。間違いなくその向こう側に老人がいるはずだと、私は確信していたし、そのあたりは完全にこちら側から死角になっていたので、記憶においても消去法を使った論理的推測においても、まったく疑いようがなかった。


「おじいさん、ですか? 鈴木さん、わかる?」

「えっ、ちょっと待って……このあたりには『おじいさん』って感じの方はいないようですけど」

「反対側は?田中さん、わかる?」

「ううん。こっちもそういう人は……お名前とかわかります?」

「あ、ああ、そうですか、いや、実はバスに乗り込むときに知り合っただけで、名前とかは……おかしいな。たしか、渋谷から乗った時は、そのあたりに座ったものだと」

「前のほうに移動されたとか?優先席のほうまでは、ちょっとここからは見えませんから、声をかけてみましょうか?」

「いえ、いいんです。お気遣いなく。多分、私の勘違いでしょから。すいません。ありがとうございました」


 OLたちは不思議そうな目で私をみやるも、すぐに関心ごとはバスの外の様子に向けられた。私の行動は、私の期待通り、何事もなかったように誰の心にも留まらない些細なこととなった。しかし、本当に得たい結果は、まるで今の状況を象徴するかのように、暗中の只中でそれを得る手立てを何も思いつかなかった。


「お、おい。大丈夫か?鼻から血が出ているぞ」

「え、うそ、やだ……のぼせたのかな……すごく気分が悪い」

 バスの後部座席の先頭、ちょうどステップを一段上がったところの二人がけのシートに座る若い男女の二人組み――たぶんカップルと思えるのだが、窓側に座る女性の体調に異変が起きた。

「おい、大丈夫か?おい?」

 女性の具合はどんどん悪くなっているようだ。鼻血がとまらない。目がうつろで、頬は火傷をしたかのように真っ赤にはれ上がってきている。尋常じゃない。男が彼女の鼻をハンカチで押さえ、血を止めようとするが、血が止まらない。彼には見えていない。なぜ血が止まらないのか、彼には見えていない。


「なんだ?どうしたんだ。血が止まらない……助けて、誰か、誰か……」

 男が他の乗客を見回す。必死の思いで助けを求める。しかし、誰一人応えようとしない。いや、応えられないのだ。あまりも凄惨な光景――そう、血は彼女のものだけではなく、彼の鼻からもおびただしい血が流れていたのだ。


 キャーッ!


 二人の席の回りから悲鳴が上がる。鼻から血を流した男はようやく自分の身体に起きている異常に気づくも、意識は既に朦朧として目の焦点があっていない。


「病気か」

「まさか、伝染病とか、そんなことが……」

「こ、これはテロなのか? 細菌兵器とかじゃないのか?」

「おい、早くここから出してくれ!」

「運転手さん」


 あちこちで怒号と悲鳴が聞こえる。

「おい、だめだ、運転手さんが……」

「どうしたの?」

「運転手も目や鼻から血を流して……い、意識がない」

「なんなの、なんのなのよこれ、どうやったらドアが開くのよ!」

「落ち着け、もしかしたら外のあれが、やばいかもしれないじゃないか。窓を開けるなよ」

「そんなこと言ったって、いつまでもここにいたら……みんな……みんな死んじゃうじゃない!」


 私は、注意深く様子を伺っていた。窓側にいる人間はみな、気分が悪そうだ。同じような症状が出ている。これは、やはり、外の粉塵が影響しているとしか思えない。しかし、それほど多く車内に入っているわけでもないようだし、直接鼻から吸い込んだのが原因だとしたら、何人かはそれに気づくはずである。ただの粉塵ではないことはわかるが、細菌兵器とか、そんなものは、映画やテレビの世界の話だ。ここは現実だ。もっとリアルで、絶望的な状況を、私は想像できる。


