一章二節
人生の転換点とは、いついかなるときでも訪れる。未来はいついかなるときでも可能性に満ちている。それらは唐突に姿を現すものだから、圭吾は冷静沈着な態度を取ろうと心に強く決めていた。
だがその鋼鉄の意思を、完膚無きまで叩き潰す出来事が、現在進行形で進んでいた。
「あ、周?」
高層マンション二十階に居を構える三嶋家。そのリビングの、さらにソファーの上。圭吾は馬乗りになり、顔を数センチの距離まで近づけてきた幼なじみに、冷静を装いながら声をかけた。
「……なぁに」
眼前、周が猫なで声で返答する。幼稚園からの付き合いだが、こんな女の声を聞くことは初めてだった。
「じょ、状況が分からないんだけど。あは、あはははは……」
「わたし、もう我慢できないの」
「ななな、何が?」
「わたしだけの圭吾くんになってほしいんだよ」
そう言いながら周は、圭吾のワイシャツのボタンを外していく。
「急にどうし――っ」
すっと首筋から胸元にかけて、ひんやりした感覚がやってきた。無意識のうちに背筋が伸び、情けない声が漏れる。周のか細い指が、淫靡に直線を描いたのだ。
落ち着け、冷静さを失うな。状況を整理しよう。
放課後の悶着を終わらせ、圭吾は疲れ切った。心の底からさっさと飯食って風呂入って寝たいと思った。しかし家に帰ったところで、それらを彼は即時実行できなかった。
両親を早くに亡くしているため、何から何まで一人でしなければならないのだ。洗濯物の取り込みや食事の支度、風呂掃除に明日の朝食の準備……枚挙に暇がない。そこで近所に住む周が夕食を作ると言ってくれた。ときどき圭吾は家事を甘えていたので、今回も感慨なく頼んだ。
家に着くと、周は流れるように下ごしらえを済ました。そしてご飯が炊きあがるまでのんびり過ごすことになった。
こうして、事件が起こった。
突然、テレビの電源を落として無言になったと思ったら、
『好きなの』
と宣言。ソファーに押し倒されたのだった。
(なんで急にこんなことに……。意外と周って胸があ――違う違う! 何考えてんだ、俺!!)
圭吾は己を叱咤し、体勢的優位にいる周から逃れようと試みる。
(動けない……)
周のか細い腕と柔らかな太ももが、圭吾の体をホールドしていた。右左、右右左、変則的に動かしてみても解除には至らない。
圭吾は帰宅部とはいえ男だ。武道の心得もなければ、習い事はピアノくらいである周に押さえられるなど、あり得なかった。いったい華奢な体のどこから力を出しているのだろうか。
「お願い……わたしを――」
「それはつまり――」
大人の階段を登ろうという申し出だ。
この世の悦の彼方へランデブーしようと言っている。
「こういうのは順序がいるわけで、いきなり、な。こういう物理的な接触は……」
圭吾は目を白黒させた。
「……圭吾くん、わたしのこと嫌い?」
周の瞳が熱っぽく潤んでいる。どこか不安げな様子だった。
数拍の空白。
「嫌いなもんか」
「なら、いいじゃない」
再び近づく周の顔。圭吾は視線を外し、つぶやいた。
「そんなの周らしくない」
「……」
「どうしちゃったんだよ。なんかあったのか?」
「なにもないよ」
「隠すなよ。どうして焦ってんだ」
「それは――」
その折、インターフォンが鳴った。沈黙の中にあって、よく反響した。郵便局か新聞の勧誘か、ともかくナイスタイミングだ。
「誰か来た、な。うん。出ないと。……周?」
周の様相が変わっていた。火照った肌は白さを取り戻し、厳しい表情を浮かべている。体から醸し出していた色っぽさが消え、圭吾の胸板を押し込み、身を起こす。
「いま来るのか」
底冷えするような声で、玄関に向かって吐き捨てる。
誰だ。
圭吾は上にのしかかる幼なじみが、見知らぬ少女に見えた。
「あまね……」
情けなくつぶやいた瞬間、圭吾は周に引っ張り上げられた。襟首を掴まれ、床へと落とされる。
「な、何すんだよ!?」
「動かないで。頭を低くして、伏せたままよ」
周は端的に圭吾を制する。それからの動作は機敏だった。四人がけのテーブルを横転させ、ちょうど玄関から死角になるよう障壁を作る。
