5.新しい自分への旅立ちです
はたして栞は来てくれるだろうか。既に時刻は9時55分。待ち合わせ時刻の五分前だ。昨日は丁度この時間に栞は姿を見せた。
栞も桂浜付近のホテルに泊まっていると言っていた。つまり、次に来るバスで栞の姿がなかったら、栞はここに来る意思がないということになる。もし……来てくれなかったら。そう考えたらバスが来るのを怖いと思ってしまう。
俺の不安をよそに、バスは10時丁度に高知駅にやってきた。降車口の扉が開き、乗客が降りてくる。一人一人顔を確認しているが、栞の姿はない。もう、だめなんだろうか。謝ることさえ出来ずに俺らの縁は切れてしまったのだろうか。
諦めかけていたその時、1番最後に降りてきた茶髪のショートカットの女の子の姿に目が留まる。
「栞……」
それは間違いなく栞だった。栞も俺に気付いたのか、そっと手を挙げる。栞はスーツケースを転がしながらこちらに向かってくる。サイクリングをする、ということもあってか昨日のようなワンピース姿ではなくパンツスタイルだった。
「お待たせ、行こうか?」
「あ、ああ……」
開口一番、謝るつもりだった。しかし、栞の顔を見てその言葉は委縮してしまった。栞の目はほのかに赤かった。昨日の俺の暴言がきっかけだろう……。罪悪感が胸いっぱいにこみ上げる。
俺達は無言で、特急南風に乗り込み並んで座る。だが、お互い口を開くことはない。気まずい空気が俺達の間に流れている。いつまで、俺はこうしているんだろうか。悪いのは間違いなく俺だ。俺の方から、謝らないと……。
俺は息を大きく吸い込み、決意を固める。
「「ごめん」」
二つの言葉が綺麗に重なった。栞も驚きの表情を隠せないようだ。俺達は同じタイミングで、同じ言葉を紡いだ。さっきまでとは違う心地よい沈黙の後、俺達は目を見て笑いあった。
「ちょっと、真似しないでよ」
「栞こそ」
「本当にもう……一の……ばか」
しかし、栞の目からは涙が一筋零れた。
「なんで桂浜9:30のバスに乗ってないのよ! 10時に待ち合わせって言ったら普通あのバスで来るでしょ! 一はもう私と会う気がないって思ったじゃない!! このばか!」
「な、なんだよその言いがかり! 早く目が覚めたから一本早いバスに乗っただけじゃねーか!」
昨日は遅くまで起きてしまっていたが、それでも目覚めは不思議と良かった。朝ご飯を食べ身支度を終わるのが予定よりも早かったので、遅刻しないように早いバスに乗ったのだ。
「……癪だけど、一とあんな感じで終わるの……嫌だったんだから」
ぐすんと鼻をすすりながら呟く栞は反則的に可愛かった。そして俺はバッグからあるものを取り出して栞に渡した。
「……どうしたのこれ」
栞は訳が分からないと言いたげに、水色のバリィさんハンカチをただただ見つめている。
「いや……その……本当は初日にガイドのお礼として渡そうと思ったんだけど……勇気が出なくてずっとそのままだったんだ」
「……ぷっ。一らしくないと思ったけど、一らしくて良かった。ありがたく使わせてもらうね」
栞はハンカチで涙を拭うと小さく微笑んだ。
「俺も今日は栞が来ないんじゃないかと思ってた」
「何言ってんの。初日の居酒屋で一万円で二日契約したんだから私に逃げ道はなかったのよ」
「じゃあ、今は仕方なく一緒に居るとか……?」
もしあの時俺が5000円で二日目だけをガイド契約していたとしたら、栞は今日は会ってくれなかったのだろうか。
「ばか。だったら5000円突きつけて私だけ別のところに観光しに行くに決まってるでしょ。それに謝りたかった」
「謝る? 栞が?」
栞が俺に謝る要素が何かあっただろうか。確かに三発叩かれたがそれは俺がひどいことを言ってしまったからだ。栞に非はない。
「私、一を引っぱたける程に夢に一生懸命じゃなかった。結局、恋も夢も中途半端だったんだ、私。それで昨日目いっぱい考えて、全部に結論を出した」
「結論?」
「それに関しては……そうだなぁ。四万十の自然に触れ合いながら話そうかな?」
栞はお馴染みのしおりを取り出し、四万十サイクリングの欄を開く。
「まずは、今日の予定をおさらいしよう」
「今日はこのまま特急南風に乗って中村駅に行くよ。そこで自転車を借りて、2時間くらいサイクリング。そして15時30分には中村駅から徳島に移動する。うん、こんな感じかな」
「また県をまたぐ移動になるんだな」
「そこは仕方ないわね。三泊四日で四国全県をめぐるわけなんだし」
そう言う栞の顔もどことなく残念そうだ。今日これまで、香川県、愛媛県、高知県とめぐってきたが、どの県も特色があってもっと色々と観光してみたいと思った程だ。
「今日はサイクリングするけど、本当は馬路村にも行ってみたかったの。すごくひっそりとしてるんだけど、美味しいゆずのジュースとかあるんだよ。一が車の免許持ってたら行けたのに」
栞ははぁっと大げさにため息をついているが、それなら自分で免許を取って運転すればいいのにと思ってしまう。
「魅力的な所なんだな、四国って」
「私も好きになった。また来年の夏に来たいな」
来年、か。もし、俺が旅行に出るのが来年だったら俺は栞と巡り合うことが出来ただろうか。いや、来年どころか出発する日が一日でも遅れていたら俺と栞は出会うことはなかった。そう考えると感慨深いものがある。
「……一、ごめん、寝てもいい?」
「結局あんまり寝れなかったみたいだな」
そういう俺も少し眠気が残っている。結局昨日は寝たのは0時を回ってしまっていた。それもこれも……。
「そういう一はどうなの? 結局遅くまで私の小説最後まで読んでたみたいだけど」
「俺も若干眠い」
結局昨日は栞の小説を最後まで読み切ってしまったのだ。ん? 待てよ……?
