三章

三章一節

 落ち着け。

 ふかふかのベッドに寝転がり、天蓋に据え付けられた鏡を見つめながら、圭吾は同じ言葉を繰り返していた。

 喫茶店を後にした圭吾たちは、宿でひとときの休息を取っていた。室内は壁から調度品に至るまでピンク。五角形のベッドの頭側には無数のボタンがあり、試しに一つ押したらベッドがぐるぐる回転した。

 宿は、いわゆるラブホテルだ。予約いらずで安上がりだと、エリノルと一緒に泊まることになった。圭吾の抵抗感はそうとうなものだったが、また銃口を向けられそうで渋々ながら了承した。

(なんでこんなとこにいるんだ。俺……)

 圭吾はちらりと、すりガラスで仕切られた風呂場を見た。エリノルが汗を流すためシャワーを浴びている。シルエットは見事な曲線美を描いていた。

 出ているところは出ていて、引っ込んでいるところは引っ込んでいる。

(いかんいかん。状況考えろ)

 年相応の下心が顔を出したので、圭吾は無理やりそれを押し込んだ。

 いま人生のピンチだ。国家規模のきな臭い事件に巻き込まれているんだぞ。自分を助けると言ったエリノルだって信用ならない。あくまで一時的な措置として『助けられている』だけなのだ。

