二章二節

 景色に明るい輝きが増えてゆく。カラフルな電飾が辺り一面に広がって、ネオン街を形成していた。飲み屋、キャバクラ、ホストクラブ、ラブホテル……そういった圭吾の知らない世界があった。

 自宅からどれほど離れただろうか。見覚えない街だった。高校生の活動範囲なんて高校や自宅を起点とした狭いものだ。少なくとも圭吾はそうだった。

 ライトバンはネオンから隠れるように薄暗い路地へ入る。シャッターの降りきった店が並んでいた。廃れた商店街といったところか。スピード違反全開の荒い運転が収まり、徐行運転に変わる。

 ぼんやり車窓の向こうを眺めていると、一軒だけ明かりの点った店の前に停車した。

「着いたわ」

「着いたって……」

 どう見ても喫茶店だ。築何十年か、古びた佇まいをしている。エリノルはエンジンを点けたまま車から降りた。圭吾もそれに続く。

 ドアを開ける。典型的な『カランコロンカラン』という音が鳴った。

 店内に客の姿はない。白髪をした店主が新聞を読み耽っている。圭吾たちに見向きもしなければ『いらっしゃいませ』の挨拶もない。まったく商売っ気が感じ取れなかった。

「相変わらず暇そうね」

 エリノルは店主に話しかけた。

「冷やかしに来たのか」

 新聞から視線を外さす、店主は言った。

「いいえ。閑古鳥の鳴き声を聞きに来たのよ」

「良い声で鳴いているだろう」

「そのようね」

 何を話しているんだ。圭吾が首を傾げていると、店主は親指を立てて、それを『スタッフ用出入り口』のドアを示した。

「ありがとう」

 心のこもっていない謝礼を言い、エリノルは指差されたドアへ向かう。

「22589-8」

 店主がぼそぼそと数字を口にする。それをエリノルは涼しい顔で聞き流し、薄暗いドアの奥へと入ってゆく。

 入ってすぐ階段が下に続いていた。地下から吹き上がる冷気を含んだ微かな風が薄気味悪い。

その場で圭吾は立ち止まり、店主に向き直った。

「安全、ですよね?」

「……」

「危険、じゃないですよね?」

「…………」

 徹底的な無視。我関せずといった風情だ。

 この階段を下りると、もう引き返せない気がした。ここから逃げ出しても、普段の生活には戻れないことは漠然と分かる。いずれにしても一歩が重かった。

 短く呼吸する。地下を睨み、『よし』と自身を鼓舞した。

 よくよく考えてみたら、帰る家は丸焦げ。親類もいない。学校の連中だって広く浅い付き合いばかり。ついでに自分は戸籍上で死亡している。文字通り天涯孤独になってしまった。

 ここから逃げ出したところで、誰も自分を認知してくれない。生きていると認めてくれない。だったら進むべき道は、地下へ続く暗い階段の向こうにあるのではないか。

 圭吾は意を決した。唾で喉を潤し、一歩を踏み入れる。もう足は軽かった。一歩が二歩、三歩と増えてゆき、奥へと吸い込まれてゆく。少しして開きっぱなしだった後ろのドアが閉まった。辺りが瞬間的に暗転して、一定間隔で据え付けられた照度の低い電球が、薄暗く狭い階段を映し出す。

 何十段か下りた終着点にエリノルが立っていた。鉄扉を背にしてこちらを見つめている。

「下りてこないかと思ったわ」

 そう言って微苦笑を浮かべる彼女には、悪女的な妖艶さがあった。

「行く場所がないんだから、もうマリアを信じるしかないだろ」

「だーからマリアは偽名だって」

「……俺にとってはマリアなんだよ、お前は」

「あ、そう」

 エリノルは興味なさげに鉄扉へ向き直り、長い金髪を揺らした。鉄扉の横、電卓ぐらいの文字盤があった。指で触ると赤く数字が点灯した。電子ロックらしい。店主が言った数字はこの暗証番号だったようだ。

 ピピッ、と電子音が鳴って鉄扉が解錠された。

「ご自慢のピッキングをしたらどうなんだ?」

 圭吾はやや意地悪く言った。

「そんなことしたら、こんな狭苦しい場所が戦場になるわよ」

 意味深なことを言って、エリノルはドアノブに手をやる。かなり分厚いようだ。重々しく、錆びているのか、掠れた高い音を立てて開く。

 扉の奥は、小さなバーだった。カウンター席のみで、座席数は両手で足りるほど。暖色の照明が落ち着いた雰囲気を演出している。香水と紫煙の臭いが、生温い空気に交じって鼻腔を刺激した。

 調度類はシンプルな作りのものしかなく、ただ唯一の個性として壁面に大きな旗が張り付けられていた。それは黒、赤、黄と帯状に色づけされ、ドイツかベルギーかの国旗に似ている。だが、中央に分度器かトンカチかよく分からないロゴがあり、圭吾にはどの国のものか判然としなかった。

「いらっしゃい、エリー。半年ぶりかな」

 カウンターからの甘ったるい声。その方、女性バーテンダーを見て、圭吾は思わず息を飲んだ。

 大きく吸い込まれそうな蒼い瞳。エリノルに負けず劣らずの長い金髪は、一つにまとめて右肩にかけている。圭吾より身長は高く、ベストの下に着たシャツのボタンを外して、豊満なバストを強く主張させていた。

「久しぶりエヴァ。また世話になるわ」

 エヴァと呼ばれた女性は、エリノル、圭吾と見遣って妖艶に笑う。

「あなたが三嶋圭吾くん?」

「あ、え、ご存じなんですか。俺のこと」

「それなりに。まあ、お二人さん座りなさいな。なにか飲む?」

「いつもので」

 エリノルは髪を梳かしながら、カウンターに腰掛ける。注文を聞いてエヴァが丸い氷の入ったグラスに茶色の液体をつぐ。

「それ酒じゃないのか……?」

 呆れ顔になる圭吾。こうも連続して犯罪を見せられると、すっかり止める気は失せていた。

「ロシアじゃ十八歳で飲めるんだよ」

 一口、ウイスキーか何かをエリノルは呷る。

「十八って、お前まだ高二だろ」

「あー、それも嘘かな」

「嘘?」

「はいはい、立ち話は止めなさいな。圭吾くんも座って。何にする?」

「……俺は水でいいです」

 圭吾は渋々とエリノルの横に座る。水は冷えていて、とても美味しかった。

「さて、と。いろいろ話さないとね」

 グラスを置いて、エリノルはエヴァに目配せした。エヴァは静かに頷いて、カウンターからトランプを取り出し、素早く切った。

「なんのつもり……ですか」

「あれ敬語?」

「年上なんだから、当然でしょ。納得できないけど」

「お気遣いどうも」

 エヴァはトランプの山から五枚を引き、裏面を向けたまま圭吾の前にセットした。

「さ、どれでも好きなカードを選んでちょうだいな。ただし、そのとき頭の中に思い浮かんだカードを言ってからね」

 いたずらを考える子供のような顔でエヴァは言った。人が訳の分からない理由でぶっ殺されかけているのに、マジックでも披露するつもりなのか。それとも占いとか。

「こんなことで、俺の運命でも占ってくれるんですか」

 するとエリノルが意味深に微笑んだ。

「占うというより、あなたの運命が変わるわ」

「んだよ……えーっと、それじゃあハートの八」

 何も考えず、圭吾はトランプをひっくり返す。適当だ。次、クローバーの一。ハートのキング。ダイヤの三。クローバーの二。早々とカードを全て表にした。

「これで、何が分かるんだ?」

 圭吾は腕組みしてふんぞり返る。

「なるほどね」

「ふぅん……」

エリノルとエヴァは得心した様子になった。

「これを見てどう感じるかな」

 エリノルは五枚のトランプを指差した。質問の意図が分からない。

「どうって言われても。普通でしょう」

「普通、ね」

 判然としない言い方に、圭吾は苛立ちを覚えた。こちらが何も知らないことを遊んでいるつもりなのだろうか。

 不機嫌な顔をしていると、エリノルは手のひらを振って謝罪する。

「ごめんなさい。からかっているんじゃないの。ただ、あなたにとっての普通は、誰かにとって特別だということよ」

「意味が分かりません。

 どこがおかしいというのだ。これくらいなら、いつでも起こりうるだろう。単なる偶然。圭吾にとって普通の出来事である。

 エリノルは柔和に笑った。

 まるで生き別れた家族と再会できたかのような、安息した表情だった。

「圭吾くん。昔から勘が良いとか言われない?」

「たまに言われます」

「試験とかの選択問題で間違えた経験はある?」

「それは……ないかもです」

「一度も?」

「たぶん、記憶している限りでは」

 話をしていて、今まで感じたことのない不安感が襲ってきた。圭吾は残った水を勢いよく飲み干した。

「気づいたかな」

 人生を振り返る。何かを選ぶとき、自分は失敗をしたことがなかった。トランプのばば抜きで負けたこともないし、エリノルが言ったように、試験の選択問題も記憶している限りでは満点しか取っていない。