「なんで栞がそれを知ってるんだよ!!」
「なんででしょう」
栞はニコニコ笑っている。俺は恥ずかしさで体が熱くなっていくのを感じる。
「種明かししてあげる。一、昨日私の小説読み終わった後、律儀に感想書いてくれたでしょ」
「書いたけど偽名にしたぞ!」
「バレバレなのよ! 水上 零なんて偽名使って! そんな偽名をあんなタイミングで使うのは一くらいでしょ!」
アニメを知らない栞くらいならごまかせると思って使ったのだが甘かったか……。水上 零としておけば俺とは分からないと思ったのだが……。でも何かがおかしい。
「栞、水上 零のこと知ってたのか?」
「え、も、勿論」
それにしては歯切れが悪い栞。何か、隠しているな。
俺はこの旅行中、零の話は勿論、アニメの話を栞の前ではしないように心がけてきていた。アニメの話をしようものなら栞に馬鹿にされるのが見えているからだ。実際に行きの新幹線の中では聖地巡礼という言葉さえ知らなかったじゃないか。
「栞……」
「あぁ、もう! うるさい! 調べたから知ってるに決まってるでしょ!」
栞は顔を俺から背けた。
「一昨日にはもう調べてたの。一がチャームに付けている女の子ってどんな子なんだろうって気になったから頑張って調べたの! はい、これで満足? もうこの話はおしまい!!」
「栞……」
まるで昨日の俺みたいだ。栞のことが気になって、栞の小説を検索して読んでみる。それと同じことを栞もやったんだろう。
……うん? 同じこと? ということは、栞も俺のことが気になって……もっと知りたくなって零のことを調べた? そう考えるのは少しポジティブすぎるだろうか。でもなんだか嬉しい。
「わ、私のことはいいから! それよりどうだった? 私の小説。感想も書いてくれていたけど直接初めの口から聞いてみたいな」
「感想なら昨日書いた通りだって。それに作者の前で感想を口に出して言うのは恥ずかしいんだけど」
「何言ってるの。読者から生の声を聞けるなんて絶好な機会ここを逃したらもうしばらくないから聞いておきたいじゃない。ねぇ、教えて?」
唇に人差し指を当てて、首をこてんと横に傾げる栞。昨日も彩音さんが俺に"わざと"やった仕草だ。勿論、栞も狙ってやっているに決まっている。だけど……。
「……あくまでひたむきな姿が良かった」
する相手が栞で、しかもそれが好きな人からのお願いだったら断れるはずがなかった。
「小夜はさ、彼女がいる隆平を好きになったわけだろ? 嫌いになろうと思っても、逆に好きになっちゃって、どうしていいか分からない。だけど、ただ"ひたむき"に相手のことを想い続ける姿勢がなんだかグッと来たな」
最終的に小夜は自分の気持ちを相手に伝えずに、好きという気持ちを大切な思い出として胸の中にしまうという結末だった。
『この一年間、苦しい思いも悲しい思いもたくさんした。
だけど、振り返ってみたらすごく楽しい思い出だったんだ。
矛盾しているようだけどね』
おそらくこの恋愛の気持ちの矛盾という言葉をタイトルの"恋愛パラドクス"に結び付けたんだろう。本来のパラドクスという意味とは少し違うが、まぁ、許せる範囲だろう。
「やっぱり男からしたらひたむきに想ってくれる女の子好き?」
「好きになるかは別として、やっぱり嬉しい……と思う」
「あ、そっか。一、女の子に好きになられたことないよね。悪い質問しちゃった」
にやけている栞の顔からは反省の色は見られない。そもそも栞の言う通りなので反論することさえ出来ない。
「そういう栞はどうなんだよ」
「嬉しいよ。複雑だけどね」
「複雑?」
「だってそうじゃない。相手の好きと私の好きが結びつかない場合もあるわけでしょ? それこそ、小夜のようにね」
小夜はただひたむきに隆平のことを想っていた。だが、隆平の好きという気持ちは他の女の子と結びついてしまった。一つの恋が叶うということは他の恋が叶わないということでもあるのだ。
……俺の好きという気持ちは届くのだろうか。
「だからこの作品を書く時は私も辛かったなぁ。小夜が辛い時は私の胸も痛んだよ」
「……何だか恋愛って難しいな」
「ふふ。だけどだから魅力的なの。恋愛をしていれば、誰もが主人公になれるし、その数だけヒロインもいるし、王子様だっている。特別な武器や能力なんてなくても主役になれる。言ってみれば人生の醍醐味だよ、恋愛って。だから私は色んな恋愛を紡いでいくの」
目を宝石のようにキラキラと輝かせる栞。やっぱり、小説のことを話している時の栞の顔は本当に魅力的に映る。
「一にもヒロインが見つかるといいね。零以外でね」
「余計なお世話だっての」
もう、見つかってるんだから。
サラリと言ってしまえばどれだけ楽だろう。だけど、言う勇気もシチュエーションも分からない。そんな恋愛下手な俺だからこそ、小夜に感情移入してしまったのかもしれない。
気が付けば車窓からは家が消え、田んぼのみが広がっていた。コンビニどころか民家を見つけるのが難しいほどだ。ぽつりぽつりと視界に入ってくる家に住む人たちはどうやって暮らしているんだろう。
「……なんかさ、旅行してるって気分になるよね。こんな風景、東京じゃ見られないじゃん?」
栞も俺と同じ風景を見ているんだろう。窓を見ながら呟いている。
「あぁ、まるで別世界に来たみたいだ」
「ふふ、国どころか同じ日本の違う県に来ただけなのに、違う"世界"って表現するの面白いね」
栞はクスッと笑っていつものようにメモ帳にペンを走らせる。だが、とがう世界に来てしまったと錯覚してしまう程に、俺が今見ている景色は新鮮だ。今までに見たことない広大な緑に、鳥肌が走る。旅行に出ていなければ決して見られなかった風景だ。
