三章五節

 初めからロシア人などアテにしていない。爆発炎上する車輌を横目に、周はオートバイを走らせていた。スピードは時速一〇〇キロ。邪魔な一般車はこの時間帯には見られなかった。

 彼女の駆るオートバイは、自衛隊に配備されているものと同型の偵察任務用であった。最大時速は一三〇を超え、作戦行動を速やかに実行できる。

(マリア・キャンベル……。マリア……)

 呪詛のように心の中で忌まわしい名を呟く。

 周はロシア人との共闘に嫌悪しながらも、この作戦に従事していた。

 本作戦はマリア――エリノル・S・アルブレヒツベルガーなる旧ソ連の置き土産のを捕縛または行動不能にすれば完了する。三嶋圭吾の処遇については、抹殺に変わりなく、速やかに排除せよと命ぜられている。

 殺す理由はあるが、生かす理由はない。多くを知りすぎている可能性があるからだと。しかし三嶋圭吾を『国家百年の計に関わる、特別な存在』だとした上層部が、なぜ排除に踏み切ったのかが、いまいち理解できない。

『もしや、監視対象に劣情を催しているのではないだろうな?』

 篠部の言葉が脳裏をよぎる。これは劣情なのか。いや、そういった感情は虚像である御厨周が担当している。今この瞬間、息をするように人を殺す『兵器』である自分が、持ち合わせているはずがないのだ。

 三嶋圭吾。彼は優しい。ずっと隣で見てきたから、よく分かる。争いや戦いに無縁な、自分とは対極にいる存在だ。まぶしくて輝いていて……。

(いま何を考えてた……?)

 周は我に返って、眼前を見据えた。虚像との境界が曖昧になっている。これでは作戦行動に支障を来しかねない。

 周はスロットルグリップをひねり、速度を上げてゆく。

 逃走中のライトバンが見えてきた。よく追跡車輌から逃れられたものだ。運転技術がずば抜けているのか、はたまた運がいいのか。

「ッ」

 嫌な予感が駆け巡り、周は姿勢を低く、さらに体重を左にかけた。

 前方で銃声が響き、マズルフラッシュが起こった。瞬間、頭上を弾の群れが通過した。察するに重機関銃を撃ってきたのだろう。

 周は態勢を立て直すと、スラロームの機動を描きながらライトバンに接近していった。その間も激烈な銃撃を受けたが、変則的な機動によって回避し続けた。

 こちらの有効射程に入る。ライトバンの後部座席に影が見えた。あの女だ。間違いない。

 周は走行中にオートバイの上に立つと、肩にかけた自動小銃を構えた。それを確認してか、慌てたようにライトバンが右へハンドルを切る。

 織り込み済みだ。周はセミオートで銃弾を放った。何発かがライトバンの後方に命中。応射がない。手応えあり。これで距離を詰めてしまえば捕縛も可能だろう。

(誰が運転している?)

 ふと純粋な疑問が生まれた。交戦しているのはあの女だ。では圭吾はどこにいる。後部あるいは助手席にいるのか。

 いや、逃走中の人数は二名だと報告があった。

 では、では、つまりは。

(圭吾くんに、運転させている)

 数秒にも満たない時間で事実に行き着いた。

 全身の毛が逆立つ。スロットルグリップを握る手に必要以上の力が加わる。

 あの女は圭吾に無理やり運転をさせているのだ。自分が生き残るために、圭吾を利用しているのだ。

 彼は車が好きだった。よくモーターショーやF1レースも見に行っていた――いつも一緒に。そこで見る無邪気な子供のような笑顔が眩しかった。 頼んでもいないのに嬉々として車の解説をする姿に少し呆れながら、過ごす時間が楽しかった。

 いつだっただろう。将来は車関係の仕事に就きたいと言っていた。運転もしたいし製造にも関わりたいと、漠然とした夢を語っていたことを覚えている。

 それを周は素晴らしいと思った。夢を見て、明日を見て生きる圭吾を、ずっと隣で――

「……マリア、キャンベル!」

 その夢を、あの女は穢した。ただでは済まさない。その報いを受けてもらう。

 スロットル全開。エンジンが咆哮する。

 銃撃が止んだ暫時、周は急速に逃走車へと近づいた。一連の逃走劇で車体はボロボロだった。跳弾によって窓ガラスにが入り、ホイールがいくつか脱落している。

 運転席には圭吾がいた。歯を食いしばり、無我夢中でハンドルを握っている。とりあえずは五体満足であるようだった。

 今すぐ停車を促したいところだが、互いに時速一〇〇キロを超える速度で走っている。叫んだところで聞こえるはずもなかった。

 周はホルスターから自動拳銃を引き抜き、銃口を逃走車へ向けた。

 通常なら運転手を射殺すれば事は解決する。何より三嶋圭吾は排除せよと命ぜられているのだ。あとは旧ソ連の置き土産をロシア人に引き渡せば済む。

 ためらう必要はない。これまでやってきたことを確実に遂行するだけだ。兵器である自分が何百回も行ってきたルーチンを、引き金を引くだけだ。

 そう、圭吾くんを殺せばいい。殺せば、いい。

 ――本当に?