 私は携帯を手に取り、タイムラインを確認した。繋がる。が、動きはない。ある時間で止まっている。ほんの5分前だ。


 非常事態


 原子力発電所


 メルトダウン


 制御不能


 核融合


 死の灰


「放射能汚染……そんな……まさか、ありえない。福島からの距離は……」

 あまりにも目を疑うような単語の羅列に、私は思わず声に出していってしまった。


「ど、どうしたんですか? 放射能って…… あ、あなた、その携帯使えるじゃないですか!」

 うかつだった。最後部の座席に座るサラリーマン風の若い男が、私の携帯を覗き込んでいた。

「あなた、どうしてそれを黙っていたんです。これって、原発が事故で放射能が東京中にばら撒かれたってことですよね。あなたそれを知っていて、ずっと黙っていたんですか?」

「ちがう、ちがいますよ。これは、私も今見たんです。私だって、知っていれば……」

「知っていたから、おじいさんがどうのとか、言って、あわよくば自分だけバスから降りて、安全な場所に逃げいようと思ったんですね」

「そんな、私は、ただ、私は、あの老人、あの老人を、送ろうと、心配して、本当だ。信じてくれ」

 私は必死で言い訳をした。いや、言い訳じゃない。本当のことだ。本当のことのはずなのに、どうして、あの老人は、自分の前から姿を消したのだ。


「信じてくれだと……この状況で、誰を、何を信じろというんだ」

「待て、ちょっと待ってくれ、話せばわかる。そんなはずはないんだ。放射能だなんて、そんなはずは……」

 私は信じられないほど冷静だった。どんなに激しい爆発があったとしても、高々数分で、死の灰がこんなところまで、しかも視界をさえぎるほど降り積もるなどありえない。ありえないのだ。


「じゃあ、なぜ隠していたの? あなた、自分だけ携帯が使えることを隠してたんでしょう!」

「ちがう!だから、それは……」

「ちがうだ? おじさん、何調子ぶっこいているの! ざけんじゃないわよ!」

「なんだと、なんでお前らなんかに、そんな口の利かれ方をしなきゃならないんだ!」

「ほら、本音が出たよ。どうせ、私たちなんか、死んだほうがましだって思っていたんでしょう?」

「ちがう、ちがうんだ。そうじゃない」


 いや、全部嘘だ。本当はそう思っていた。


 私は 誰も 信じてはいない


 死んでしまえば いいと思っている奴がいる


 いなくなればいいと 思っている奴がいる


 私は 私のまわりの ごく一部の人だけ 助かればいいと思っている


 私は そう これが 人間だ


 でも でも 私は



 あの 老人だけは あの 老人だけは……守らなくては!




 私は必死で探した。私の半径1メートル以内に8人以上いる。みんなで私を取り囲み、罵声を浴びせる。最初の何人かの言葉は理解したが、数があまりにも多すぎて私の耳からあふれ出てしまっている。聞こえすぎて、何も聞こえない。それでも私は探した。探すことを止めなかった。


 あの老人はいったいどこに……どこにいる? いや、どこに行ってしまった?


「ちょっと、あんた人の話し聞いているの! そんなことだから――」

「お前みたいなヤツがいるから、世の中おかしくなるんだ」

「自分だけ助かろうなんて――」


 知らない。わからない。私じゃない。それは私じゃない。私は私だ。でも、今こうして狂ったバスの中で罵声を浴びせかけられているのは、私じゃない。


 私じゃない。


 必死に思うこともなければ、悲壮になることもない。それよりも何よりも――老人を探さなければ!