バリケードを作り上げると、周は自分の制鞄を開けた。迷いなく手を突っ込み、黒い何かを取り出す。
「拳銃っ!?」
幼なじみが握り締めているのは無骨な自動拳銃だった。圭吾の悲鳴を捨て置き、テキパキと動作確認する。
「あ、あー、分かった。これドッキリだろ? さっきのアレもコレも全部そうなんだ……。そうだろ?」
「圭吾くん」
自動拳銃のスライドを引く。かちゃ、っと小気味良い音が響いた。
「ごめんね。今は何も教えられないの」
二度目の呼び鈴。片手で首根っこを引っ張られ、圭吾はテーブルの陰に隠される。
「いい加減に怒るぞ。何を――」
圭吾の言葉を遮る爆発音。身をすくめた矢先、周は自動拳銃を構えてテーブルから上半身だけを晒した。
発砲。
鼓膜が破れるかと思った。圭吾は仰け反り、両手で背中から倒れないように支えた。
周の一撃が始まりとなった。間断なき銃撃音が轟く。跳ね回る銃弾。割れる窓ガラス。貫通を防ぐテーブル。
「なんで……?」
大型量販店で買った安いテーブルだぞ。防弾能力なんて持ち合わせていない。
周におっかなびっくりの視線をやると、素知らぬ顔で言った。
「一つだけ教える。それ私たちが入れ替えた特殊合金埋め込んだテーブルだから」
「はぁ⁉」
「ついでだけど、玄関のドアも付け替えたんだけど……。あいつら何ポンドの炸薬用意したんだろ」
「知るか! 私たちってなんだ? あいつらって誰だよ⁉」
圭吾の詰問は銃撃音で掻き消える。
これは悪い夢だ。確信できた。非現実的すぎる。
幼なじみが、どでかい拳銃片手に訳分からん相手と殺(や)りやっているシチュエーションは、自分の脳みそが作り出した幻影だ。
だってそうだろ? こんなことありえない。
周はテーブルに隠れ、給弾を始めた。手つきの器用さはずば抜け、空弾倉から予備弾倉への切り替えに無駄がない。
「……さすがに分が悪いか」
周は舌打ちして、攻防を繰り返した。その合間を縫って、制鞄から金属の筒を取り出す。
「な、なんだ、それ……?」
嫌な予感を覚えながら、圭吾は訊いた。
「MK3A2よ」
「いやつまりそれって……」
「いわゆる手榴弾」
「ふざけっ⁉」
「耳を塞いで、口は半開き。よろしく」
周は簡単に指示すると、筒――手榴弾の先端についたピンを引き抜き、玄関めがけて投擲した。
是非もない。圭吾は手のひらで耳を塞いで、間抜けに口を半分開く。
数秒後、頭を全方位から揺さぶられたような衝撃が襲う。平衡感覚が瞬時的に狂った。
「ベランダの非常階段から逃げる。早く!」
ぐいっと引っ張り上げられ、立つよう促される。だが足が言うことを聞いてくれない。なんだか情けなく思えた。
そのまごついた、体感として三秒。濃密な一瞬の出来事だった。
ベランダで光が瞬き、窓ガラスが粉々になった。圭吾たちは大小様々な欠片を浴びる。頬が切れて流血した。
周は怯まずに風通しが良くなったベランダへ銃口を向けた。煙のせいで、圭吾には何も見えない。
しかし周は気配を感じたのだろう。煙に向かって発砲した。
「ちっ!」
周が敵意を曝け出す。長い付き合いだが、こんな彼女を見るのはショックというより新鮮だった。
取り巻くきな臭さに、新たな臭いが混じった。薄い煙を纏い、闖入者が現れる。
闖入者は周の銃を蹴り上げ、無力化すると同時、もう片方の脚で横っ腹に蹴りを食らわせた。小さく悲鳴を上げ、周は床に叩きつけられる。
何が起こったか分からない圭吾。気づくと闖入者に無理やり立たされていた。後ろ手に掴まれ、そこから手錠か何かで拘束されて身動きが取れない。
『Frees!』
動くな。甲高い女の声が反響した。申し合わせたように銃撃の嵐は静まり返った。
「げほっ……んぐぅ……。圭吾くん……!!」
周が苦悶しながら手を伸ばす。
「あ、あまね」
情けない声を出すしかできなかった。闖入者は圭吾を盾にして銀色の自動拳銃を構え、その場の者に威嚇している。
されるがまま、ずるずると風通しがすこぶる良好になったベランダへ引っ張られた。
