ソビエトが攻めてきた!
容一味
プロローグ
序章
――1945年――
ドラム缶の中で燃える資料を見つめながら、
「戸枝博士。こちらでしたか」
ノックもせずに入ってきたのは、若い陸軍中尉だった。額に大粒の汗が浮かんでいる。戸枝を探し回っていたのだろう。
「どうしたんだい、中尉」
戸枝は執務机に置いてある最後の資料を火にくべた。悠然としてドラム缶の中を見据える。この実験結果を得るため、どれほど時間を費やしたか。それを思うと、やや感傷的にはなった。
そんな暢気な反応に中尉は苛立ちを隠さなかった。
「どうしたではありません。ソビエトが目前に迫っています。支度を急いでください」
「石井殿の部隊は撤退できたのかな?」
「……完了したと聞いています」
「そうか。なら結構」
「博士。いい加減にしてください。時間がないのです」
「探してもらってなんだが、僕はここに残るよ」
「なにを……」
中尉は目を見開いた。
ソ連軍のやり方は、大陸にいる日本人なら誰でも知っている。男は惨く殺され、女子供は凌辱されて殺される。残るということは、死を受け入れるのと同義だった。
「代わりと言ってはなんだが、家族を内地に送り届けてほしい。赤ん坊もいるからね」
戸枝は小さく笑った。
「なぜです。博士はこの戦争に――帝国に必要な方です。来てください」
真剣な面持ちで中尉は言った。
「中尉。この戦争に僕の研究は間に合わないよ。もう終わりだ」
「終わりではありません。たとえ今回は負けたとしても、次なる戦いがあります」
戸枝は片眉を上げ、うんうんと頷く。目の前にいる中尉は見識が広い。おそらく教育を受けた環境が『聖戦継続』とか『一億総特攻』などと、短絡的に想起させる思考を作らなかったのだろう。
普通なら国賊と罵られ、この場で処断されかねない。それだけ我が帝国は追い詰められていた。
「キミのような若者がいるなら、きっと日本は滅んだりしないだろう」
「博士……」
「僕の体は、もうぼろぼろなんだ。自分自身が実験体だったからね。とうてい長旅に耐えられるとは思えない」
戸枝の微笑みを称えた顔に影が差した。中尉は何かを言いかけたが、けっきょく言葉を飲み込んで頭を下げた。
「二年五カ月と三日。戸枝博士と共に過ごせたこと――わたしは終生、忘れません。ありがとうございました」
真面目な中尉らしい、別れの挨拶だった。
「こちらこそありがとう。申し訳ないけど、妻と子供を頼んだよ」
「……はい、必ず内地に送り届けます」
そう言って、中尉は駆けるように部屋を出て行った。
地鳴りがする。敵が近くまで来ているのだろう。いよいよ覚悟を決めなければいけない。戸枝は窓辺に寄り、鉛色の空を見上げた。
この研究がもたらす結果は計り知れない。きっと近い将来、二分されるであろう世界で、奇跡を起こすかもしれないし、災厄を起こすかもれないのだ。
自分は夢中になって研究をしてきたが、こうして振り返ると、まだ見ぬ子孫たちに余計なものを残してしまったのではと思ってしまう。
「願わくば、未来に光が満ちることを……」
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