二章四節
●
周はある施設の廊下を歩いていた。きびきびとした足取りで、少女のそれとは異なる雰囲気を纏っている。身なりは先の戦闘で着ていた破れかけの制服のままだった。
「聞いているのか、三尉」
隣の父親が不器用に言った。短い黒髪に細い面立ち。変装のための銀縁メガネをかけている。身なりはスーツにネクタイと、会社帰りのサラリーマンだ。
付き合いは長い。周が圭吾の監視任務についた、六歳の頃からなので、ざっと十年少しだろう。
「聞いています、二佐」
周は進行方向を見据えながら答えた。作戦行動中、二人は互いを階級で呼び合う。
「状況は極めて深刻だ。ソビエトの輩が三嶋圭吾の存在を覚知していたことも問題だが、目下第三勢力の参入を我々が察知できなかったことが、問題と言っていい」
「第三勢力、そんなものがあるのでしょうか」
「あくまで仮定だ。勢力と言えるほどの集団なのか、あるいは個人なのか。それは分からない。しかし、ソビエトに反目する存在が、三嶋圭吾を奪取した事実に変わりない」
「人員がもう少し多ければ、こんなことにはならなかったはずです」
周に怒りの色が見えると、誠治はやや驚いた顔をした。
「お前が不平を漏らすとは思わなかった」
「その気になれば、ソビエトなどに遅れを取ることはなかった。圭吾くんを奪われずに済んだ……」
「結果論だ。切り替えろ」
話をしていると、二人は目的の部屋に着いた。誠治が扉をノックし、返事を待って入室する。
「御厨二佐以下、参りました」
気をつけ、礼。素早く頭を下げる。部屋には年老いた男性がいた。執務机に肘をつき、瞑目している。
「ご苦労だな、御厨」
年老いた男性はしゃがれた声を出した。年齢は八十を超えているはずだが、凄みを利かした態度は、かつて軍人だった姿を彷彿とさせる。
この老人が周たち――
篠部は陸軍中野学校出身で、大東亜戦争当時、満州にて対ソ諜報活動に従事していた。
終戦後はGHQと協調しつつも、主導権を握るべく暗闘を繰り広げた。歴史の闇に隠されているが、あのキャノン機関を破壊したのも篠部であった。
そんな彼が創設したのが篠部機関だ。
この機関は東側諸国、とりわけ対ソ諜報活動を任として冷戦期を水面下で戦ってきた、防衛省情報部特務機関である。もっとも冷戦終結をもって役割を終えつつあり、人員整理が進んで、活動は三嶋圭吾の監視のみとなっていた。
「はっ」
「……」
「そっちの御厨もご苦労だったな。大事ないか?」
水を向けられて、周は凛然と振る舞った。
「問題ありません。戦闘行動に支障なしと判断します」
「なら良い」
篠部は書類に視線を落とした。
「状況は切迫している。情報部は監視対象の奪取を憂慮しており、速やかな状況の変化を求めている」
圭吾が監視対象となっている理由を周は知らない。ただ『特別な存在であるから』という不明瞭な情報しかなかった。
もともと周にとって理由は必要なかった。与えられた『圭吾を監視する任務』を遂行することだけに、すべてを傾けていた。
しかし、圭吾がさらわれて心に変化が起こっていた。どうして圭吾が狙われなければならないのだ。ずっと隣にいたのだから分かる。どこか抜けていて、面倒くさがりだけど優しく、決して戦いに巻き込まれる人間ではない。彼が狙われる理由を知りたくなった。
「あの、閣下」
「何か?」
「…………いえ、何もありません」
周は小さく首を振った。理由を知ってどうする。知ったところで圭吾が帰ってくるわけではない。
いつも周は理路整然とした思考を巡らせている。どこであろうと冷徹な軍人としての本文を忘れていない。そんな彼女を焦燥感が襲っていた。
これは任務失敗によるものではない。明らかに圭吾を失ったことの焦りだった。
「私としては監視対象の奪還を君たちに命じたいところだが、上はどうも違うらしい」
「……と、言いますと?」
誠治が休めの状態で訊く。
「監視対象が多くを知りすぎている可能性がある」
本当ならば圭吾は何も知らず、何も起こらず、普通の人間として人生をまっとうするはずだった。
周と懇意となり、付き合い、結婚して自らが監視されていると悟らずに。