「は、離せ。ふざけんな、この!」
精一杯の勇気は抗弁だった。今さら武道でもやっていたらよかったと後悔した。
むろん闖入者は一介の高校生を無視する。
がちゃっ、と音がした。視線を落とす。腰回りに安全ベルトを付けられていた。
外に出る。妙に生暖かい風が髪を撫でた。もう夜らしく、太陽は空を赤黒く染め上げていた。
どこへ向かうというのだ。周が言っていたように非常階段から逃げるつもりなのか。
なら隙を見て振り払い、駅前交番に逃げ込もう。消費税を学生から巻き上げているのだから、たまには国家権力らしい仕事をしてもらいたい。
一歩ずつ後退り、方向転換をしなかった。どこまでも後ろへ。
圭吾は足元に違和感を覚えた。じゃりじゃり、と小石を踏み締めている気がする。掃除は怠っていないし、高層階に砂利が積もることは考えられなかった。
ではいったい。
『Mr KEIGO』
「……?」
『You can fly?』
あなたは飛べるか、だと? バカか。アホか。無理に決まって――
そこまで考えて圭吾に嫌な予感が過った。
高層階。足元の砂利、もとい恐らくはベランダの一部。逃げ場。腰回りの安全ベルト。断片化された映像がフラッシュバックのように浮かんで、予感に現実味を与える。
昔からこういう圭吾の予感は間違いなく現実になった。例外はない。
だらだら冷や汗を流しながら、圭吾は言った。
「む、無理。この高さはダメだ。死ぬ……」
情けない声に、闖入者は笑った。切迫した状況下には不適格な少女のそれだった。
「男の子でしょ。頑張って」
流暢な日本語だ。訛りはなく、澄んだ声音が心地良かった。
「性別関係ない……!」
「落ち着いて。飛んだら一瞬。深呼吸して、いち、にぃ」
「たんま!」
「さん、ヒュイゴーです。ケイゴ」
「!?」
聞き慣れた拙い日本語に驚く暇はなく、圭吾は背中から夜景に飛び出した。
「ぬぅうううううううう――――!!」
高層マンション。その二十階からの夜間ダイブは言語を絶する。心臓が弱かったら泡を噴いて失神するレベルだ。
実際、高所からの自殺者は落ちる途中で意識を失くすらしい。元より精神状態がどうにかなっているんだから、恐怖は感じないように思える。
しかし残念無念。圭吾の意識は丈夫だった。鼓膜が強風でどつき回されても、肌が寒さで滅多刺しされても正気を保っていた。
自由落下をしながら、闖入者は体勢を器用に変えた。そして何かが放たれる音がすると、ぐんっと体が一時的に上ずった。
真上を見てパラシュートが散開していることに気づいた。
夜景が不本意ながら綺麗だった。高層階から見慣れた人工の光。そのひとつひとつが世界を鮮やかに彩っている。もっとも、圭吾の心境はそれらを嗜む余裕はなかったが。
風が冷たい。秋口とはいえ顔面が痺れる。
闖入者はパラシュートを操り、マンションから数キロ離れた、背の低いビルの屋上に不時着した。安全ベルトが外され、圭吾はいったん解放される。
死ぬかと思った。割とマジで。
圭吾はその場に座り込み、抗議の旨を伝えた。
「お、お前、どう……いうつもり……だよ……」
「あら最高の超低空ダイビングだったと思うけど。お気に召さなかった?」
闖入者は役目を終えたパラシュートを外しながら、あっけらかんと言いやがる。
「訳が分からない。どういう、ことになってんだ」
「なにが?」
「全部だ。起こったこと全部。たとえば、あれ。あれだ。ああーくそ、頭回らねえ……」
「落ち着いたらどう? 急いても仕方ないわよ」
息を飲む圭吾。頭の中がごちゃごちゃだ。聞きたいことが無量大数ほどあるのに、いま思いつく質問は一つしかなかった。
「お前は何者なんだ」
アメリカからの留学生。片言の日本語を使い、いつも圭吾をからかう外人さん。そんな愉快なイメージしかない、闖入者――マリア・キャンベルは小さく笑った。
「あなたからすれば、命の恩人かな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます