一章

一章一節

――2008年――


 三嶋圭吾みしま けいごの人生は円満だった。県立高校二年生として学生という身分にあり、これまで大した挫折も経験せずに浮き沈みのないモラトリアムを謳歌している。成績も対人関係も問題なく、今のところ進路だけが漠然とした不安を煽るくらいだ。

 放課後、西日の差す教室ではクラスメイトたちが、思い思いの時間を過ごしていた。部活動へ向かう人や、帰宅の準備をする人、漫画を手に雑談をする人など様々だ。

 部活動に興味のない圭吾は、小中と帰宅部とあって高校でも同じだった。かと言って目的なく教室に居座る気もない。友達から遊びに誘われなければ、家へ即時的に帰る。そういうぼんやりした性格だった。

 圭吾は鞄に筆記用具とノート、宿題に必要な教科書を詰め込む。教室を去るクラスメイトに適当な挨拶をしながら、やや時間を費やす。

カラオケやゲーセンの誘いはなし。よし帰ろう。

鞄を肩に担いで立ち上がると、足で机の下に椅子を押し入れる。

「おー、ケイゴ!」

 ふと訛りの強い日本語が飛んできた。鼻にかかった甲高い声音は、ステレオタイプのアメリカ人を彷彿とさせる。

「ああ、マリアか。おっす」

 軽く手を上げ、圭吾は金髪少女を見つめた。

 夕陽に映える腰まで伸びた金糸。夏の空を思わす碧眼。地味な紺のブレザーも生まれ持った身なりの主張と上手く融合している。胸元の赤いリボンは緩められ、その奥の境界をちらりと魅せた。

 マリア・キャンベル。二年の一学期に留学してきたアメリカ人だ。なぜか圭吾に懐き、出会って三ヶ月ほどで友達となっていた。

「テンション低いよォ。これからどこか行きやがりませんかァ?」

 誰が教えたのか、文法無視の誘い文句を受ける。

 圭吾はため息をつき、

「疲れてんだよ。今日はもう帰る」

「えー、なんでですかァ! こうもお天道様の機嫌が良いやがるというのに、Why?」

「……ガチでどこで教えてもらったんだ、それ」

「Oh,ニュージャージーのUncleからです!」

「さよか――ってちょっ……」

 マリアは無遠慮に圭吾の腕に抱きつく。柔らかな程良い丘が押しつけられた。

「細かいことは気にしない。Let’s Goです。ネズミのいる遊園地に行きましょう!」

「行かないよ!」

 また始まった、とクラスメイトたちが生暖かい視線を送ってきた。少し前まで冷やかされていたが、いい加減に見慣れたらしく面倒くさいようだった。

「つれないですねェ。Dream見に行きましょうYO!」

「夢見るよりテレビ見るほうがいい!」

「そんなこと言わず――」

「いい加減にしなさい!」

 次は明らかな怒気がこもった声がやってきた。マリアを退けようとしながら、圭吾はそのほうを見遣る。

 黒の艶やかなショートヘア。やや垂れ下がった赤茶色の双眸が、整った小顔に浮かんでいる。まったく制服を着崩さず、優等生の手本のような身なりだ。圭吾は目の前の少女の真面目さを昔から理解しており、声を荒らげる性格でもないことを熟知していた。

「なんですかァ、うざったいおなごですねェ」

 マリアが挑戦的な目つきをする。ショートヘアの少女も負けじと反目した。

「ふざけないで。圭吾くん嫌がってるでしょ? はやく離れなさい」

「大和撫子怖いねェ。カミカゼ竹槍ですかァ?」

「意味の分からないこと言わないで!」

「あーっと……落ち着こう、あまね

 会話の雲行きが怪しくなってきた。圭吾は冷や汗を流し、少女――御厨周みくりや あまねを宥めようと努めた。周は小学校からの腐れ縁で、いつも一緒にいた幼なじみだ。

「どうしてその子の肩持つの? 嫌なら嫌って言えばいいじゃない。ねえどうして?」

 周は眉間のしわを深め、圭吾に詰問する。

「そ、それはまあ……」

「なに?」

「もしやミクリヤ、嫉妬しちゃってんのゥ?」

『なっ』

 マリアの直球発言に圭吾と周の声がハモった。

「ち、違うわよ。そういうのじゃなくて、これはいわゆる幼なじみとしてのこう……。所定の手続きが……!」

 周は意味不明なことを言って、顔を真っ赤にした。

「落ち着けよ……」

「ナナツノタイザイ?」

「ああ、もう!」

 悪態をつき、周はマリアがホールドした反対側の圭吾の腕に手を伸ばす。ぐっと掴まれ、圭吾は呻く。驚くべき握力だった。

「痛いって……おい周。マリアも離れろ!」

 苦情を述べても、二人の少女は譲らない。

「離れるのはミクリヤだ!」

「そっちでしょ!」

 前言を撤回しよう。普通より浮き沈みのあるモラトリアムを、外的要因によって強いられている。

(これっていちおう青春、なんだよな?)

 全男子学生諸君が、比類ない暴力に訴えてきそうな独り言を心で漏らす。

 冷静に鑑みれば、明るい青春なのだろう。だらだら過ごす圭吾の人生は、間違いなく幸せなのだろう。

 おそらくは。

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