ところがKGB残党と交戦。後に第三勢力に誘拐された。おそらく圭吾は第三勢力から多かれ少なかれ情報を得ている。自分が『特別な存在』であることを知ったはずだ。その時点で一般人ではなく、篠部機関、KGB、第三勢力との戦いにおける中心人物となってしまった。
「つまり奪還はせず――」
「排除する、ということですか」
誠治の声を制して、周が言った。無感動な表情に、静かな怒りが表れる。
「三尉、抑えろ」
「その命令には、承伏しかねます」
「周」
誠治の静かな叱責を受けても、周は黙らなかった。
「圭吾く――三嶋圭吾は国家機密と言える『特別』であると、私の着任時に篠部閣下がおっしゃられた。国家百年の計に関わると。だと言うのに、閣下は私たちに排除を命じられるのですか?」
篠部はじっと周の瞳を見つめる。聞き終えて、感情の乾ききった声を出す。
「御厨三尉。なぜそこまで監視対象にこだわる」
「それは……」
「お前は良い諜報員だ。本機関創設当時の彼らと引けを取らない。なぜなら、お前は彼らと同じく全てを達観しているからだ」
篠部機関は日本が焼け野原となった頃に生まれた。当時、中野学校出身者が構成要員であったが、優秀な諜報員は戦争で失われ、深刻な人材不足となった。そこで機関の指導者たちは戦災孤児を引き取り、諜報員として育て上げた。
彼らには失うものがなく、従順に国家のために尽くした。
その彼らと同じだと言うのだ。
周に家族との思い出はない。赤ん坊のときに死んだと聞いた。そのとき涙は出なかった。端的に『そうなのか』と理解した。あらゆることを『そうなのか』と達観できた。
終戦直後の苦痛を知る彼らと、豊かな時代に生まれて国家に育てられた自分。果たして同じなのかは疑問だった。
「そのお前がどうして感情を持っている?」
「持っていません」
言いながら怒りを露わにする周を篠部は嘆いた。
「もしや、監視対象に劣情を催しているのではないだろうな?」
「劣情など……」
圭吾は単なる監視対象だ。彼と過ごす時間は楽しかったが、それは御厨周という虚像が感じた偽りの感覚である。彼に見せた笑みも怒りも悲しみも、嘘の感情だった。
命令に疑問を呈しているのは、圭吾を殺す理由が判然としないからだ。断じて個人的感情によるものではない。
「もう喋るな、三尉。閣下、申し訳ありません」
誠治が一歩前に躍り出て、篠部に頭を下げた。
「……まあ良い。話を続けよう。私は上の意向に概ね同意している。篠部機関としては監視対象――三嶋圭吾の排除を目的として作戦行動を取る。また、この作戦を持って機関としての活動を停止。解散とする」
これには誠治も呆気に取られたようだった。
「解散でありますか?」
「我々は三嶋圭吾を監視するためだけに存続してきた。ソビエトは消え去り、冷戦は終わり、残る監視任務と、陸自情報部の補助的活動の二つだけ。三嶋圭吾を排除する以上、監視任務は事実上消滅する。あとは分かるな」
冷戦期を水面下で戦ってきた機関の役目は、ソビエト消滅によって終えていた。圭吾の監視任務が機関を延命させていたのだ。篠部の言うとおり、圭吾が死ねば機関の存在意義はついになくなる。
さらに言ってしまえば、陸自情報部が諜報活動を極秘裏とはいえ行っているのだから、似通った組織を煙たがる者たちもいるのだ。
すなわち圭吾の排除が、篠部機関の最後の任務になる。
「いつかは、と思っていましたが残念です」
誠治の顔に僅かながら感情が浮かぶ。もっとも口元が小さく歪んだ程度の変化であった。
「お前とは長い付き合いだったな。良くやってくれた。今後の身の上は事が終わってからにしよう。情報部に転属するなり、この世界から足を洗うなり、好きにしろ」
篠部が労をねぎらう。誠治について多くを知らない。唯一知っているのが彼も周と同じ天涯孤独の身であることだけだった。
「そっちの御厨も良くやってくれた。もう少し力を貸してくれ」
「…………」
命令は絶対遵守だ。分かっている。
自分はプロフェッショナルの諜報員だ。命令とあれば御厨周という虚像が見つめていた、三嶋圭吾という実像を殺すことは容易である。
「了解」
理由を知ることを放棄し、周は首肯した。
「頼んだ」
「……しかし、一つだけ教えてください」
「何をだ?」
「なぜこの場に――」
