第4話

夜の砂浜には誰もおらず、静かな波の音だけが聞こえた。

「ここで良かったっけ?」

砂浜の入り口で自転車を止めた真琴は、深沢に向かって問い掛けた。

「ああ、もう少し行った所の岩場の辺りが、言い伝えの場所だ」

深沢は深く頷くと砂浜の方角を指差す。

「時間は大丈夫なの?」

「大丈夫……」

深沢は腕時計に目をやった。

深沢の腕時計の文字盤が淡い蛍のような光を放っていた。

「きれい…」

腕時計を覗き込んだ真琴は、思わず感嘆の吐息を漏らす。

「タイメックスさ、アメリカ軍が朝鮮戦争の時から使ってる時計らしい。ほら、よく見て」

深沢が誇らしげにそう言うと、真琴の目の前に腕時計を持ってくる。

「普通の時計と違って、二十四の数字から時間が始まってるんだ。変な時計だろ?」

深沢の言うとおり、光に浮かび上がる文字盤には十二の数字は無く、その場所に二十四の数字があった。

「気にいっているんだ。誰も知らないもう一つの世界にいるみたいな気分になれる」

「もう一つの……世界」

真琴は深沢の言葉に何か引っかかるものを感じたが、深沢はそれに答える事無く腕時計から目を上げた。

「亥の時は今の時間で九時、あと三分しかない。さあ、急ぐぞ」

深沢は厳しい表情でそう言い真琴に背を向けると、砂浜に向かって走り出した。

「あ、待ってよ」

真琴は慌ててその後に続くと、深沢の背中を追いかけた。


波打ち際を走る真琴の心境は複雑であった。

このまま鳥居に着き亥の時を迎えれば、言い伝えが起こっても起こらなくても、全ての答えが出る。

つまりそれは……この冒険の終わりを意味していた。

それに気づいた途端に、真琴の心に寂しさがこみ上げてきたのだ。

真琴は今、とても充実し満たされた時間の中にいる。

それは、ここしばらくは感じなかった感覚……生きている実感とでも言うべきか。

だから、この大切な時間が終わってしまうのが怖かった…またいつもの自分に戻ってしまいそうな気がしたから。

ずっとこのままの時間が続けば……

そんな真琴のささやかな願いは、深沢の声で終わりを告げる。

「あの大きな岩だ、あそこにある鳥居に光の船が現れるんだ」

深沢は立ち止まり海の方を指差すと、息を切らしながら声を上げた。

真琴がその方向に視線を向ける。

深沢の言うとおり砂浜から百メートル程の海の中に、大きな岩が何個か並んで浮かんでおり、その上には、かなり色褪せた朱塗りの鳥居があった。

真琴は湧き上る高鳴りを抑えながら深沢を見る。

「時間は?」

「ギリギリセーフ……あと十秒だ!」

時計に目を落としながら、深沢がカウントダウンを始める。

真琴も深沢の時計を覗き込むと、声を重ねてカウントダウンに加わった。

混じり合う二つの声が、その瞬間に近づいていく。

映画のスローモションを見ているように、時間の経過がゆっくり感じられた。

どちらからともなく目を合わせ、大きく一つ頷きあう。

「五、四、三……」

自分の声がとても遠くに聞こえる。

お互いの鼓動が伝わるくらい心拍数が上がる。

秒針はもう一つの世界である二十四時に向かって時を刻んでいき、そしてついに二十一時……亥の時を告げた。

「ゼロ!」

二人は期待と不安に声を張り上げると、光の船を求め鳥居に視線を釘付けにした。


亥の時を過ぎてからどれくらい経つのだろう。

二人は無言のまま、海の中の鳥居を眺めていた。

静かな波の音が心地よく、それまで張り詰めていた緊張を忘れさせてくれる。

光の船は時間を過ぎても一向に現れる気配が無かった……

真琴は肩の力を抜き小さく吐息を吐き出すと、ふと夜空を見上げる。

―嘘……!

