6.旅の夜に告げる想いがあります
「あはは、そんな面白いことがあったんだね」
彩音さんはゆずサワーをぐいっと一口で仰ぐと大きな声で笑う。高知駅で彩音さんと合流した後、栞の案内で入ったお店は少しにぎやかだったが、そのにぎやかさが各テーブルの雰囲気に色を添えていた。
「初めての一人旅でまさか女の子と二人で同じ部屋に泊まるなんて滅多に体験できることじゃないよ、一君」
「彩音、一にとっては女の子と話すことが滅多にないことだから」
隣に座る栞は俺の肩をゆする。言い返すべきなんだろうが核心をついているので俺はただただ目の前の料理に箸を伸ばすことしかできない。
「一君、本当に女の子と付き合ったことないの?」
「……ないですけど」
「好きな人が出来たとかはあるよね?」
彩音さんに聞かれ、箸が止まる。好きな人……か。今俺の横にいる栞を除けば、今まで"好き"という気持ちを自覚したことはないかもしれない。あったとしても、ちょっといいなと思った程度だ。
「一は零ちゃんが好きな人、じゃないの?」
「流石に二次元と三次元の区別くらいは出来る!」
茶化したように笑う栞に俺は憤慨する。しかも好きな人にそんなことを言われようなら少しへこんでしまう。
「でも好きなタイプは零って香川のうどん屋で言ってたよね?」
「え、零ちゃんなんだ?」
彩音は訝しげに栞を見つめる。
「そうそう。その時まだ一のこと全然知らなかったから本当にこのオタク気持ち悪いって思っちゃった」
きっと彩音さんは不思議に思っているだろう。何せ、黒い長髪で物怖じしがちな清楚な零と短い茶髪の明るく社交的な栞は全く別のタイプだ。
「というかさ、彩音も零知ってるんだね? 一に吹き込まれた?」
「私の彼氏も零ちゃんのこと好きでさ。私もそのアニメを見ている内に好きになったんだよ」
「ふーん……。そういえば彩音、彼氏とどうなったの?」
栞が急かすようにゆずサワーのグラスを左右に揺らす。昨日の桂浜のコイバナで彩音さんも彼氏のことで悩んでいると打ち明けてくれていた。栞も道後温泉で聞いていたんだろう。
「そうだね、二人にはきちんと話さないとね」
彩音さんは右手を上げて店員さんを呼ぶと三人分のゆずサワーを注文する。運ばれてきたのを待ってから、彩音さんは口を開いた。
「まずね。なんかムカついちゃってさ。なんで私一人だけこんなに悩んでるんだろうって。実は私と離れることになってもへっちゃらなんだって思ったんだ。だから昨日電話して聞いてみたんだ。実の気持ち」
「お、行動に移したんだね。やるじゃん彩音」
栞は彩音さんの髪をわしわしと撫でる。彩音さんが年上なのにも関わらず呼び捨てにするし、まるで同年代の友人に語りかけているようだ。
「栞ちゃんと一君のお陰だよ。栞ちゃんの恋愛観は勿論、二人の距離感をみてさ、思い出したの。私と実は恋人同士で最初の内はいろいろ話し合ってたこと」
「うんうん、それでそれで? あ、一、これ注文しておいて」
栞はメニューに載っている品を指差し、彩音さんの言葉をつつく。栞の細い指が示した先に踊っているメニューに俺は驚いた。
「え……ウツボ!?」
「もう一、せっかくいいところなのに素っ頓狂な声上げないでよ」
栞に一喝されるが、それは無理な話だ。なんせ、栞が望んだメニューはウツボのたたきだったからだ。ウツボというとどうしてもぬめぬめであり、細長くて気持ち悪いという先入観がある。しかしそれと同時に好奇心もあったので俺は店員さんを呼んでウツボのたたきを注文した。
「ウツボなんて楽しみだね。でね、実に電話してさ、開口一番ぶつけたの。実は私と離れることになんの悲しみも覚えないの? 私は寂しいって……本気で悩んでるって伝えたんだ。そしたらさ、思いもよらない言葉が返ってきたんだ」
彩音さんはゆずサワーを一口含む。流石にアルコールが回ってきたのか頬はほのかに紅くなり始めてきている。
「俺も寂しいよって、実はそう言ってくれたの」
おおっと、小さな歓声を上げているのは勿論栞だ。どうも栞は人の話に人一倍入り込んでしまうらしい。話の続きを聞きたくて仕方ないのか、瞳の奥はキラキラとしている。
「それは勿論、寂しいに決まってる。俺はどこに行っても彩音とは恋愛関係でいたいと思ってる。だけど、俺の存在が頭にちらつく程度で彩音のしたい仕事が出来ない何て選択させたくない。彩音は彩音の人生を歩んでほしい。歩いた先に俺がいればそれでいい。二人で違った道を歩いていても、道はいずれ交わるものだろ。だから、大丈夫……だったかな?」
長い言葉を詰まることなく紡いだことからも彩音さんの心情は感じ取ることが出来る。きっと、嬉しくてたまらないだろう。そして、恥ずかしかったんだろう。彩音さんの顔はお酒を言い訳に出来ない程に赤く染まっていた。
「凄い……。小説のフレーズに出てきそうな……ううん、出てきたら目を覆いたくなるようなクサさ……それでもって幸せの言葉だね」
「うん……。その言葉で私、決めたんだ。内定頂いた会社で働こうって。遠距離になるのは勿論寂しいけど、振り返れば、二人で歩んだ軌跡がある。それが何よりの支えになるんだって」
遠くの彼氏の影響を受けたのか、彩音さんも文学的な表現で自分の思いを語る。
「きっと彩音と実さんは素敵な道のりを歩んできたんだね。実さんの言葉や彩音の話す仕草の節々からそれが伝わってきてちょっぴり羨ましいや」
「羨ましいって……そう言う栞ちゃんはどうなの?」
「え、私?」
不意に話を切り返された栞は戸惑いの声を挙げた。それと同時に俺の胸も高鳴った。昨日の浜辺で彼氏と何やら揉めていたことは知っている。だが、結局どうなったのかは教えてはくれなかった。
「そうそう。昨日、桂浜でもめてたじゃない? 凄い心配でさ。私が話した代わりに栞ちゃんのことも教えて欲しいな」
栞は俺の方に視線を流す。話すのを躊躇っている。栞の様子からは容易にくみ取ることが出来た。だが、俺としてもどうしても聞きたい話だった。
「お待たせしました。こちらウツボのたたきでございます」
少しの間続いた不穏な沈黙を店員さんが破る。
「うわ! これ本当にあのウツボなの?」
栞だけではなく俺達皆が驚いた。いつも海底をうねるように泳いでいる姿ではなく、ほんのりピンク色に色づいた弾力のありそうなたたきだ。これがウツボだとはにわかには信じがたい。栞はデジカメを取り出すと同時にウツボのたたきに箸を伸ばす。しかし、彩音さんがその皿を両手で持ち、自分の胸に引き寄せた。
「なにするの、彩音!」
「話してくれないと、あげないよ?」