 虚像である御厨周が心象として現れた。

「くっ!?」

 周は銃口を後部座席に向けた。窓ガラスの割れ目から、あの女と目が合った。

 冷徹で無慈悲な畜生の瞳だった。相手もそう自分のことを思っただろう。互いに自動拳銃を構えて、躊躇なく発砲した。

 続けざまに数発。あの女には当たらなかった。こちらはオートバイの側面に命中し、金属がこすれる異音が鳴り始めた。エンジン部分がやられたか。しかし被弾個所を確認する暇はない。

 逃走車のタイヤを撃ち、走行不能にさせるべきか。いやこのスピードで運転不能になったら怪我では済まないかもしれない。いや、しかし、だが。虚像が頭をかすめて考えがまとまらない。どこまで邪魔をするのだ、御厨周。

 僅かな時間だったが、注意散漫になったのは事実だった。気が付くと、前方から大型トラックがクラクションを鳴らしながら突っ込んできた。

(死んでたまるか……!!)

 周はとっさにオートバイの速度を。瞬時的に逃走車を追い抜き、猛然として大型トラックへ突き進む。

 エンジンが悲鳴を上げていた。煙が吹き上がり、いつ爆発してもおかしくなかった。

 逃走車が大型トラックを避けようとハンドルを切る。

 今しかない。

 周はオートバイから逃走車に向けて跳び去った。相前後してオートバイが大型トラックと正面衝突し、爆発四散した。

 着地点は車体の上、ルーフだ。もちろん掴むところなどない。

 間際に引き抜いたナイフを逆手に持って、全力でルーフに突き立てた。全筋肉、全神経を集中させ、一点に驚異的な力を与える。

 今の周にとって、すべてはスローモーションで進んでいた。

 極限状態における人間の本能が働いているのだ。篠部機関の教官が『タキサイキア現象』と呼ぶそれは、周以外にもかつていた同僚が利用していたものだった。

 周らはどのような環境下でも任務を全うする術を叩き込まれており、これもその一つであった。もっとも、精神的疲労が増大するため時と場合を選んでいるが――今は出し惜しみしている場合ではない。相手は化け物だ。

 全力を込めたナイフは正確無比の軌道を描き、ルーフに突き刺さった。

 周囲の時間と自分の時間が合流し、間延びした一秒が規則正しい一秒へと戻っていった。

「はぁ――はぁ――」

 僅かに乱れる呼吸。一筋の汗が流れ、すぐに猛烈な追い風によって後ろへと消えていく。

 安堵している時間はない。猛然と進む車の上に周は中腰となった。

 来る。

 反応は直感に近いものだった。半身を下げたと同時に真下から銃撃を受けた。発砲音から自動拳銃だと分かった。

 周もホルスターから愛銃を取り出し、応射する。応えることは教えることであり、互いに居場所を変えながらの戦闘だった。

 姿の見えない相手との腹の探り合い。だが周には相手の次の手が分かった。当然だ。やつは自分と同じ獣なのだから。

 弾数が減っていき、リロードのタイミングが迫っていた。

 あと一発。

「――――ッ!」

 助手席側の窓から白銀の女が上半身をさらけ出し、まっすぐ銃口を向けていた。銀色のマカロフ。ソ連製の自動拳銃だ。

「やるわね、ミクリヤ!」

 マリア・キャンベルは皮肉な笑みを浮かべて言った。

「車を止めろ!」

 マリアの頭に狙いを定め、周は向かい風に負けぬよう叫んだ。

「あら、だったら運転手を狙えば?」

「ふざけるな!」

「怒るとしわになるわよ、ミクリヤ!」

 マズルフラッシュが双方で起こった。マカロフの装弾数は最大九発。発砲音は今を合わせて九回。互いにリロードするタイミングとなった。

 いや――――違う。

 視線を少し上にやる。空中に筒状の物体がふわりと浮かんでいた。

「バイバーイ、ミクリヤ」

「マリアぁあああああああああああああああああああああ!」

 周が絶叫した瞬間に、スタングレネードが炸裂した。強烈な光が真夜中を真昼のように照らし、鼓膜をつんざく爆音が巻き起こる。マリアはピンをあらかじめ抜いていたのだ。それ見越してわざわざ姿をさらしたのだ。

 周の視界と聴覚は奪い去られた。ただでさえ姿勢を保つことが難しいというのに、これでは平衡感覚が失われる。

 周はできるだけ身を丸くした。まるで向かい風に乗るように、あるいは車から投げ捨てられたゴミのように後方へと吹き飛ばされた。

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