「栞は色々な所旅してきたから見飽きてるかもしれないけど、俺にとっては初めてだからさ。改めて俺の今まで生きてきた世界がちっぽけだったかを思い知るよ」
「何言ってるの。私だって初めての連続よ。瀬戸内海を見たのだって、こういう電車を乗り継いてサイクリングに行くのは。それに……」
栞は頭をこちらに向ける。
「こういう風に旅先で出会った人と二人で一緒に行動するのも、初めてなんだよ?」
「じゃあ俺は初めての旅でこういう体験をしたってのは相当貴重、だってことだな」
事実、栞に会っていなかったらどういう旅になっていただろう。上手く電車を乗り継げただろうか。各地で美味しい物を食べられただろうか。
「ふふ。もしかしたら私じゃなくて彩音が隣に座って、そのまま二人で旅してた未来もあったかもしれないし。めぐりあわせって不思議だね」
もし、隣は栞じゃなくて彩音さんが座ってきたらどうなっていたんだろう。俺は違う世界の未来を想像してみる。栞みたいに口やかましくなく優しくガイドをしてくれるかもしれない。そしたら俺は彩音さんのことを好きになっていたのだろうか。
少し考えて、俺はその考えを否定する。そんなことはない。栞を好きと自覚して、栞の小説を読んで分かったことがある。俺が栞を好きになった理由は……。
「一?」
ひょこっと栞は俺の顔を覗きこんでくる。突然のことに驚き咄嗟井に頭を惹き、座席に後頭部を思い切りぶつけてしまった。
「ちょっと大丈夫? いくら女の子に免疫ないとはいってももう二日も一緒に居るんだよ? 流石に慣れようよ」
呆れ気味に栞は言うが、それは無理な話だ。女の子だったら確かに少しは改善されたかもしれない。ただ、好きな人が相手だとそれは別だ。
「そういうウブなところ、嫌いじゃないけどね」
「え?」
「ほら、もう着くよ? たくさん走るからへばらないでね」
栞は座席から立ち、扉の前に移動する。ガラガラ音を立てていくスーツケースの後を俺は慌てて追った。
「あったあった! あそこ!」
額の汗をぬぐいながら栞は道の向こうの建物を指差した。その建物の看板には四万十市観光協会と書かれている。
「あそこでママチャリを借りるのよ。さぁ、早く涼もう」
栞の後を追うように観光協会に入る。建物の中は外の気温と10℃は違うんじゃないかと思う程冷えていて気持ちいい。
「サイクリングしたいんですけど」
「はい、少々お待ちくださいね」
受付の人は慣れたように棚からロードマップを取出し俺達の前に広げる。師範で売っている地図帳とは違いイラストたっぷりで可愛らしく四万十川の付近の様子が書かれている。
「サイクリングの時間はどれくらいですか?」
「二時間程です」
「二時間だったらゆっくり休みながら沈下橋の辺りまで行ってみるのはどうですか? 片道8キロほどになりますが」
受付の人はボールペンで沈下橋というところまでの道筋をなぞる。8キロと聞くとずいぶん長い距離を想像してしまうのは日頃の運動不足のせいだろうか。
「沈下橋行ってみたかったんです。一、行くよね?」
女の子が行く気満々なのに男が情けなく断ることは出来ない。
「お、おう。運動不足を解消する機会だしな」
「熱中症で倒れないでね? 倒れたら四万十川に流してあげる」
「おい!」
大体、俺は栞の方が心配だ。一日目にうどんめぐりをしている際に歩いた時にも機嫌を損ねていたからだ。
「良かったらこちらもどうぞ」
受付の人は小さな袋を二つ取り出す。
「塩飴です。熱中症には水分だけではなく塩分を取ることも大事ですからね」
「わぁ、ありがとうございます!」
「お気をつけてくださいね」
俺と栞は礼を言ってから観光協会を出る。俺と栞はそれぞれ赤いママチャリにまたがる。
「よーしじゃあ一、出発するよ! 遅れないように着いてくるんだよ?」
「了解」
栞がペダルを踏み込み、ママチャリは動き出す。俺は栞に何かあってもいいように後ろからママチャリを走らせた。
栞は早くもなく、遅くもなく適度な速度で道路沿いの道を走る。ママチャリに乗っていると風を受けて体感だが、幾分涼しく感じる。
「一、もうすぐ橋が見えてくるよ。そこで一旦水分補給しよう」
「ああ!」
栞の言う通り、程なくして大きな石橋が見えたと共に、綺麗な川が姿を現した。これが、日本最後の清流と呼ばれる四万十川だろう。照りつける夏の日差しに緑色の湖面が美しく輝いている。
「凄い綺麗……」
栞は橋の前にママチャリを止めスポーツドリンクを口に含む。
「栞、大丈夫か?」
「私は平気だよ、一こそ大丈夫? ちゃんと水分とりなよ?」
「でもこうやって川を見るとなんか心なしか涼しく感じるな」
さっきまで店が並んでいた市街地とは打って変わって両側の景色に川が流れている。その川のせせらぎを聞くことで耳から涼しさを感じることが出来ている気がする。
「涼しさを感じるのは肌だけではない。耳や目からも感じることが出来るのね。やっぱり実際に自分で体験してみないと分からないことが世の中には溢れてるんだね」
栞は小さなバッグからデジカメを取出し、四万十川を写真に収める。
「橋の真ん中あたりから撮ってもいい?」
俺が頷くのを見て栞は橋の中央付近までママチャリを進める。
「見てると心が洗われるみたい……。本当にきれいな川だね」
「東京じゃ絶対に見られない川だな」
「ここでしか見れない景色、だね」
「何か次の小説に活かせそうなネタ、あったか?」
俺が聞くと栞はママチャリに乗り、先に進んでいってしまった。
「栞!」
俺が問いかけても何も答えない。何か気に障ることを言ってしまっただろうか。そのまま気まずい距離感を保ったまま橋を渡り終え、川沿いをひたすらまっすぐ進みだす。右手には四万十川が、左手には緑が広がるという自然をぜいたくに堪能するサイクリングコースだ。