ニコニコしながら栞を見る彩音さん。両者はしばらく見つめあっていたが、先に音を上げたのは栞の方だった。
「……彩音の思うつぼって訳ね。分かった、話すわ」
無意識のうちに飛び出た洒落とため息をつく栞の姿をみて彩音さんが満足そうにウツボのたたきを机の中心に戻した。
「本当は明日、東京駅に帰ったら正樹……元彼なんだけどさ。正樹と会って話すつもりだったんだ。もう会う気はないってさ。でもきっと、流されちゃうんだろうな、なぁなぁの関係が続いていくんじゃないかなって、思ってたんだ」
俺が旅行中に見てきた栞の様子とは正反対の態度に俺は驚く。栞のことだから、関係を続けるにしても断つにしてもはっきり言うものだと思っていたからだ。
「だけどさ、私、気付かされたことがあったの。横にいるオタクのさ、『男も夢も中途半端』って言葉。最初はカッとなって引っぱたいちゃったけど、何も言い返せない自分もいたの。それが悔しくてさ。だから昨日の深夜に電話した」
栞はそこで言葉を切る。一体、栞は何を電話したんだろう。想像が想像を紐付け、胸は締め付けられるように痛かった。早く、次の言葉が欲しい。だけど、栞は中々次の言葉を発しない。
「な、なんて電話したんだよ」
自分のもどかしさに耐え切れずに口火を切ったが、その反応を待っていたかのように栞はニヤニヤと笑う。
「ふーん。私の恋愛事情がそんなに気になるんだ?」
「し、栞が中々話さないからだろ!」
「そうねぇ……じゃあ」
栞は指でウツボのたたきを指差すと、自分の唇にそのまま指を当てた。
「食べさせてくれたら教えてあげる」
「は、はぁ!?」
何を言っているんだ、栞は!? もしかして、俺の箸で栞にこのウツボを食べさせるって言うのか……? 考えただけで体が一瞬で熱くなる。出来るわけがない。
「食べさせてくれないと、話してあーげない」
ぺろっと舌を出す栞は反則的に可愛い。俺をからかっていて、栞に上手く掌の上で転がされているのは分かっている。分かっているけど……逆らえない。それに、栞の話の内容も気になるのも事実だ。
「い、一回だけだからな」
「ふふ、早く早く!」
俺は箸をウツボのたたきを箸でつまむ。自分で見ていても情けないほどに箸は震えている。彩音さんは気が付けば、カメラを構えている。
「彩音さん! 何をしてるんですか!」
「一君、ちゃんと『あーん』って言うんだよ?」
栞はじーっと俺の箸を見つめている。震える箸先で栞の口元にウツボのたたきを運んでも、栞の唇は固く結ばれたままだ。こじ開けるには、彩音さんがはしゃいでいるように、あの言葉を言わなければいけないだろう。
俺は覚悟を決めた。
「栞、あ、あーん……」
体の底から絞り出した小さな声。それが俺の限界だった。栞もクスッと小さく笑い口を開けるとウツボのたたきを口に含んだ。
「うわっ! なにこれ! 口の中に吸い付いてくる触感! だけどなんか美味しい!」
栞は目を大きく目を見開いてウツボに関しての感想を述べる。俺がしたことに対しての感想はないのかよ。
「勿論、一が食べさせてくれたお蔭かもね。ありがとう」
俺の心を見透かしているかのような絶妙なタイミングに俺の心臓は白旗を振り回す。結局俺はいつまでたっても、栞の思うつぼなのかもしれない。俺は重圧から解放された安心感を溜息と一緒に吐き出した。
「一、ご褒美あげる」
気が付けば栞は箸でウツボのたたきをつまんでいる。まさか、ご褒美というのはさっき俺がした行為のことを指しているのだろうか。
「いや、俺はいいから! それよりさっきの話の続きをしてくれよ」
栞が俺に食べさせてくれる……。その図を想像すると俺が栞に食べさせた時よりも恥ずかしい。俺は全力で否定する。
「……そっか、私じゃ駄目なのかな? 渡すのが彩音だったら食べてくれるのかな……」
しおらしく落ち込んでいてもそれが演技だというのは見え透いている。だが、頭でわかっていても心が惑わされている。気が付けば、俺の口は小さく開いていた。
「いい子だね」
栞の箸からウツボのたたきが俺の口の中に運ばれる。噛みしめてみると確かにウツボのたたきは不思議な食感をしていた。だが、栞が俺にものを食べさせたという行為の衝撃が強く、俺は味そのものを理解するのに時間がかかってしまった。
「二人ともすっかりラブラブだね」
「彩音、違うってば。言うならばこれはペットとのスキンシップだよ」
栞はどきどきしたりしないのだろうか。こういうことに慣れているのだろうか。それとも本当に俺のことはペットにしか思ってないのだろうか。負の方向に考えは進んでいき、螺旋をかたどっていく。だけど今は、それでもいいと思うしかない。それで……いいのだろうか。知りたい。栞は俺のことをどう思っているのかを俺は望んでいることに気が付いた。横目で栞を見ると、栞はニッと微笑んだ。
「昨日、正樹にはっきり伝えたの。
『もう会う気はない。しばらく夢に生きてみる』ってさ。元々、夢を笑われたことで気持ちが冷めちゃったからさ。それでも食い下がってくるから私の未来を、夢を電話越しに延々と語ってあげたの。正樹もそこで気が付いたみたいだね。私の夢への想いと信念にさ。その後は深く追及されることもなかった。応援するって、最後に一言くれて電話は終わったよ」
正樹との関係に終止符を打つ。それが栞の下した決断。栞のことが好きな俺からすれば、喜ぶべきことなんだろうが、素直に俺は喜べなかった。
「じゃあ栞ちゃんは自分の夢が叶うまで彼氏を作らない感じなのかな?」
俺が聞きたかったことを彩音さんが聞いてくれる。
「私は、そのつもり。今からじゃ遅いかもしれないけどさ。一生懸命夢に向かって努力していこうって決意したの。それなのに彼氏とか作って遊んでいるのって駄目じゃない? 自分が納得いく結果が出るまで私は夢に恋する女の子でいようと思う」
栞の回答に俺はがくっと肩を落としたくなる。今栞は"彼氏を作る気はない"とはっきり宣言した。それでは俺のこの栞を好きな気持ちも無駄になるのではないか。
「……そういえば栞ちゃんの夢って聞いてなかった」
「彩音にも話してあげる。私の夢はね、小説家になることなの。あのね……」
栞は彩音さんに自分の夢を語る。その堂々とした姿には依然、俺に小説家になりたいことをおずおずと打ち明けた姿は微塵もなかった。語っている横顔にも自信が増し、その瞳は宝石のように輝いている。恋愛小説を書いていることに恥ずかしがっていた栞はもういない。皮肉にも俺が好きな栞の夢を語る顔から、その覚悟が本物であることを悟ってしまった。
彩音さんも栞の夢を茶化すことなく、微笑みながら聞いている。
「素敵な夢だね。栞ちゃん、私よりも何倍もしっかりしてる。まだ若いんだから可能性何て無限に広がってるもんね。私も栞ちゃんを応援する」
「彩音、ありがとう。もし私の本が出版されたら10冊くらい送り付けてあげるからね」
栞と彩音さんは笑い、俺もつられて笑う。だけど心の底から笑うことなんてできない。俺の気持ちはどこにぶつければいいんだ。栞を好きだという気持ちをどうすればいいのか分からない。
「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくるね。一、どいてどいて」
栞は俺がどく前に、不躾に俺の前を遠慮なく横切る。おぼつかない足取りでトイレに向かう栞の後ろ姿を俺はおぼろげに見つめる。心なしかその背中が遠く感じた。
「そんな分かりやすい程に落ち込んじゃって」
彩音さんは柔らかく俺に微笑んでくれる。全部見透かされている。涙腺が刺激され、涙がこみ上げて来そうだったが俺はぐっとこらえる。
「彩音さん、俺はどうすればいいんですか……」
「一君の思うままに動けばいいんじゃないかな?」
「でも栞が……」
額に軽く衝撃が走った。彩音さんが俺の額を人差し指で弾いたのだ。
「昨日も言ったぞ。栞ちゃんじゃない。自分の気持ちと向き合うんだって」
「……向き合って出した結果、無理だと分かっていても気持ちを伝えて何の意味があるんですか?」
「決着がつくんだよ。自分の気持ちに。さっきの栞ちゃんの顔、一君になら分かってるよね?」
彩音さんの言葉に俺は頷く。恋人との別れをすませ、夢を惜しげもなく語る栞の横顔。恋と夢に決着をつけた栞は本当に楽しそうに、夢を語っていた。聞いている側が引きずり込まれてしまいそうだった。
「私だってそうだよ。実の関係に答えを出すことが出来た。一君、栞ちゃんの話を聞いてばっかりでしょ。今度は一君のこと、話してあげなよ」
「俺のこと……ですか?」
「一君は否定するかもしれないけど、今の栞ちゃんを引き出したのは紛れもなく一君だよ。だから、今度は栞ちゃんに引き出してもらいなよ。部屋も一緒なんだから、誰にも邪魔されずに二人で話せるじゃん」
彩音さんの言葉に素直に頷けない。栞が夢に自信を持つことになったのは結局は栞の力だ。俺は何もしていない。ただ話を聞くだけで、おまけに栞のことを傷つけて……。
「二人の旅路はまだ終わりじゃない、そんな気がする」
その時、携帯が小刻みに振動した。確認すると彩音さんからのメールの着信だ。メールには写真が付いていて、それは俺が栞にウツボを食べている写真。今見ても顏から火が出そうになるほど恥ずかしい。その写真を見ている際にもう一通、メールが届く。今度は、栞が俺にウツボを食べさせている写真だ。
「恥ずかしがっているのは一君だけじゃないよ」
そう言われ、俺は写真の中の栞をみつめる。最中は気が付かなかったが、栞の顔もアルコールの火照りという理由だけでは納得できない程顔が赤かった。
「……俺だけじゃなかったんですね」
「うん。栞ちゃんだって普通の女の子だからね」
俺だけじゃない。ただそれだけなのに、幾分気が楽になった。俺と同じだった。それだけなのに、なんだか嬉しい。理由は分からない。いや、分からなくていい。
「ちょっと彩音! この写真は何よ!!」
呂律が回り切っていない栞の声が聞こえてくる。顔を上げてみると写真よりも顔が赤い。俺はたまらず吹き出した。
「なに笑ってるのよ! 一!」
「顔真っ赤だなって」
「もう! お酒飲み過ぎただけだから! もう行くよ! 彩音、お会計!」
「はいはい」
栞はまだ写真を見ながらぶつぶつ文句を言っている。栞、照れているんだろうな。噛みつかれるのが怖いので口には出さないがそうに違いない。さっきは遠く感じた栞の存在は案外近くにいるのかもしれない。
お会計を支払いお店を出ると、外はすっかり暗くなっており、生暖かい風が肌を撫でる。
「二人は明日も一緒に回るの?」
彩音さんに言われ、俺と栞は顔を見合わせる。そういえばまだ明日のプランのことを話してはいなかった。
「一はどうしたい?」
「一緒に回りたい」
初日の愛媛の居酒屋では恥ずかしくて言えなかった言葉が今はすんなりと飛び出してくる。
「私と? それとも彩音と?」
「なんで彩音さんが出てくるんだよ、栞とに決まってるだろ」
「酷いよ一君……。私のことなんて何とも思ってないんだね」
「いや……そういうことじゃなくて……」
俺は慌てて否定する。しかしその姿が滑稽に見えたのか彩音さんと栞は声を出して笑い出した。
「あはは、一、本気にしちゃって面白い」
「大丈夫だよ一君、二人の邪魔はしないから。それに明日は実がこっちに来るみたいなんだ。だから、もう、二人とはお別れかな」
さらっと言われた言葉に栞の笑い声はピタッと止まる。
「え?」
「今日二人と食事が出来て良かった。ううん……。この旅行で巡り会えてよかった。本当にありがとう」
大げさに頭を下げる彩音さん。お礼を言いたいのは俺の方だ。俺の煮えきらない気持ちを急かすことなく聞いてくれた。そのお陰で栞を想う気持ちに向き合うことが出来た。
「彩音さん、こちらこそありが……」
「彩音ぇ!」
俺が言い切る前に栞は彩音さんに飛び込んでいった。彩音さんはその行動に面食らっていたがすぐにいつもの柔らかな笑顔を浮かべ、妹をあやす姉のように栞の茶色の髪を撫でた。
「永遠の別れ、ってわけじゃないんだから」
「また三人で、ご飯食べようね。私も福岡に遊びに行くから!」
「うん、待ってる。三人とも自分の道を歩んでいたらきっとまた私達は巡り会える」
二人は最後に強く抱きしめあって、離れる。
「一君も来る?」
彩音さんは俺に向かって両手を広げる。
「俺は大丈夫です。彩音さんからは色々学びましたから」
「ふふ、そうだね。落ち着いたらいろいろ聞かせて? 一君、本当にありがとう」
「じゃあ行くね。二人とも、またね!」
最後の最後に、"またね"という言葉を選んでくれたことが何より嬉しい。
「またね! 彩音!」
「彩音さん、また会いましょう!」
彩音さんは大きく手を振って俺達に背を向けた。俺と栞は彩音さんの後ろ姿を最後まで見送る。
「……行っちゃったね」
「ああ」
「シンボルタワーで会った時にはさ、まさかここまで仲良くなれるなんて思ってなかったよね」
あの時、少しでもシンボルタワーのエレベーターに乗るのが遅かったら。彩音さんがエレベーターに乗るのを諦めてしまっていたら。いや、そもそも栞と出会わなければ、俺はシンボルタワー自体に向かわなかった。
少しでもタイミングがずれていたらと考えるときりがない。
「旅先で素敵な友人が出来たね」
「ああ」
出会えた事実を素直に喜びたい。今は、それでいい。
「一、私達も帰ろう」
栞は自然に左手を差し出す。俺も当たり前のようにその左手を握り返した。
「なんだか慣れてきたね」
「そうか?」
「そうだよ、一、なんか変わったね」
俺は変わったのだろうか。自分自身にはそれが分からない。
「……明日もよろしくね。最終日、思いきり楽しもう」
最終日という言葉がたまらなく嫌だった。どうして楽しい時間はあっという間に流れていってしまうんだろう。今まで思いもしなかったことなのに、今になってセンチメンタルな気分になってしまう。
アルコールが入っていたこともあり、ゆっくりと夜道を歩いたせいもあってか俺達が泊まる302号室についたころには既に23時を回っていた。
「一、先にシャワー浴びていい?」
「え、ああ……」
栞は俺より一回り大きいスーツケースを開く。
「ちょっと、下着の準備とかもあるんだからこっち見ないでよ。もう、デリカシーないんだから」
虫を追い払うように手を払う栞。俺は慌てて栞に背中を向けたが、何せさっきからシャワーだの下着だの俺には刺激が強すぎる言葉がいくつも聞こえてくる。その恥ずかしさからも背を向けたかった。
「じゃあ入ってくるね」
「ああ」
どうしても生返事になってしまう。今、浴室では栞が服を脱いでいる。想像してはいけないことだけど、つい頭をよぎってしまう。俺は頬を叩いて煩悩を追い出す。しかし、すぐにシャワーの音が聞こえてくる。今、栞は裸で体にシャワーの飛沫を弾かせている。もう一種の生殺し状態だ。
何かをしていないと気が気ではない。俺はデジカメを取り出してこの旅行期間中に撮った写真の数を振り返ることにした。初日の香川県で撮った写真では、シンボルタワーから見た瀬戸内海の風景が収められている。そういえば、この時に栞と初めてツーショットを撮ったんだっけか……。あの時は恥ずかしくて、二人の間に大きく隙間を開けていた気がする。
その隙間は桂浜、四万十川、帰りの特急と写真を追うごとに徐々に埋まっていっている。これが、栞の言う俺の変化なのだろうか。だけど不思議なものだ。まだ、栞と初めて会って三日。その三日で、こんなにも栞に惹かれていて、明日やってくる別れの時間が来るのが怖い。
『またね』
不意に、彩音さんとの別れを思い出して、泣きそうになる。そうだ。始まりがあれば、終わりも当然ある。この二人の旅行も終着点は必ずあるのだ。もう時間はあまりない。俺は決意を固める。彩音さんも言っていた。同じ客室に止まっていて、他に邪魔は入らない。絶好のシチュエーションじゃないか。
……ぶつけてみよう、俺の想いを。
「お待たせー」
振り向くと栞は水色のTシャツ一枚に黒いズボンを履いていた。非常にラフな格好に火照った頬、濡れた髪が何ともいえない魅力を醸し出していた。ほのかに甘い香りが漂ってくる。その姿は、道後温泉で見た姿よりも数倍も可愛く見えた。
「そんなじろじろ見ないでよ。やらしいんだから。さ、私は今から髪乾かすから一もシャワー浴びて来ちゃいなよ」
「じ、じろじろなんか見てない!」
俺はスーツケースから着替えを取り出して俺は逃げるように浴室へと向かった。汗がしみ込んだ服を脱ぎ、戸を開けるとさっきまで栞がシャワーを浴びていたのもあり、蒸気がむわっと俺の体を包む。蒸気に混じり、先程栞が漂わせていた甘い香りも俺の鼻孔をつき、なんだかこそばゆい気持ちになる。
シャワーを浴びていても、浴びていなくても俺の心を惑わせるなんてはた迷惑な奴だ、栞は。女の子の後に使うシャワーは普段家で使うシャワーとは違い、緊張してしまう。お湯には浸からずに入念にシャワーで一日の疲れと汗を流し終わった俺はいつもより早くシャワーを終えた。
タオルで髪を拭きながら部屋に戻ると、栞はベッドの上でだらしなく寝ころんでいた。お腹がちらりと見えていたので俺は慌てて目を逸らした。
「一、ベッドと床で寝るのどっちがいい?」
「俺が床で寝るからいいよ」
「じゃあちょっと待ってて、寝床作ってあげる」
ベッドの弾力を使って体を起こすと、栞はフロントから借りた多めのアメニティからバスタオルを取出し、床に敷く。枕もブランケットもあるので寝れなくはなさそうだ。
「……ごめんね一」
「な、なんだよ急に」
「私が勝手に一つの部屋に二人で泊まるなんて提案しちゃったから一が床に寝る羽目になっちゃってさ。別に気を遣わなくても、私が床で寝るから大丈夫だよ?」
伏し目がちに話す栞は責任を感じてしまっているのかもしれない。
「栞一人で決めたことじゃない。俺もその提案に乗ったんだから気にしなくていいよ」
「……ごめんね、ありがとう。後、もう一つ謝ることがあってね」
「こ、今度はなんだよ」
栞はピンクの鞄からお馴染みのしおりを取り出して後ろの方のページを開く。旅が終わりに向かっている現実を突きつけられているような気がしてやるせない気持ちになる。
「明日は4時30分起きだけど大丈夫?」
「よ、4時30分!?」
普段起きることのない時間帯を告げられて俺は驚いてしまった。
「折角四国に来てるんだし、どうせなら四県制覇したいじゃない? 波風プランの説明受ける時に言われなかった? 4県回るには最終日は早起きですって」
俺は旅行代理店に行った日のことを思い返す。あの日は、ただ四国に行きたいとしか考えておらず、お姉さんの提示してくれたプランにただただ頷いていただけだったような気さえしてしまう。
「一の持ってきてた雑誌ちょっと貸して」
栞に手渡すと、栞は雑誌の後ろに付いていた四国全域の地図を取り出す。
「高知から徳島って結構遠いのよ。特急の本数も少ないしね。だから5時30分の特急に乗ったとしても徳島に着くのは10時過ぎ。そして帰りのことも考えると、徳島に滞在していられるのは15時まで。駆け足の旅になっちゃうわね」
「ちなみに徳島の見どころってなんだ?」
「鳴門の渦の道から観れる渦潮とか徳島ラーメン……後は祖谷(いや)の温泉とか阿波藍の工芸品とか……。自然に工芸にいろいろ楽しめる県よ」
そう言いながら栞は俺が買っただけで満足していた雑誌の徳島のページを開く。そこには今栞が説明してくれた情報が詳細に記されていた。
「一さぁ……私と会わなかったら四国でのたれ死んでたんじゃないの」
呆れ返っている栞に返す言葉も見つからない。全く持ってその通りだからだ。
「まぁ、明日は渦潮見ようか。私も見たことないし。一はそれでいい?」
「ああ、じゃあ今日は早く寝ないとな」
「サイクリングもして疲れてるしよく寝れそうだね。私先に歯磨きしてきちゃってもいい?」
栞は小さく欠伸を漏らしながら洗面台へと向かっていく。お酒も入っているので眠そうだ。早起きするのにはちょうどいい眠気だろう。
「じゃあ電気消すね」
パチッという乾いた音を合図に部屋は暗い闇に包まれる。俺は栞が作ってくれた簡易寝床に身を沈める。ベッドほど柔らかくないが、思ったよりも床の硬さも感じないので、十分寝付けそうだ。
カチッ、カチッ……。時計の音がやけに耳にこびりつく。体は疲れ切っているはずなのに、目は不思議と冴えている。すぐ横のベットには栞が眠っている。その事実が緊張状態をもたらしているんだろうか。
想いをぶつける。
先程、この部屋で固めた決意は早くも揺らぐ。いつ、ぶつければいいんだろうか。彩音さんは二人きりになれる今が絶好のチャンスだと言っていた。俺もそう思っていた。だが、口火を切ることが出来ない。
大体、今想いをぶつけたとして二人の関係は気まずくならないだろうか。何せ明日も俺と栞は徳島を観光するのだ。いや、その場合、二人で回るということさえもないのだろう。なら、言わないでもいいのではないか。でも、そうしたら俺の気持ちは永遠に伝える機会をなくしてしまう……でも……。
一人で完結する自問自答が渦を成していく。明日見に行く渦潮もこんなにきれいな渦を描いているんだろうか。そんなバカげたことを考えていた時だった。
「一、起きてる?」
ベッドの上の栞から声がかかった。
「起きてる」
「なんだか眠れない。明日は早起きしなくちゃいけないのに」
栞も俺と同じで眠れないでいる。同じであるという状態がなんだか嬉しかった。
「そっちの場所、辛くない?」
「大丈夫」
「そっか……ねぇ、一」
栞の言葉は不自然に切れる。俺は栞の次の言葉を待ったが中々栞の声を聞こえて来ない。もしかして、眠ってしまったのだろうか。そんなことを考えてしまう程、沈黙は続く。
「なんだよ、栞」
俺は痺れを切らして言葉を急かす。
「私のベッドで寝る?」
「またその話かよ。俺はこっちでいいって言ってるだろう」
栞の善意は嬉しいが、女の子を床で寝かすわけにはいかないことは恋愛経験0の俺でも流石に分かるし、思ったよりもこの簡易寝床も悪くはないのだ。
「ばか。違うよ」
「は?」
「こっち来て一緒にベッドで寝ないかって言ってんの」
頭の中が真っ白になった。栞と一緒に……寝る? 元々シングル用の部屋で大きくはないベッドの上で俺と栞が一緒に寝るなんてことになったら……きっと俺は自分の心臓の鼓動で朝まで眠れない。
「返事は?」
「えっと、その……」
「男ならはっきり言いなさいよ」
栞は何を思って俺を招いているのだろうか。でも、これはチャンスかもしれない。凄い緊張して何も話せないかもしれないけど、栞のすぐ近くに行くことが出来る。
「じゃあ、そっち行く」
「私に少しでも触れたら蹴落とすからね」
俺は簡易寝床から身を起こし、栞のベッドに近付いた。
俺は栞と背中合わせになるようにベッドに入った。流石に向き合う勇気もないし、向き合おうものなら栞に蹴飛ばされてしまうだろう。それでも振り向けば、すぐ後ろに栞がいる状況に理解が追い付いていかない。
「やっぱり変わったね、一。出会った当初の一ならきっとどもったまま床で寝てたままだったと思うよ」
「……狭くなっちゃったな」
「うん。ホント窮屈。でも、こっちの方がいいや」
クスッと栞は笑う。栞はなぜ俺をベッドに招いたのだろう。その真意がつかめない。でもこれは栞に想いを伝える絶好のチャンスだ。いけ、いくんだ……俺! 必死に自分を奮い立たせるが中々言葉が形にならない。
「ねぇ、一。今回の一人旅さ、二人旅になっちゃったけど楽しかった?」
少しの間続いていた沈黙を破ったのは栞の方だった。いつも俺は栞に先手を取られてしまう。本当に情けない。
「凄く楽しかった。忘れられない旅になると思う」
「また、一人でどこかに旅行したい?」
「旅行したいな。だけど今回は栞に全部任せきりにさせちゃったし、自分一人だけで今回みたいな旅が出来るか不安だな」
栞が手綱で俺を引っ張るように今回の旅行をリードしてくれていた。きっと俺一人だったら、それぞれの県の魅力を堪能できないままただなんとなく県を通過していただろう。旅行を楽しんだという感想ではなく、旅行に行ったという事実だけが空しく残っただろう。
「一、旅は一回一回違う楽しみや出会いがあるんだよ。今回の旅は、今回しか出来ないんだよ。だから不安がらなくても大丈夫。きっと別の楽しみが一を待ってるよ」
それでも今回、旅を楽しめたのは紛れもなく栞のお陰だ。次の旅行で別の楽しみを探ろうにも栞はもういない。そうだ……なにを迷っていたんだろう。揺らいでいたんだろう。
栞に想いを伝えるということは、今回の旅行でしか出来ない。
「栞」
「なぁに?」
心臓の音が高鳴る。背中越しの栞に聞こえてしまわないか心配だ。
「やっぱり俺は不安だ」
「もう、そんな新しい一歩を踏み出すことに不安ばかりしていたらどこにも行けないし、世界は広がらないんだよ」
「……だって栞はいないじゃないか」
「一?」
確かに今回の旅行が楽しかったのは、栞が色々な観光地を案内してくれたからだ。でもそれが本質的な理由ではない。全部が新鮮だった。
ツーショットを撮ったのも。
間接キスをしたのも。
手を繋いだのも。
ケンカをして、仲直りをしたのも。
色々な気持ちを栞からもらった。今度は、俺の方から伝えたい。
スッと気持ちは固まっていく。
「好きな子と旅行できたから、俺は今回楽しめたんだ。
でも次の旅にはその子はいない。
楽しそうに自分の夢を語るその子はもういないんだ。
だから、楽しめるかどうか、心配なんだ」
ドラマみたいに、だが、相手の目を見て好きだなんていうことは出来ない。背中越しの相手に、遠まわしではあるが、俺の想いは何とか打ち明けることが出来た。だが、栞は一言も話さない。やっぱり伝えない方が良かったのだろうか。
「夢を語る姿って素敵だよね。私も人が夢を語ってる姿を見るの好きだよ」
栞はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「覚えてる? 香川県でさ、ざるうどん食べた時のこと。確か好きなタイプの話になったんだよね。一は零みたいな女の子って言ってたよね」
「……栞がそう言ったんだろ」
「だって見え見えだったんだもん。その時、私の好きなタイプ言ってなかったよね? 丁度ざるうどんが運ばれてきたから」
そう言えばそうだった。結局ざるうどんに興味の対象が移り、もう好きなタイプの話に軌道を修正することは俺の話術では無理な話だった。
「私の好きなタイプはね。私の話をずっと聞いてくれる人。そして、人の夢を笑わないでいてくれる人」
「……栞は人と話すの好きそうだもんな」
「誰かさんにはじゃじゃ馬みたいって言われたこともあったね」
「いや、あれは……その……他にいい表現が思い浮かばなくて……」
突き放すような言い方に俺は焦る。あの時栞のメモに勝手に書き込んだことをまだ根に持っているのだろうか。
「あれさ、よりによって一番最後のページに書いてあったよね。じゃあそこに書いてあった詩も読んだ?」
「詩?」
「"零れ落ちた星の砂
イタズラな風に吹かれ夜に舞う
憧れていた夜空に
もう帰れない"」
栞が詠んでくれたお蔭で俺は思い出した。栞のメモ帳にはセリフやアイデアなどがまとまりなく書き綴られている。その中で、一番最後のページに書かれていたこの詩は極めて異質だった。
「正樹に夢を笑われた時に書いた詩なんだ、これ」
夢を……笑われた。そうか、何となくこの詩に込められた意味が見えてくる。星の砂が夢、イタズラな風がきっと元彼の言葉だろう。
「あの時は……堪えたなぁ。小説家になるっていう夢自体がぐらついちゃったからさ。けなすでもなく、諭すでもなく、笑うって言う行為に一番傷ついたの、私。でも……私はまた、夜空に輝くことが出来た。誰かさんがまた、風を吹いてくれたから」
「俺は何もしてない。それは栞自身が……」
「だからこそ歯がゆいの。その誰かさんは自分の夢が分からない何て言ってるから! もう手が届くところまでいってるのに!」
栞の口調は熱くなっていく。だけど当事者である俺には全く分からない。夢ってなんだ。俺は夢をもって、その夢を恥ずかしげもなく語る栞が好きでもあり、心底羨ましかった。だけど俺自身には夢は見つかっていない。それなのに、栞はもう手が届くところにあると言っている。何故、俺に分からない夢が栞には分かるんだろう。
「サイクリングの時に話してくれたこと忘れちゃったの? 私の為に作ってくれるって言ったじゃん」
栞に言われるまでもない。俺自身がやりたいと言い出したことだ。
「小説を書くことに特化したツールだろ? 俺が栞への恩返しに……」
「違う!」
部屋を包む暗闇を裂くように栞の声が小さな部屋に響く。
「自分じゃ気付いていないと思うけど、その時の一の顔、凄くキラキラしてたんだよ。見せてあげたかったよ、ホント。
一、それは私への恩じゃなくて一自身の夢なんだよ」
「俺の……夢?」
「そう。多くの人を一の作ったもので喜ばせたいって、言ってたじゃない。それが、一の夢だよ」
俺の作った物で栞が喜んでくれるのが一番嬉しい。だけど……もっと多くの人に感謝を告げられたらどうだろう。それはやっぱり、凄く嬉しい。写真を撮った時にお礼を言われるだけで喜んでしまう程だ。それをもっと大きな規模で、多くの人が俺に「ありがとう」と言ってくれたら……。
俺は思わず体が震える。何と素晴らしいことだろう。
「全く、気付くのが遅いんだから。でもこれでチャラね」
「チャラ?」
「うん。一が私の夢を掬い上げてくれた。
だから私も一の夢を引っ張ってあげたの。それに私のせいでもあるかなって思ってさ」
「栞のせい?」
「一の中で私の存在が大きくなりすぎて、夢が持つ輝きを淡くしちゃったかなって」
茶化すような口調の栞の口元はきっと弛んでいるだろう。だけど俺は反論できない。図星だからだ。この旅で俺の心に強く、栞という存在は強く深く刻み込まれた。
「……それにしても、私のこと好きになっちゃったか。なんで? 私零ちゃんみたいに大人しくないし、茶髪だし、口やかましいよ?」
「胸もないしな」
その瞬間、背中に強い衝撃を受け、俺はふかふかのベッドから硬い床へと落ちていった。
「次言ったら本気で締め出すよ」
氷のように冷たい感情のこもっていない声は今まで聞いたことのない栞の声だった。
「ご、ごめん……」
俺は背中をさすりながら栞のベッドに戻る。拒絶されなくて安心したと同時に胸の話はもう二度とするまいと俺は固く心に誓った。
「それで、私のどこを好きになったのか、教えて?」
教えてとは言われても……。好きな子の前でその子を好きになった理由を話すのは相当恥ずかしい。
「はーやーくー。教えてくれてないと私このままふて寝する」
背中をバシバシと叩いて俺を急かしてくる。こうなるともう俺が口を割るまで叩き続けるだろう。
「最初は俺にないものを栞が持っていたから。夢を語るその顔があまりにも眩しくて、惹かれていったんだ。一度好きになったら、些細なことでも栞を好きって意識するようになった」
恥ずかしさも相まってか、早口でまくし立ててしまった。そしてなんだか喉が渇く。
「些細なことってなぁに?」
それでもまだ栞は答えを待っている。大体、俺の好きという気持ちに対しての返答はいつくれるんだ。心の中に不安は広がっていくが、栞の疑問には答えなければいけない。俺は今までの旅の思い出を頭の中に投影する。
「俺を茶化してるときの顔とか、からかってるときの顔とか、栞を見てると心が騒ぐようになった。……なんだか笑った顏ばかりだ」
「ふふん。一をいじるの楽しいんだもん。他には?」
「手を繋いだり……その……間接キスとかしてたまらなくドキドキぢたのを覚えてる」
「それは誰も一緒でしょ。きっと彩音とかと手を繋いでも一は緊張してただろうし、私じゃなくても良かったと思う。だから今のはノーカンね。次々!」
ノーカンってなんだよ……。しかしこの問答の終わりが見えない。栞はどこまでの答えを求めているんだろう。俺は必死に心の中の戸を開いていく。
「うーん……後は……ココロネが好きで話が合うし……オタクとか言いながらも零のこと調べてたりする可愛さもあって……」
「えへへ、さぁさぁ、もう少し頑張って」
「えーっと……俺をぐいぐい引っ張ってくれた頼もしさもある反面、涙を見せるような女の子らしい一面もあって……」
「まだいけるかな?」
バシバシと叩いていた衝撃から俺の背中をツンツンとくすぐったくつつく心地よさに変わる。しかしもうたくさん栞の魅力を話した。頭をひねり、心に問いかけてみたが、もう在庫は切れてしまっていた。
「……というか、いつまで俺は言えばいいんだよ!」
「さぁ? どこまで一は言えるのかなーって純粋に気になったからっ適当に催促してたら思ったよりたくさん言ってくれてびっくりした。恥ずかしくなかった?」
クスクス笑う栞。それを引き金に俺は全身が熱くなる。恥ずかしいに決まっている。何が適当に言わせただ。あんなの誘導尋問じゃないか。またもや栞の掌の上で転がされていたというのか。本当に栞には適わない。
「でもありがとう、凄く嬉しい」
栞はポツリと漏らした。
「勢いで好きって言ってるのかと思った。だって私達出会ってからまだ3日しか経ってないんだよ? そんなの私じゃなくても他の女の子でもいいんだって思ってた。だけど……一は"二宮 栞"が好き、ってことでいいんだよね?」
「ああ」
「そっか……」
どこか儚げに言葉を零す栞に俺の鼓動はどんどん早くなる。栞の次の言葉が気になって仕方がない。だけど、その答えを聞くのがたまらなく怖い。不安と羨望が混じりあって俺の鼓動に加速をつけていく。
「一はどうしたい?」
「え?」
答えを望んでいたはずなのに、逆に求められて俺は驚く。完全に不意を突かれた。
「一はさ、私とどうなりたいの? 私の決意は……彩音もいる場で話したよね。夢が叶うまで、彼氏は作らないって」
栞とどうなりたい……。どう答えるのがいいんだろう。俺は必死で頭を働かせたが、すぐに気付いてしまった。
「考えてなかった」
「え?」
「栞に俺の想いを伝えよう伝えようと必死になってて……その後のこととかまるっきり考えてなかった」
好きと伝える。それだけを俺は求めていた。彩音さんが背中を押してくれたこともあって想いは届けた。じゃあその後は? 栞が投げかけた質問を再び自分に投げかけても全く答えが見えてこない。
「全くもう。本当に恋愛のレの字も知らないんだね。私も一みたいなタイプ、初めてだよ」
「強いて言うなら、栞の気持ちが知りたい」
「私の気持ち?」
「その……好きとか、嫌いとか……」
カチッ……カチッ……。俺の鼓動の音なんてどこ吹く風で時計は一定のリズムを刻み続ける。そしてその音が鼓膜に入ってくるくらい、部屋は静かになった。栞は言葉を何も返してくれない。一体栞は何を考えているんだろうか……。
「……私ね、もう答えは出てるんだと思うの」
ようやく聞こえてきた栞の言葉に俺は身構える。
「私だって考えた。昨日一とケンカして……。癪だけど、本当に癪だけど、一のこと、もう普通の旅友達じゃないんだなって信じたくないけど意識している自分がいたの。じゃあ私達の関係って何? 恋人? 私は一のことが好きなの? 昨日、ずーっと考えてた。でも、一、あなたはすぐに私達の関係に答えを出した。やられたって思った。私の頭の中を引っ掻き回しても出なかった言葉を、一は一瞬で紡ぎ出した。何かわかる?」
「……いや」
俺は全く心当たりがなかった。大体小説家志望の栞が出て来ない言葉を俺なんかが一瞬で出せるはずがない。
「それはね」
その時だった。俺のお腹に柔らかい感触が伝った。この温もりは知っている。栞だ。栞の手が、俺の肌に触れていた。
「"パートナー"」
柔らかさを保ったまま、その感触は俺を緩く締め付けた。
「素敵な関係だと思う。きっと私と一はパートナーって言葉がしっくりくる」
「し、栞……。その、手……手が……」
「なぁに? もっと絡めてほしい?」
「ち、違う!」
もっと早く気が付くべきだった。俺の背中を叩いたりつついたりできるということは、栞は俺の方に体を向けているということじゃないか。その証拠に俺は今、栞の両手に包まれている。ドラマでいうならば……抱きしめられている状態だ。
「それにパートナーって……どういうことだよ」
「えー、それ一が聞いちゃうの? なんかショック」
目で見ずともトーンの下がっている声から栞は落ち込んでいることがうかがえる。例えそれが演技だとしても心苦しくなる。
「私はね。パートナーってこんな関係だと思うの。
友人よりぶっちゃけられて、
親友よりも相談出来て、
恋人よりも相手のことを想っていて、
家族のように大切。
ね、素敵じゃない? 私は一のパートナーをそう解釈したけど」
俺に質問をするタイミングで両手のぬくもりをきゅっと強くするのはやめてほしい。心臓が持たないというのが俺の本音だった。
「お互いがお互いを必要としてる。切っても切れない関係。それじゃまるで人生のパートナーだな」
「……ばか。私はそこまで言ってないよ……もう……」
栞の体は俺に密着する。背中を通して栞の柔らかい感触が伝わってくる。意識が飛びそうだ。女の子に対して免疫がない俺からすればこれは一種の拷問だ。ただ、それ以上に俺は自分の発言が恥ずかしい。
何が人生のパートナーだ。それじゃ告白どころかプロポーズみたいじゃないか。どこの世界に会って3日でプロポーズする奴がいるんだ。いや、世界は広い。きっとどこかにいるかもしれない。
「ねぇ、一。私達の道は交わるのかな? 彩音が話してくれた話覚えてる? 彩音と実さんの道の話。実さんは"彩音さんが歩んでいる道の先に俺がいればいい"って言ってたよね? 一はどう思う?」
誰もが夢を持ち、自分の道を歩いていく。人生とはそういうものだと思っていた。当然、栞には夢がある。俺も……自分の作った物で多くの人を喜ばせたいという夢を持つことが出来た。俺と栞も別々の道を行くんだろうか。果たしてそれで俺達は再び交わるのだろうか。彩音さんと実さんのような信頼を結べているのだろうか。
「一?」
それでも栞は俺の答えを待っている。頭の中の整理はまだできていない。なら、俺の心のままを打ち明けてしまおう。俺は意を決した。
「俺は栞と同じ歩幅で歩いていきたい。栞の夢を一番近くで見ていたいし、これからも栞の夢を傍らで聞いていたい。そして、それに負けないくらい、俺も自分の夢を追い続けたい。彩音さんと実さんは二人別々の道が一つに交わるのを待った。そうじゃなくて俺は……」
不思議だ。あんなに悩んでいたのにスラスラと言葉が出てくる。それにさっきはあれほど恥ずかしかった栞のぬくもりが今は妙に心地よい。
「一つの道を二人で歩いていきたい。どっちかが道を踏み外さないようにしっかりと支えあっていきたい。だから、交わる交わらないじゃなくて初めから一つの道があるんだ。今はゴールなんて見えないけれど、それでも二人で歩いていき……」
「だめ、もう、ストップ! やだやだやだ!」
栞は俺の言葉を遮り、また俺の背中をバシバシと叩く。あまり強さは感じない。
「ごめん……俺、変なこと言い過ぎたよな」
「違う……嫌じゃないけど、嫌なの!
うー……。不覚、不覚、不覚。
数々の恋愛を紡いできた私がこんなオタク君に胸が締め付けられるほどキュンキュンさせられるなんて認めない……。認めないんだから。……ずるい、不公平だよ、こんなの。なんで私だけ……あ、そうだ。いいこと思いついた」
念仏のようにぶつぶつ呟いていた栞が突如喜色ばんだ声を漏らす。嫌な予感がする。栞のいいことが俺にとってのいいことだった覚えがない。
「一、こっち向いて」
ほら来た。何を言ってるんだ、栞は。今俺が栞の方を向いたら超至近距離で栞の顔を見つめることになる。そしたら恥ずかしさのあまり気絶してしまうかもしれない。
「……私のこと好きじゃないの?」
これでもか、これでもかと言わんばかりに俺の心を痛めつけてくる栞。それでもここは我慢だ。今、俺の顔を栞に見られるわけにはいかない。
「……ばかだね、一は。恋愛という舞台じゃ女の子の方が主役なんだからね。それに私にかなう訳ないでしょ。覚悟しなよ? 一」
覚悟……? 一体それは……。そう思った時だった。俺の耳に生暖かい感触が走る。
「な、な、な……!」
異様にくすぐったいこの感触は……まさか、まさか……。と、とにかくこの感触から逃れないと俺は俺でなくなってしまうような気がした。俺は背中を向けていた体を慌てて栞に向ける。
「10秒で向いてくれたね」
栞はわざとらしく唇を舌でなぞる。その仕草は今までの栞の顔とは違く、どこか大人びて見えた。
「な、な、何してるんだよ! 栞!」
「何って? 聞こえてないみたいだからマッサージしてあげたの。私の舌でね」
表情一つ変えないで言う栞。冗談じゃない。あんなこと後5秒も続けられていたら爆発してしまう。
「ぷっ……真っ赤だね」
「誰のせいだと思ってるんだよ」
さっきまでの数々の攻撃と、至近距離に栞の顔があるという事実から、もう俺の顔色が元の色に戻ることはないという結論をたたき出す。
「でも、ありがとう。こんな短時間で一緒の道を歩きたいって思えるくらいに私のことを好きになってくれたんだね。女の子としては極上の幸せだよ」
栞は前髪をかき分けながらはにかむ。髪をかき分けた時に薫った香りと相まってその表情は眩しすぎる。俺はたまらず目を逸らす。
「だめ」
「は?」
「私から目を背けちゃ、絶対にだめ」
栞は両の手で俺の頬を挟む。お腹に当てられていた時以上の火照りを感じる。
「わ、分かったから離せって!」
「ふふ、お利口だね」
栞は俺の頭をポンッと小さく叩く。フリスビーを取ってきて飼い主に褒められる犬の気持ちが今分かったような気がする。
「でも本気だよ。一つの道を歩くんなら、私から目を背けちゃダメ。私は夢を叶える。っていうことは当然、パートナーの一にも夢を叶えてもらうんだから。私だって、一と同じ道を歩いていきたい」
「……分かった。約束する」
俺は栞の目をじっとみつめる。栞のぱっちりとした瞳に吸い込まれてしまいそうだ。だが、見つめている内に予想外のことが起きる。栞の方が俺から目を逸らしたのだ。
「……メガネ、かけてないとかずるい」
「寝る時もメガネかけてるはずないだろ。メガネイコールオタクとか思ってるんじゃ……」
「もう、ばか!ばか!ばか! 一なんかこうだ!」
栞は一気に俺の背中に両腕を回す。後ろからではなく、前から栞の体に密着する。もう、すぐそこに栞の顔はある。もう、限界だ。体の中から燃えて灰になってしまいそうだ。
「……さぁ、一。今度は正面から言ってみよう」
「……なにを」
「私のこと、好きって言ってみよう」
栞は俺の顔を真正面から見つめる。くそ、こんなの反則だ。アニメやドラマでもこんなベタベタなシーンはないぞ。恋愛小説家としてそれでいいのか、栞! 心の中で文句を言っていたが、あることに気が付いた。栞の顔も、真っ赤だった。
そうだ、忘れていた。栞だって普通の女の子だ。俺はいつも栞から色んなものを貰ってきた。普通は、男が女の子を引っ張っていかないといけないのにだ。ごめんな、栞。俺は勇気を出して、栞の背中に両腕を回した。栞は一瞬びくっと震える。栞の体は思ってたよりもずっと柔らかかった。
「は、一?」
栞の顔は更に赤く染まっていく。良かった。
俺だけじゃなかった。俺は自然と笑みがこぼれた。
「栞、好きだ」
栞の俺の体を抱きしめる力は更に強くなっていく。
「ご馳走様」
栞はじっと俺の目を見つめてくる。栞も俺と同じだと分かったら気が楽になった。そうなると俺にも少し欲が出てきた。
「栞からも、聞きたい。俺のことをどう想ってるか」
「そ、それはさっき言ったじゃん。パートナーだって」
「俺と同じように答えてほしい」
栞の目が大きく見開かれる。最初は恥ずかしかったが、こうやって栞の表情の変化を見るのは楽しい。
「このー……調子に乗ってるなー、一。
じゃあ一つだけ、お願いしていい?」
「お願い?」
「うん……。一つの道を歩いていく。二人で物語を紡いでいく。可愛いヒロインはもういるんだから、早くかっこいい主人公になってね、一」
自分のことを可愛いというのは最初から変わらないな。
「分かった、努力する」
「努力じゃ駄目、結果を出さないと」
何とも厳しいお言葉だ。だけどしっかり噛みしめる。栞の横を歩いていても恥ずかしくないように自分に自信を持てるようにならないといけない。
「なーんてね。大丈夫。一はかっこよくなってるよ。ほんのちょっぴりだけどね。うん、目に見えないくらい。誤差の範囲かも」
「あのな……」
「その変化を独り占めできるのがヒロインってもんじゃん。主人公のかっこいい所を特等席で見れる位置。違う?」
さっき、栞は俺に言葉のセンスがあると言ってくれた。だけどやっぱりあれはお世辞だ。栞の言葉の一つ一つが俺の心を掴んでいく。虜にさせる。俺は栞には適わない。栞はぐっと俺の方によって来る。もう、栞の顔はすぐそこにある。
近付いたことで栞の甘い香りが急激に強くなった。そしてこの香りの正体に気が付いた。みかんだ。きっと道後温泉でみかん石鹸を買ったんだろう。みかんの香りに気を取られてしまったのか、俺は反応が遅れる。
みかんの香りよりも甘くて、暖かくて、幸せな感触が俺の唇に触れた。もう、何が何だかわからない。俺は今、栞に……なにを? 栞はゆっくりと俺から離れていく。
「大好きだよ、一」
ニッとはにかんだ栞を最後に、俺はふっと意識を落とした。
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