二章三節

 未来は何十億という人が期待を抱き、活動し、結果として得られる。

 その過程において人は考える。

 自分の期待と他人の期待は違う。いかにして他人の期待を踏み潰し、願望する未来を掴み取ろうかと。

「そして人は思い至る。他人の期待――未来を知って、壊し、自分の求める未来を実現させるべきだと。そして人は、他人の意思を感じ取れば、未来を変えられると『期待』した」

「……」

 圭吾はエリノルの話を聞いて、その程度の力の持つ意味をぼんやり理解した。個人レベルなら他人の意思を感じ取ろうが、人生を少しばかり有意義にするだけだろう。

 しかし人の集合体たる国家ならどうだ。他国の思想や方針、そういった決して好ましいとは言えない『意思』を感じ取り、先読みして自国の思うままの未来を得られるとしたら。

 どの国よりも強い国でいられる。一切の失敗もせず、国家を繁栄させられる。

「私の生まれた国――ソビエトは期待したのよ。国家の威信をかけて、私を……私たちを使って」

「えっ……?」

 そこでエヴァが口を開いた。

「エリーはね。人体実験をされたのさ。未来を予知するって、くだらない理由のためにね」

「昔のことよ」

 エリノルは涼しい顔で言った。

「それじゃあ、マリ――エリノルさんも俺と同じ……」

「エリーでいいよ。ほぼ同じかな」

「違うんですか?」

「天然ものと養殖ものの違い。あなたがその力を得た理由は分からないけど、少なくとも私のように薬やら電気ショックやらで得たわけではないでしょ。それともそういう記憶があったりする?」

「い、いえ……」

 恐ろしい単語を耳にして、圭吾は身を竦めた。

「怖がらないで、って言うのがムリか」

 エリノルはどこか自嘲的に笑う。

「えー、簡単にまとめると、地味だけどすごい力を持つ圭吾くんを、日本政府はいつからか監視対象としていたけど、ソビエトの残党があなたの力を欲しくなり、襲撃。そこに私が助けに来た――ってところかな」

「要約、雑過ぎません……?」

「そっかな」

「おおよそは分かりました。けど……」

「けど?」

「エリーさんは、どうして俺を助けに来たんですか」

 もっともな質問だろう。壮大な話を百歩譲って鵜呑みしたとする。だがエリノルの行動理由がはっきりしない。圭吾が襲撃を受ける以前にエリノルは転入生として、彼に近づいてきた。つまり襲撃は必ず起こると知っていたことになる。

 エリノルが圭吾と同じ力を使って、あるいは地道な調査をしたのかは分からない。が、そこまでして圭吾を助ける義理がどこにあるのだ。それも口振りからして古巣と思われるKGBと敵対してまで戦う理由はあるのか。

 そもそも、彼女を信じていいのだろうか。今からでも周の元へ行って、日本政府に助けを求めるべきではないのか。

 エリノルはじっと圭吾の瞳を見つめた。翡翠色の綺麗な瞳が、熱を帯びて僅かに揺れる。長く見ていると引き込まれそうだった。

「同じ力を持つ人を助けたいから。そう思って、助けに来た」

 その言葉は予想通りだった。必ずしも嘘偽りのない言葉だとは言えない。おそらく心の中では別の理由もあるはずだ。想像もできない行動原理があるはずだ。打算があるはずだ。人はそういう生き物だ。

「そう、ですか」

 しかし、重みがあった。

 信じるにたるエリノルの真剣さが伝わった。

「俺はエリーさんを疑ってます。日本も、周も、KGBも、自分以外の全てを勘繰ってます」

「当然ね」

「まだまだ分からないことだらけで、正直いまも悪い夢じゃないかなって思ってます。夢なら醒めてほしい。気がつくと教室で、周とマリアがいて、みんなが笑っていて……みたいな。だけど……それは叶わなくて……」

「うん」

「だから、俺、少しだけ。エリーさんに」

「少しだけで充分」

「先のことは分かりませんが、未来が現在になったとき、何が正しかったのか考えてみます。何を信じるべきだったのか、考えます」

「そう……」

 エリノルが持つグラスの中の氷は溶けていた。ウイスキーと混じり合い、小さな渦を描いている。それをエリノルは一気に喉の奥へ通した。透き通るような白い肌が上気し、色香を放つ。

「長い旅になるわよ。三嶋圭吾として、二度とあの学校には戻れないし、友達とも会えない」

「……」

「返事は?」

「そこらへんは……決心が、揺らぐって言うか……」

 圭吾の煮え切らない態度にエリノルは苦笑した。

「おーい、さっきのかっこいいセリフはどこいったー?」

「お、おちょくらないでください! 言ったでしょう。エリーさんだけを信じてないって。もしかしたら元通りになるかもしれないじゃないですか」

「その『期待』は無謀よ」

「まあまあ二人とも落ち着きなさいな。そんなんで国家規模の集団と渡り合えるの?」

 エヴァの声にエリノルが首を縦に振る。

「戦力差は圧倒的だけど、機動力は私たちの上」

 それを聞いて圭吾は目を丸くした。

「えっ……戦力? 逃げるんじゃ……」

「体勢を整えるまでは逃げるわ。でも最終的には戦う。もしかしてこそこそ隠れ住んで、ほとぼり冷めたらこの街に帰るつもりだった?」

「てっきりそうだとばかり……」

 これにエリノルとエヴァは爆笑した。それぞれ聞き覚えのない言語――ドイツ語、ロシア語だろうか――で何かを口走る。そこはかとなく『おめでたい』とか『バカじゃないの』とか言われている気がした。

