三章二節

 地に足がついていないというか、どうしてここにいるのか分かっていない、ぼんやりした感覚だった。前後左右、上に下に空間が広がっている。きっと立っているだろうが、景色は一様に白く、何もない。

「圭吾くん」

 周がいた。年期の入った迷彩服を着ている。制服姿と着飾らない私服しか見たことのない圭吾にとっては奇妙だった。優しい眼差しは変わらず、自分を見つめていた。

「なんて恰好してんだよ」

 圭吾は力なく笑った。近づこうとして足元の違和感に気づく。

 血だまりだ。

 視界が暗転する。見覚えのない場所だった。コンクリートと鉄骨が剥き出しとなった、薄暗い空間。微かに潮の匂いがした。

「ここ……は?」

「圭吾くん」

 周はそう呟いて、泣いていた。どうにか取り繕おうとして、ぎゅっと唇を噛みしめながら。その場にへたり込み、自動拳銃を握りなおす。

「周……!?」

 圭吾は再び足元を見遣ると、が倒れていた。身じろぎもなく、恐らくは死んでいるのだろう。

「どうして……なんで……私は……」

 周の近くにはエリノルが仰向けで倒れていた。眉間に弾痕が一つ穿うがたれている。瞳孔が開き切り、光を失った双眸は空を見つめていた。

 これはいったい。

 圭吾は状況が静かに移り変わる様を、見ているしかできなかった。

「私は、何のために、生きてきたの……?」

 宛のない言葉が虚しく響く。周は自動拳銃を逆手に持ち直し、その銃口を自らの口に差し入れた。祈るように瞑目する。

「周やめろ」

 全身に寒気が走った。ダメだ。それは絶対にあってはならない。

(ごめんね――)

 周の声は、圭吾の心に聞こえた。

「やめろ」

(――助けらなくて)

「周!」

(生まれ変わったら、一緒に――)

 トリガーが、引かれて……。



「ぁあああああああああああああ!?」

 エリノルに肩を叩かれ、圭吾は目を覚ました。浅い眠りだったので、体の疲れは取れていないようだ。一時間か二時間か、それくらいの睡眠だった。

「なん、です……?」

「準備して」

「なにを……」

 頭が回転しない。圭吾は髪を掻き、エリノルを見た。

 今のは何だったのだ。

 夢。嫌な空想。寝汗がべったりついて服が張り付いている。もう一度シャワーを浴びたかった。

「敵が来る」

 そう言うとエリノルは窓を開け、その傍に置いていた何かを組み立て始めた。

 先んじてエヴァから受領していた荷物だ。慣れた手つきで、あっという間に筒状の物体ができあがった。

 嫌な予感がする。

 圭吾は布団から飛び起きると、エリノルの近くに寄った。

「あの、それってもしかして……」

「合図したら耳を塞いで、口は半開き。OK?」

「いやだから……」

「ん――、二、三で行くから、OK?」

 エリノルは緑で塗装された流線形の鉄の塊と、鉄の棒を連結させる。それを棒のほうから筒の中に差し入れた。

 筒から明らかにはみ出た鉄の塊――いや、もはや不案内な圭吾でも察しが付く――戦車でも吹き飛ばすような弾頭が、予感を確信に変えた。「よいしょ」と小さく声を出し、エリノルは窓の真向かいの扉に砲口を向けた。

「待って。待て待て、そんなもん部屋んなかで撃っていいのかよ……!?」

 狼狽する圭吾に、エリノルは口角を上げて答えた。

「大丈夫、窓開けたし。まあ隣のホテルで休憩している人には悪いけど、ね。知ってる? この『RPG-7』って二メートル後ろに空間があったら撃てるんだよ」

「知るか……!!」

「あ!」

 はたっとエリノルは声を上げた。そしてバツが悪そうに銀髪をぽりぽり掻く。

「な、なんですか」

「ごめん」

「え」

「もう時間だから――」

 すべてを聞き終える前に圭吾は言いつけ通り、耳を塞いで口を少し開ける間抜けな恰好を取った。

 突如として扉が廊下側から開け放たれる、その一瞬。

「――撃つね」

 薄暗い室内が瞬時的に真昼のように明るくなった。後ろへ噴射されたガスが、部屋の窓ガラスを割り、さらには隣のホテルの窓ガラスさえ破壊した。こんな密集地に建てた不幸を、経営者は恨んでいただきたい。

 部屋に白い煙が四散し、圭吾の鼻腔を強烈な火薬の臭いが攻め立てた。意外と耳は大丈夫だったが、至近距離でバズーカをぶっ放されたら煙たくて仕方ない。

 扉のほうを見遣る。黒煙がもうもうと立ち込み、人がいるのか分からなかった。だが間違いなく誰かがいた。誰かが扉を開けようとしていた。

 つまり、誰かが死んで――

「ッ……」

「何してるの、早く立って。降りて」

 呆然としている圭吾に、エリノルは厳しく言った。

「お、降りる?」

「そこ。早く」

 盛大にぶっ壊され、窓枠しかない空間をエリノルが顎で指す。

「ここ三階ですよ!?」

「下はちょうどゴミ捨て場。クッションになるわ」

「でも――」

「死にたいの?」

 是非もない。選択肢は一つしかなかった。

 圭吾は息を飲んで、思い切って宙に身を投げ出した。できるだけ身を丸めて、舌を噛まないよう奥歯を噛みしめて。

「ぬぅ……どりやあああああああああああああああああ!」

 背中からゴミ袋の上に落ち、圭吾は悶絶した。なかなか痛いじゃないか。生ゴミの腐った臭いが鼻につく。せっかく風呂に入ったのに、と都会の汚い夜空を見ながら思う。

 小さな破裂音が鳴り、三階の部屋から目映い光が放出された。

 その折、真上から物体が落ちてきた。

「って!?」

 エリノルだった。

 狙いすましたかのように圭吾の腹の上に着地し、彼はまたもや悶絶した。

「あ。ごめん」

「重い……」

「……天に昇れるくらい軽くしてあげよっか?」

 エリノルは自動拳銃をちらつかせながら、悪魔のような微笑を浮かべた。ロシア人であろうと女子には体重のことはタブーなのだろう。

 圭吾とエリノルは素早く起き上がり、路地裏に停めていたライトバンに走った。ホテルで休憩する際、車で入らなかったのは襲撃を想定したためだと、ここで圭吾は思い至った。駐車場を押さえられたら逃走に支障をきたす。

 さらに言えば、選んだ部屋も理由は同じだろう。つまり三階からのダイブは約束された運命だったわけだ。

 ライトバンに乗り込んだところで、銃撃が始まった。何発かは車体に当って、甲高い金属音を起こした。

「し、死ぬぅうううううううううううううう!!」

 ビビる圭吾は頭を抱えて情けなく叫ぶ。

「シートベルト!」

「分かってますっ!」

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