真琴は思わず息を飲む。

夜空は天球儀でさえも嫉妬を覚えるほどの、満天の星で埋め尽くされていた。

百五十億光年の広がりを見せるスクリーンには、神話に登場する星座達がひしめき合い、その向こうには淡い光を放つ天の川が、はっきりと浮かび上がっている。

「星が、重たいね……」

真琴は夜空を見上げたまま独り言のように呟く。

深沢はまだ奇跡を信じているのか、何も言わずに鳥居を見続けている。

「来なかったね、宇宙船……」

真琴が深沢を気遣うようにそう言うと、深沢は諦めたのか……ため息を一つつき肩を落とす。

「言い伝えも宇宙船も来なかったけど……」

真琴は小さく息を飲み込むと、偽りのない心の声を言葉にした。

「わたしが本当に見たかったのは、この星空なのかもしれない……」

直接心に響くような澄みきった声に、深沢が驚いたように真琴の横顔を覗き込む。

淡い星達の光に浮かび上がる真琴の横顔はとても穏やかで迷いが無く……美しかった。

「ずっと、ずっと忘れていた。こんなにもきれいで、懐かしい星空があったって事を……」

心の中から湧き上ってくる感情に任せ、真琴は言葉を続ける。

「東京に行ってから、ずっと勉強で忙しくて、大切なものが見えなくなってた……ううん、見ようともしなっかった。忘れずにいようと思えば、ちゃんと心に残しておく事だって出来たのに……」

まるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、真琴は静かに瞳を閉じ心に誓った。

―この星達の事を忘れない。

冒険が終わって再び日常が戻り……忙しさに自分を見失いそうになったら、今夜の事を思せばいい。この星達を心の中に描く事が出来たら、きっと大切な心を見つけ出す事が出来るはずだから。

真琴は瞳を開けると、もう大丈夫……と言うように星達に微笑みかけた。

深沢は、一瞬にして大人になった真琴の横顔をしばらく見つめていた。自分だけが取り残され、置いていかれるような寂しさを感じていのだ。

だが、やがてそれを受け入れたように笑みを零すと、真琴が見ている星空を見上げ静かに話し出す。

「私たちには空があった……」

真琴が見せた変化に劣らぬほど深沢の声は落ち着き、穏やかだった。

「空はどこも星だらけだった。私たちは寝転がって星を見たものだ。そして、星は作られたのか、たまたまできただけなのかと、話し合ったものだ……」

「それは、どんな学者さんの言葉?」

「ハックルベリーフィンさ」

少し悪戯っぽく口を尖らせる真琴にそう答えると、深沢は小さく笑って見せた。

聞いた事も無い科学者の名前が出てくると予想していた真琴は、虚をつかれたように深沢を見る。

「そんな顔で見るなよ」

「だって……」

「俺が天文オタクやってるのも、同じ理由なんだ」

「同じ……理由?」

深沢は頷くと再び夜空を見上げる。

「物心ついた時からずっとそんな事考えてた……そう思ったらどうしても星の事が知りたくて、図書館に行って星と名のつく本を全て借りてきた」

深沢は科学者とは程遠い、澄みきった少年の瞳を輝かせる。

真琴は釣り込まれるように、その無邪気な横顔を見つめていた。

「でも、どれも難しくて……その中で読めたのは『星の王子様』だけだった」

深沢が真琴に視線を戻すと、悪戯っぽく笑ってみせる。

真琴はそんな深沢の言葉を受け静かに目を閉じると、幼い記憶の中にある言葉を口にしていた。

「星があんなに美しいのも、目に見えない一輪の花があるから……」

それは、深沢が唯一読む事が出来た本の中にある言葉であった。

驚きの表情を浮かべる深沢に、真琴は呟くように先を続けた。

「本当に大切なものは目に見えない……星の王子様が始めて友達になった名も無き狐がそう教えてくれた」

真琴は目を開けると深沢に微笑んで見せる。

「サンクデヂュぺリ……わたしが初めてお母さんに読んでもらった本よ」

「これで共通の話題が出来たな」

「ホントね」

二人は小さく笑いあう。

「深沢君と、こんなふうに話したのって初めてだね」

「同じクラスの時は、話したくても話せなかった……ずっと」

「途中で転校していなくなったし……」

「お前、何も言わずに転校しただろ」

真琴が気まずそうに頷く。

「最後までみんなに言い出せなかったの……引っ越すって一言を口にした途端、びゅーんってみんなと違う世界に行ってしまいそうに思えて。だから引越しの当日に親しい友達にだけ電話でさよならを……」