 一通り場が収まってエリノルが目元を拭う。

「……あー、おかしぃ。ははっ、その発想はなかったわ。なに、イスラエルとか南米とかで密輸業で食べていく算段でもしてた?」

「ややこしい地域に住みたくないです……」

「私の計画では、どこでもいいから国外に脱出。日本からだと……韓国あたりかな。中国もいいけど、追っ手以外に人民解放軍が面倒。それからいくつかの国に活動拠点を作ってあるから、そこで必要な情報と武器を揃える。そしてヤツらをぶっ倒す」

「そんなこと……できるんですか」

「できる、できないじゃない。やらないと一生逃亡者生活になるだけ。ま、あなたはいつでも好きにすればいい。私と一緒に居続けるか、途中の国で隠れ住むか。……エヴァ、旅券とパスポートを頼むわ。あと武器も」

「はいよ。注文は?」

「行き先は韓国でも台湾でもいい。最悪の場合、中国本土でもいいわ。上海とかマカオとか。パスポートは白人のやつと、日本人のやつをお願い。武器は……戦争ができるくらい」

「代金」

 エヴァの妖艶な笑みが、商売人の顔に変わった。

「いつもの口座に好きなだけ」

「通貨」

「アメリカドルでもユーロでも、お望みならジンバブエドルでも」

「ジンバブエドルは勘弁。商談成立」

 まるで洋画の一シーンを見ているようだ。

「事情が事情だし、エリーの頼みだしね。後払いでいいわ」

「ありがとう」

 エヴァは携帯電話を取り出し、短く話す。

「アルムおんじに伝えておいたわ。上のライトバンに銃火器を積めるだけ積んでおく。旅券とパスポートは二日以内に届ける」

「助かるわ」

「あの、エリーさん。アルムおんじって?」

「もう会ったでしょう。上の喫茶店のマスターよ」

 昼行灯なじいさんと思ったが、危ない人らしい。本名不明で『アルプスの少女』に出てくるおじいさんに似ている由縁のあだ名だという。

 エヴァはころころ笑い、

「実はアルムおんじとか呼んでるけど、私にとっては元上官なのよ」

「上官……」

「エヴァとアルムおんじは東ドイツの元国家保安省職員なんだよ」

 東ドイツ。そういえばドイツは自分が生まれる数年前まで東西に別れていた。ベルリンの壁しか印象にないが。そして国家保安省とは東ドイツにおける諜報機関である、とエリノルが補足した。対外的には冷戦を水面下で戦い、対内的には徹底的な監視網を敷いて国民を監視したという。

「残念ながら我が愛しの祖国は地球上から消え去って、失業した私とアルムおんじは、こうして便利屋に落ち着いたわけさね」

 エヴァの表情に感傷が交じった。

(……って待てよ)

 ふと圭吾は計算した。今が二〇〇八年だから、東ドイツが存在したのは二十年近く前。すると妖艶に微笑んでいるエヴァは、いったい何歳なんだ。どこからどう見ても二十代後半か三十代前半にしか見えないのに。

 下手をしたら母親くらい年が離れているのか。

「圭吾くん、いま『このババア何歳なんだよ』とか思ったかな」

「え」

 エヴァの朗らかな声が邪悪を秘める。圭吾の体が硬直した。

「思ったかな?」

「あ」

「思ったか?」

 眼光鋭く、獲物を狙う鷹のような目つきだった。バーテンダーの妖艶な笑みも、商売人の油断のない顔も鳴りをひそめて、人殺しの存在感を醸し出していた。

「そんなことは……ありません……」

「ならいいのよ」

 一転、バーテンダーに戻る。元諜報員の読心術はおそろしい。するとエリノルが補足を入れた。

「ちなみにエヴァも特殊な能力がある人間の一人よ」

「エヴァさんも……?」

 くくっ、とエヴァは笑った。

「この業界じゃあ珍しくないさ。研究自体は第二次世界大戦ごろから始まって、冷戦期になって急激に進歩したのさ」

 諜報員や軍人の一部に、特殊な能力を持つ人間はいるという。エヴァの場合は人の心を読む――読心であるらしい。

「そんなことを初めて聞きました。まさか炎とか水とか自由自在に出せる人とかいるんですか?」

 圭吾の間抜けな質問に、エヴァは手を振って否定した。

「いるわけないさ。しょせんは人間。やれることは限られているさ」

 これにエリノルが首肯した。

「特殊な能力は人間が根源的に持つものを外に出しただけってこと」

「そう、なんですか」

 超能力と言ったら、もっと華やかで力強いイメージがあったからか、少し残念な気持ちになった。

 話が一区切りつくと、エリノルはカウンターにドル札を置いた。

「ごちそうさま。美味しかった」

「あらま、もう行っちゃうのかい?」

「忙しいからね。全てが片付いたら、また来るわ」

「そのときは別の仕事で来るんでしょう?」

「もちろん。……圭吾くん、行くわよ」

 エリノルはくるりと椅子を回転させて出口に向き直ると、勢いをつけて立ち上がった。アルコールが入っているのに、きびきびとした足取りだった。

「これからどこに行くんですか」

「ひとまず仮眠を取るわ。私もう二日は寝てないのよ。そのあと拠点に移動して旅券とパスポートを待つ」

「なるほど。ここらへんにビジネスホテルあったかなぁ。ちょっと動いたらオフィス街だから……」

「何を言ってるの」

「へ?」

「ラブホテルでいいでしょう。予約もいらないし」

「………………へ?」

 ある意味、今日一番の衝撃だった。

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