「一、私ね!」
栞はママチャリを漕ぎながら声を発する。風に遮られない為か、栞はいつもより声を張っている。
「なんだよ!」
「小説家になる!」
栞はそう宣言した後、ゆっくりこっちを振り返った。何か吹っ切れたような、決意を秘めた目をしていた。
「応援するよ」
栞はママチャリの速度を落とし、俺の横にぴたりとつける。道幅は十分に広いので通行の妨げになることはない。
「一のおかげだよ」
「俺?」
「一には、私の夢を全部打ち明けた。こんなの初めてなんだ。小説家になりたいと思ったきっかけとかさ、作品の感想とかさ、自分の夢に自信がないとかさ。友達は勿論……正樹にも、なかった。ううん、話すまでもなかった」
栞は青く澄んだ空を見つめる。
「皆、本気には捉えてくれなかった。それなのに一には……全部話すことが出来た。自分を全部吐き出したから気持ちを整理することが出来たの。確かにたくさん悩んだよ、この夢を追うことで泣いたこともあった、苦しんだこともあった」
栞が抱えた悩みを俺はまだ体験したことがない。夢と現実のギャップに苦しむということはどれ程のものなんだろう。けど、きっと俺の想像もできない程苦しいものに違いない。だけど栞は、それを吹っ切った。
「それでも、私は私の夢を信じたい。私の書いた作品が……誰かの心に強く刻み込まれるような作品を残したいの」
「それこそ、"栞"だな」
「そう思えたのも一のおかげ。あんな感想書いたから」
俺が昨日、恋愛パラドクスを読んで書いた感想は俺の本心そのものだった。
『小夜の純粋な気持ちが読んでるこちらまでしっかりと伝わってきました。普段恋愛小説を読まない私ですが、今まで読んだ小説の中で、一番面白いと思いました。次回作も楽しみにしています。 水上零』
「私の夢の一つだったんだけどなぁ」
「栞の夢は小説家になることじゃないのか?」
「……言われてみたい言葉があったの。それがさっきの一の感想なの」
風が俺と栞の間を通り抜けていく。四万十の自然を含んだその風は今まで感じた何よりも爽やかだった。
「……私はね。
100万人に『面白かった』って言われるよりも、
一人の人に『今まで読んだ中で一番おもしろかった』
そう言われるような作品を書いていきたいんだ」
栞は照れ臭そうに小さく舌を出した。その仕草が子猫の様で心がくすぐられる。
「じゃあ俺がその一人って訳か」
「一、恋愛小説あんまり読まなそうなのに」
「普段読まないんだよ。でも、不思議と栞の話はすんなり俺の中に入ってきたんだ」
俺は今まで恋愛とは無縁の人生を送ってきただけに、自然と恋愛小説も敬遠してきた。なので、栞の作品も数ページ読んで。肌に合わないと感じると思ったのだ。だが、予想と反して最後まで一気に読み進めてしまった。
「不思議じゃないよ」
「え?」
栞はママチャリから片手を外し、ポケットからスマートフォンを取り出した。風になびかれ、ストラップの猿が揺れる。
「波長が合うんだよ、私達」
「思えば、出会った頃からそうだったね。付けているストラップも一緒、好きなアーティストも一緒、旅の動機も一緒。認めたくないけど、波長が合うんだよ、私達」
「理系と文系、なのにか?」
「そんなの関係ないよ。私だって小説書くのにパソコン使うし、もしかしたら一も文章書くの好きになるかもよ?」
初めは理系と文系の違いというだけで口論になるまで発展したのに今ではこうして栞はクスクス笑っている。俺達の仲が少しは近付いた証拠と受け取っていいのだろうか。
「……読書感想文を書くだけでお手上げだったから小説を書くなんて想像も出来ないな。プログラムのコードだったらいくらでも書けるのに」
「そっちの方がすごいよ。私なんかキーボードで文字を打ったりするだけで一苦労だよ。小説サイトもいいのがないしさ。なんで理系と文系って上手くマッチングしないのかねー」
栞ははぁっとがっくし見て分かるほどにうなだれた。栞の言葉に奇妙な突っかかりを覚える。何だろう、この、喉の奥に魚の小骨が刺さったようなむず痒さは。
「文系の私にでも分かりやすくて尚且つ使いやすい小説を書くサイトとかあったらいいのになぁ、なんて無い物ねだりは駄目だよね。私がしっかり頑張っていかないと」
「Wordとかじゃだめなのか?」
「うーん……。もっとさぁ、しおり機能とかキャラとかセリフのメモとかを保存しておいて呼び出せたりしたらいいなーって。それこそ小説を書くのに特化したものがいいなって」
なるほど、確かに栞の言うことも一理ある。俺の勝手なイメージだが、小説を書きたいと思うような人は文系の人に多い気がする。パソコンに不慣れな所もあるだろう。もっと理系の、それこそ俺みたいなSE希望の人が、そんなツールを作れば喜ばれるかもしれない。
きっと栞も喜んでくれるだろう。そしたら俺は……凄く嬉しい。
「……あ」
「どうしたの? 急に間抜けな声出して」
思わず声を出してしまった。さっき感じたむず痒さもなくなっていく。探していたものの尻尾をつかんだ気がする。
「じゃあ俺が作るよ」
「え?」
「俺が小説を書くのに特化したツールを作るよ。そうすれば栞は喜ぶだろ? 栞だけじゃない。多くの人を俺の作ったもので喜ばせたい」
栞は、自分の小説を書くことで作品を通して人に楽しい時間を提供することが出来る。じゃあ俺には何が出来るだろう。そう考えてまず浮かんできたのが栞だった。
「栞の手助けをしたい。栞が出来ないシステム関連のことを俺がやって、俺が出来ない小説を書くことを栞がやる。悪くない話だろ?」
気付けば平坦なサイクリングコースは終わり、山道へとさしかかろうとしている。栞は自転車を一度止め、水分を含む。