「今なら……」

深沢はそう切り出すと、ゆっくりと真琴の瞳を覗き込んだ。

「俺は、その中に入っていた?」

その真剣な眼差しに、真琴は少し戸惑いを感じる。

今までのトーンとは違い、少し声が緊張しているように思えた。

「たぶん……」

曖昧にそう答えた真琴だが、すぐに首を振るとその答えを否定した。

「ううん、きっと」

深沢の真剣な眼差しを真っ直ぐに見ると、真琴は強い口調でそう言い切った。

真琴の下した審判に深沢は大きく肩でため息をつく。

「もっと早くにこうすればよかった。気持ちなんて、黙ってりゃ何も伝わんない」

「気持ち?」

真琴は首を傾げる。

深沢は真剣な表情を崩すと、遠い眼を夜空に向けて話し出す。

「お前が引っ越した日、俺追っかけたんだぜ。お前の事……」

「私を……?」

疑問の瞳を向ける真琴に頷くと、深沢はまるで昨日の事を思い浮かべるように続けた。

「もう少しで、お前が乗っていた赤い屋根のトラックに追いつけたんだ、でも……」

深沢は大きくため息をつくと、小さく首を振った。

「俺、最後の最後まで自転車が下手だったから……」

最後って……?

真琴は耳に入ってきたその言葉の意味が理解できず、それを確かめようとゆっくりと隣にいる深沢に目をやった。

深沢がいない―

「博士?」

不安になり真琴は深沢の姿を探し後ろを振り返ろうとするが、それを遮るように背後から深沢の声がした。

「振り向いちゃ駄目、そのまま……」

有無を言わせない強い口調だった。

「博士……」

真琴は前を向いたまま、消えそうなくらい小さな声で深沢を呼んだ。

目に見えない大きな力を背中に感じ、言いようの無い不安が真琴を支配する。

何かが起ころうとしている。でもいったい……

混乱する思考の中に、再び深沢の声が聞こえる。

「でも、月が眠る今夜だけ、許しをもらったんだ。だから、悔いのないようにちゃんと気持ちを伝えたい」

背後から聞こえる深沢の声はとても落ち着いついていて、優しさに満ちていた。

その声に不思議と真琴の心も落ち着きを取り戻す。

深沢が何をしようとしているかわからないが、これから起こる全ての事を受け止めようと心が決まる。

深沢は大きく息を吸い込むと、閉じ込められた心を開放するように口を開く。

「俺、ずっとお前の事が……」

真琴の周りの音が一瞬にして消えると、全ての時間が止まる。

静寂の中で深沢の唇が微かに動き、一つの言葉を真琴に伝えた。

それは、深沢がずっと言えずにいた一言…真琴への偽りのない気持ちであった。

生まれて初めての告白を受けた真琴は、少し驚いたように後ろを振り返る。

「あ……」

そこには誰もいなかった。

「博士……?」

真琴はあたりを見回し深沢の姿を探す。

だが、どこにも深沢の姿を見つける事が出来なかった。

真琴の耳に再び波の音が戻ってくる…海は穏やかな波を砂浜に運び、星達は何事も無かったように瞬きあっている。まるで深沢と言う人物など最初から存在しなかったように。

「そんな……」

不安に駆られ、必死に深沢の姿を求める真琴の目に小さな光が見えた。

真琴は暗闇に咲く一輪の花を見つけたように、その光に近づいた。

その微かな光は深沢のタイメックスだった。

砂浜にぽつんと取り残されたタイメックス……真琴はそれを拾うと、淡く光る文字盤を覗き込んだ。文字盤の中の針は、二人で声を合わせ心を一つにした亥の時……二十一時を指したまま止まっていた。

「深沢君……」

真琴は時計を手に夜空を見上げると、その中に深沢の姿を探した。

無数に散らばる星達の中の一つが、それに応えるように大きく瞬いた。

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