 私を激しく問い詰め、非難するOL風の女性――髪の毛を後ろで結わき、化粧も服装もおとなしめなのに爪だけは、なにか変な模様がついている。ネイルアートとかいうやつか。付け爪というのは、着脱可能なのか――その背後にちらりとそれは見えたように見えた。彼女の結わいた髪の毛が揺れて見えた隙間に老人が見えたような気がした。


「おい、そこをどいてくれ。私は老人を――」

「な、なにをするの! 乱暴はやめて!」

「こ、こいつ、逃げる気か! 一人で」

「違う、違うんだ! 聞いてくれ! 本当に私には連れが――老人が、老人を送らないと。老人の望むところまで――」

「いい加減なことを言うな! 貴様はそんなこと これっぽっちも思っちゃいない」

「そうよ。老人のことなんか考えていない」

「いなくなればいいと思っている」

「面倒だと思っている」

「あの場で自転車を盗めばよかったと思っている」

「そうすればこんな目にはあわなかったと そう思っている」


 私の耳に届いていない罵声は、やがて私の心の中に違う形で進入してきた。流れ込んできた。文字と色と映像と音と温度、それに――痛みと 苦しみと 不安と 恐怖と


 私は一瞬挫けそうになって、心が折れそうになって、それでも――いや、だからこそ私は前に進むことを止めなかった。止めることが出来なかった。止めるわけにはいかなかった。なぜなら――


 なぜなら私は そうしなければ ならないから


 もはや論理的な理由など必要なかった。いや、この世界はすでに論理は通用しない。そういう時は、そうでないもので戦うしかないのだ。抗うしかないのだ。退いてしまっては、下がってしまっては……覚悟は出来ていた。あとは実行するだけだ。なにを迷うことがある。何を省みることがある。何を恐れることがある。私は……私は……


 やるべきことをやるだけなのだ。なすべきことをなすだけなのだ。それが誤りだというのなら……こんな世界は いらない。


 私はこぶしを振り上げ、自分の思いをこぶしに乗せて迷うことなき一撃を行く手を阻もうとする者にぶつけた。その手ごたえは気持ちが悪いほどすかすかだった。確かな反発は感じながらも、どことなくあやふやで薄いものだった。


「こ、これは……」

 最初に私のこぶしを左のほほに受けた男は、まるで砂の城のようにもろく崩れ去る。左のひじをあごに当てられた女も砕け散る。

「この現実感のなさはいったい……このいい加減さは、このでたらめさはいったい!」

 それでもまだ、私の行く手を阻もうとする者には立ち向かわなければならなかった。そうしなければ、最初のところへ押し戻されてしまう。いつまでたっても老人がいるところ――いや、居ると思われるところにはたどり着けない。そうわかった。わかってしまった。


 私は覚悟を決めなおさなければならなかった。

「何がなんでも。そして、これが夢であろうが幻であろうが、私は――私はあの老人を」


 夢とはなんじゃ 幻とはなんじゃ


 すべての音が消え、すべての色が消え、すべての匂いが消えた。そして問いかける声だけがはっきりと そこにはあった。


「幻とは夢の中でみるもの。夢は……現実とは違う」


 夢は現実の中で見るものじゃ 違うか?


「現実に居るから夢を見る。夢を見ているときは、現実はどうなっているかは、知らない」


 夢を見ているとき、現実は夢の中にある 違うか?


「現実? 私はいつも現実の中で生きている。私が居るところが現実だ」


 夢と現実はちがうというのか では、ひとつ聞く 現実とはなんじゃ?


「現実とは――」

 何かを言おうとした私の口は、目の前に現れた一匹の蝶々によってふさがれてしまった。それは青でもあるし、紫でもあった。また、赤でもありえた。大きくもあり、小さくもある。遠くのようで近く、近くのようで遠いい。


 現実のようで夢でもあり、夢のようで現実でもある 違うか?


「蝶を見ている私はいる。そして私を見ている蝶もいる」


 なぜ、蝶とわかる? なぜ、自分とわかる?


「蝶は蝶で私ではない。 私は私で――」


 蝶でないと言い切れるか?


「わからない」


 わからないことをわかることは難しい 違うか?