「きっとこんな山道みたいに険しくなるんだろうなー。一の作った奴でちゃんと小説が書けるの?」
「……今は無理だと思う」
大学のプログラミングの講義内容だけではきっと作ることは出来ないだろう。自分で動いて、勉強して、人に聞くことだって重要になってくるだろう。
「だけど絶対、作ってみせる。それがせめてもの恩返しだ」
「恩?」
「ああ、あんなに面白い小説を読ませてくれたこと、そして、俺の旅をガイドしてくれたこと。栞には色々な恩がある」
一読者として、作者の栞の手助けをしたいし、それによって栞が気持ちよく作品を書くことが出来るなら万々歳だ。
「そっか。どうやら私は一に刻み過ぎたみたいだね」
栞はぶつぶつと何やら呟きながらうんうんと頷いている。
「一、それは恩じゃないよ」
「いや、俺がそう思うんだからそうなんじゃ……」
「あともう一息だね、さ、頑張っていこう!」
栞は右手をぐっと空に伸ばして気合を入れてから山道へ自転車を走らせた。栞の言うあと一息とは何を指しているんだろうか。
目的地の沈下橋のことか、それとも何か別のことを指しているのだろうか。だけど今はこれでいい。不思議とさっきよりもどこか吹っ切れた気分だ。
俺も栞に置いて行かれないように、自転車のペダルを力強く漕ぎ出した。
山道は思っていたよりも険しく、俺の額には大粒の汗が滲み始めている。日ごろの運動不足を恨んでももう遅い。
「一ー、まさかもうへばってないよね?」
栞は余裕たっぷりに大きな声を張り上げる。流石に女の子に体力面で負けていたら男の立つ瀬がない。
「大丈夫だ! そういう栞はどうなんだよ」
「私? 私はまだまだ余裕だよー! 山道をかき分けて温泉に浸かりに行った時に比べたら全然楽」
ひとつの温泉に入るのにどれだけ苦労をしているんだろうか、栞は。本当に旅が好きというか……。
「栞ってさ。熱中すると周りが見えなくなるタイプなんだな」
「良く言われるし、自分でもそう思ってる。小説書いている時なんて本当に時間が進むの忘れちゃう」
坂が急になり始めたので、栞も腰を上げ立ちこぎで自転車に勢いを足していく。俺もそれに倣ってペダルを踏み込んだが、平坦の道を走っていた時よりも重く感じる。
「そんな自分がいいか悪いか分からないんだけどね」
「でも俺もプログラミングとかしている時は没頭しちゃうけどな。というか、好きなことをしている時なんてそういうものじゃないのか?」
「そうなのかもね、ていうかさ一」
栞は坂を上り切った所で自転車を止め、水分を含む。
「没頭しちゃうほどプログラミング、好きなんじゃん。なんか今までの一の話聞いてたら嫌々プログラミングしてるのかと思った。それきいて安心したよ」
「何だよ、安心って」
「一、沈下橋はもう少しだよ。私に置いてかれないように着いてきてね」
栞は小さく息を吐き、自転車をこぎ始めた。一体、栞は俺に何を伝えたいんだろう。さっきから何か言いたげで、中途半端に会話を切っている。
俺は黙って栞についていく。疲れもたまってきているが、それは栞も同じだ。強気な言葉とは裏腹にペースは徐々に落ち始めている。大丈夫だろうか。だけど俺の心配は杞憂に終わりそうだ。道幅が大きく広がり、観光客のにぎやかな声が耳に届き始めた。
「もうすぐだよ、一!」
栞はラストスパートと言わんばかりに自転車に加速を付ける。それに負けないように、いや、追い越さんばかりに俺はペダルを踏み込んだ。しかし、栞の自転車を追い抜く寸前で栞はブレーキを踏み込む。反応が一瞬遅れた俺は栞よりも前の場所に止まる。
「なんだ、栞も疲れてたんじゃねーか」
「あのね、私はか弱い女の子なの。疲れて当たり前。疲れる男が情けないの」
唇を尖らせながら栞はバリィさんのハンカチで汗を拭く。
「一、行こう?」
「ああ!」
俺と栞はデジカメを持ち、沈下橋へと向かった。
沈下橋は俺が今まで見たことのない橋だった。対岸へと真っ直ぐ繋がっており、人、車、自転車が行き交っているが欄干がないのだ。子供たちは面白がって端の方を歩いているが誰かが悪ふざけでその体を押せば、たちまち川へ落ちてしまう。
「一はここにいて! 私が合図したら写真撮ってね」
栞はデジカメを俺に預け、さっきまでの疲れなどなかったように駆けていく。そして、沈下橋の欄干に足を投げ出すように座ると、こちらにむけてピースを飛ばす。今がその合図の時なんだろう。
俺はデジカメで栞の姿を捉え、頭上で両手で丸を作る。栞はまた元気に駆けて戻ってきてデジカメを覗きこむ。
「うん、バッチリだね! 一もやってきなよ。私が撮ってあげるからさ」
栞の言葉に俺は頷いて、橋を渡る。恐る恐る端っこに近付き、腰を下ろす。足を川の方に投げ出す時には、落下のことが頭をよぎり若干小刻みに足が震えている。栞の方を見ると、栞はデジカメを構えている。そういえば、俺、自然に栞に写真撮ってもらえてるな……。最初はあんなに嫌だったのに。
栞はデジカメを閉まった後にこちらに向かってくる。そして俺のすぐ横に座る。
「どうかな?」
「ああ、いいんじゃないか。だけど自分の写真見るのはやっぱりなんか苦手だ」
「大丈夫! 一かっこよくもないけど、そんなかっこ悪くもないから。自信持って!」
ぐっと親指を突き出してくるが、それは励ましているつもりなんだろうか。嘘でもいいからそこはかっこいいと言ってもらいたい。
「だけど四万十川は本当にきれいで、心が洗われるようだね……。あ、そうだ、一」
栞は何かを思い出したかのように手を叩く。
「四万十川からの飛び込みが人気らしいよ! 一君、レッツトライ!」
「いやいや、俺着替えとか持ってないから!」
「それは押してくれって振りかな?」