 誰かにそれを褒められたり、あるいは疑われたりしたとき、圭吾はいつも言う。

 偶然だと。

 普通だと。

 なぜなら圭吾にとって、それは日常の出来事であり、至極当然なものなのだから。

「もしかして俺――」

 エリノルの言葉を反芻する。

 誰かの普通は、誰かの特別であると。

「――?」

 エリノルは沈黙をもって肯定とした。自分が人と違うことを知らされ、やや驚いた。が、すぐに思い直す。圭吾は頭を搔きながら、

「ちょっと人より勘が良いだけじゃないですか。それと今回のドンパチに何の関係があるんですか?」

 自分は普通ではないのかもしれない。しかし、だからと言って日本政府や、自分が生まれた年に崩壊したソ連の一派に命を狙われる理由とはならないだろう。世界規模の陰謀は映画の中か、一般市民が知らないところでやってほしい。

 圭吾の疑問にエリノルはグラスを傾けながら答えた。

「端的に言えば、あなたの勘の良さをKGBは求めている」

「どうして?」

「あなたが特別な勘の良さを持っているから」

「答えになってないでしょう。回りくどいんですよ、さっきから!」

 圭吾はカウンターを拳で殴った。トランプが飛び散る。エリノルは物怖じせず彼を見ていた。

「分かったわ。それじゃあ、もう一度だけトランプを言い当てて」

「はぁ?」

「はい、選びなさいな」

 これまで黙っていたエヴァが、トランプの山を扇状に広げて圭吾に差し出す。不承不承、圭吾は一枚を引く。

「クラブの四」

 宣誓してカウンターに叩き付ける。ジョーカーだった。内心、当たると思っていた圭吾は結果を訝しんだ。

「さっき圭吾が言い当てた五枚と、いま引いた一枚の違いは一つ。他人の意識が介在しているか否かよ」

「他人の意識?」

「さっきはエヴァが意図的に選んだ五枚を、あたかもランダムに抽出したかと圭吾くんに思わせたの。そして今のは小細工なしで圭吾くんに選んでもらったのよ」

 作為か不作為か。意識的か無意識的か。

 たとえば、商店街の抽選会で圭吾は直感によって一等を引き当てられない。なぜなら他人の意識の介さない確率論に基づく行為の結果を、ねじ曲げられないからだ。

 たとえば、あたり付のアイスクリームを買って、いつもあたりを引き当てられない。なぜならアトランダムに機械があたり棒をアイスクリームに挿しているからだ。

 誰かの意思が働くとき、圭吾の直感は機能する。そうエリノルは説明した。

「つまり圭吾くんの勘の良さは、他人の意思を感じ取れる力があるからなのよ。『勘』と言うより『感』が良いと表現したほうがいいかもね」

 話がややこしくなってきた。他人の意思を感じ取る特殊能力があると? ばかばかしい。改造手術を受けた記憶もないし、怪しげな研究所で能力開発を強いられた過去もない。平々凡々な生活を慎ましく営んできた。

「俺は……普通です」

「ええ。圭吾くんにとってそれは普通よ。でも他人からしたら、特別なのよ」

 圭吾の全身から冷や汗が出てきた。漠然とした不安で呼吸が乱れる。落ち着かない。両手を組んで甲を額に寄せた。

「仮に、仮にですよ。俺が人の思考とか、意識とかを感じ取れるとして、それが何なんですか? 試験で選択問題を間違えない程度。トランプで負けない程度の話でしょうが。なのに日本とか、ソ連とか……こう、物騒なことに巻き込まれる意味が分かりません」

「その程度の力を、みんな欲しがるのよ」

「なんでです!?」

「思考を読むということは翻って、未来を予知し、変えることができるのよ」

「未来……」

「さっきのトランプを使った説明は、簡素化しているから本質とは言えないわ。本質は別にある」

 エリノルは一拍置いて、

「圭吾くん。未来ってどういうもので構成されていると思う?」

「……哲学は分かりません」

「少し難しいかな。まあ、とある哲学者は『未来とは現在における期待である』と言っているわ。私はこれってかなり答えに近いと思うの。未来を造り上げているのは、人の『期待』なのよ」

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