「難しい」


 ならば他人(ひと)もそうよ わからないことをわかることは難しい


 人はわかるようにしか わからん そういうものだ


「……」


 沈黙はときに 言葉よりも多くを語る 語られた言葉には色がつく


「……」


「すいません。降ります。通してください」

 彼氏が迎えに来るというOL風の女性の声だ。私は静かに現実に舞い戻った。

「恵比寿駅前です。ドアを開けますので、ドアのそばから離れてください」

 バスの運転手は、静かに、そして丁寧にマイクで指示を出した。しかしその声には明らかに疲労とストレスがにじみ出ていた。


「じゃや、気をつけてね」

「うん、お先に」

 短い挨拶の中に複雑な思いが見え隠れする。そう感じる人もいれば、何も思わない人もいるだろう。老人はそこに、そう、それまでずっとそこにいたかのように、私がいると思ったその場所、そのシートに腰をかけていた。どこからが現実で、どこからが夢なのか、そんなことはどうでもいい。老人は私のほうを振り向き、無表情に微笑みかけた。老人の顔のシワは、普通にしていても笑っているように見える。しかし、光の加減、影のつき方によっては、恐ろしく冷たい表情にも見える。


 私はそんな老人をみつめて、ほっと胸をなでおろしたい気分になった。


 現実でも幻でもいい。あの老人がいるのならば、それでいい。


 バスは3人ほど人が降り、同じ分だけ人を乗せたようだった。いずれにしても……時間の流れが滅茶苦茶だ。しかし、今こうして考えている自分がいるのだから、ここが現実だと思うより他に手はない。いつだってそうじゃないか。何事もなかったかのようにバスは走り出す。さっき感じた息苦しさは、いささか和らいでいるような気がする。老人を見て安心したのか、私は急に世の中の事が不安になった。この震災の被害はいったいどれほどのものなのだろうか?


 しかし、どんなに思いあぐねても、震災の現実がわかるまでには至らない。このとき私が知っている現実とは、それほど小さく、細く、浅く、狭く、そして古いものだった。想像を超える現実が実在すると知るには、まだ、時間が必要だった。



 こういうことは、はじめてではない。


 私は以前にも同じような経験をしたことがある。この場合の『同じよう』とは震災を指すのではなく、胡蝶の夢、妄想か幻想か、ともかく現実と区別のつかないような、不思議な感覚のことである。


 私は、すっかり憔悴しきっていた。ここまでの長い道のり、いや、距離よりも時間である。そして空間である。路線バスという限定された空間で、時間と距離を移動する。外の景色は変わっていくが、私の目の前には先ほど以来、ずっと変わらない景色が続いている。そしてきっとそれは私だけに限ったことではない。ここにいる全ての人が同じような境遇にある。


 にもかかわらず、人は完全には、協調し得ない。


 しかしそれは幸いなことなのかもしれない。先ほどの幻想は、ひとつのパラレルワールドのようなものだ。もしも協調性が強く働けば、そしてそれが、不安や疑心暗鬼の方向に進めば、人はそこで争わずにはいられないだろう。なぜならそれは重大な身の危険に繋がるからだ。


 重大な身の危険。


 それは果たして、どんなものなのか? あれだけの地震だ。エレベータに閉じ込められたり、高層ビルに閉じ込められた人はたくさんいるだろう。或いは火災によって、煙に巻き込まれた人もいるかもしれない。それよりも何よりも震源地、そして津波の被害にあった地域は、それ以上のことになっているに違いない。


 しかし、それを想像することは不可能だった。


 阪神淡路の時だって、実感は何もなかった。スマトラはそれこそ対岸の火事だ。まるでハリウッド映画を観ているような無責任な感覚は本当に気持ちが悪い。そしてそんな時、決まって私の中である異変が起きる。あの津波の映像をみたとき、そして住民の恐怖体験をニュースで聞いたとき、私は夢を見た。それは大きな地震によって引き起こされた津波によって、家族がバラバラになってしまうという夢だ。私は妻の手を握り、娘の手を握る。そして息子は……息子の手を握ることはできない。私の両腕はふさがっているのだから――


 声を張り上げて息子の名前を呼ぶ。叫ぶ。瓦礫をかき分け、まだ膝ほどある水面の中に手をいれて手当たり次第に引っ張り上げる。しかし、息子を見つけることもできなければ、妻や娘の姿さえ、見失ってしまう。「死」という言葉が脳裏に浮かぶのを必死でこらえ、探し回る。そして私はついに妻を見つけ、娘を見つける。どうにか見つけることができた命。しかし、息子は見つからない。その場所を捜していても見つかるわけがないとわかる。その場所には息子はいないのだと私はわかる。


 生のある場所にもう、息子はいない。

 そして、私は――私たちは死のある場所で息子を捜す決心をする。覚悟をする。死と向き合う。


 夢から覚めても涙が止まることはなかった。それは安堵からなのか、死の余韻からなのかはわからない。夢でよかったと思う。しかし、夢ではない現実はあるのだ。きっと、そういうことがあるのだ。あるとわかっていても、私は、私たちはそれを想像することはできない。備えることはできない。重大な身の危険は、深刻さが増せば増すほど、現実味が薄れてしまうのだ。しかし――


 私は蝶になった夢を見ている私なのか 私になった夢を見ている蝶なのか?


「その答えは、どこにも ありはせんよ」

 老人は静かに言った。言ったように聞こえた。薄れていく現実感。夢の中のことだと思っていた事が現実になる。現実に起きている。いま、このとき、この瞬間、あの夢の中の悲しみが、北の地に溢れているんだ。夢と現実の境い目は、巨大な地震と津波によって崩れ去り、押し返される。ありえないと思っていた事が、今こうして起きている同じ時間軸の中に、私は――このバスは、居るんだ。


 答えはどこにもない? じゃあ、どこに行けば、どこに行けばその答えに……


『死』と言う文字が私の脳裏に浮かぶ、いや、もっと違うところか。イメージの世界ではない、より現実に近い世界に『死』がある。数千という数の『死』が、夢の世界から現実の世界に溢れてきている。ここが――このバスの中が安全である保障はどこにもない。そしていまだ連絡の取れない家族も、今までの感覚で考えていられないのかもしれない。


 家族と 連絡を 取らなければ

「大丈夫、心配はない……」

 それは私の口からこぼれた言葉、だけど、本当にそれは私の言葉だったのか、私には知る術はなかった。

「直接がダメなら……誰かの手を借りればいい。そうか、あいつなら連絡がつくか」

 それは私の言葉だった。しかし、過去の私ではない。私の中で何かがわかった。スイッチが切り替わる。今やるべきこと、できることをやらなければ、そうしなければ……

 私は携帯の電源をいれ、twitterの画面を立ち上げた。そしてすぐに目的のものを探し出した。

「あった。これで連絡が取れる!」

 それは近所に住む、かつての同じ会社に勤めていた三崎という男のアカウントだった。


『かなりヤバイことになっているようだけど、とりあえず何人かの無事を確認。携帯通じないとき、ツイッターって、便利だな』

 そのつぶやきに返信をする。

『おつかれー そっちは大丈夫か? お願いがあるんだが、うちの様子を見てきて欲しいんだ。連絡が取れていない。こっちは品川の実家に向かっていると伝えてくれ』

 3分後、返事が返ってきた。

『了解です。様子を見てくるだけでいいんですか? とりあえず今から行って来ます』

 すぐにお礼のツイート。

『すまない。お礼はいつか、精神的なもので!』

 20分後、待ち望んでいた情報がもたらされた。

『拍子抜けするくらい大丈夫でしたよ。本当にキモの座った奥さんですね。お子さんたちも無駄に元気でした。心配ないようですので、帰還します』

 私は心を込めて言葉を送った。

『ありがとう。感謝する』


 私はその日、はじめて心に余裕を持てた気がした。そして、考えた。このまま田町まで行くのがいいのか、それとも途中で降りたほうがいいのか。何が一番最善の策かということを――

 



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