二章

二章一節

 圭吾の瞳に映るマリアは、いつもと印象が違った。くたびれた迷彩柄の野戦服。黒い軍靴。腰にはホルスターを付けている。コスプレ、と笑うには着慣れているように見えた。むしろ今までの制服姿が滑稽に思えてくる。

 もっとも異なるといえば髪だ。長い金髪は、いつの間にか銀のショートヘアに変わっている。それが月の光に照らされて、彼女に静謐な雰囲気を纏わせていた。

「何がどうなってんだよ、マリア」

「なに?」

 マリアは銀髪を掻き上げた。

「あ、これ? 金髪はカツラ。ちなみに瞳の色もカラコン。ほら、もともと翡翠色なんだ。エメラルドグリーン」

 見てくれはどうでもいい。圭吾は歯噛みする。

「お前は何者だ。あのドンパチはなんだ。どういうことになってんだ?」

 分からないことだらけだ。聞きたいことがいっぱいだった。圭吾の質問にマリアは『信じられるとは思えないけど』と前置きして、

「私はあなたに用があって、ロシアから来たのよ。ああ、マリアも偽名だし、もちろんアメリカ生まれも嘘。行ったこともないわ。機会を伺って話をするつもりだったんだけど、一歩早くヤツらが動いたわけ。まさか周が戦闘要員とは思わなかったけどね」

「……偽名? 嘘? ヤツらって? 周がなんだって?」

 稚拙な質問攻めだと笑われるかもしれないが、目の前で幼なじみと謎の集団が銃撃戦を演じ、さらに留学生が窓をぶち破って自分を拉致・逃走したら、こうもなる。

 マリアは気分を害した様子を見せず、小さく頷いた。

「私はエリノル。エリノル・S・アルブレヒツベルガー。ロシア人よ。ヤツらっていうのは……」

 言いかけてマリア――改めエリノルは腕時計を一瞥した。小気味良い足音を鳴らし、圭吾の後ろにつく。そして手錠が外された。

「ここで長話はできないわ。付いてきて」

「はぁ? ふざけんな。話が先だろ!」

 これ幸いと圭吾は立ち上がった。

「付いてきて」

「いやだ。説明してくれ」

「状況は理解できなくても、起こった出来事は理解できるでしょう? あなたは狙われているのよ。私に付いて来なければ、遅かれ早かれ死ぬわ」

「説明しろって―― !?」

 圭吾の顎に冷たい感触がした。エリノルがホルスターから拳銃を引き抜き、それを当てていた。

「じょ、冗談だろ?」

 薄ら笑いを浮かべて、圭吾は訊いた。

「状況を察しなさい。トリガーを引いたら、あなたの人生は終わる」

 銃よりエリノルの射殺すような視線が恐ろしかった。

「そんな……」

「あなたが拒めば、私はあなたを殺すと決めていたの。選択しなさい。あなたの得意な二択問題よ」

「……」

 相手の心意を推し量れない。エリノルという女の子が何を求めているのか、まったく分からなかった。

 状況。

 起こった出来事は紛うことなく事実だ。自分の目が確かに捉え、覚えているのだから。

 エリノルは本気だ。抗弁しようものなら脳みそを問答無用に吹き飛ばす。直感がそう警鐘を鳴らしていた。

「……あとで教えてくれるんだろうな」

 圭吾は喉から声を絞り出した。

「ええ。約束する」

「……分かった。好きにしてくれ」

「賢明な判断よ」

 エリノルは拳銃をホルスターに収めた。踵を返して非常階段へ向き直る。

「行くわよ。追っ手が来る」

 圭吾はエリノルの背中を追う形でビルの非常階段を降りた。逃亡する意思がないと分かっているのだろう。裏路に出る。何台か違法駐車の車があった。

 エリノルは値踏みするように一台ずつ見て回り、白いライトバンの前で立ち止まる。

「これにしましょう」

「何言ってんだ?」

 圭吾は首を傾げた。

「ちょうどいい」

 独りごちると、エリノルは野戦服に無数にあるポケットから針金を取り出した。それを無造作に鍵穴へ突っ込む。

「待て待て。止めろ!」

「なんで?」

「思いっきりピッキングじゃねえか。犯罪だぞ、犯罪!」

「あー、そうね。でももう空いちゃったし」

 ライトバンの防犯機能は瞬時に無力化された。こいつ鍵の救急車でバイトしていたのか?

「話はあと。さっさと乗って」

 エリノルに促され、仕方なく助手席へ乗り込む。後に続いてエリノルも運転席へ。

「で、誰が運転するんだ?」

「運転席に座ってる人に決まってるでしょ。さすがに後部座席からは無理よ」

「バカにするな。この我らがトヨタのプロボックスを、せいぜい原付き免許くらいしか持ってない未成年の誰が運転するんだって言ってんだ」

「詳しいね。意外だわ。もしかして車好きかな?」

「……ちょっと興味があるだけだ」

「あ、そ」

 エンジンが動き出す。このディーゼルの振動は素晴らしい。これで排気量が減れば、申し分ないのだが。って――

「またピッキングを……。つか免許……!」

「免許なくても運転できるわよ。アフガンとかパレスチナじゃあ、子供が自走砲走らせてるんだから」

「紛争地域と日本を一緒にするな……」

「よし発進!」

「聞けよ!」

 ディーゼルエンジンが咆哮した。アクセルを踏み締め、フルスロットル。

 細い裏路を蛇行しながら走り抜ける。粗暴な運転だった。教習所の教官ならばブレーキを踏んで『座学からやり直せ』と言われるレベルだ。シートベルトを付けつつ、圭吾は事故らないでくれと祈る。

 裏路を抜けて、大きな道路に合流した。曲がるときもこれまた荒く、進行してくる車両をお構いなしに割り込んだ。さぞ運転手は肝を冷やしただろう。

 エリノルの運転が安定化し、ようやく会話する機会を得られた。

「いくつか、いやかなり質問があるんだけど、いいか?」

「ん。どうぞどうぞ」

「いきなり俺の家の玄関をぶっ壊して銃撃してきたのは誰なんだ」

 エリノルは片手でハンドルを操り、バックミラーを弄る。

「襲撃者は旧KGBカーゲーベー一派よ」

「かーげーべー?」

「英語の読み方ならケージービー。ソビエト連邦の、有り体に言えば諜報機関」

 いまいちピンと来ない。ソビエト連邦と言えば現•ロシア連邦のことだ。歴史で習った。社会主義国家の親玉で、今では存在しない国だ。しかしケージービーが分からない。昨今、話題になっている何ちゃら48とは別物だよな。

 疑問符を浮かべる圭吾に、エリノルは微苦笑した。

「圭吾くん。ボンド映画は見たことある?」

「飛び飛びだけど、見たことある」

「最近はそうでもないけど、以前はそれに出てくる敵役のほとんどが、カーゲーベーの人間って設定だったのよ」

 そういえば彫りの深いロシア人が悪役だった。

「その昔に消えた国の諜報機関がどうして俺なんか狙うんだ。ただの日本の高校生だぞ」

「それは目的地に到着してからにしましょう。言葉で伝えるより、いい方法があるから」

「……なら、周のことを教えてくれ。頼む」

 小学校以来の幼なじみだというのに、圭吾は彼女が分からなくなっていた。

 今まで隣にいた優しい女の子は何者なのだ。情けなくて胸が締め付けられた。

「周は恐らく軍人よ。あの装備にあの立ち振る舞いは、間違いないわ」

「軍人、か。悪い冗談だな」

 圭吾は自嘲的に笑った。幼なじみは軍人で、留学生は正体不明の武装ロシア人。

 これを悪い冗談と言わずして何とする。

 背もたれに体を預け、圭吾はため息をつく。

「へこんでるところごめん。もう一つ追加でへこむことになる」

 涼しい顔つきでエリノルは告げた。ラジオの音量を上げて、圭吾に傾聴を促す。

『――区の高層マンションで火事がありました。火は周辺に広がる前に消し止められましたが、火元である三嶋圭吾さん宅から遺体が見つかり、警察はこの遺体を三嶋さん本人のものと確認しました。三嶋さんは一人暮らしで、学校側によりますと性格は明るく、友達も多くいたようで――』

 思考が停止した。このアナウンサーは平然と何を言っているのだ。

 家が火事?  三嶋圭吾が死んだ?  ここに自分はいるぞ。誤報だ。

「降ろしてくれ。警察に事情を話してくる」

 圭吾はいても立ってもいられず、エリノルに申し出た。

「ダメよ。これは策略」

「誰のだよ」

「日本」

「まさかそんな……」

「あなたが連れ去られたときに、こういうシナリオを用意してたんでしょうね」

「じゃあお前が来なければ、俺は済んだんじゃないのか!?」

 俺の平穏無事な生活を返してくれ。エリノルが諸悪の根源に思えてきた。

「落ち着きなさい」

 エリノルは耳にかかった銀髪を掻き上げた。

「私が襲撃しなくても、遅かれ早かれあなたは死んでいたわ。KGBに連行されて、今みたいに戸籍上死亡するか。誤ってあの銃撃戦で撃ち殺されていたはずよ」

「…………んなの、おかしいだろ。おかしい。変だ」

 声が小さくなる。おいそれ状況を飲み込める人間がいたら連れて来い。

 自分は漫画や映画の主人公ではない。せいぜい主人公の友達くらいの立ち位置がお似合いだ。

「でしょうね」

 エリノルは静かに肯定した。反対車線のライトが陰鬱な表情を映し出す。

「……これからどこに向かってるんだ? 」

 圭吾は半ば捨て鉢になって訊いた。自分の人生なのに、他でもない自分に主導権がなく、進む道すら決められない。

「言ったでしょう。説明するってね」

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