栞はニヤニヤ笑いながら俺の背中を押そうとする。
「ちょっと待てって、ストップストップ!」
「……なんて冗談だよ、冗談! あはは、一、本気にしてて……面白い!」
栞は笑っているが、俺は内心本気で突き落とされるんじゃないかと思ってしまった。栞ならやりかねない。でも飛び込みが許されているのであれば、地元の子供たちはここでよく遊んだりするのかもしれない。
「どこのカップルかと思えば、一君と栞ちゃんじゃない」
聞きなれた声に顔を上げるとそこには赤い自転車を押している彩音さんがいた。もはや、遭遇することに疑問さえ覚えない。旅というのはこういう巡り会いなんだ。
「彩音! 昨日ぶりだね」
「二人で並んで腰かけているのを見ると仲直りできたみたいだね」
俺と栞は顔をお互いにばつが悪そうに顔を見合わせる。それと同時に俺と栞の距離が近いことに急に恥ずかしくなってきた。栞は彩音さんの方を振り返り、手をひらひらと振る。
「一がさ、泣きながら謝ってくるもんだから仕方なくって感じかな」
「おい! 泣いてたのは栞の方だろ!」
「あれは奇跡的タイミングで目にゴミが入っただけ!」
「ふふ。もう二人が今まで以上に仲良くなったのは分かったら大丈夫だよ」
子供をあやすかのように微笑んでいる彩音さんの姿に俺は釈然とはしないものの言葉を飲み込む。昨日は関係のない彩音さんまで心配をかけてしまった。きっと彩音さんも本当に心配してくれていたんだろう。
「その自転車を見るに、彩音もサイクリングしてたんだ?」
「うん。観光プランのモデルコースにサイクリングのことも触れてあったからさ。気分転換に最適かなって思ったんだ」
きっと彩音さんの言う観光プランとは"波風プラン"のことだろう。改めて、巡り合わせの数奇な運命には驚嘆する。柚香さんの歩いた跡が今の俺達を結び付けている。いつかは、栞の書いた本もこうして誰かと誰かを結び付けるんだろうか。
「それで気分は吹っ切れた?」
「うん。もう昨日の時点で気持ちの整理はついていたんだけどね。一君と栞ちゃんのお陰でね」
「俺と……栞のですか?」
彩音さんはこくりと頷くが、しかし心当たりは浮かばない。
「まぁまぁお二人さん、そんなことより写真撮りましょうか?」
彩音さんは両手を広げる。デジカメを貸してくれとの事だろうか。俺と栞はそれぞれのデジカメを彩音さんに預ける。彩音さんは一瞬驚いたような顔を浮かべたが、すぐにまた優しそうに微笑んだ。
「じゃあ行くよ、はい、チーズ! ……うん、良く撮れてる」
彩音さんから返ってきた写真を見ると、俺と栞は楽しそうにピースを浮かべていた。
「彩音もうつろ? すいませーん!」
栞は道行く子供連れの人に声をかけ、写真撮影の依頼をしている。ニコニコ笑顔を浮かべながら帰ってくる姿を見るに上手くいったようだ。
「いきますよー、はいチーズ」
カシャッと鳴って収められたのは俺、栞、そして彩音さんの3人で撮った初めての写真。この旅行で初めて会った同士のはずなのに、ずっと昔からの友人のような気さえもしてしまう。
「私この写真大切にする」
「私も! 一君、栞ちゃん、ありがとね」
俺にとってもかけがえのない一枚になるのは間違いない。
「そうだ、彩音! 今日は彩音も一緒に晩御飯食べない? 彩音も高知駅付近のホテルに泊まるんでしょ?」
「ありがたいお誘いだけど、私がいると邪魔になるんじゃない? 大丈夫?」
意味深な視線で俺を見つめてくる彩音さん。彩音さんには俺が栞を好きなことがばれてしまっている。きっと二人の時間を邪魔したくない、といったようなことを考えているんだろう。
「彩音さん、折角だし一緒に食べましょう」
「……うん、分かった。じゃあお邪魔しちゃうね」
渋っていた彩音さんだったが俺が援護射撃を出すと、彩音さんはようやく首を縦に動かした。今、旅行中という特別な時間の中で出会った三人。この機会を逃せば、三人で食事をとることなんてもうないだろう。
「良かったー。私、高知駅の付近で美味しい高知料理出してくれる店に目星付けておいたからそこ行こう?」
「了解! 一回ホテル戻るよね? 荷物置いてからまた集合しよう。栞ちゃん、一君、連絡先教えて?」
彩音さんがズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。俺と栞もつられてスマートフォンを取出し、自分の連絡先情報を引っ張り出す。
「二人ともお揃いのストラップなの?」
目を真ん丸にして驚いている彩音さん。その反応に俺と栞は苦い笑みを漏らす。QRコードを読み取り、彩音さんの連絡先が俺の連絡帳に刻まれる。
「やったじゃん一。珍しく女の子のアドレスが来たって一のスマホも驚いてるよ」
「どういう意味だよ!」
「あはは、ごめんごめん。そういえば、彩音はどこのホテルに泊まるの?」
全く、一遍も自分が悪いとは思ってないな、栞の奴。
「私は高知城前ホテルだよ? 栞ちゃんは?」
「私は如月ってところ」
ホテル如月? その言葉には聞き覚えがある。俺は財布からホテルの宿泊券を取り出す。
「俺も如月ってところなんだけど……」
「え!?」
栞は俺の許可も得ずに宿泊券をぶんどると、ポーチの中から自分の宿泊券を取り出して見比べている。
「……同じだわ」
「ま、まぁ、同じ旅行プランなんだし、こういうこともあるよな……」
「素敵なめぐりあわせだね」
少しドキドキしてしまっている俺。
不満たらたらな栞。
そんな俺らをニコニコ見守る彩音さん。
「まぁ、そんなことを気にしてたら仕方ないわね。じゃあ二人とも! 高知駅向かってまたサイクリングだね!」
栞は勢いよく立ちあがり、ママチャリの元にかけていく。栞が離れていくのを確認して彩音さんは耳元でささやいた。
「チャンス到来だね。栞ちゃんを夜に部屋に招きなよ」
「へ、へ、部屋!?」
「ふふ、耳まで真っ赤になっちゃって。一君、見かけ通りにウブなんだね」
彩音さんは俺の背中を軽く叩き、鼻歌交じりに栞の元へと自転車を走らせる。俺にそんな勇気がないことくらい、彩音さんは知ってるはずなのに。俺は思わず漏れた溜息に嫌気がさしながら、ママチャリを止めた場所まで走った。
*
「一君、栞ちゃん、起きて! 二人が降りる駅だよ」
前の席に座っていた彩音さんの声に頭を揺らされる。あれ、ここ、どこだっけ……。現状を整理しようにも寝起きの頭では中々把握が追い付かない。俺は目を強くこすり、周りを見渡す。しかし、見回すよりも早く、肩にかかる重圧で俺は今の現状を理解することが出来た。
横を見ると、俺の肩にもたれる形で栞がかすかに寝息を立てている。そうだ、確か電車に乗る頃には俺も栞も眠さが限界で、彩音さんが起こしてくれるって言葉を聞いて……安心して眠ったんだっけ。
「おはよう、一君。まどろむのも結構だけど早く栞ちゃんも起こさないと降り過ごしちゃうよ」
気が付けば電車から見える景色も四万十の大自然からコンビニや民家が立ち並ぶ街並みへと変わっていた。一体俺達はどれくらい寝ていたんだろうか。だがそんなことを悠長に考えている場合ではない。栞の寝起きがよろしくないことは昨日桂浜へ移動する時に十分思い知った。
「栞、起きろ」
微かに肩をゆすっては見たものの、栞は全く起きるそぶりを見せなかった。
「ふふ、よっぽど一君の肩がお気に入りの場所なんだね」
彩音さんは他人事のようにクスクス笑っている。全く、彩音さんはいつもそうだ。
「起きろってば、おい、栞!」
さっきよりも強く体を揺すると、栞の体が小さく震えた。よし、これで起きただろうか。
「……なぁに?」
いつものはきはきとした栞の声とは違うとろんとまどろんだ声に心がときめく。
「着いたぞ、栞。降りる準備しないと」
「……ヤダ。もう少し寝てたい」
栞はまた俺の肩に重心を乗せてくる。俺だってもう少しこうしていたい。なんせ、栞に体を預けられているのだ。もう少しこの幸せの重みを堪能していたい。だが、どちらにせよ乗り過ごそうものなら栞に大目玉をくらってしまいそうだ。ここは心を鬼にするしかない。俺は栞の体を栞の席にググッと押し返す。
「ほら、早くしろよ」
俺は栞の分の荷物を棚から取る。栞は不満そうに眼をこすっている。
「もう、一は細かいんだから……。ふわぁ、ねむい」
「ほら、行くぞ」
「もう、分かったよ。しょうがないなぁ」
栞は席から立ち上がり、大きく伸びをする。
「じゃあ二人とも、また後でね」
「うん! 今日は3人で旅の感想をシェアしようね」
俺と栞は彩音さんにひと時の別れを告げ、高知駅で降りた。そして、降りると同時に俺のスマホが短く振動する。栞も同じタイミングでスマホを眺めている。
開いてみると、メールの着信だったようで差出人は彩音さんだった。
「微笑まえしいから取っちゃいました」
その文の下にはお互いに体を預けるようにしている俺と栞のツーショット写真が収められていた。
「あ、彩音めー……。いつの間にこんな写真を……!」
きっと栞にも同じメールが届いているんだろう。ありがとう、彩音さん。俺は心の中で小さく彩音さんにお礼を言った。
「それにしても一はでれでれしちゃってみっともないね、全く」
「寝てる姿からでれでれしてるかなんて分からないだろ」
「何か雰囲気出てるもん、俺、超可愛い女子大生によりかかられてるーって。あぁ、もう、これだからオタクの一君は」
ごろごろとスーツケースを転がしながら栞はさっきの写真に対してぶつぶつと文句を言っている。
「これはゆずビールの一杯でも彩音に奢ってもらわないと困るね」
「あれ爽やかで美味しかった」
「あ、一もしかして昨日の晩御飯で飲んだ? そうそう、高知はゆずが名産品だからさ。味わってもらいたかったんだ。私も今日はゆずビール飲もうっと」
そんな話をしていると俺と栞が予約していたホテル如月が見えてきた。
「へー……結構立派な所だね」
栞の言う通り、ホテル如月は外観も薄いレモン色をしていて、いざホテル内部に踏み入れるとふかふかの絨毯が迎えてくれた。俺と栞がロビーに足を踏み入れると、フロントの人が男女に対してしきりに頭を下げている様子が目に入る。
「何があったんだろうね」
栞は首をかしげるが理由に全く見当つかない。いささか気になった俺は栞よりも先にチェックインを済ませ、聞き耳を立てる。栞も手続きをしながらも、視線は完全にその騒動に向いていた。
「申し訳ございません。こちらの不手際で……」
「謝罪はいいから部屋は何とかならないんですか? 今更ほかの部屋何て取れないですよ」
「あいにく本日はすべて埋まっておりまして……」
「私達に野宿でもしろって言うんですか?」
強い口調でまくしたてて、フロントの人はひたすらに頭を下げ続けている。大体、事の顛末は理解することが出来た。
「そりゃあ、怒るよね。私でも強く言っちゃいそう」
いつの間にか手続きを終えたのか栞は部屋の鍵をくるくる回しながらうんうん頷いている。
「私達の手で他のホテルに部屋の空きがあるか探してみますので……」
そういうとフロントの人が総出で受話器を取り始める。見つかるといいが丁度時期は8月という世間でいう夏休みの時期だ。都合よく秋が見つかるだろうか……。
「栞、栞の経験上こんなことあったか?」
「ううん、初めてのケース。……よし、決めた。一、鍵貸して」
「は?」
「それと一緒に来て」
俺の返事も聞かないまま、栞は俺の手を引き、フロントへと再び歩を進めた。なんだ、栞は何をするつもりなんだ?