ホルスターに手を伸ばし、愛用の自動拳銃〈USP COMPACT〉を引き抜いた。部屋の奥、応接室へ通じる扉に銃口を向ける。
「――敵がいるのですか?」
ゆっくり扉が開く。屈強な肉体にグレーの野戦服を着込んだ男二人、そして銀髪の少年が現れた。男二人は彫りが深く、スラブ系の顔立ちが目立つ。
「良い感覚を持っていますね」
銀髪の少年が微笑んだ。くせのない綺麗な日本語だった。
「あれほど殺気を出していたら分かります。イワン」
周は銃口を向けたまま応えた。
「御厨、銃を下ろせ」
篠部が周をいさめる。
「なぜです」
「彼らは協力者だ」
「よりにもよってロシア人の、ですか」
「詮ないことだ」
銀髪の少年は笑みを浮かべて、臆せず歩き出した。
「止まりなさい。撃ちますよ」
「ふふっ、どうぞ」
「抑えろ、御厨」
射殺すような視線はそのまま、周は銃をホルスターに収める。
銀髪の少年は篠部の執務机に近づくと、無遠慮に腰をかけた。それから小首を傾げて、斜め下から周をやぶにらみする。全てを見透かしたような瑠璃色の瞳が不快だった。
「篠部さんも言っているでしょう。協力者だと。あなたたちの追う三嶋圭吾を排除する手伝いをします。見返りに、僕の大事な人をいただきます」
「大事な人?」
「三嶋圭吾を誘拐した犯人のことだ」
篠部が銀髪の少年の背中越しに言った。
「第三勢力は、個人ということですか?」
「肯定しよう」
「では今回の一件は、三嶋圭吾ではなくその『大事な人』とやらと接触するためだった、ということ……」
周の思考が高速度で巡る。てっきりソビエト一派は圭吾をターゲットとし、今回の襲撃を企てたと思っていた。実際は圭吾を襲撃することで、『大事な人』を誘き寄せたのではないのだろうか。
なら、すべての元凶は――
「さすがは忍んで忍んで、冷戦を戦った日本の諜報員。鋭いですね」
銀髪の少年は人を食ったような笑顔だった。周が動く。前のめりに走り出し、銀髪の少年の胸ぐらを掴むと、引き抜いた銃をその顎に当てた。
「本心ですよ?」
「ご託はいい」
「何を怒っているのですか。確かに三嶋圭吾を排除する理由を作ったのは僕たちです。認めます。でも彼はあなたにとって、ただの監視対象だったでしょう? 死のうが生きようがどうでも良いではないですか」
「…………殺す」
「誰を?」
「…………」
「原因を作った人間を許せないのなら、僕たちではなく、大事な人になるでしょう。彼女が僕のもとを離れなければ、こんなことにはならなかった」
「……詭弁だ」
「そうでしょうね。そんなことを言い出したら、アダムとイブがリンゴを食べたことすら恨むことになりますよ」
周は銀髪の少年から離れ、銃を収めた。
「……それで、大事な人とは何者なんだ」
事態を見守っていた誠治が問うた。
「おや、あなたがたも知っているはずですよ」
「どういうことだ」
それを聞いて周は記憶の海を泳ぐ。潜って探すが発見できない。彼女は一度会った人の顔を忘れないのだが、交戦時は顔を見る余裕はなかった。数秒にも満たない沈黙を挟んで、銀髪の少年は胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
写真を受け取ると、周は絶句した。
銀髪の髪。翡翠色の瞳。野戦服。無感動な双眸は生死に一切の興味を示していない。有り体に言えば周と同じ。平然と人を殺せる――己の命すらゴミのように捨てられる畜生の目だった。
「ご存じでしょう?」
「…………ええ」
周は写真をぎゅっと握りしめた。
写真の人物は、身なりや雰囲気こそ違う。が、御厨周という虚像と関わりのある少女の顔と同一だった。
(あの女……)
渦巻く感情を周は理解できなかった。
「本名はエリノル・S・アルブレヒツベルガー。調べたところ偽名を使って、三嶋圭吾に接触していたようですが。僕たちももう少し早く特定できていたら、無粋な戦闘を仕掛けずに済んだのですがね……」
本名など、どうでもいい。この女はアメリカからの留学生を装い、圭吾に纏わり付いた。
「マリア・キャンベル」
憎悪をもって、周はその名を言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます