三章六節

 殺人的な衝撃があって、周の小さな体はアスファルトを転げ回る。何回転するか分からない。次の瞬間まで生きているかも分からない。ただ周はじっと堪えた。あちこちを激痛が襲い、情けなく叫びたい衝動をぐっと歯噛みで受け流す。

 そうして無間地獄よろしく苦痛の連鎖を耐え忍んでいると、回転数が下がって、ついには止まった。

「ぐっうぅう――――」

 よろよろと路上に立ち上がる周。握りしめていた愛銃を手探りでホルスターに収め、大きく深い息をした。

 全身をおおざっぱに触る。多少の擦り傷と打ち身で済んだようだ。訓練の賜物と顔も名前も知らない両親のお蔭と言っておこう。

 周は胸ポケットをまさぐって通信機を取り出すと、誠治をコールした。

「こちら周……視覚および聴覚を一時的にやられましたので、一方的ですが報告します」

『――――――』

「一発は当てましたが、致命傷にならず」

『――――』

「おそらく旧造船所に、向かっています。間違い、ありません……」

『――――』

「回復次第、追撃します。以上……」

 一方的に通信を切って、周はぼんやり見えるガードレールのほうに近づいた。ずるずると座り込み、背中をガードレールに預ける。

 それから十分ほど経った。未だに視界がぼやけていて、風音もくぐもって聞こえていた。

 鍛え抜かれた兵士である周も、これでは追撃できなかった。しかし万全でなくとも作戦行動をしなければならない。

 逸る気持ちを抑えようと大きく息を吸い、深く吐き出す。

 光と音の爆弾が炸裂したとき、とっさに目を閉じ、身を丸めたことが完全な継戦能力喪失を防いでいた。もしまともに食らっていたら、高速走行する車の上で気絶していただろう。その結果は……言を俟たない。

 ぼんやりとした視界に光が見えた。エンジンの音が微かに聞こえ、目の前に車が停まっていることを知った。

 シルエットから察するにジープのようだ。そこから一人、大柄の影が降りてきた。

「ほほう――なんだ――」

 大柄の影が何かを言っている。

「誰?」

 この時間帯にこのタイミング、関係者に間違いないだろうが油断ならない。

 周は腰に手をやり、予備のナイフを静かに握った。

「早とちりするんじゃない。俺は敵じゃあない」

 大柄の影が大きめの声で言った。こちらの状態を察してだろう。

「味方ってわけじゃないでしょう?」

 慇懃無礼に周が問うと、大柄の影はくぐもった笑い声を上げた。

「いやいや、俺は極めて中道だよ。日本人だし、平和をこよなく愛する平和主義者さ」

 本心には思えない薄っぺらい響きだった。この人物は何も愛していない。何もない空っぽな人間だと周は思った。

「……それにしては楽しんでいるみたいですが?」

 率直な気持ちを言うと、大柄の影は心底楽しそうに笑った。

「ああー、楽しいかな。こうして状況が変化することに。これほど楽しいことはないね」

 狂っている。周は姿すら見えない影に確定を下した。

「それで、私をどうするつもりです? あなたの楽しみの手持ち無沙汰にするつもりですか?」

 冷笑して見せると、大柄の影は嘆息をついて近寄ってきた。

 甘い香りがした。香水のそれではなく、タバコの紫煙の匂いだった。

「まさか、女子高生の操を犯す趣味はないさ。俺はただ、君を戦場に連れて行くだけ」

「紳士的な配慮ですね。まったく良い性格をしている」

 こういう手合いを周は知っていた。イカれた戦闘狂。他人が苦しむ姿に悦びを感じ、おそらくは自分の性的な欲求ではなく、戦いを焚きつけるためだけに婦女子を犯すような、そういった類の畜生である。

「そうかい? いやいや、お褒めに預かり光栄だ。君は良い諜報員だよ」

「こちらこそ、お褒めに預かり光栄です。私をいるべき場所に案内してくれるなんて」

 周は皮肉を込めて言った。すると大柄の影は愉快そうに笑った。

「日本も捨てたもんじゃないな。まだこんな威勢のある人間がいるなんてね」

「……あなたも日本人でしょう?」

周は見えない目を少し細めた。

「ああ、紛うことなく日本人さ。誉れ高き日本国憲法を愛し、気高き不戦の誓いを讃える日本国民だよ。ま、多少のお楽しみを欲する俗物ではあるけどね……っと」  大柄の影は周を軽々と抱えて、乗り付けた車へと放り込んだ。周は特に拘束されることなく、一人で後部座席に乗せられたようだった。

 エンジンが唸りを上げ、進み始める。エンジン音から軍用ジープであることが分かった。

「それで、あなたは何者なのですか?」

 周はおおよその想定をしつつ訊いた。すると大柄の影が愉快そうに笑った。

「察しの通りさ。旧世紀を望郷するヤツらを支える慈善事業者だよ」

「旧世紀?」

「ああそうさ。人類がもっとも繁栄し、破滅に近づいた二十世紀を愛する者たちを応援している良い人だよ」

 二十世紀が過去となって久しい。もう十年経てば過去は歴史という記録となり、やがては思い出す者もいなくなるだろう。確かにその時代を生きた者は思うかもしれない。あの時代は良かったと、ノスタルジーを感じるかもしれない。しかし、それを応援するとはどういう意味なのか。

「……やはりソビエトの仲間といったとこですか?」

 周はぼんやりした視界で、助手席の大柄の影が揺れていた。哄笑している。

「中道って言ったじゃないか。んー、まあ仲間であると言えば、確かにそうなんだろう。だが、君たちとも仲間でもあるわけだ」

「私たちの……」

「篠部機関も、大日本帝国を忘れえぬ者たちが創ったものだろう?」

 存在が最重要機密である機関を、この口ぶりなら多くを知っている。この男はいったい何者だ。相手の素性が分からない以上、下手なことは言えない。

 周は沈黙した。すると大柄の影は笑った。

「そう警戒するんじゃあない。日本人同士、仲良くしよう。篠部閣下から君をよろしくと言われていたんだよ」

「閣下から……」

「そうさ。これからエリノル何某を追撃し、任務を完遂させるための手伝いをしてほしいとね」

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ソビエトが攻めてきた! 容一味 @padogo

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