「すいません」
「お客様、何でしょう?」
栞はフロントへ俺と栞の鍵を二本差し出した。
「302号室の広瀬一と、501号室の二宮栞。どちらかに二人同室にすることは出来ませんか?」
「は!?」
何を言い出すんだ栞は……! だが、フロントの人も俺以上に驚いているのか困惑の表情を隠せない。
「お客様……それはまた何故……」
「まずはごめんなさい。さっきの皆さんの会話こっそり聞いちゃってました」
栞は苦笑いを浮かべてぺこりと頭を下げる。そんな栞につられたのかさっきまできつい口調でクレームをつけていた男女も小さく頭を下げた。
「私、旅行好きなんです。自分の知らない景色を見て、いろんな人たちに触れあえて、美味しいものに舌鼓を売って思う存分羽を伸ばせる。素敵な思い出です。素敵なまま、旅行を終えてほしいんです。客室が取れなくて最悪だった、なんて思ったまま帰って欲しくないんです、私」
照れたように頬をかく栞の言葉は嘘などではなく、全て本心だろう。大の旅行好きである栞だから、思うところもあるに違いない。
「勿論、私達が取っていた部屋はどっちもシングルで狭くなってしまうと思いますが……」
「いえ、私達はもう泊まれればいいと思ってるので……。そのように言って下さるのであれば……」
申し訳なさそうに栞が目線を送ると、女性はさっきまでとは打って変わって静かな口調で栞に頭を下げる。
「どう……なんでしょうか?」
「……お客様がそう言って下さるのであれば早急に対応致します。少々お待ちくださいませ」
俺はまだ目の前で繰り広げられていることに置き去りにされている。俺と栞が同室って、どういうことだ……? 頭の中にクエスチョンマークが溢れかえるが、事態はどんどん進んでいく。
男女二人が栞の使う予定だった501号室を使うこと。そして俺と栞が302号室を使い、それぞれの部屋に二人分のアメニティを手配すること。そして宿泊料金は無料になることが決まった。
「このたびはご迷惑をおかけしてしまい大変申し訳ございませんでした」
「これからは気を付けてくださいね。それと、本当にありがとうございました」
「いえ、いいんです。旅を楽しんでくださいね」
深々と頭を下げるフロントの人と男女に対し、かなり恥ずかしいようで栞の顔はほのかに赤い。
「でもお二人はどのような関係なんですか? 当初は別々に部屋を取られていたんですよね?」
男の人の方に聞かれ、俺と栞は思わず顔を見合わせる。
「一、私達ってどんな関係なんだっけ」
俺と栞の関係……。何て言ったらいいんだろうか。俺が一方的に栞が好きなだけで恋人関係ではもちろんない。かといって友人という言葉で片付けたくもない。
たまたま巡り会った二人。
栞の夢に惹かれて、俺もやりたいことに気付けた。
好きという気持ちだけじゃなくて、栞の夢にもっと貢献したい。
そんな関係を一言でいうのであれば……。
「……パートナー」
自分でいうのも変だが、この言葉が一番しっくりするように思えた。一瞬場が静まったが、女の人がにっこりほほ笑む。
「素敵な表現をする彼氏さんですね。お二人も旅行を楽しんでくださいね。本当にありがとうございました。お二人のご厚意は忘れません」
男女は最後にもう一度だけ頭を下げてからエレベーターに乗り込んでいった。
「さ、私達も行こうか」
「栞、あの」
「パートナーっていい表現だね。一も物語書いてみれば?」
栞はメモ帳に素早くペンを走らせる。
「でもパートナーだからと言って私に変なことしたらすぐに廊下に引っ張り出すからね。お分かり?」
背筋がぞわっとするような笑みを浮かべる栞に対し、俺は首を縦に動かすしかなかった。
「着替えとかも覗いたら分かってるよね?」
俺はさっきよりも早く首を縦に振る。
「よろしい、じゃあ部屋に行こう!」
これじゃあパートナーというより、主従関係という言葉を使った方が正しかったのかもしれないな。鼻歌交じりの栞の姿を見て、俺はひそかにそう思ってしまった。
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