 今後、自分がどのような人生を歩むのか。それを考えると頭が痛くなる。一秒先の未来すら危険に充ち満ちているというのに、何年も先の未来を見据える勇気はなかった。

「ふぅ、いい気持ちだったわ」

 風呂場のドアが開き、湯気が立ち込める。湿った銀髪をバスタオルで荒々しく拭きながら、エリノルが出てきた。

「おかえりなさ――ちょっ、エリーさん、なんて格好で……!」

「ふん?」

 垂れ下がった髪の合間から、翡翠色の瞳が覗く。黒いタンクトップと水色の下着。軽装すぎるエリノルに圭吾は狼狽した。

「ちゃんと服着てくださいよ!」

「不都合ある?」

「ありますっ!」

 エリノルは肩を竦めて、面倒くさそうにハンガーにかけてあった迷彩柄の服を着た。それから小さな冷蔵庫を開き、中身を物色する。

「ビールにワイン……アルコールばっかりね。まむしドリンク? ねえ圭吾くん、これってなに?」

「え、栄養ドリンクの類です。戦う男のための飲み物です……」

 圭吾は頬を赤らめながら言った。嘘はついていない。事実とも多少異なるが。

「あ、そ」

 『戦う』に反応したらしく、エリノルはまむしドリンクのふたを開け、腰に手を当てて一気飲みした。

「……変わった味ね。確かに体の奥が熱くなる感じはあるけど」

 エリノルは眉間にしわを寄せ、瓶をまじまじと見つめた。仮眠を取ると言っておきながら、そんなものを飲んだら目が冴えて寝られないだろう。

「そんなの飲んで大丈夫ですか? 寝れなくなっちゃいますよ」

「特殊な訓練を受けるから平気よ」

 ゴミ箱に瓶を放り投げ、エリノルは笑った。どんな訓練だよ、と圭吾も微苦笑を浮かべる。

「お風呂つぎどうぞ。汗搔いてるでしょ?」

「は、はい。じゃあいただきます……」

 圭吾は前屈みでシャワー室に向かう。

「どしたの?」

「いや、あの、大丈夫です」

「何が?」

「はい。大丈夫なんで。いやホント」

 思春期真っ直中の男子高校生の特性を、エリノルは理解していないようだった。怪訝そうな視線を受けながら、圭吾はシャワー室へと急いだ。



 汗は洗い流せても着替える服はない。もう一度汗臭い制服に袖を通すのは抵抗があった。

 圭吾がシャワー室から出てくると、部屋の電気は消えていた。エリノルの姿を探す。ベッドにはおらず、壁際に座り込んでいた。

「風邪引きますよ、エリーさん」

「気にしないで。そんなにヤワな体じゃないから。あなたはベッドを使いなさい。明日は早いわよ」

 エリノルは俯いたまま答えた。

「で、でも……」

「添い寝しないと寝れない?」

「バカ言わないでくださいっ」

「ふふっ、冗談」

 圭吾は髪を掻きむしり、しぶしぶベッドに潜り込む。目を瞑る。五分、十分、一五分と時が過ぎてゆく。時計の秒針が進む音が気になる。

 眠れない。

 当たり前だ。これでぐーすか眠れるヤツがいたら、某漫画のキャラクターか、肝の据わった軍人か、サイコパス野郎だろう。

「…………もう寝ました?」

 修学旅行のときのように、圭吾は相手の睡眠を確認した。

「いいえ」

 返答はすぐだった。

「少し話しませんか?」

「ええ」

「エリーさんはロシアのどこで生まれたんですか?」

 短い沈黙。

「どこでしょうね。物心がついた頃には研究所にいたから、分からないわ」

 ぽつりとエリノルは言った。

「……すみません」

 ばつが悪くなり、圭吾は謝った。

「謝ることないわよ。命預けてる人間の素性を知ろうとするのは当然よ」

 優しい言葉を聞いて圭吾は思わず起き上がった。窓から差す月明かりがエリノルの微笑みを照らしている。目を閉じたまま彼女は続けた。

「言ってしまえば、研究所があった閉鎖都市が私の出生地かな」

 閉鎖都市とはソ連時代に点在した地図上から消された街を言うらしい。

 一般人はおろか軍人だとしても関係者以外は立ち入りできない。その理由は様々だが、主に軍事的な側面で存在を消されるという。

「いつも雪が降ってたわ。夜になったら氷点下の世界なの。鼻水も凍っちゃう」

「バナナで釘が打てる、みたいな?」

「そうそう。実験のほかに戦闘訓練もあって、それも野外で。銃が冷たくて、手がかじかんで仕方なかった」

 実験、という言葉に圭吾は息を飲んだ。きっと想像絶するものだっただろう。しかし、エリノルの表情は終始穏やかだった。どこか得意げに昔話をしているようにも見える。もしかしたら、本当の自分を語る相手がいなかったのかもしれない。

「戦ったりとかしたんですよね。人と……」

「ええ、初陣は北カフカースでの紛争。もう末期の頃だけど、酷い戦いだった。仲間もいっぱい死んだし、敵もいっぱい殺した」

「……すみません」

 会話を続けようにも何をどこまで聞いて良いのか分からない。圭吾は間繋ぐために謝罪していた。

 それを察したのだろう、エリノルは話題を圭吾自身に向けた。

「あなたのことも訊いていいかしら」

「俺、ですか」

「ええ、あなたの話をね」

「話すことなんて……フツーの人生だった、と思います」

「あんな高層マンションに一人で住んでいて?」

「死んだ両親が残してくれたものですよ。一人暮らしには広すぎましたけど」

 圭吾が幼い頃に両親は死んだ。今でも連絡を取っている父方の祖母が交通事故だと言っていた。

 あの高層マンションの一室が自分の家だと知ったのは、中学に入学してからだった。親戚の家に身を寄せていた圭吾も、思春期になると親戚家族と上手くいかなくなり、一人暮らしを考えるようになった。

 そこで祖母に相談したところ、両親が購入し、だが一度も住まなかった『我が家』があったことを教えられた。今となっては絶賛炎上中だが。

「それからは一人で暮してきたってわけね」

 圭吾は昔を懐かしみながら首を振った。

「周がいてくれました。いろいろ世話をしてくれて……」

「大事な人だったのね、彼女」

「どうでしょう。今は分かりません」

 きっと、大切な人だった。分かってくれる人だった。ずっと一緒にいてくれる人だと、勝手に思い込んでいた。

 初めて会った幼稚園の頃を思い出す。

 周は感情の起伏の少ない、大人しい子供だった。

 当時住んでいた親戚の家と周の家とはお隣さん同士で、必然的に遊ぶ機会も増えて、同時に表情も明るくなっていった。圭吾が親戚の家を出てからも付き合いは続き、いつからか淡い感情を抱いていた。

 いつかはこの薄ぼんやりした感情に名前を付けて、思っていることを伝えるはずだった。

 だが、もうそれは叶わないだろう。

 周は普通の人間ではなかった。

「あいつは、人殺しなんですよね。あいつは、嘘の存在だったんですよね」

 知りたくなかった。考えたくなかった。美しき記憶はまがいものだったのだ。

 気落ちする圭吾に、エリノルは透き通った声をかけた。

「嘘かどうかはあなたが決めることよ。でも、そのときその瞬間に感じたことは、きっと本当の気持ち。嘘偽りのない綺麗なものだと思うわ」

「でも周は嘘をついてた」

「そう思いたかったらそうすればいい。ただ私が接していた彼女は、間違いなくあなたを優しく見つめていたわ」

「…………周とも戦うんですか?」

「立ちはだかるなら」

 エリノルは即答した。圭吾は何も言い返せなかった。

「もう寝なさい。眠れるときに眠る。それがこの世界での鉄則よ」

 この世界。

 硝煙と血の匂いが当たり前の非日常。そこに自分は足を踏み入れたのだ。

 圭吾はタオルケットを手繰り寄せ、身を丸めて目をつぶる。身体は疲れているのに頭がフル回転して寝付けない。

 早く朝になれ。

 圭吾はじっと時が経つのを待った。

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